• NOVELS書き下ろし小説

  • 『ある愚か者の消失』

     二〇九六年五月某日。

     司波達也しばたつやが都心湾岸地域のマスコミ関係者が多く歩き回っている街を訪れたのは、ミーハーな目的ではなかった。
     四月の下旬、達也たつやはある有名女優と取引をした。
     ある一高生とのスキャンダルを握りつぶす代わりに、自分の周りをウロチョロするな、という内容だ。今のところ経過観察中だが、くだんの女優が約束を反故ほごにする様子は見られない。この取引自体については、達也たつやはもう余り意識を割いていない。
     ただ彼女が取引を忠実に履行するのかどうか見張っている過程で、その女優の父親が新進メディアグループのオーナー社長であり魔法師に対して好意的な姿勢を取っていることを知った。その所為で、反魔法主義をとなえる人々の中でも過激な一派のヘイトを集めていることも。
     女優がしていたことも、達也たつやにとり大して実害があったわけではない。成人した子供が多少不愉快な真似まねをしたからといって、自分にとり有益な人材を見殺しにするのは得策ではない。
     達也たつやはそう判断した。
     女優の父親が反魔法主義者によって重大な権利侵害を受けるなら、自分の関与が知られない範囲で手を貸すくらい、やぶさかではない。

     例えば、その男が経営するグループ会社の一つに仕掛けられた爆弾を、人知れず解体する程度のことならば。
     それは、巡り巡って自分の利益にもなる。達也たつやが今日ここに足を運んだ、それが動機だ。
     爆弾を見つける為に社屋のすぐ近くまで出向かなければならなかったが、解体するのに手で触れる必要は無い。見つけてさえしまえば何処どこからでも「分解」は自由自在だ。
     達也たつやは手製時限爆弾の原形を残したまま配線だけを外して無害化し、警察に匿名通報を入れて、今は家に帰るところだった。
     ここは東京の都心といっても、今世紀に入ってから人工的に開発された地域だからか、意外に緑地や空き地が多い。道も不必要に立体的配置で、その所為かあちらこちらに監視カメラの死角がある。
     若い女性、いや、少女が暴力組織の構成員らしき黒服三人に襲われている光景を達也たつやが目撃したのは、そんな死角に偶々たまたま目を向けたからだった。
     いつもであれば、達也たつやは素通りしていただろう。この大都市で、目に留まった犯罪に一々関わっていたらきりがない。達也たつやの場合は「目に留まる」だけでなく「眼に留める」こともあるから尚更なおさらだ。
     にもかかわらず彼が足を止めたのは、襲われている――まだ囲まれているだけだから「襲われようとしている」と言うべきか――少女に見覚えがあったからだ。
     達也たつやの友人ではない。知人と表現するのも、微妙なところだ。
     彼がその少女を知っていたのは、レオと連れだって歩いている場面に一度遭遇しているからだった。
     名前は紹介されている。職業も。その時はバーチャルアイドルの「中の人」をやっていると本人から聞いた。今もその仕事を続けているのかどうかは分からない。
     彼女がレオと知り合ったきっかけは、所属プロダクションとトラブルを起こして暴力沙汰に発展したのを助けてもらった、ということらしい。レオの口ぶりでは、彼女は一方的な被害者だったようだ。
     そういう経緯があるからか、レオは彼女のことを気に掛けているようだった。恋人には見えなかったが、レオは彼女のことを何となく放っておけないという印象だった。彼女の方は、レオが好きだと少し恥ずかしそうに言っていたが。
     そんな相手だったので、警察に通報くらいしてやろうと達也たつやは立ち止まって携帯端末を取り出した。
     正直なところ、達也たつやはそれ以上の関わりを持つ気が無かったのだ。自分の手で助け出そうなどとは、全く考えていなかった。
     黒服も、ナンパの失敗を暴力で憂さ晴らしするチンピラには見えない。おそらく仕事上のトラブルの、延長線上の出来事だろう。下手に抵抗しなければ、警察が駆けつけるくらいの時間は無事でいられるはずだ。
     達也たつやの計算違いは、その少女の視力が思い掛けないレベルで良かったことだろう。
    司波しばさんっ!」
     少女が助けを求める声音で達也たつやの名を呼んだ。黒服が達也たつやへ振り向き、通行人が少女と黒服に目を向けてすぐに顔を背けた。ただその際、通行人の一部は達也たつやにも非難の眼差まなざしを投げ掛けていた。
     助けてやれよ、と彼らの目は語っていた。
     勝手な話である。だがここまで来ると、友人の知り合いを放置して帰るのは達也たつやもさすがに気が引けた。
     レオに対する「貸し」を心に中に記帳して達也たつやは少女へ足を向けた。
    宇佐美うさみ。またトラブルか?」
     宇佐美うさみというのは、少女の本名だ。フルネームは宇佐美夕姫うさみゆうき。バーチャルアイドルとしての名は聞いていない。本人が名乗らなかったし、達也たつやも興味が無かった。
     彼が彼女にぞんざいな口調で話し掛けたのは、以前会った時に本人からそうして欲しいと言われたからでもあるが、この場では、黒服に「ある程度親しい間柄だ」と誤解させる為だった。「また」と付けたのは、事情を知っているというハッタリだ。実際には、彼女とプロダクションの間で何があったのか、達也たつやは具体的なことを全く知らない。
    司波しばさん、助けてっ」
     少女が達也たつやの許へ駆け寄ろうとする。
     しかし、黒服の一人が彼女の腕をつかんでそれを阻止した。
    せろ」
     別の黒服が、もっともらしい言い訳を並べるのではなく、いきなり達也たつや威嚇いかくする。
     達也たつやのことを精々大学生と侮ったのだろうが、この黒服たちが大して場数を踏んでいない下っ端だという証拠でもあった。この手の仕事に慣れていれば、第三者とめるリスクは回避しようとするはずだ。脅すにしても、もっとオブラートに包んだ言い方をするだろう。
     無論達也たつやは、その程度の脅しに恐れ入ったりしなかった。
     彼は携帯端末から音声通信ユニットを取り外すのではなく、ハンズフリー通話モードで百十番をプッシュした。
    『はい、こちら警察です。どうかしましたか』
     音量を上げたスピーカーから、応対する警察官の声がはっきりと聞こえる。達也たつやの耳にも、少女の耳にも、黒服の耳にも。
    「助けてぇっ!」
     少女が、力一杯、叫ぶ。
     黒服が慌てて口を塞いだが、手遅れだった。
    『どうしたんですか!?』
     ただ事ではないと、回線の向こう側で警察も判断したのだろう。切迫した声がスピーカーから流れ出た。助けを求める声が可憐かれんな少女のものだったのを聞いて、警官もやる気を弥増いやましたに違いない。
    「一人の少女が三人の黒服男性に囲まれています」
     達也たつやが警察官の問いに答えた。その後、この場の詳しい住所を告げる。位置情報システムで何処どこから通話されているのか警察は把握しているはずだが、念の為だ。
    「野郎!」
     黒服の一人が飛び出して、達也たつやの持つ携帯端末に手を伸ばす。
     達也たつやはその手をひらりと避けた。
     黒服が蹈鞴たたらを踏んで転びそうになる。
     その黒服は達也たつやより背が高く、体重はずっと重いように見えたが、実力の方は体格程ではなかったようだ。自分の身体を持て余しているようでさえあった。
     すきだらけの体勢。叩き伏せるのは簡単だったが、達也たつやえて何もしなかった。
     彼は視界の端で、自分を威嚇いかくした黒服が懐に手を突っ込んだのを見た。
     達也たつやは拳銃を警戒したが、男が取り出したのは木のさやに収まっている、合口あいくちと呼ばれる短刀だった。
     着ている上下黒のスーツといい、意外に伝統を重んじるたちらしい。
    「何が可笑おかしい!?」
     達也たつやは失笑を、わざとこらえなかった。
     分かり易く言えば挑発なのだが、黒服は簡単に引っ掛かった。
     合口あいくちを腰だめに構え、黒服が連携を忘れて突っ込んでくる。
     達也たつやはその腹に前蹴りを突き刺した。
     合口あいくちを手から落とし、黒服が前のめりに倒れる。
     最初に突っかかってきた黒服一号が今更のように達也たつやの背後から組み付こうとする。
     多分、達也たつやを羽交い締めにして動きを封じたかったのだろう。だが連携を組むべき仲間が倒れてからでは意味が無い。
     それに達也たつやには、男に抱きつかれて喜ぶ趣味は無かった。
     相手が刃物を出してくれたのだから、もう過剰防衛を警戒する必要は無い。
     背後から襲い掛かってくる黒服に、達也たつやの方から踏み込む。
     肘を胸の中央に打ち込み、膝のバネを使ってそのままはじき飛ばす。
     黒服は舗装された地面に背中から落ちて、苦しげに転げ回る。胸をむしるような仕草は、上手く呼吸できないからか。
     少女の口を押さえていた黒服は、たったの一撃で倒されて地面に横たわる仲間の間で、何度も目を往復させた。そして、恐慌を来した顔で少女を突き飛ばすようにして解放し、仲間を見捨てて、奇声を上げながら逃げていった。

     警察官が現場に駆けつけたのは、三人目の黒服が逃げ去った後、しばらくしてからだった。
     達也たつやがCADを携行していた為、警官は当初彼に厳しい目を向けていた。
     だが、夕姫ゆうきが熱心に証言したのと現場に落ちていた合口に黒服の指紋が確認されたことにより、比較的短時間で達也たつやは解放された。

    ◇ ◇ ◇

    「……と、それで話は一件落着したはずだったんだけどね」
     達也たつや夕姫ゆうきを助けた、事件とも言えないアクシデントの、数日後の夜。
     密かに――達也たつやにも深雪にも知らせずにという意味で――上京した文弥ふみやは、黒羽くろば家が定宿じょうやどにしているホテルの喫茶室で、あの夜の出来事をそう締めくくった。
    「でも、例によってそれでは終わらなかったと?」
     文弥ふみやの向かい側に座っていた小柄な少女が、むすっとした表情で彼にそうたずねる。
    「その黒服たちは、芸能界のトラブルを種に稼ぐ程度の、単なるチンピラじゃなかったんだ」
     文弥ふみやはコーヒーカップを手に取って口元に運んだ。
     今は少女に見まがうことはないが、女装すれば可憐かれんな美少女に化ける文弥ふみやは素のままでも中々の美少年である。高校生男子にしては小柄な点が玉にきずだが、こうしてシックな喫茶室でカップを傾けていると、それも「少年貴族」っぽさを醸し出して、かえって絵になっている。
     それに小柄というなら、少女の方がずっと背が低い。男女の違いを考慮しても、かなり小さいと言える。ストレートロングの黒髪をヘアバンドで押さえている髪型と、胸にも腰回りにもボリューム感が無い体型は中学生以下にしか見えないが、勝ち気な眼差まなざしは幼さを感じさせない。本当は、「少女」と呼ぶには相応ふさわしくない年齢なのかもしれない。
    「襲われた少女、宇佐美夕姫うさみゆうきはただの『中の人』じゃなかった。失敗した調整体魔法師だったんだよ」
    「失敗した? 魔法の才能が無かったってことか?」
     小さな「少女」が、勝ち気なまなこにだけは相応ふさわしい荒っぽい口調で文弥ふみやたずねる。
    「そう。彼女は自分の意思で魔法を使えない」
    「……それは、魔法師とは言えなくないか?」
    「潜在的には魔法因子を持っているみたいだよ。彼女には魔法を使えなくても、彼女の子供には使えるかもしれない」
    「……そういうことか」
     何事かを察した表情で、「少女」が軽くため息を吐いた。
    「調整体を作る金も技術も無い連中が、手っ取り早く魔法師を手に入れようと思ったら……」
    「まあ、そういうことだね」
     文弥ふみやは「少女」のセリフを最後まで言わせなかった。
     魔法の資質は遺伝する。魔法を使えなくても潜在的に魔法師である女性の子供が魔法師である確率は、魔法師でない両親から突然変異的に魔法師が生まれる可能性よりも高い。相手の男性が魔法師であれば、その確率はさらに上昇する。
     潜在的魔法師の少女を攫って魔法師との間に子供をたくさん産ませれば、その中から実戦レベルの魔法師が手に入る。そう考えるのは、決して根拠薄弱ではない。自前の調整体施設を建設する資金と技術の無い国が魔法師戦力を拡充する為の、最も手っ取り早い手段とすら言える。
     ただ、攫う対象が国内の少女であれば人道上の問題だけに収まるが、外国から拉致するとなると、露見すれば外交上の大問題だ。一種の侵略行為として、武力による反撃を受けてもおかしくない。
     自分の国が余程の軍事的脅威に曝されていなければ、そのような暴挙には踏み切らないだろう。逆に言えば、切迫した軍事情勢下にある国家――例えば、大亜連合の圧力に苦しむ東南アジア同盟諸国、中でも直接国境を接するベトナムや、海洋権益の露骨な侵害に悩むフィリピンであれば、軍の一部が暴走してしまうことは十分に考えられる。
    「その黒服たちのバックには、フィリピンマフィアがいる」
     文弥ふみやの種明かしは、「少女」にとって意外なものではなかった。
    「フィリピンの連中かぁ……。妥当って言や妥当かな」
     片手の肘をテーブルに突き、長い黒髪に指を突っ込んで小さな頭を支え、「少女」が今度は深々とため息を吐く。
    「なあ……本当は聞きたくないんだけど、そのマフィア、あの人を狙ってたりするのか?」
     肘に頭を乗せたまま前髪の隙間すきまから目を上げて、「少女」が文弥ふみやにそうたずねた。
    達也たつや兄さんが狙われているんじゃなかったら、君にこんな話はしないよ、有希ゆき
    「全く、あの人は……。トラブルに愛されすぎだろ……」
     少女――はしばみ有希ゆきは、がっくりと項垂うなだれた。
     彼女はしばらくその姿勢で固まっていたが、そうしていてもらちが明かないと思ったのか、意外にキビキビした動きで顔を上げる。
    「……それから文弥ふみや。何度も言うようだが、あたしの方がお前より三つも年上だ。タメ口は仕方無いけど、名前呼び捨てはヤメロ。有希ゆきさんと言え」
    「僕も繰り返し言っていると思うけど、有希、僕は君の雇い主だよ?」
    「へいへい……」
     どうせ聞き入れられないと思っていたのだろう。有希ゆきは「さん付け」にこだわらなかった。まあ、彼女も「文弥ふみや」と呼び捨てているからお互い様だ。
    「それであたしは、その『中の人』をガードすりゃ良いのか? それとも、マフィアを始末するのか?」
     有希ゆきの瞳から、ふざけ混じりの雰囲気が消えた。
     文弥ふみやの唇からも、薄笑いが消える。
    「黒服の始末を頼みたい。そっちの方が得意だろう?」
    「まあね。あたしは殺し屋だからな」
     有希ゆき獰猛どうもうな笑みを浮かべた。目付きだけは鋭いが、それ以外のパーツが童顔な有希ゆきには不似合いな笑みで、それがかえって彼女の異常性を際立たせた。
    「フィリピンマフィアは僕の方で片付けるから、気にしなくて良いよ」
     文弥ふみやが高校生の、日常会話の口調と表情で付け加えた。
     そこには、一欠片ひとかけらの異常性も見られなかった。

    ◇ ◇ ◇

    「非指定暴力団出多でるた興業、ボスの名は三角みすみ健三けんぞう……。三角さんかくでデルタ、安直すぎだろ」
     有希ゆきは彼女が仕事に使っている小型自走車の中で文弥ふみやから回ってきた調書を流し見て、あきれ声でつぶやいた。
    「分かり易くて良いんじゃないですか?」
     彼女のつぶやきに、運転席の男性が答える。有希ゆきも運転免許は持っているが、運転手が別にいる方が何かと便利なので、それ以外のバックアップもまとめて担ってくれる支援要員をパートナーとして雇っているのである。
     雇っていると言っても、報酬経費その他諸々もろもろを出しているのは黒羽くろば家、つまり文弥ふみやなのだが。ただその支援役の男性は黒羽くろば家の郎党ではない。有希ゆき文弥ふみやの部下になる前から、彼女の同僚だった人物だ。
    「……行ってくる」
     余計なことを言ったと恥じているのか、有希ゆきは男の言葉に直接応えず、助手席のドアに手を掛けた。
    「ナッツ、お気を付けて」
     男の年齢は三十代後半。有希ゆきの外見が年相応だったとしても、彼が敬語を使うのは奇妙な印象を与えただろう。だがこの二人の間では、これが普通だ。
     なお『ナッツ』というのは有希ゆきの愛称、というよりコードネームのようなものだ。「はしばみ」で「ヘーゼル」、ヘーゼルナッツから『ナッツ』というわけである。『nuts』には「木の実」以外に「狂的な」という意味もある。それも含めたコードだ。
    「今日は偵察のつもりだけど、もしかしたらいきなりやり合う可能性もある」
    「つまり、いつもどおりってわけですね。通信機はオンにしといてくださいよ」
    「分かっているさ。何も無くても終わったら連絡入れるから、迎えをよろしく」
    「任せてください」
     道路に降り立った有希ゆきは、走り去る小型車を見送って、自分も行動に移った。

    ◇ ◇ ◇

     その暴力団は「指定暴力団」の指定も受けていない小規模な弱小組織だ。――ということに、なっている。
     本部も、持ちビルでこそあるが、四階建てのこぢんまりとしたものだ。だがその内部は、平凡な外見からは想像もできない「電子の要塞」になっている。
    「ドン・カスティーヨ、そう慌てなさんな」
     壁に埋め込まれたヴィジホンのモニターに向かって、出多でるた興業の社長、三角みすみ健三けんぞうが尊大な態度でうそぶいた。
    三角みすみ社長。あんたは慌てるなと言うが、あれからもう一週間以上がっているんだぞ』
     モニターの中から、浅黒い肌の中年男性が苛立いらだたしげな口調で言い返す。
    「だから? 何か不都合があったかね。代わりの商品は、もうそちらに届いていると思うが」
    『商品は最初に指定してあったはずだ!』
    「この手のビジネスに商品の差し替えはつきものだ。違うかね、ドン・カスティーヨ」
     東南アジアでも有数の規模を誇るマフィアのボス、カルロ・カスティーヨと、東京の片隅に事務所を構える小規模暴力団の社長、三角みすみ健三けんぞう。力関係はカルロ・カスティーヨの方が上であるはずだ。
     だが実際に二人の態度を見比べると、終始余裕があるのは三角みすみ健三けんぞうの方。どちらが格上かとかれたならば、十人中九人が三角みすみだと答えるだろう。
    『軍がそれで納得するものか!』
    「ほぉ? 軍ねぇ……」
     三角みすみがニヤリと、わざとらしく笑う。
     カスティーヨは「しまった!」という表情で、動揺を露わにした。
    「はっはっはっ。隠さなくても良いじゃないか。古今東西、洋の東西を問わず軍にはその手の需要があるものだと相場が決まっている。出荷した商品でどうお楽しみだろうとこちらは気にしない。まあ、今時の女子高生に軍のお偉いさんが熱を上げるだけの価値があるとは、ちょっと信じ難いが」
    『い、いや、それは……』
    「ああ、だからバーチャルアイドルの『素材』をご指定だったのか? そいつは失礼した。そういう趣味だと言ってくれれば、こっちもお客さんの好みに合わせた女の子を仕入れたんだが」
    『――改めて仕入れリストを送る。今度は確実に調達してもらいたい』
     一方的に切れたモニターに向かって、三角みすみは嘲笑を浮かべた。
    「ロリコンの相手をするふりも大変だな、カルロ・カスティーヨ」
     三角みすみは、彼が送った潜在的な魔法師の少女たちを、フィリピン軍が本当は何に使っているのか知っていた。お楽しみの側面も付録についているが、それが主な目的ではない。
     だからといって、彼のビジネスにとっては同じことだ。条件に合う少女を仕入れて出荷する。商品が魔法師だろうとただの少女だろうと、やることは変わらない。
     ただ商品が特殊だと、それだけリスクは大きくなるが。
     それも、報酬が高いのだから、やむを得ないことである。
     三角みすみは椅子を回して壁のコンソールからデスクへ向き直った。
     本物のマホガニーで作られた重厚なデスクの上に置かれたインターホンのボタンを押す。すぐに『お呼びですか、社長』という返事があった。
    杉屋すぎや、例の小僧について、何か分かったか」
    『すみません。相変わらず名前と住所、魔法大学付属第一高校の二年生だということまでしか分かりません』
    何時いつまで掛かっている」
    『面目ありません。どうやら司波しば達也たつやは、九重寺きゆうちようじに出入りしているらしく……』
    九重寺きゆうちようじ? あの九重八雲ここのえやくもの弟子なのか?」
     それまで不機嫌そうに顔をしかめてはいても、余裕のある態度を崩さなかった三角みすみが、顔色を変えた。
    『いえ、どうも、弟子というわけではないようですが……』
    「だが、寺に通う程の間柄なんだな?」
    『そのようです』
     三角みすみが苦い顔で考え込む。
     インターホンの向こう側でれている気配が漂い始めた頃になって、三角みすみはようやく口を開いた。
    「……九重八雲ここのえやくもは世俗に関わらないと公言している。司波しば達也たつやが弟子でないのなら、あの男が出てくることはないだろう。枯れ尾花におびえていては、この商売、やってられん。それより、小僧と小娘の関係は分かったか?」
    『はい。宇佐美夕姫うさみゆうきの「男」が司波しば達也たつやの友人でした』
    「……それだけか? それだけの関係しか無い小娘を、ヤクザから助けたと?」
    『そうなります』
    「…………」
    『社長?』
    「その司波しばって小僧、本気でいかれてやがるな……。調査は打ち切りだ。その小娘からも手を引く」
    『良いんですか!? それじゃあ、我々の面子めんつが……』
    面子めんつなんてくだらないものは、本物のヤクザにわせておけ。いかれた小僧を相手にしても割に合わん」
    『――分かりました』
    「ああ、ちゃんと保険は掛けとけよ」
    『心得てます。小僧の家を狙える位置にグレネードを持たせてありますが』
    「それでいい。あとは……、そうだな。この前の仕事に使ったバイト連中は、足が着く前に全員処分しろ」
     少女たちの拉致に使った黒服は、出多でるた興業の正社員ではない。薬と術で黒服に仕立てたアルバイトだ。教育に大した費用が掛かっているわけでもないので、使い捨てにしても三角みすみの懐は痛まない。
    『すぐに埋めさせます』
    「警戒を怠るなよ。気違いは何を仕出かすか分からんからな」
     あるいは、手を引く決断が遅すぎたかもしれない。
     三角みすみはそんな、一抹の不安を覚えつつ、フィリピンから早速送られてきたリストに目を通し始めた。

    ◇ ◇ ◇

     はしばみ有希ゆきの職業は、殺し屋である。
     自分で言うように、彼女は人殺しを得意としている。潜入や逃走のスキルも高い。
     魔法師ではない有希ゆきは、魔法を使えない。それでもターゲットの近くに忍び入る技術は、魔法を使える暗殺者に劣らない。それは単なる自負ではなく、自他共に認める事実だ。
     だが、気づかれないように忍び込むことはできても、気づかれないように脱出するのは、余り得意とは言えない。彼女の逃走手段は基本的に、皆殺し、または幻覚ガス、酩酊ガスの使用だからだ。
     だからターゲットに関する情報は、情報屋に依存している。それは黒羽くろば家に雇われる前から変わっていない。殺し屋デビュー以来、ずっと「組織の殺し屋」として生きてきた彼女の仕事スタイルは、組織が調べた情報に基づいてターゲットに接近する手段を決定し、接近ルートと逃走経路だけは自分でも確認してから決行に踏み切るというものだ。
    「こりゃあ、本当に要塞だな……」
     今回のターゲットである出多でるた興業のビルを自分の目で確認して、有希ゆきは思わずうめいていた。
     有希ゆきにはビルの内部構造を外から透視するような特殊能力は無い。「要塞」というのは単なる印象、直感だ。
     だが最後の最後で頼りになるのは自分自身の感覚だと、彼女は理屈ではなく確信している。実際に、組織が入手した事前情報と仕事現場の状況に食い違いがあって、直感に従った御蔭おかげで命拾いしたことがこれまでに何度もあった。
    (あそことあそこにカメラ、あっちは赤外線か。あれはマイクロ波レーダーのアンテナだろうな……)
     それに、外から視認できる警備機器だけで有希ゆきをげんなりさせるには十分だった。
     彼女は早くも、こっそり忍び込むことを諦めた。
    (本当は爆弾とか使いたいところだけど……)
     あいにくと有希ゆきの雇い主は、スマートな仕事を求めている。殺しの現場を血塗ちまみれにする程度なら許容範囲内だが、罪のない一般市民を巻き込むのは御法度ごはつとだ。爆弾とか致死性の高いガス弾とかの使用はまずもって許可が下りない。
    (……強行突入で頭を潰して離脱、かな)
     我ながら脳筋な結論だが、他に手は無い。
     有希ゆきは心の中でため息を吐いた。

     だが幸い、この数日後に思い掛けない情報が得られた御蔭おかげで、有希ゆきは特攻作戦を免れることになった。

    ◇ ◇ ◇

    「ドン・カスティーヨ……本気かね?」
    『冗談でこのようなことは言わない』
    「本気で来日すると?」
     信じられないという表情で――相手の正気を疑う口調で、三角みすみがヴィジホンに向かって問い掛けた。
    「来日して商品を直接受け取り、自分でフィリピンに持ち帰るというのか!? そんなリスクを冒す必要が何処どこにある。日本の警察や税関は無能じゃないぞ!」
     事実、三角みすみはせっかく今まで上手くいっていた取引ルールを危険な方向に変えようとしている、カスティーヨの正気を疑っていた。
    三角みすみ社長、君の所為だぞ』
     しかしカスティーヨが発狂したのではない証拠に、彼も大層、気が進まなげな顔をしていた。
    『君が不良品を送ってくれた御蔭おかげで、クライアントがへそを曲げたのだ』
    「不良品とは酷い言い掛かりだ。俺は条件を満たした商品しか送っていない」
    『確かにこちらが必要とする成分は含まれていたようだが、問題はそこじゃない。クライアントが特に指定した商品が、送られてきたパッケージに含まれていなかった。その所為でクライアントは、面子めんつを潰されたと怒っている』
    面子めんつ面子めんつか! どいつもこいつも、何故そんな一円の価値も無いものにこだわりたがる。俺には理解できないのだがね、ドン・カスティーヨ!」
    面子めんつに何よりこだわるのが君たちの業界慣行だと思っていたのだがね、三角みすみ社長』
     苛立いらだちを隠せない三角みすみに、画面の中のカスティーヨは皮肉っぽく唇をゆがめた。
    『とにかく、クライアントから直接買い付けに行けと言われれば、私は拒めない。船は既にこちらで手配した。二日後に横浜で会おう』
    「おい、待て! 二日後だと? まさかこの電話は船の中からか?」
     ヴィジホンの画面がブラックアウトする。カスティーヨからの返事は無かった。
    「……不用心なヤツめ。傍受されたらどうするつもりだ」
     三角みすみは激しい舌打ちを漏らした。
     だが、二日後に現在集めている商品を出荷するのはスケジュールどおりだ。倉庫の都合もある。船が手配できなくなったのならともかく、積み込む船が替わっただけでは、予定を変更できない。
    杉屋すぎや! ちょっと来い!」
     三角みすみはデスクのインターホンに怒鳴った。
     社長室のドアは、すぐにノックされた。
    「社長、お呼びですか」
    「入れ」
     三角みすみの不機嫌をむき出しにした声に、彼の右腕とも言うべき部下の杉屋すぎやは、慌て気味に入室した。
    「明後日の取引に、カスティーヨが来ることになった」
    「ドン・カスティーヨがですか!? ……羽田に車を出しますか?」
     杉屋すぎやは気を回したつもりだったが、返ってきたのは三角みすみの怒声だった。
    「飛行機じゃない! 船だ!」
    「えっ? ですが、マニラから船だと取引に間に合わないのでは……」
    「あの野郎、船の上から電話を掛けてきやがった!」
     三角みすみが珍しく逆上している理由が、杉屋すぎやにもようやく分かった。
     三角みすみは豪胆な男だが、セキュリティに関してだけは臆病おくびょうなくらい慎重だ。いや、几帳面きちょうめんだ、と表現した方が正確かもしれない。そしてリスクを取ることはいとわないが、回避できるリスクをえて冒すことを忌み嫌う。
     カスティーヨはこの二つの逆鱗げきりんに、同時に触れたのだ。
    「……あの馬鹿がやらかしてしまったのは、もう仕方が無い。明後日の出荷を中止にもできん。カスティーヨの野郎が来るなら、俺も立ち会わないわけにはいかん」
    「手の者全員で警備に当たらせます」
    「頼むぞ、杉屋すぎや根来ねごろ衆の末裔まつえいだという売り文句が空手形でないところを見せろよ?」
    「お任せください、社長」
     杉屋すぎや三角みすみに向かって深々と一礼する。
     三角みすみはようやく落ち着いた様子で、椅子に背中を預けた。

    ◇ ◇ ◇

     三角みすみとカスティーヨの、取引の夜。
     有希ゆき本牧ほんもく埠頭の某倉庫に潜り込んでいた。
     周りには泣き疲れて気力を失った少女たち。年の頃は、小学校高学年から高校生というところか。彼女たちに紛れていても、有希ゆきの外見は全く違和感がない。
     目立っていないのは少女たちが全員、浴衣のような単衣ひとえの着物を着せられていて、有希ゆきも仕事着の上に同じ単衣ひとえを重ねているからでもあった。
     監禁されているにもかかわらず少女たちは皆、清潔だ。売り物だから、ヤクザも彼女たちの見た目に気を遣っているのだろう。浴衣のような着物は、サイズを気にしなくても良いからに違いない。
     何にしても、彼女たちに有希ゆきの存在を気にする余力が残っていなかったのは好都合だった。騒がれないにしても意識を向けられるだけで、ヤクザの注意を引いてしまう恐れがある。
     倉庫の潜り込むのは簡単だった。見張りの意識は中から逃げ出すケースにばかり向けられていて、外からの侵入者は全くのノーマークだった。
     出入り両方を同時に、同じように見張るのは意外に難しい。それを有希ゆきも知っているから、ヤクザを馬鹿にはしなかった。彼女は「想定外に有能じゃなくてありがとう」と思うだけだ。
    「おい、出ろ」
     倉庫の扉が開いて、外からドスの利いた声が掛かる。差し込んだ強いライトの光に、少女たちが目を覆ったり顔を背けたりした。
     有希ゆきは目を覆うふりをして、扉付近をしっかり観察する。人数は扉の左右に二人ずつで四人。二人組は一人が銃を持ち、一人が金属探知機を持っている。ヤクザにしては随分と充実した装備だが、警備装置が異常に充実した本部ビルを見ている有希ゆきは、意外感を覚えなかった。
     倉庫から連れ出す少女に一人一人金属探知機を向ける用心深さも想定内だ。むしろ、ボディタッチで検査されないのはありがたかった。数が多くて一人一人顔をチェックしないことにも、予想どおりとはいえホッとした。
     全員そろっているな? へい、そろってます! という問答が聞こえる。閉じ込めていた人数と連れ出した人数が一致しているのだから、倉庫の中の物陰にもう一人眠らされているとは普通、思わない。用心の為に有希ゆきは自分と背格好が一致する少女を選んだのだが、手当たり次第でも良かったかもしれない。
     それにしても、二十人以上の少女が外国に売り飛ばされようとしているのに、警察は気付かないのだろうか。有希ゆきには、もっと騒ぎになっていても良さそうに思える。この国は治安が良いことになっているが、都会の闇は善良な市民が考えているよりも遥かに深いのかもしれない。――殺し屋の有希ゆきが言うことではないのだろうけれど。
     ペタペタと音を立てて少女たちが歩いて行く。下駄げたではなくゴム底のサンダルを履かされているのは、さすがに足音が気になるからか。有希ゆきも現代っ子として下駄げたよりサンダルの方が動き易いので、この点はありがたかった。
     連れて行かれた先に、中型の貨物船が泊まっていた。少女たちはまさに、商品として出荷されるというわけだ。まあ、客船だと密航の検査が厳しいという事情もあるのだろう。
    「ドン・カスティーヨ、日本へようこそ」
     ヤクザの中から一際立派な――値段が高そうな――スーツを着た五十前後の男が進み出て声を張り上げた。
     有希ゆきのターゲット、三角みすみ健三けんぞう。写真で見たより小柄に感じられた。ただ、貧相な印象は無い。むしろ、もっと大きな組織を率いていてもおかしくないと感じられる。
    三角みすみ社長、久し振りだな」
     対照的に、カスティーヨは写真より恰幅かっぷくが良かった。今時「ふとりすぎている」と見えるのは、男性でも女性でも珍しい。肥満は薬で治療できるから、カスティーヨの体型はわざとだろう。もしかしたら彼が暮らしている辺りでは、肥満が富を示すとかいう文化なのかもしれない。そうだとすれば、少々時代錯誤な気もするが。
     とにかく、ターゲットは確認できた。これ以上観察している意味は無い。
     有希ゆきは、仕事に取りかかった。
     単衣ひとえの着物が宙に舞う。
     有希ゆきが着物を脱いで勢いよく駆け出したのだ。
     抵抗の気力を失っていたはずの少女による突然の奇行に、ヤクザもマフィアも呆気あっけにとられた。
     着物を脱ぎ捨て裸になった少女が、後ろに逃げ出すならともかく、前へ向かったのだから戸惑いは余計だった。
     有希ゆきはサンダルも脱いでいる。一見裸足はだしに見えるが、防刃繊維のタイツで足は全面カバーしている。裸のように見えるのも当然錯覚で、肌色の、レオタードのようなボディスーツを着ていた。
     有希ゆきが脇に張り付く薄いホルスターから小型ナイフを抜いた。柄は樹脂、刀身はガラス。金属探知機に引っ掛からない暗殺用の特注品だ。
    「社長!」
     あっという間に三角みすみへ肉薄した有希ゆきの前に、背の高い中年の男が立ちはだかる。
     彼の顔も文弥ふみやから回ってきた資料に載っていた。三角みすみの側近で杉屋すぎやという名だ。御蔭おかげ有希ゆきは、戸惑いを覚えずに済んだ。
     有希ゆきは迷い無く杉屋すぎやの喉にガラスのナイフを突き込んだ。
     真っ直ぐに刺し、真っ直ぐに引き抜く。
     ナイフはほとんど抵抗を受けず――心理的には何の抵抗も無く、杉屋すぎやの命を奪った。
     杉屋すぎやの喉から血が噴き出す。
     有希ゆきは既に、彼の横を通り過ぎている。仕事の邪魔になる返り血を浴びるような、素人臭い真似まねはしない。
     三角みすみ杉屋すぎやに突き飛ばされたのか、先程立っていた位置より一歩分有希ゆきから遠ざかっていたが、その程度は誤差の範囲内だ。
     彼女が三角みすみを仕留め損なったのは、それが理由では無かった。
     有希ゆきは足を止め、タイムラグゼロで横に跳んだ。
     直進していれば彼女の胸があった場所を、銃弾が横切った。
     拳銃では無い。狙撃銃の弾丸が、次々に有希ゆきを襲う。
     控えめに見ても一流の狙撃手が少なくとも十人以上、コンテナの上やクレーンの中に配置されていた。
     有希ゆきは小さなコンテナの陰に転がり込んで舌打ちを漏らした。
     撃たれる直前になるまで狙撃手の気配に気付かなかった自分に腹を立てて。
     油断していたつもりは毛頭無い。普通のスナイパーであれば、走り出す前に気付いていた。
    根来ねごろ衆の末裔まつえいって、こういうことかよっ!)
     江戸幕府、百人組の一つ、根来ねごろ組。彼らは忍者――忍術使いであったという説もあるが、一般には鉄砲隊だったと伝えられている。
     実を言えばこの両説は、どちらも正しい。鉄砲が特殊な技術であり、百人組が鉄砲で武装した歩兵部隊だったのはまぎれもない事実だ。
     しかし同時に、根来ねごろ衆は優れたスナイパーの一団だった。スナイパーの必要条件は、敵に察知されないこと。姿を隠し、忍耐強く狙撃のチャンスを待つ。それは忍者に必要な資質とも一致している。
     昔の鉄砲は装弾に時間が掛かり、射撃後無防備になるのは後込め銃が普及した近代以降の比では無い。根来ねごろ衆は狙撃手として、同時に忍びの技術も身につけていたのである。
     有希ゆきは感覚を研ぎ澄ませ、銃声から狙撃手の位置を割り出そうとした。
    (……全部で十三人。よし、覚えた!)
     有希ゆきは弾けに使っていたコンテナの陰から飛び出した。
     前方からの銃弾を、身体一つ分横にずれてかわす。
     少女の絶叫は、流れ弾が当たったからか。
     有希ゆきは心の中で謝罪の言葉を、つぶやかなかった。そんな余裕は、今の彼女には無い。
     一瞬だけ足を止めて、横から跳んできた銃弾をやり過ごす。
     ダッシュしながら身をかがめて、斜め前からの銃弾を避ける。
     ライフルの弾が見えているわけではない。
     有希ゆきは射手の位置から射線を予測し、えて直線的な動きをとることで相手の反応を誘導する。さらにその裏をかくことで狙撃をかわしているのだ。
     有希ゆきは魔法師ではない。仮に魔法師だったとしても、こんなかわし方は普通、できない。
     彼女は異能者だった。魔法の技能は持たなくても、異能の力は持っていた。
     はしばみ有希ゆきの異能は、身体強化。身体の強度を上げるのではなく、運動能力を引き上げる。無論、引き上げられた身体能力に耐えられるよう肉体は強化されているが、銃弾を跳ね返すとか高層ビルの屋上から飛び降りても死なないとか、その手の超人能力――超人的能力ではなく、超人にしか備わらない能力――ではない。
     あくまでも運動能力と知覚能力を引き上げるフィジカルブースト。それに加えて、その異能をフルにかす、幼い頃から課せられてきた暗殺訓練。
     彼女の両親もまた、忍者だった。
     古式魔法師の忍術使いではなく、先祖伝来の訓練により高度な身体操作技術を獲得してきた特殊な兵士。それが有希ゆきの家系だった。
     有希ゆきがそれを知ったのは両親の死後。彼女が殺し屋になったのは、多少両親が関係する成り行きの面があったとはいえ、父母に強制されてではなく彼女の意思だ。だがこうして銃弾が飛び交う中を駆け抜けることができるのは、間違いなく両親から受け継いだ能力によるものだと言えよう。
     とはいえこのまま状況が推移していたならば、射殺されるのは時間の問題だった。そもそも遮蔽物しゃへいぶつに乏しい地形条件下で高所からの射撃をかわせる方がおかしいのだ。有希ゆきもずっと回避し続けられると考えたわけではない。頭を――三角みすみを仕留めれば攻撃もむと希望的に推測しただけだ。
     実際には有希ゆきが撃ち殺される未来も、三角みすみを殺して攻撃が中断される未来も、どちらも現実にはならなかった。
     七発目が有希ゆきの肩をかすめたのを最後に、狙撃はんだ。
     有希ゆきの異能により強化された聴力は、囚われている少女たちのものではない、くぐもった苦鳴くめいを拾った。
     続けざまに、合計十三回。
     それは、有希ゆきが聞き取ったスナイパーの人数に一致していた。
    文弥ふみや、遅いんだよ!)
    (ナイスタイミングだ、文弥ふみや! 助かった!)
     有希ゆきは心の中で、相反する感想を同一人物に対して同時に叩き付けながら、ターゲットへ向かって一直線に駆けていく。
     三角みすみの前に立って自分に拳銃を向けている相手に、有希ゆきは手に持つナイフを投げつけた。
     ガラスの刀身が護衛の喉に突き刺さる。
     武器を失っても、有希ゆきの足は鈍らなかった。
     三角みすみの右手にも拳銃が握られている。彼はどうやら、自分の手は汚さないというタイプではないようだ。
     だが、遅い。
     銃口が有希ゆきに向かって持ち上がる前に、彼女の右足が三角みすみの右手にヒットした。
     靴を履いていない有希ゆきの爪先が、三角みすみの手首、その内側に突き刺さる。
     異能による末端の強化ではなく急所を捉える技で、有希ゆきの蹴りは三角みすみに拳銃を手放させた。
     回し蹴りの足を下ろさず、そのまま横蹴りに変えて、有希ゆきの足刀が三角みすみの腹をえぐる。
     年に似合わず三角みすみの腹筋は良く鍛えられていたが、正確性重視からパワー重視に切り替えた有希ゆきの蹴りには耐えられなかった。
     両手で腹を押さえて、三角みすみ後退あとずさる。
     その顔面めがけて、有希ゆきが膝蹴りを放つ。
     三角みすみはその蹴りに反応して見せた。
     だが両手を交差させた十字ブロックは直撃を避けても勢いは受け止めきれず、三角みすみは後ろにひっくり返った。
     そのすきに、有希ゆきはナイフを回収した。
     逃げようとする三角みすみの胸に膝を落として動きを止め、そのままのどき切ろうとする。
    「ナッツ、ストップ」
     そこに、聞き慣れた声による制止が掛かった。
     有希ゆき三角みすみのどにガラスの刀身を固定して、顔を上げた。
     彼女をコードネームで呼んだのは、ジャンパースカートを身に着けたボブカットの美少女。
    「ヤミ、邪魔すんな」
     辺りを見回して、有希ゆきは既に戦闘が終わっていることを認識した。
     フィリピンマフィアは完全に全滅している。
     出多でるた興業のヤクザも、誰一人立っていない。
     三角みすみが最後の一人だった。
    「ナッツ、少し待ってもらえる?」
     有希ゆきが「ヤミ」に変装した文弥ふみやにらむ。
     だが、文弥ふみや有希ゆきの雇い主だ。立場的にも逆らえないし、有希ゆきにとって腹立たしいことに戦闘力でもかなわない。
     三角みすみのどからナイフを動かさないのが、有希ゆきにできる精一杯の抵抗だった。
     文弥ふみやはその状態のまま、三角みすみの顔をのぞき込むように見下ろした。
    出多でるた興業の三角みすみ社長ですね?」
    「……そうだ」
     文弥ふみやの問いに、三角みすみはじっと固まったまま答えた。のどのナイフが気になるのだろう。――なお、文弥ふみやの性別を気にした様子はなかった。
    「人身売買についてあらざらしゃべってくれたら、命だけは助けてあげます。もちろん、証言の裏付けになる記録も渡してもらいますが」
     有希ゆきは「何を甘いこと言ってる」という目で文弥ふみやを見た。
     だが文弥ふみやも自分の意思で三角みすみに取引を持ち掛けているのではなかった。
    「取引相手は外務省です。信用してくれて良いですよ」
     既に外国へ売られてしまった少女たちを救い出す為、人身売買組織のトップの身柄を確保して欲しい。そんな要請が、幾つもの仲介を挟んで文弥ふみやの許へ、正確には文弥ふみやの父親の許へ、つい先程舞い込んでいたのだ。
    「商売相手を売れるものか」
     三角みすみの返答は、まさかの「No」だった。
     文弥ふみやを少女と侮っている風ではない。虚勢ではなく、本気でそう言っているように見えた。
    貴方あなた自身の命が懸かっているんですが? 脅しではありませんよ。そこの彼女は凶暴ですからね。私と違って、すぐに殺してしまいます」
     文弥ふみやのセリフを横で聞いていて、有希ゆきは心の中で小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
     確かに文弥ふみやは、相手をすぐには殺さない。だがそれは、殺さずに苦しめる特殊な魔法を持っているからだ。有希ゆきに言わせれば、文弥ふみやは相手に耐えようがない苦痛を与えて最終的には死なせてしまうたちが悪いサディストだ。
    「俺を殺せば、司波しば達也たつやって小僧の命も無いぞ」
     しかし三角みすみのそのセリフを聞いて、文弥ふみやばかりか有希ゆきまで顔色を変えた。
     三角みすみは、勝ち誇るように唇の両端をつり上げた。
    「あの小僧が相当大切らしいな」
    「何をしようとしているんです?」
     文弥ふみや狼狽ろうばいを隠せない口調で問う。
     三角みすみの唇は、ますますはっきりと唇をゆがめた。
    「小僧の家を、グレネードで狙わせている。俺からの連絡が途絶えれば、グレネードでドカン、って寸法だ」
    「馬鹿なことを……」
    「形勢逆転だな。小僧を死なせたくなければ、俺を無事に逃がせ」
     文弥ふみやは首を、横に振った。
     三角みすみの顔が怒気に染まる。
    「おい、ハッタリだと思ってんのか?」
    「……残念ながら、事実でしょうね」
    「だったら、すぐにこの小娘をどけろ! 司波しばって小僧がどうなっても良いのか!?」
    「どうにもならないよ」
     文弥ふみやがそれまでとは異なる冷たい声で、ぶっきらぼうに告げる。
    「お前……?」
     この時まで、三角みすみの目には「ヤミ」が可憐かれんな少女にしか見えていなかった。だが冷淡なつぶやきと共に、「ヤミ」はいきなり、性別不詳の不気味な存在に変じていた。
    「お前の手下ごときでは、達也たつや兄さんには何もできない。試してみても良い」
    「……お前、あの小僧の妹か?」
     文弥ふみや三角みすみの誤解を無視した。
    「ナッツ、そいつを放してあげて。ただし、逃がさないようにね」
    「面倒くさいことを……」
     そう言いながら、有希ゆき文弥ふみやの言葉に従った。
     彼女の認識では、三角みすみは既に鬼籍に入っている。
     死者を殺すのは、殺し屋の仕事ではない。
     三角みすみが慌てて立ち上がる。
     素早く左右に目を配るが、逃げ出すすきは見当たらない。
    「やってごらん、三角みすみ健三けんぞう。その直後に、お前は死ぬ」
     目の前の少女が何を言っているのか、三角みすみには理解できない。
     理解できないまま、彼は正体不明の焦燥に駆られて携帯端末を取り出した。
     端末のロックを解除して、短い番号を打ち込む。
     それは達也たつやの家を狙わせている部下に対する、暗殺決行の合図だ。
     理性的に考えればそれは、自殺行為だった。
     自分の命綱である――そう三角みすみが信じ込んでいる、達也たつやという人質を手放してしまうことになるのだから。
     だが結果は、文弥ふみやが言ったとおりになった。
     次の瞬間。
     三角みすみの身体の輪郭りんかくが崩れ、
     彼が立っていたところに、小さな鬼火がともった。

    達也たつや兄さんだけならともかく、深雪みゆきさんがいるご自宅を狙うなんて……」
    「本っ当に、馬鹿なヤツだ……!」
     文弥ふみやの言葉を受ける形で、有希ゆきが心の底からのつぶやきを漏らした。
     かつて同じ大罪を犯し掛けて、地獄の縁をのぞき込んだ記憶と共に。
     今、目の前で何が起こったのか、文弥ふみや有希ゆきも理解している。
     深雪の殺害を命じた、その「縁」をたどって達也たつやから「裁き」がもたらされたのだ。
     分解魔法による人体消失。
     遺骨すら残せない、この世界からの完全追放。
    「……有希ゆき、この仕事はこれで終わりだ」
     文弥ふみやが気持ちを切り替えた声で、有希ゆきに話し掛けた。
    「……役人に引き渡さなきゃならなかったんじゃないのか?」
    「仕方無いよ。外務省には資料で満足してもらう」
    「……そうだな。いなくなっちまったものは仕方が無い」
     三角みすみを殺してしまったのは達也たつやだ。
     しかし、達也たつやに責任を取らせることなどできるはずがない。

     有希ゆきには、達也たつやを殺そうとした過去がある。

     そして、魂の芯に恐怖を刻み込まれた。
     その恐怖がある限り、達也たつやわずらわせることなど考えられない。
     達也たつやのやることに、文句など付けられるはずがないのだ。
     彼女が文弥ふみやの下で仕事を受けるのは、達也たつやに対してかつての自分と同じ愚行を企てる者を排除する為だ。
     そうすることで彼女は、魂に刻まれた恐怖を紛らせているのだった……。

    〈『ある愚か者の消失』完〉

    あとがき

     この短編『ある愚か者の消失』は、このサイトで連載予定の『魔法科高校の劣等生』スピンオフ、『司波達也しばたつや暗殺計画』の先行読み切りとして書いたものです。――このサイトだけでなく、他の媒体でも発表する予定になっています。
     この短編はパイロット版のようなもの、と言っても差し支えないと思います。本来の意味のパイロット版と違って、ページ閲覧数が芳しくないという理由で連載を中止したりはしませんけれど。
     見覚えのない名前のキャラクターが唐突に出てきて暴れているのは、この読み切りが連載を先取りしたものだからです。彼女、『はしばみ有希ゆき』の為人や司波達也しばたつやとの関係は『司波達也しばたつや暗殺計画』の中で描いていきますので、春に開始予定の連載をご期待ください。
     なお、もう一人の見覚えがないキャラクター『宇佐美夕姫うさみゆうき』はデビュー前にwebで発表した文庫未収録短編のキャラクターです。『司波達也しばたつや暗殺計画』にも、今のところ出演予定はありません。こちらも別の機会にご紹介できればと思っております。
     スピンオフ『司波達也しばたつや暗殺計画』は本編『魔法科高校の劣等生』シリーズの幕間劇、本編シリーズの舞台になっていない時期の出来事を書いていくつもりです。最初のエピソードの舞台は本編開始前、二〇九四年四月を予定しています。『魔法科高校の劣等生』シリーズ同様、よろしくお願い致します。

    佐島 勤