• NOVELS書き下ろし小説

  • 【1】邪神の標的

     世界は我々が暮らすこの宇宙一つではない。
     たどってきた歴史だけでなく物理法則からしてかけ離れている宇宙もあれば、つい最近まで同一の歴史を歩んできた世界もある。
     これはそういう、同一の物理法則に支配され歴史のほとんど――西暦一九九九年六月までの歴史を我々と共有した世界の物語。
     その宇宙に存在するもう一つの地球は、西暦一九九九年七月十四日から十五日に掛けて、地球外知性体の一斉攻撃を受けた。日付が跨がっているのは、日付変更線の東西に関係なく、世界中が同時に攻撃されたからだ。
     この第一撃による死者は攻撃の規模に対して、ごくわずかだった。
     地球外知性体は地球の技術を遥かに超える人形ひとがたの兵士と浮遊砲台を物質転送技術により世界の主要都市に送り込むことで、各国政府中枢をほぼ無血制圧したのである。銃弾も爆弾もミサイルも、オーバーテクノロジーの産物である人形ひとがた兵士と浮遊砲台には通用しなかった。
     この日の犠牲者は政府が無謀な抵抗を命じた独裁国家で発生したのみであり、多少なりとも民主的に運営されていた国々では地球のテクノロジーが通用しないと判明した時点で国民の保護に舵を切った。
     しかし残念ながら、地球外知性体の侵略は最小の犠牲で終わらなかった。
     ゲリラ戦術による抵抗が世界各地で勃発したからだ。
     無秩序な抗戦は政治的指導者の煽動で発生したケースも少なくなかったが、それ以上に、宗教的な熱に突き動かされた集団によるものが多かった。
     この事態を招いた原因はおそらく、侵略者の自称にあった。
     地球外からの侵略者は、『神々』を名乗ったのだ。
     聖戦と化した抵抗は直接、間接に十万以上の人命を犠牲にした。
     しかしその甲斐無く、グリニッジ標準時一九九九年十二月三十日、地球は神々によって完全に制圧された。圧倒的と言うも愚かな、まさに次元が違う技術力を持ちながらなぜ制圧完了に半年も掛かったのかについては「神々が人命の損失を避けようとしたからだ」というのが定説になっている。
     武力制圧完了後、神々は一年を掛けて地球統治のシステムを構築した。彼らは地球人を直接支配しようとせず、国家の枠組を温存し各国政府を通じて統治する形態を採用した。神々に対する無謀な抵抗を命じなかった政府については、そのまま存続することを認めた。
     そして西暦二〇〇一年元日のグリニッジ標準時正午、神々はその統治の始まりを宣言し、まず手始めに世界が変わったことの象徴として暦を神暦しんれき元年と定めた。
     そして神々は、全人類の心に直接メッセージを送った。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     神々が全人類に向けて直接メッセージを放った時、古都こみや鷲丞しゅうすけは四歳だった。
     物心付いたばかりの幼児には難しい内容だったが、二十一歳になった今でも心に直接響いた神々の言葉をはっきり覚えている。
     ――我々は『神々』である。
     ――だが我々は君たち地球人が思い描く宗教的な存在ではない。
     ――我々は数多の次元に跨がる文明を築き、精神生命体に進化した知性体である。
     ――我々はこの星の造物主ではないが、星を創造し生命を創り出す能力を持つ。
     ――我々は信仰を強要しない。君たちには宗教的な自由を保障する。
     ――我々の要求はただ一つ、我々『神々』の軍勢に加わる戦士を提供することのみ。
     ――次元間文明を築いた知性体は、我々だけではない。
     ――我々は邪悪な知性体『邪神群』と長きにわたり闘争を繰り広げている。
     ――恐れる必要は無い。邪神と戦う為の力は、我々が授ける。
     ――君たちは我々が用意する「鎧」に適合する者を、我々『神々』に捧げるのだ。
     ――さすれば我々は、地球に加護を与える。
     神々は地球人類にこう告げた。
     そしてその言葉どおり、神々の力を宿した鎧『神鎧じんがい』を人類に与え、これに適合する人間を選び出し育成する社会制度を定めた。
     鷲丞もかつては、神々の僕、、、、に選ばれた神鎧の適合者だった。
     しかし、今は……。
    「鷲丞、何を考えている?」
     いきなり話し掛けられたことより不意に生じた圧倒的な存在感に、鷲丞は振り向き、片膝を突いて頭を垂れた。
     いきなり、ではあったが驚いたわけではない。鷲丞がこの部屋にいるのは、話し掛けてきた相手に呼ばれたからだった。
    「我が神、アッシュ」
     恭しく、だが遜り過ぎていない口調で鷲丞がその存在の名を呼ぶ。
    「おいおい、鷲丞。そのように大袈裟な儀礼は不要だと、何度も言ってあるだろう? 私たちは神々を名乗る魔神の軍勢、、、、、、、、、、、と共に戦う同志なのだから」
    「しかし……」
     鷲丞が拝跪の姿勢を崩さないのは敬意や尊崇ばかりが理由ではない。このモノトーンの衣服に身を包んだ、一見二十代半ばの中肉中背の美青年から滲み出る存在感に圧倒されているからでもあった。
     それも、無理のないことだ。
     鷲丞が「我が神」と呼んだように、この美青年『アッシュ』は人間ではない。
     アッシュは地球人と同じ姿を取っているが、その正体は神々と同じ精神生命体。数多の次元で神々と戦い続けている『邪神群』の一人だ。いや、人ではないから一柱と呼ぶべきか。あるいは、神々同様邪神群も自らを宗教的な存在ではないと認めているから、一体と表現すべきかもしれない。
    「とにかく、顔を見せてくれないか、鷲丞。その姿勢では話をしにくい」
     鷲丞が膝を突いたまま顔を上げる。
     アッシュは、それだけでは満足しなかった。
    「……いや、座って話そう」
     邪神がそう言った直後、何の調度品も無かった部屋に忽然と二脚の豪華な、見るからに座り心地の良さそうな椅子が出現した。
     物質転送で持ってきたのではない。
     物質創造――物質転送と並んで代表的な「神の御業」である。
    「掛けてくれ」
     アッシュの口調はフレンドリーなものだ。しかしその声には抗いがたい「力」が込められていた。アッシュが意図したものではない。これもまた、「神」の特性の一つ。強制力が存在感のもたらすプレッシャーを上回り、鷲丞は拝跪の体勢から立ち上がった。
     こうして向かい合わせに並ぶと、鷲丞とアッシュ、二人の目線はほぼ同じ高さにあった。共に身長は百八十センチ強。見た目は線の細い優男のアッシュに対して、鷲丞は大男という印象こそ無いものの肩幅は広く、全身良く鍛え上げられているのが服の上からも分かる。
     顔立ちも、柔和な美貌のアッシュに対して鷲丞は切れ長の目がシャープな印象を与える。容姿の威圧感は、明らかに鷲丞が上回っている。
     しかしそもそもアッシュは精神生命体、今見せている身体は仮初めのアバターにすぎない。内包するエネルギーを外見で測ろうとしても、最初から意味は無かった。
     自分で造り出した椅子にアッシュが腰を下ろす。邪神に目で促されて、鷲丞もその向かい側に座った。
    「アッシュ。お話は何でしょうか」
     鷲丞が「アッシュ」と呼び捨てにしているのは、この邪神自身から「そうしてくれ」と命じられているからだ。しかし鷲丞にはこの辺りが限界だった。「儀礼は不要」と言われても、対等の口調で話すことなど鷲丞にはできない。幾ら意識が命じても、心が「生命体」あるいは「存在」としての格の差から目を逸らせないのだった。
     アッシュもそれを理解しているのか、鷲丞にフラットな態度を強要はしなかった。
    「もうすぐアカデミーの入学式だろう?」
    「はい」
     邪神の問い掛けに、鷲丞は硬い表情で頷いた。
     この神暦の時代において「アカデミー」という単語は特別な意味を得ている。神々の武具・神鎧に適合した地球人を神々の戦士へと鍛え上げる訓練機関として七つのアカデミーが開設され、国家から独立した神々の統治機構によって運営されている。
     ちょうど一週間後の九月一日は世界各地のアカデミーに共通の、神々の戦士となり得る新たな候補者を迎える日だった。
    「懐かしいかい?」
    「いえ」
     鷲丞が硬い顔をしているのは、彼もアカデミーに在籍していたからだ。
    「ならば、後悔している?」
    「いいえ、我が神よ。貴方には感謝こそあれ、貴方の兵士となったことに後悔はありません。真実を知らずあのまま魔神の操り人形になっていたかと思うと、ぞっとします」
     神々とそれに従う者は、敵対する精神生命体を悪魔ではなく邪神と呼ぶ。邪神群は邪神たちの総称だ。
     それに対して邪神とそれに従う者の方では、神々を魔神と呼んでいた。なお、邪神は自分たちを善神と称し、配下にもそう呼ばせている。
    「間に合って良かったよ、鷲丞。正式に魔神の使徒――彼らが言うところの従神じゅうしん戦士せんしとなった後では、私たちの力を以てしても洗脳の解除は無理だからね」
     邪神アッシュが口にした『従神戦士』というのは、神鎧をはじめとする神々の武具に適合し神々の軍団に加わった地球人のことだ。これと対をなす邪神の戦士のことは、神々の陣営からは『背神兵』、邪神群側からは単に『使徒』と呼ばれている。
     なお地球人の間では従神戦士(Warrior Of Gods:WOG)という正式な名称以外に、神暦の世でも未だ優勢な英語で『セイクリッド・ウォリアー』――「聖戦士」ではなく「捧げられた戦士」の意味――と呼ばれることも多い。
    「残念です。我々にもう少し力があれば、もっと多くのアカデミー生を魔神の手から救い出せるのですが……」
     悔しそうにそう言って、鷲丞はハッとした表情で「申し訳ございません!」とアッシュに頭を下げた。
    「我々というのは自分たち使徒のことで――」
    「分かっているよ」
     鷲丞の謝罪――あるいは言い訳――をアッシュが遮る。
    「君に私たちを非難する心が無いのは理解している。それに、私たち善神の力が不足しているのも厳然たる事実だ。この星は既に魔神の支配下にある。魔神のテリトリー内では、私たちの力は制限されてしまう」
     アッシュは憂い顔でため息を吐いた。
    「この星の人々にはすまなかったと思っている。私たちが先にこの『ジアース世界』を見付けていれば、魔神の侵略から守ってあげられたのだが」
    「アッシュ、あなた方が責任を感じる必要はありません。アッシュは我々に真実を教え、魔神の支配と戦う力を与えてくださいました。それだけで十分です」
     鷲丞の力強い宣言に、アッシュは憂いを消し、笑みを浮かべた。
    「頼りにしているよ、鷲丞。ジアース世界人の君たちなら、星を覆う魔神のテリトリーに力を殺がれることはないからね。ただ魔神の支配を覆す為には、もっと仲間を増やすことが必要だ」
    「心得ております」
     アッシュの言葉に鷲丞がその意図を察した顔で頷く。
    「今年のアカデミー新入生にスカウトすべき者がいるのですね?」
    「富士アカデミーの新入生、新島あらしま荒士こうじ。この星の男性で初の、F型適合者だ」
     鷲丞が浮かべた驚愕の表情に、アッシュはニヤリと人間臭く笑った。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     神暦十七年(西暦二〇一七年)八月三十日の夕暮れ時。二日後にアカデミー入学を控えた少年、新島荒士は川沿いの道を全力疾走に近いペースで駆けていた。朝夕のランニングはアカデミー入学が決まる前から、彼の日課だった。
     百七十センチ台前半の身体は良く引き締まっているが、遠目には細身に――線が細く見える。だが走る姿は力強く、少年にありがちな弱々しさは全く無い。真夏にも拘わらずしっかり着込んでいる長袖、長ズボンのトレーニングウェアに隠れているが、二の腕にも太ももにもしっかりと筋肉が付いているに違いなかった。
     川にかかる小さな橋の手前に、小柄な人影が腰の後ろで手を組んでたたずんでいた。夕日に赤く染まったシルエットは、荒士が近づくにつれてディテールが明らかになっていく。
     涼しげなミニスカート姿の少女が「ガ・ン・バ・レ」という形に口を動かす。
     既にそれを見分けられる距離まで近づいていた荒士は、ラストスパートとばかりピッチを上げて少女の前を駆け抜けた。
     クールダウンしながら少女の許へ戻ってきた荒士は、ゆっくりとした走りを歩きに切り替えて少女に話し掛けた。
    陽湖ようこ、横浜に帰ったんじゃなかったのか?」
     少女の名前は平野たいらの陽子。荒士とは所謂「幼馴染み」の間柄だが、彼女はこの町の住人ではない。陽湖の祖父がこの地で剣道と護身術の道場を開いていて、荒士は小学生になる前からそこの弟子という関係だった。
     長期休暇で祖父の家に泊まりに来た孫娘と毎日道場に通っていた熱心な少年門下生。少子化が進んだ山間の町で同い年の子供二人が仲良くなるのは、自然な成り行きだった。
    「その予定だったんだけど、パパに急なお仕事が入ったみたいで。入学式までお祖父ちゃんの家でお世話になることになったの」
    「急な仕事?」
    「独立派が会社に押し掛けて、パパを出せって騒いでいるらしくて」
     独立派というのは神々の統治に反対する組織で、日本だけのものではない。外国の組織の中にはテロリスト集団と化して地下に潜っているものもある。各国の独立派は別組織という建前になっているが、テロリストを含めて、裏でつながっているというのが一般的な認識だった。
     陽湖の父親の会社が独立派の標的になったのは、今回が初めてではない。それどころか「またか」という感想がすぐに浮かぶ頻度だった。
     陽湖の父、平野隆通たかみちは実業家で『株式会社HIRAGA』という商社を経営している。平野隆通は現代の政商だ。彼が社長を務めるHIRAGAは神々の地球統治組織である代行局に多くの商品を納入している。独立派から目の敵にされるのも、それが理由だった。
    「独立派か。バカな連中だ」
     嫌悪感を剥き出しにして荒士が罵倒の言葉を吐き捨てる。
    「神々の統治で、一般人、、、が一体何の不利益を被ったというんだ? 神々は人間の日常生活に関与しない。司法も行政も経済も、人間の手に委ねられている。凶悪犯罪者に天罰すら下さない」
     それが気に入らない人もいるんじゃない? と陽湖は思ったが、口には出さなかった。独立派に対する嫌悪感は、彼女も荒士と同じだった。
    「それに神々は、戦争や大災害から人々を守っている。俺たち日本人はそのことを良く知っているだろうに。七年前の東海大地震、、、、、、、、、で町が津波に呑まれなかったのは、代行局が展開してくれたエネルギーシールドの御蔭じゃないか。人間にはどうしようもない自然災害だけじゃない。人間の愚かしさが引き起こす戦争も結局人間だけでは止められず、東欧でも中東でも発生と同時に代行局が鎮圧した。独立派は一体何が気に食わないんだ」
    「支配されているのが気に入らないんじゃない? 本当の理由は知らないけど」
    「……ところで陽湖。今日は入学前に家族団欒の予定だったんじゃなかったか? 隆通さんも分からず屋の相手なんか、弁護士や警察に任せておけば良いだろうに」
     陽湖の冷めた口調で自分がすっかり熱くなっていたことに気付いて、荒士は少し恥ずかしそうに話題を変えた。
     陽湖も荒士と同じく、アカデミーに入学することになっている。
     アカデミーは「神々の戦士」の候補者を教育する一種の軍事機関。普通の軍人向け教育機関ほど規律は厳しくないが、それでも自宅から通ったり自由に帰宅したりはできない。
     アカデミーに入学する新入生は入学式の直前に身内でその栄誉を盛大に祝うのが、日本だけでなく世界中で見られる光景だった。
    「パパは良いのよ。どうせ、しょっちゅう顔を見に来るんだろうし」
     確かに、代行局と太い取引パイプを持つ隆通はアカデミーに出入りする機会も多い。
    「だから今日は、ママとお祖父ちゃんの家でパーティーをすることになったんだ」
    「そうか」
    「……荒士君も来る?」
    「この後、師匠のお宅にはお邪魔するつもりだった。だがそういうことなら、ご挨拶だけで失礼させていただく」
    「柄にもなく遠慮してるの?」
    「柄にもなくって……失礼なヤツだな。ご家族水入らずに割り込む程、俺の面の皮は厚くないんだよ。それとも、何か? 俺に来て欲しかったのか?」
    「はっ? そんなわけないでしょ。礼儀として誘っただけよ」
     荒士も陽湖も、それ以上この話題を深掘りしなかった。
     何となく黙り込んだまま、肩を並べて二人は歩き出す。行き先は同じ、陽湖の祖父の家。
     別々に行く(帰る)のも不自然だと二人とも考えたのだろう。荒士は陽湖の歩調に合わせて歩く速度を落とし、陽湖は荒士と付かず離れずの距離を保った。
     良い雰囲気だった。
     ただ誰かにそう言われたなら、二人はすぐに否定しただろう。
     慌てて――ではなく、笑いながら。
     照れ臭そうに――ではなく、面倒臭そうに。
     真っ赤になって――ではなく、白けた顔で。
     二人は幼馴染みだが、恋人ではない。今も、昔も。
     陽湖の地元からこの町まで、最短で約三時間。
     一緒にいたのは長期休暇の間だけ。小学校を卒業した後は、年間の日数を合計しても一ヶ月に満たない。同じ「学校」に所属するのは今回のアカデミー入学が初めてだ。
     会うたびに懐かしく、再会してすぐに気の置けない空気を取り戻す。それが荒士と陽湖の関係だった。
     しかしその穏やかで心地の良い時間は、道半ばでいきなり断たれた。
     突如、緊迫した気配が二人を包む。
     夕暮れ時の優しい風が淀み、鳥肌を誘う冷え冷えとした空気に変わる。晴れていた夕焼け空からいきなり光が失われ、今にも雨が降り出しそうな暗雲が頭上を覆っていた。
    「荒士君、雨が降りそうだよ。走ろう」
     陽湖の言葉は、本心ではない。この異常な変化が単なる天候の急変ではないと、本当は彼女にも分かっていた。
     陽湖の提案とは逆に、荒士は彼女を背中にかばうようにして足を止めた。
    「――誰だ!?」
     鋭い誰何が荒士の口から放たれる。
     十六歳とは思えない、気迫のこもった一喝。
     とはいえ、虚勢混じりだったことは本人にも否定できないだろう。
    「――大したものだ。我が神の目に留まるだけのことはある」
     薄闇の向こう側から、人影が歩み出た。まるで舞台の演出に使われる濃いスモークを抜け出てきたように。
     陽湖がビクッと震える。それが荒士の背中に伝わってきた。
     荒士は口の中が緊張でカラカラに乾いていた。
     背中には逆に、冷や汗が滲み出している。先程までのランニングでウェアがまだ湿っているのを、荒士は心の片隅でラッキーだと感じていた。――御蔭でビビっている格好の悪い自分を陽湖に覚られずに済む。
    「その姿……」
     荒士の正面で立ち止まった青年は、鼻まで完全に覆う猛禽のようなフェイスガード付きの西洋式の兜とスマートなフルプレートアーマーを身に纏っていた。色は黒銀。羽根のような模様が刻まれた追加装甲が両肩と肩甲骨を覆うように回り込んでいる。
     一見金属製だが、鏡のように光を反射するのではなく自ら微かな光を放っているように見える不思議な材質だった。
    「そして、神? アンタ、邪神、、に寝返った戦士か!?」
     アカデミー入学者には神鎧と従神戦士について事前に学んでおくよう、教材が貸与される。
     だから分かった。青年の鎧は、明らかに地球人類の技術による物ではない。だが神々の戦士は自分たちが仕える相手のことを「神々」と複数形で呼ぶ。「神」と単数形で呼ぶことはない。
     荒士の叫びに、青年の口角が苦笑の形に上がった。
    「無知故のセリフを咎めるつもりは無い。だが二度と間違えないでくれ。確かに俺は裏切り者だが、邪神の兵士、、、、、ではなく善神の使徒、、、、、だ」
     気圧されたのか、荒士の表情が歪む。
    「……その使徒様が、一体俺に何の用だ」
     だが、荒士の声は震えていなかった。
    「神様が目を付けたとか言っていたから、用があるのは俺なんだろう?」
    「話が早いな。頭の回転が速いガキは嫌いじゃないぞ」
    「そりゃどーも。人をガキ扱いする程、兄さんも年食ってないだろ」
     邪神の使徒は先程より柔らかな苦笑を浮かべた。
    「まあな。まだおっさんと呼ばれる程の年ではない」
     男はすぐに、兜の下で表情を改める。
    「新島荒士。一緒に来てもらおう」
    「俺の名前を知っているようだが、俺はアンタを何と呼べば良い?」
    「仲間の間では『グリュプス』と呼ばれている」
    「コールサインみたいなものか?」
    「そうだが……」
     意味があるのか疑わしい質問に、グリュプスと名乗った邪神の使徒が兜の下で訝しげに眉を顰める。
    「もしかして、時間稼ぎのつもりか?」
     荒士の顔に動揺が過る。
     それでも彼が返答の言葉に詰まることはなかった。
    「……時間稼ぎに何の意味がある? 警察や自衛隊の武器じゃ、アンタたちにかすり傷一つ付けられないんだろう?」
     荒士の言い訳を聞いて、邪神の使徒・グリュプスは「フッ……」と鼻先で笑った。
    「そうだ。時間稼ぎなど役に立たない。それが分かっているなら、さっさと来い」
    「……条件がある」
    「条件を付けられる立場ではないと理解できないのか?」
    「聞いてくれ!」
     それまでにない荒士の真剣な形相に、グリュプスの態度が軟化する。
    「……言ってみろ」
    「用があるのは俺だけなんだろう?」
     荒士が背中にかばっている陽湖へ肩越しに目を向ける。
     それにつられたのだろう。グリュプスの視線も陽湖へと誘導された。
    「だったら彼女は家に帰してやってくれ」
    「ちょっと! 荒士君、何を言ってるの!?」
     目を見開いた陽湖が、荒士の背中に掴み掛かる。
     それに構わず、グリュプスは荒士の要求に頷いた。
    「元々、そのつもりだ。お前が大人しくついてくれば、彼女には手を出さない」
    「アンタの言葉を信じないわけじゃないが、こいつを先に帰らせてやってくれないか。そうすれば俺は、安心してアンタに同行できる」
    「良いだ……」
    「格好付けてんじゃないわよ!」
     良いだろう、と言い掛けたグリュプスの返事を遮って陽湖が叫ぶ。
    「荒士君、それ、自己犠牲のつもり? そんなの、ダサいだけだからね!」
    「陽湖!」
     荒士は振り返らず――『グリュプス』から目を逸らさずに、陽湖の名を強い口調で呼んだ。
    「な、何よ!」
    「冷静になってくれ。今の俺たちでは、どう足掻いたってアイツには手も足も出ない。神々の戦士が偶然駆け付けてくれでもしない限り、どんな抵抗も無意味だ。アイツはどうやら、俺に何かをさせたいらしい。その為の取引材料として、お前を一緒にさらうことだってできるんだ」
     荒士の今までで一番真剣な口調に、陽湖がたじろいだ素振りで俯いた。
     そこへすかさず、グリュプスが口を挿む。
    「そのとおりだ、お嬢さん。心配しなくても、君の彼氏には何の危害も加えない。神が彼氏に会って話をしたいと望んでいるだけなのだ」
    「彼氏じゃない……」
     俯いたまま、陽湖がボソリと低い声で呟く。
    「ムッ? 何か言ったか?」
     そのセリフが聞き取れず、グリュプスは反射的に問い返した。
    「彼氏じゃなくて、友達よ!」
     陽湖が勢いよく顔を上げる。甲高い声で叫んだ彼女の顔は、赤みを帯びていた。
    「そ、そうか」
     その勢いに圧倒されたのか、グリュプスはわずかに仰け反った。
    「それに適当なことを言わないで! 連れて行ったらもう帰さないんでしょ! 荒士君が帰りたいと言っても! 危害は加えない? 拉致監禁は立派な危害よ!」
     しかし更に詰め寄られて、グリュプスは逆に、冷静な態度を取り戻した。
    「……そうだな。不誠実なセリフだった。真実を知れば、魔神の手先にさせられると分かっていて『帰りたい』などと言うはずはないんだが、今の段階で約束できることではないな」
     猛禽の顔に似たフェイスガードからのぞく両眼が冷たい光を放って陽湖の心を射貫く。
    「…………」
     眼光に気圧されて、陽湖は言葉を失う。
    「お嬢さん、お友達は連れて行かせてもらう。その代わり、君には手出ししないと誓おう」
    「それで良い」
     硬直した陽湖に代わって、荒士がその言葉に頷いた。
    「荒士君!?」
     慌てて陽湖が、荒士の背中に縋り付く。
     荒士は肩越しに振り返って、陽湖に微笑み掛けた。
    「陽湖、行くんだ」
    「ダメよ、諦めちゃ! もう帰ってこられなくなるのよ!」
    「だが、どうしようもない」
    「そんなの分からない! 粘っていれば偶然、従神戦士が駆け付けてくれるかもしれないじゃない!」
    「諦めたまえ。そんなご都合主義的展開は、現実には起こらない」
     必死に反論する陽湖に、グリュプスが言い聞かせるように話し掛ける。
     しかしその直後。
    「そうでもない」
     大声量のくせに淡々とした口調に聞こえる声と共に、上空からグリュプス目掛けて光の矢が襲い掛かった。
    「クッ!?」
     グリュプスは大きく後方に跳躍して、その一撃を避けた。
     光の矢が舗装されていない道の真ん中に突き刺さる。
     その横に、銀色の甲冑を纏い背中に二対四枚の光るはねを広げた若い女性が舞い降りてきた。彼女の甲冑はグリュプスの物とは違い、肩当て、ガントレット、胸当て、アーマースカート、装甲ブーツが別々のパーツになっている。鎧の下、装甲がカバーしていない部位から、黒地に銀のラインが走るエナメル光沢のボディスーツを着込んでいるのが見えていた。
     彼女の両足が地面に付くと同時に、光の翅が消える。
    「このような展開は確かに希少な例外だが」
     そう付け加えて、女性戦士は荒士と陽湖の方へ振り返る。彼女の兜に、フェイスガードは付いていない。代わりに半透明のシールドが鼻から上を完全に覆っていたが、家族やそれに準ずる者が人相を見分けられなくなる物ではなかった。
     彼女の登場に、荒士も陽湖も驚いていなかった。
    「お姉ちゃん、やっと来たの」
     軽く咎めるように陽湖が言い、
    名月なつきさんですか?」
     少し自信無げな口調で荒士が訊ねた。
    「そうだ。荒士とは久し振りだな。陽湖とも……半年ぶりくらいか」
     陽湖の姉、平野名月は四年前、アカデミーに入学し、今月正式に神々の戦士として取り立てられた。荒士が彼女に会うのは、名月のアカデミー入学直前以来だ。
    「名月さんが来てくれるとは思いませんでした」
    「ほぅ。助けが来るのを予想していたような口ぶりだな?」
     意外というより面白がっている表情で名月は問い返した。
    「敵の戦士の出現に気付かない程、神々の支配は甘いものじゃないでしょう?」
     それに答える荒士の顔は平然としたものだ。さっきまで浮かべていた必死さや諦観の表情は、彼の顔に跡形も無い。
    「ハハハ、それもそうだ。陽湖は、私が来ると予想していたようだな」
    「今晩のお食事会にお姉ちゃんも出席する予定だったんだから、来て当然でしょ」
     名月は二人と会話しながら、両手にしっかり弓と矢を構え、その矢はグリュプスに狙いを定めている。
    「……俺は一杯食わされたということか」
     グリュプスの声には、隠し切れない口惜しさが滲んでいた。
    「こいつらは昔から抜け目が無い。その様子から察するに、陽湖、随分時間稼ぎを頑張ってくれたようだな?」
     姉の問い掛けに、陽湖は小さく肩を竦めた。
    「当たり前じゃない。じゃなかったら、さっさと私だけ逃げてるわよ」
    「お前たちの小芝居を見物できなくて残念だよ」
     薄情にも聞こえる妹の答えに、名月は「ククッ」と喉の奥で笑う。
     グリュプスの兜の奥から、ギリッと奥歯を軋らせる音が漏れた。
     それに誘われたように、名月がグリュプスに顔を向ける。
    「ところでその声……。お前、鷲丞だな?」
    「…………」
    「お前の正体は古都鷲丞だろう。最終試験直前の訓練中に事故死したと聞いていたが、生きていたのか」
    「……………………」
    真鶴しづるは、知っているのか?」
     グリュプス――鷲丞は、答えない。
    「遮るものよ!」
     答える代わりに、鷲丞はそう叫んだ。
     彼がそのフレーズを言い終える前に、名月は立て続けに三本の矢を放っていた。
     最初の一本は鷲丞の胸部装甲を直撃し彼をよろめかせたが、続く二本の光矢は鷲丞の左腕に突如出現した円形の大盾に阻まれた。
    「斬り裂くものよ!」
     その叫びと共に、今度は鷲丞の右手に刃渡り一メートルを超える、真っ直ぐな幅広の剣が現れる。
    「振り薙ぐものよ!」
     そう唱えたのは名月だ。
     彼女の手の中で弓が光に変わり、次の瞬間、光は薙刀の形を取った。
     盾を前に翳し、名月目掛けて突進する鷲丞。
     名月はその突撃を、横や後ろに躱すのではなく、一歩前に踏み出すことで迎え撃つ。
     薙刀の石突きが、真っ直ぐ、一度の傾きも無く垂直に盾を打つ。
     鷲丞の突進が止まり、名月が突きの姿勢のまま後退った。
     鷲丞が右足を踏み出し、盾の後ろから身体を曝け出し、剣を振りかぶる。
     名月が左足を引き、それによって生じた旋回力を乗せて薙刀の刃を横薙ぎに走らせる。
     剣と薙刀が激突する。
     全くの互角。
     すかさず鷲丞が右腕を引き絞り、名月が身体を軸に新たな回転を作り出す。
     再現される激突。
     またしても互角。
     しかし、五合を数えたところで均衡が崩れる。
     右斜め上空から撃ち込まれた光弾が、鷲丞の身体を跳ね飛ばした。
     転倒し、すぐに起き上がる鷲丞。
     翳した盾に次弾、第三弾が襲い掛かる。
     名月の薙刀が、盾の下にのぞく鷲丞の胴へ打ち込まれた。
     その斬撃を辛うじて剣の根元で受けて、鷲丞は弾き飛ばされるように跳躍する。
     空中で、両肩の追加装甲から一対の翼が出現した。装甲と同じ黒銀の、翼の形に固定されたエネルギー。名月の背中にあったのが妖精の翅なら、今鷲丞に生じたのは天使の――あるいは堕天使の翼に似ている。
     それは単に、形が似ているだけなのだろう。
     羽ばたくのではなく広げたままの翼から微かな光を放ちながら、鷲丞が空へと舞い上がる。
    「ナタリア!」
    「引き受けました!」
     空中から鷲丞を銃撃した従神戦士が、飛び去っていく鷲丞の追撃を開始した。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     邪神の戦士が去ったことで暗雲が消え去り――おそらく邪神が衛星軌道からの監視を遮っていたのだろう――、入れ替わりに戻ってきた心地よい夕暮れ時の風の中で、荒士は全身の力みを吐き出すように「フーッ」と大きく息をついた。
    「どうした、荒士。緊張していたのか?」
     薙刀を消した名月が、目敏く荒士の変化に気付き問い掛ける。
    「そりゃ、緊張してましたよ。助けが来るとは思ってましたが、間に合うという確信はありませんでしたからね」
    「成程な」
     納得感を表情と声音で表現しながら、名月は右手の指先で喉元に触れた。
     そこには虹色の微光を放つ宝石が――宝石らしき物が一粒はめ込まれたチョーカーが巻かれていた。
     名月の全身が、宝石と同じ虹色の燐光に包まれる。
     燐光が消えた後には、ノースリーブのシャツ、七分丈のパンツ、メッシュのパンプスという夏らしいファッションに身を包んだ名月が立っていた。
     荒士の隣にいた陽湖が「靴まで変わるんだ」と感嘆の込められた声を漏らす。それを聞いて荒士は、鎧の下に見えていた黒いボディスーツだけでなく脛と脹ら脛を守る部分鎧を兼ねたロングブーツまでもが、色もデザインも全くの別物へと変じているのに気付いた。
     不思議と言うしかない。神々の超技術を荒士は改めて実感した。
    「ところで、お姉ちゃん」
    「んっ、何だ?」
    「荒士君が邪神に狙われたのは、やっぱり一人目のF型適合男子だから?」
     地球と神々の絶望的な技術格差に意識を囚われていた荒士は、陽湖が名月に向けた質問を聞いて我に返った。
     自分のことだ。関心を持たずにはいられない。――否、無関心は許されない。
    「間違いなく、それが理由だろうな」
     陽湖と荒士に見詰められながら、名月はしっかりと頷いた。彼女の態度は、言葉以上に曖昧さとは無縁だった。
    「何で邪神は荒士君のことを知ってたんだろうね? アカデミーの生徒の個人情報は守られてるんじゃなかったっけ?」
     小首を傾げる妹に、名月は「分からない」というように頭を振った。
    「荒士の場合はその特殊性を鑑みて、個人情報が特別厳重な管理下にあると聞いている。一体どうやって嗅ぎつけたのか、皆目見当が付かない」
    「邪神も神……ということでしょうか?」
    「そうだな……」
     荒士の言葉に名月がため息を吐く。
    「とにかく」
     そしてすぐに、気を取り直した顔を荒士に向けた。
    「ここに突っ立っていても仕方が無い。祖父さんの家に行こうか」
    「うん、賛成」
     陽湖が気持ちを切り替えた態度で荒士へと振り向いた。
    「ほら、行くよ」
    「……そうするか」
     荒士は躊躇いがちに頷き、平野姉妹の後に続いた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     鷲丞は従神戦士ナタリアの銃撃を盾で防ぎながら、後ろ向きに飛ぶ格好でひたすら上昇していた。
     彼が纏う神鎧は――この名称は神々の鎧にも邪神群の鎧にも使われる。両者は本質的に同じ物だ――邪神・アッシュが彼の為にデザインした物で「神々の戦士」が使用する規格化された物とはデザインも性能も違う。だが彼自身の適性はあくまでもG型に対するものであり、彼専用の鎧『グリュプス』の機能もその枠組みに縛られている。
     神鎧はG型とF型の二種類に分類される。
     G型の性質はパワー、堅牢性に優れた近接戦闘タイプ。
     それに対してF型は機動性、多様性に優れた遠近両用タイプ。
     特に飛行性能に関しては、F型が圧倒的に優れている。地球人の中にはG型を陸戦用、F型を空戦用と分類する者もいる程だ。
     鷲丞の『グリュプス』は通常のG型に比べて飛行能力が大幅に強化されているが、それでもF型には見劣りする。その上、今彼を追跡しているナタリアは遠距離銃撃戦を得意とするタイプの従神戦士だった。
     空中戦では相手に分があると、鷲丞はすぐに覚った。
     不利な点は、それだけではない。
     地球を支配する神々に仕える従神戦士は、地球上の至る所に瞬間移動が可能だ。任意の地点から任意の地点への転移テレポートはできず、基地に置かれた物質転送機をいったん経由しなければならないという制限はある。それでも任意のタイミングで援軍を呼び寄せられるし、不利になれば何時でも撤退できる。
     対して邪神の使徒である鷲丞の方は、高度三百キロメートルまで上昇しなければ転移テレポートで自分たちの拠点に帰還できない。
     高度三百キロメートル、厳密に言えば二十九万九千七百九十二メートル――高度一ミリ光秒までの領域は神々の支配力が特に強く働く第一次神域。この領域内では、邪神の力は著しく制限される。そして瞬間移動は従神戦士の力ではなく神々のテクノロジー、背神兵の力ではなく邪神のテクノロジーで実現している。
     第一次神域で背神兵が瞬間移動する為には、転移元・転移先の座標固定に三十秒前後の静止状態を必要とする。しかもその間、神鎧のスペックは半減してしまう。
     相手が地球の在来戦力ならともかく、従神戦士と交戦中に三十秒間も防御力半減状態でじっとしているなど自殺行為でしかない。鷲丞が従神戦士・ナタリアの追撃を振り切る為には、何としても第一次神域の外、高度三百キロメートルまで上がらなければならなかった。

     一方、ナタリアの方も正規の従神戦士として、第一次神域内における背神兵のウィークポイントは十分に理解している。鷲丞が神域からの脱出を狙っているのを彼女は追撃開始当初から見抜いていた。
    「こちらジアース守備隊ナタリア・ノヴァック、高度百キロに到達」
     高度百キロメートル、『カーマン・ライン』。ここから先は伝統的に宇宙空間と見なされている。しかし次元の狭間に存在する「虚無」での戦闘を想定している神鎧にとっては、真空も宇宙線も障碍ではない。むしろ神鎧は、地上よりも宇宙でその真価を発揮する。
    『貴官の現在位置を特定しました。予定どおりスフィアを送ります』
     虚空に話し掛けたナタリアの耳に、代行局からの応答が届いた。
    「お願いします」
     そう言いながらナタリアは、わざと上方に外した光弾を撃ち込んだ。
     この光弾は半ば物理的な物質、半ば精神的なエネルギーの性質を持ち、物質だけでなく神鎧にもダメージを与える力を秘めている。幾ら邪神の技術で造り出した盾でも、直撃を受け続ければいずれは耐えられなくなる。
     ナタリアの思惑どおり、鷲丞は上昇スピードを落として回避した。
     ちょうどそのタイミングに合わせて鷲丞の頭上に直径約二メートルの、二十を超える真鍮色の球体が出現した。

    (あれは……魔神の浮遊砲台か!)
     自分の逃げ道を塞ぐように出現したちょうど二ダースの球体の群れを見て、鷲丞は奥歯を強く噛み締めた。
     十八年前、神々――鷲丞にとっては魔神――が顔の無い人型兵器と共に地球侵略に使用した浮遊砲台。鷲丞に十八年前の記憶は無いがその時のVR記録は何度も体験しているし、「善神の使徒」として戦いを重ねる中で何度もその姿を目にしていた。
     鷲丞は咄嗟に、盾を頭上に翳す。
     直後、盾を支える彼の左腕に爆発的な負荷が掛かった。
     神鎧は物理的な攻撃を全て遮断する。精神エネルギーを併用した攻撃でなければ鎧や盾を破壊することも、それを纏う戦士を殺傷することもできない。
     しかし、神々の鎧を纏っていても「そこにいる(ある)」という事実は消せない。障碍物は避けなければならないし、爆風を受ければ押し戻される。
     浮遊砲台『スフィア』の滑らかな表面から放たれる反重力エネルギー弾。着弾点を中心として前方百八十度の半球状に外へ向かう力場を発生させるエネルギー兵器だ。それは命中箇所に大質量実体弾に勝るとも劣らない衝撃を発生させる。
     その圧力に押されて、鷲丞は数百メートルを落下した。
    「グッ!」
     空中で体勢を立て直した鷲丞の背中を激しい衝撃が襲う。反射的に回避機動を行うのと同時に鷲丞は振り返った。
     彼の視線の先では、ナタリアと呼ばれた従神戦士が彼に銃口を向けていた。
     鷲丞は瞬時の判断で盾を前に翳す。
     左腕に伝わる衝撃。
     従神戦士の攻撃は邪神の武具にダメージを与え、これを破壊し得る。
     従神戦士と背神兵の武具『エネリアルアーム』は、神々の技術で半物質化したエネルギーを戦士の想念力サイキックフォースで成形し固定している物だ。それ故、武具がダメージを負えば、それがオーナーである神鎧兵――従神戦士と背神兵を一纏めにしてそう呼ぶ――には分かる。
    (クッ……、直撃を喰らいすぎた!)
     鷲丞は自分の盾が危険水域までダメージを蓄積していると理解した。
    (……口惜しいが、ここは逃げの一手か)
     続いて襲い掛かるナタリアの光弾を盾で斜めに受けて逸らし、鷲丞は頭上を見上げた。
     上空へのルートは、二ダースの浮遊砲台『スフィア』によって塞がれている。
     戦闘力だけを見れば、スフィアは神鎧兵の敵ではない。規格品ではなく専用にカスタマイズされた神鎧を与えられている鷲丞の場合、戦力差は尚更はっきりしている。二十四対一程度の数的優位でこれを覆すことはできない。万が一にも鷲丞が後れを取ることはないだろう。
     相手がスフィアだけであれば。
     鷲丞が真に警戒しなければならないのは、敵の従神戦士とスフィアの連携だ。
     如何に戦闘力格差があるとはいえ、スフィアも神々の超技術の産物だ。神々の浮遊砲台はスフィア、ソーサー、ヘドロンの三種類に分類される。その中でスフィアは特に頑丈な機種だ。撃破する為には、それなりの力を割かなければならない。
     敵の従神戦士・ナタリアと鷲丞が正面から戦えば、専用の鎧を与えられている鷲丞に分があるだろう。しかしその戦力差は、決して絶対的なものではない。現にこうして相手の土俵で戦うことを強いられれば、追い詰められるのは鷲丞の方だ。スフィアを攻撃している最中にナタリアの狙撃を受ければ、決定的なダメージを負ってしまう可能性がある。
    (どうする?)
     スフィア単体は直径約二メートルの球体。それが連係して作り出している壁を突破する前に、わずかな時間だけでもナタリアに隙を作らなければならない。
     その為には……。
    (……ぶっつけ本番だが、やってみるか)
     ナタリアから光弾が放たれる。
     鷲丞は盾を右に傾けて、それを受けた。
    (リリース)
     同時に、盾を手甲に固定していた留め具を思考操作で解除する。
     着弾の衝撃で盾が手甲から外れた。
     鷲丞の左手が飛び去っていく盾を追い掛け、その縁を素早くキャッチする。
     身体の捩れを巻き戻す勢いを利用して、鷲丞は円形の大盾をナタリア目掛けて投げ付けた。

     自らの放った光弾が邪神群の戦士・背神兵の盾を撥ね飛ばしたのを見て、ナタリアは心の中で「チャンス」と呟いた。
     彼女は背神兵に決定打を与えるべく、相手の頭部に狙いを定める。頭を直撃すれば、兜を破壊できなくても着弾の衝撃で敵を無力化できる。その戦術自体は合理的なものだ。「功を焦った」と決め付けるのは、ナタリアに対して酷だろう。
     だがこの状況における正解ではなかったのも確かだ。結果論だが、彼女は慎重に狙いを付けるのではなく、間髪を容れず畳み掛けるべきだった。
    「なにっ!?」
     ナタリアの口から驚愕が呟きとなって漏れた。
     撥ね飛ばしたはずの盾を背神兵が掴み、こちら目掛けて投げ付けてきた。――その信じ難い光景にナタリアは空中で硬直してしまう。
     神々の武具も邪神の武具も、戦士の想念力によって具象化している。光弾や光矢のように、最初から撃ち出すことを前提として作られているのでない限り、戦士の手を離れれば短時間で具象化が解け拡散してしまう。故に、「盾を投げる」という使用法は想定されていない。
     ナタリアを驚かせたのは、それだけではなかった。
     彼女に襲い掛かる盾のスピードは、人の手で投げたとは信じられないものだった。
     彼我の距離は約三キロメートル。だがあっと言う間に――具体的には一秒と少しでその中間地点を通り過ぎている。
     無論ナタリアも神鎧兵の能力は、人の範疇に収まらないと知っている。今相手にしている背神兵の鎧がパワーに優れたG型の亜種ということも理解している。
     だが人間と同じ外見、同じサイズの手から投げられた円盤が銃弾以上のスピードで迫ってくる光景は、そういう理屈では納得しきれない衝撃をもたらしたのだった。
     とはいえナタリアも神々の軍勢に加わることを許されたエリートだ。驚愕に支配されながらも、光弾を撃ち出す全長百二十センチの大型ライフル――これもまた、エネルギーを物質化した神々の武具――の銃口を自身に向かって飛んでくる盾へと向けて、引鉄を引いた。
     盾を光弾が迎え撃ち、衝突した直後、激しい閃光が生じた。
     前述のとおり神々の武具『エネリアルアーム』は、戦士の想念力によって具象化したエネルギー。戦士の手を離れれば、物質としての「形」を失う。そこに凝縮されたエネルギー弾がぶつかった。その結果、盾の形に固定されていたエネルギーが光となって解放されたのだ。
     鼻から上、サイドは頬骨の下までを覆っている兜のシールドが濃く濁り、ナタリアの目を守る。実際には、ナタリアは肉眼で敵の姿を視認、、していたわけではない。だがもたらされた結果は同じ。見掛け、、、上シールドの透明度が下がることで彼女の視界、、は制限される。
     その瞬間、ナタリアは背神兵――鷲丞の姿を見失った、、、、

     破壊された盾が撒き散らす閃光に目を眩まされたのは、鷲丞も同じだった。
     この状況は彼にとっても予想外のもの。鷲丞はナタリアが盾を躱した隙を突くつもりだったのだが、彼の切り替えは早かった。
    (今だ!)
     鷲丞は足下に足場となる板状の力場を形成し、グッと膝を屈めた。
     一瞬静止し、両足で勢い良く足場を蹴る。
     G型装着者の特徴は堅牢性とパワー。そのパワーには持続的な力だけでなく、瞬発的な投擲力や跳躍力も含まれている。
     鷲丞は飛行能力に跳躍力を上乗せし、一気に飛び上がった。
     上空で壁を作っているスフィアは、マシンならではの反応速度と正確性で鷲丞にエネルギー弾を浴びせてくる。
     だが、先程までとは鷲丞の速度が違う。反重力エネルギー弾の嵐が鷲丞を捉えるが、彼を押し戻すには至らない。
     ナタリアが戦闘に復帰するよりも早く、鷲丞はスフィアが壁をなしている高度に達した。
     彼が得意とするエネリアルアームは『斬り裂くもの』。その形状は幅広の長剣。
     剣の間合いに入れば、浮遊砲台は鷲丞の敵ではない。
     彼は縦横無尽に剣を振るって、スフィアの壁を突破した。
     再度足場を作って跳躍し急上昇する鷲丞を、下からの光弾が掠める。
     視界を回復したナタリアの攻撃だ。彼女は銃口を上に向けて鷲丞を追い掛けている。
     単純な飛行速度なら鷲丞のG型甲冑亜種『グリュプス』よりもナタリアのF型甲冑が上だ。
     だがパワーに優れた『グリュプス』の跳躍力で加速した鷲丞の上昇スピードは、ナタリアのそれに劣るものではなかった。
     差が詰まらないまま、高度三百キロが迫る。
     光弾の銃撃が激しさを増した。
     鷲丞は回避せず、一直線に空を翔け上がる。
     足や翼に着弾した光弾が鎧の耐久力を削っていくが、同時に着弾の衝撃が上昇をわずかながら後押しする。
     光弾による銃撃が止んだのは、ナタリアがそれに気付いたからだろう。
     敵の従神戦士が少しずつ近づいているのを、鷲丞は感知した。
     銃撃に費やしていたエネルギーを飛行力に回して加速したのだ。それを察知しても、鷲丞の心に焦りは生まれなかった。
     現在の高度、二百九十キロメートル。第一次神域の境界面まで、あと十キロ。
     現在の上昇速度は秒速三キロメートル。
     相手が追い付くより、鷲丞が第一次神域を突破する方が早い。
     追いつけないと、ナタリアも覚ったのだろう。
     彼女の気配が消える。
     瞬間移動を使ったのだ。だが神々の瞬間移動も邪神群の瞬間移動も、いったん物質転送機を経由して再ジャンプしなければ任意の場所には跳べない。
     ナタリアが高度三百キロの上空に出現した瞬間、鷲丞も神域の境界面に達していた。
     ナタリアが鷲丞に銃口を向ける。
     彼女が引鉄を引いた直後、鷲丞の姿が消えた。
     第一次神域を抜けたことにより回復した、鷲丞を加護する邪神の力による空間跳躍だ。
     放たれた光弾は、熱圏の希薄な大気を虚しく切り裂いた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     神々は地球を直接統治するのではなく十二の代官――『代行官アルコーン』を置いた。肉体を持たぬ神々の代行官は、肉体を備えた人ではなかった。人間を超越した超人でもなければ、天使のような霊的生物でもなかった。
     代行官は地球の遥か先を行く超技術で建造された巨大な人工頭脳だった。ただ「遥か先」とはいえ代行官に用いられた技術は現在地球で使用されている機械技術の延長線上にあるもの。地球人には、理解はできなくても分かり易い、、、、、存在だ。自分たちの統治に対する迷信的な恐怖を和らげるため、神々は敢えて機械技術の産物を統治機構のトップに据えたのだった。
     ただこの統治機構は、無人ではなかった。
     十二体の代行官の内、南極に置かれている『総代行官グランドアルコーン』を除いて、代行官には『代行局』が併設されている。代行局は代行官を補佐する統治補助機構で、選ばれた人類と、神々が創造した合成人間『ディバイノイド』が勤務している。
     ディバイノイドと人間の、外見上の差異はごくわずかだ。代謝機能も見掛けの上では人間と同じ。酸素を吸い二酸化炭素を吐く。有機食品を摂取して肉体を維持する。
     ディバイノイドは機械部品を持たない完全有機体だが、機械技術とは異なる神々のテクノロジーで代行官と直接つながっている。代行官から直接指令を受けるディバイノイドは代行局において、人間の局員よりも上位に位置する。
     とはいえ、人数は人間の局員の方が圧倒的に多い。代行局運営の実務面は大部分が人間局員に任せられていた。
     代行局に勤務する人間は、謂わば世界政府の職員だ。従神戦士程ではないが、局員は神暦の世界におけるトップエリートだった。

     荒士と陽湖が入学することになっている『富士アカデミー』は、その名称から分かるとおり日本の富士山麓にある。そこには、隣接する形で代行官・代行局も置かれていた。アカデミーは代行局の付属施設という位置付けだから、ある意味で当然だ。
     アカデミー入学を目前に控えた貴重な従神戦士候補が背神兵の襲撃を受けたという報せは、富士代行局を大きく揺さ振った。新入生の安全が確保されたことで動揺は一先ず収まった。しかし背神兵を逃がしてしまったことで、明後日に控えている入学式の警備態勢見直しが各部署で慌ただしく論じられていた。
     その混乱の最中、一人の従神戦士が管理部を訪れた。神鎧を着用していないスーツ姿だったが、その男性のことは代行局員ならば誰もが知っていた。
     代行局の管理部は従神戦士の配置やスケジュールのマネジメント、および作戦上の後方支援や私生活の厚生を担当する部署だ。それを考えれば、従神戦士が個人的に訪れてもおかしくはない。
    翡翠ひすい、少し良いか」
    「兄さん。ええ、良いわよ」
     まして、この会話でも分かるとおり訪ねた従神戦士と訪ねられた管理官は兄妹同士。彼の訪問に奇異の目を向ける者はいない。――憧憬の眼差しは向けられていたが。
     従神戦士は人々の尊敬と羨望を集める存在だが、その男に向けられる視線はそのような一般的なものではなかった。
     彼の名は今能こんの翔一しょういち。地球人で最初に従神戦士となった七人の内の一人。その中で唯一、今も現役の戦士として神々に仕えている英雄だった。
     憧れと崇拝を集めながら、翔一には少しもその功績を鼻に掛けている様子が無い。局員の視線に気付いていないかの如き無表情だ。
     尊崇を当然のものとする傲慢とも違う。一切の余計な感情を排して任務にのみ邁進するプロフェッショナルの姿、とでも言うべきだろうか。そんなたたずまいが彼にはあった。
     今も翔一は自分に向けられている視線を全て無視して、というより全く意識せずに、妹であり管理官である翡翠に話し掛けている。
    「富士アカデミーに入学予定の新候補生が背神兵に襲われたと聞いた。現時点で判明している情報が欲しい」
    「耳が早いわね……。もしかして代行官アルコーン閣下から対応を命じられたの?」
     代行局員は人間もディバイノイドも完全な機械でしかない巨大人工頭脳を「閣下」の敬称付きで呼ぶ。なお余談だが、ディバイノイドは人間の代行局員から「卿」を付けて呼ばれている。
     翡翠の反問に、翔一は「否」と首を横に振った。
    「代行官閣下から直接話があれば、態々お前を煩わせには来ない」
     そしてこう補足する。
    「兄さんのサポートが私の役目なんだから、煩わしくなんて思わないけど」
    「お前は俺の専属ではないだろう」
     翡翠は何か反論し掛けた。
    「それより襲撃について教えてくれ」
     だが翔一がリクエストを繰り返す方が早かった。
     既に述べたとおり、管理部の仕事は従神戦士の後方支援全般。任務に関わる可能性がある情報の開示を求められたなら、答えないわけにはいかない。
     特に翔一は富士代行局に所属する従神戦士のリーダー格だ。むしろ要求される前に事件の詳細を伝えておくべき相手だった。
    「出現した背神兵は一体。襲われた候補生に被害は無し。平野名月とナタリア・ノヴァックの二名で撃退したわ」
    「その背神兵の名称は?」
     翔一が「名前は」と訊ねなかったのは、コードネームしか分からないケースがほとんどだからだ。
     背神兵の素性は邪神の力でカモフラージュされている。神々に直接コントロールされている戦闘用ディバイノイドならば、カモフラージュを突破することも可能かもしれない。だが神々に武器を与えられているだけの従神戦士には、邪神本体の手による偽装は破れない。
    「特殊G型背神兵『グリュプス』」
    「あいつか」
     グリュプスはこの次元の地球――マルチバース内では『ジアース世界』と呼ばれている――では有名な背神兵だ。
    「襲われた候補生はよく無事だったな」
     心配しているとは余り感じられない声音で、翔一が独り言のように漏らす。
    「名月が偶々近くにいたというのもあるけど、彼女が現場に駆け付ける時間を新候補生が稼いでくれたのが大きかったわね」
     その一方で、翡翠の口調は苦笑気味だった。
    「ほう、何という候補生だ?」
     それまで感情の揺らぎがほとんど見られなかった翔一だが、この回答には興味をそそられたようだ。――もっとも、平均的な人々に比べれば反応は希薄だったが。
    「名前は新島荒士。私たちと同じ日本人の男子よ」
    「ああ、ジアース世界男性で初めてのF型適合者か」
     翡翠は「日本人の男子」と言い、翔一は「ジアース世界男性」と表現した。
     翡翠は神々に仕える代行官だが、勤務地は富士代行局に固定されている。
     それに対して翔一は、地球防衛が現在の主な任務だが他の次元へ派遣されることもある。数年前までは別次元を主戦場としていた。
     異次元世界を知識としてしか知らない翡翠と、マルチバースを飛び回ってきた翔一の意識の違いが二人の言葉に反映したのだろう。
    「邪神にとっても貴重なサンプルのようだな」
    「兄さん……。『サンプル』なんて言い方は止めて」
     翡翠が兄をたしなめる口調は、余り強いものではなかった。
    「そうだな。すまん」
     だからなのか、それともそういう話し方が癖になっているのか。翔一の謝罪は「悪かった」という感情が伝わってこない、淡々としたものだ。
     翡翠はそれ以上、翔一を咎めなかった。
    「一人の候補生に護衛の戦力を固定するのは、現実的ではないな」
    「貴重な人材とはいえ、兄さんの言うとおりね……」
     翔一の指摘に、翡翠がため息を吐きながら相槌を打つ。
    「自衛の術を身に付けさせねばなるまい」
    「……兄さんが教えてくれるの?」
    「命令が出ればな」
     翔一は神々に仕える正規の戦士。神々の命令無しに勝手なことはできない。
     それは従神戦士の規律に則った発言だったが、傍で聞き耳を立てていた人間の代行局員には薄情なセリフに聞こえた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     荒士は陽湖、名月と共に、彼女たちの祖父の家に着いた。
     木造の伝統的な日本家屋で、敷地はかなり広い。ただ敷地の大半は道場で占められ、家自体のサイズは平均的だ。平屋で、現代風に言えば2LDK+Sの間取りになる。
     門柱に掛かっている表札は「片賀」。これは陽湖の母親の旧姓だ。
     陽湖の祖父、片賀ひらが順充よりみつは現在この家に一人で暮らしている。家事は通いの家政婦が片付けているが、夜は一人だ。身寄りは陽湖の母以外にその兄がいるのだが、現在は仕事の関係で家族と海外に住んでいる。妻とは、十年以上前に死別していた。
     順充は杖術、槍術、剣道の心得があり、若い頃は地元の警察で杖術を教えていた。警察の警杖術と順充が使う杖術は似ていても別のものなのだが、それでも警察が教えを請うほど、順充の技は優れていた。
     ただ、警察の仕事はある事件が切っ掛けで辞めている。今は敷地内の道場で、子供に剣道を教える傍ら、気に入った若者を弟子に取り、商売気を抜きにして扱くのを老後の楽しみとしていた。
     ちなみに荒士は、剣道教室の教え子ではない。彼は父親の縁で順充の弟子になった。荒士の父は警察の道場における順充の一番弟子とも言えるような存在で、二人の間には仕事上の関係を超えた付き合いがあった。
     その友誼の厚さは、荒士の父親が殉職した直後の一時期、順充が荒士とその母の後見役を務めた程だ。後見役といっても法的なものではないが、順充が様々な形で手助けした御蔭で大黒柱を失った荒士の一家は立ち直れたという面があったのは否定できない。専業主婦だった母親の就職も、順充の口添えで何とかなった。
     順充が荒士を弟子にしたのも彼の父親との縁、後見役としての手助けの一環だった。
     五歳で父親を亡くした荒士にとって、順充は恩人で師匠であると同時に、父親代わりであり祖父代わりでもある。――なお、実の祖父母は父親より先に全員死亡していた。荒士は血族との縁が薄い子供だった。

    「おお、陽湖。名月も良く来たな。さあ、遠慮せずに上がりなさい」
     順充は二人の孫娘を、好々爺の笑みで迎えた。
    「荒士。暫し道場で待っておれ」
     そして荒士には、厳格な師の顔でそう命じた。
     扱いの違いに、荒士は不満を覚えない。片賀順充は自分の師。父親代わりを必要していた時期を、荒士は疾うに卒業していた。
     言われたとおり荒士は、無人の道場に上がって順充を待った。
     板敷きの床に正座し、背筋を伸ばしたまま待つ。彼は剣道教室の生徒ではなく、杖術と槍術の弟子だった。
     そのまま十五分以上が経っただろうか。
    「すまん。待たせたな」
     その言葉と共に順充は道場に来て、荒士の前、神棚を背にした上座に座った。
     順充が腰を落ち着けた直後、荒士は平伏した。
    「師匠。これまで御指導、ありがとうございました」
     両手を突き、額を床すれすれまで下げた状態で、荒士が用意しておいた口上を述べる。
    「礼ならば、顔を見せて言うが良い」
     順充は少し時代掛かった言い方で物言いをつけた。――彼は古い時代劇を愛好しており、専門の有料チャンネルを契約している。
     言われたとおり、荒士は顔を上げた。真面目くさった表情だが、呆れ顔のようにも見えた。
    「師匠、弟子が巣立ちの挨拶をしているんですから、ご自分の趣味は横に置いておいてくださいよ」
    「何が巣立ちか。学校に入るだけで、現場に出るわけではあるまい」
    「敵に襲われることはあるようですけど」
     順充は軽く目を見開いた。それに合わせて、白い眉毛が上がる。だが順充は、詳しい話を訊かなかった。
    「古来より『男子家を出ずれば七人の敵あり』と言う。お前は邪神とやらから敵視されるだけでなく、人々からも羨まれる選ばれた存在だ。敵は何処にでもいる。常在戦場の心得で覚悟を持って過ごすがいい」
     師として、厳かに諭す順充。
     だがそれを聞いて荒士が浮かべた表情は、皮肉げで冷めた笑みだった。
    「人間の敵ですか……。例えば、父を殺した連中のような?」
    「そうだ」
     順充の答えも、冷たく、血が通っていると感じられないものだった。
     しかしその直後、武人は老人に姿を変えた。横溢していた精気に替わって、年月により積み重ねられた疲労と後悔と諦念が順充の両肩から漂い出ていた。
    「そんなことはない、と言うべきなのかもしれない」
     順充の言葉は間違いなく荒士に向けられたものだが、何処か独り言めいていた。
    「過去を憎むのは止めろと、諭すべきなのかもしれない」
    「そうですね。非建設的ですし」
     間違いなく自分が言われているセリフなのに、荒士の応えは他人事ひとごとのようだった。
    「少なくとも私は実戦の――殺し合いの技術を、お前に教えるべきではなかったと思う」
     この道場で順充が荒士に教えていたのは、相手を傷つけずに取り押さえる逮捕術につながる杖術ではなく、順充が「昔の合戦場で武士や足軽が実際に使うとしたら」を考えて工夫した実戦、、槍術だった。
    「神々の戦士に選ばれれば、それが役に立ちますよ」
    「荒士」
     順充が表情を改め、居住まいを正す。彼は再び武士もののふの空気を纏った。
    「はい、師匠」
     荒士も同じように居住まいを正し、表情を引き締めた。
    「お前はこれから、大きな力を得ることになる」
    「はい」
     実際には、順充の言うとおりになると決まったわけではない。
     アカデミーに入学した時点で、いったんは神鎧――神々の武具を与えられる。しかし四年で一定のレベルまで達しなければ、神鎧は取り上げられてしまう。
     だがこのことは、一般には知られていない。一般人だけでなく、アカデミーから与えられた事前教育課題を真面目に終わらせている荒士でも、まだ知らないことだった。
     順充が言うように、自分はもうすぐ大きな力、、、、を手に入れることになる。――荒士はそれを、疑っていなかった。彼のシンプルな「はい」という返事は、その確信の表れだった。
    「使い古された戒めの言葉だが、力には責任が伴う。大きな力には、大きな責任が。分かるか、荒士?」
    「理解できている、と思います」
     荒士の返事は、今度は歯切れが悪かった。まだ十六歳の彼は「力に伴う責任」などと言われても実感を持てなかった。
     順充は弟子の消化不良に気付いていたが、念を押したりはしなかった。
     同じ注意を繰り返すこともなかった。
    「荒士。たとえお前に確かな正義があったとしても、恨みを晴らす為にその力を使うなよ」
    「……師匠は結局、恨みを捨てろとは仰らないんですね」
     荒士が隠そうとしているが隠し切れないシニカルな口調で訊ねる。
    「そんなことを言うつもりはない」
     順充は苦々しい声音で、それでも口ごもりはせず即答した。
    「母さんは口癖のように言っていますよ。過去に囚われるな、父さんを殺した連中を恨むな、前を向いて生きろって」
    「立派なご意見だ。……私には真似できない」
     荒士と順充が目を合わせる。
     二人の目には同種類の、どろりと濁った闇が蟠っていた。
    「お前の父親は立派な男だった。警察の腰抜け官僚どもに見殺しにされて良い人物ではなかった。あんな連中に先生先生と煽てられて好い気になっていた自分が今でも腹立たしい」
     順充の面に、老人のものとは思われぬ憤怒と憎悪の表情が一瞬、過った。このとき順充は十一年前の過去を見ていた。
     荒士の父は刑事だった。交番勤務から始めて県警本部の私服刑事になった叩き上げだった。その彼が殉職したのは、神々に対する抵抗組織を捜査している最中のことだ。
     追い詰められた抵抗勢力が警察署を襲撃し、立てこもり、自爆テロを起こした。荒士の父親は、それに巻き込まれた。
     順充が昏い怒りを抱えているのは、その時に県警幹部が保身を図ったことで荒士の父が犠牲になった面があったからだ。
     襲撃後すぐ代行局に対処を任せていれば、テロリストは自爆すらできなかった。
     しかし警察署が襲われるという不祥事の解決を代行局に委ねることは、警察のメンツに懸けてできなかったのだ。――結果は、恥の上塗りに終わったが。
     警察とテロリストに対する怒りと憎しみが一瞬で去った跡には、過去に囚われ過去を悔いる老人がいた。
    「……だが荒士、報復の念は正当なものであっても、結局は恨みを晴らしたいという欲だ。人を超えた力を欲望のままに振るえば、行き着く先はおそらく破滅。運良く破滅を免れられても最早、人ではいられまい。神々の力とは、きっとそういうものだ」
     順充は代行局関係者ではない。アカデミーとも無関係だ。
     だから神々の技術について傍観者以上のことは知らないのだが、このときの彼の警告は真実の一端を突いていた。馬齢ではなく歳月を重ねた年の功と言うべきだろうか……。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     亜空間に築かれた邪神の神殿、、で鷲丞は神鎧を纏ったまま、この神殿の主である邪神・アッシュの前に跪いていた。
    「頭を上げてくれ、鷲丞」
     アッシュにそう言われても、鷲丞は深々と頭を下げたままだ。
    「罰を与えろと言うが、私にそんなつもりはない。そもそも君は私の僕ではなく協力者だ」
    「もったいないお言葉。しかし」
    「それに」
     アッシュは、なおも謝罪を連ねようとする鷲丞の言葉を遮った。
    「今回の失敗は私の見込みが甘かった為でもある。まさか魔神の兵士が二人も出てくるとは予想していなかった」
    「そのようなことは、決して!」
     鷲丞が慌てて顔を上げ、アッシュの責任を否定する。
    「いや。あの者は私が考えていた以上に、魔神にとっても重要な存在のようだ」
     しかし神の言葉を否定することもまた、不敬であり冒涜。
     そう思い至った鷲丞は、それ以上口を挿めなかった。
    「今回は失敗したが、あの者の洗脳が完了するまでにはまだ時間がある」
     アッシュのセリフは、気休めではなかった。
     邪神が言うような「洗脳」を神々が従神戦士に施している事実は無い。だが正規の従神戦士が使う神鎧には、反逆防止の機能が追加されている。逆に言えば正規の戦士に取り立てられない限り、神々に対する反逆は可能だった。――例えば、鷲丞のように。
     何故神々が背神、、の余地を残しているのかは不明だ。鷲丞などはそれを「魔神の傲慢」と解釈していた。
    「それまでに我々の仲間にできれば良いのだ。鷲丞、期待しているよ」
    「挽回のチャンスをくださるのですか? ありがとうございます!」
     アッシュが続けたセリフに、鷲丞は喜び勇んだ。
    「アカデミーの教練には、亜空間を使ったものがあったね?」
    「神鎧の性質上、それは変わっていないと思われます」
     鷲丞は背神兵となる前、『マウナ・ケアアカデミー』所属の従神戦士候補生だった。
     内容に多少の違いはあるだろうが、訓練の大枠は富士アカデミーでも同じであるはずだ。
    「惑星の結界は破れなくても、亜空間ならば付け入る隙はある。鷲丞、その時はよろしく頼むよ」
    「かしこまりました。今度こそ、必ずや」
     鷲丞が頭を下げる。
     その体勢はさっきと同じだったが、全身に漲る気力は、先程は見られないものだった。