• NOVELS書き下ろし小説

  • 夜の帳に闇は閃く

    【5】警察官と暗殺者

     入学式の翌日は日曜日だ。魔法大学にも新入生向けのオリエンテーションがあり、それは明日に予定されている。履修科目を選んだり必要な教材を揃えたりするのはその後。細々とした準備が何かと必要だった入学式も昨日で終わり、亜夜子あやこ文弥ふみやにとっては上京してから最も自由な、何も予定が無い一日だった。
     朝食後、亜夜子あやこが自室で「今日は何をしようか」とのんびり考えていたところ、部屋の扉がノックされた。
    文弥ふみや?」
     この部屋は文弥ふみやとの二人暮らしだが、黒羽くろばの家人が用事を伝えに来たという可能性もある。
    「姉さん、出掛けるよ」
     念の為確認した亜夜子あやこの言葉に、予想どおりの人物の声で予想外の応えが返ってきた。
    「構わないけど、急にどうしたの?」
     そう言いながら、亜夜子あやこは扉を開ける。
     文弥ふみやはすっかり外出用の身支度を調えていた。
    達也たつやさんが深雪みゆきさんと出掛けるって」
    「あら、達也たつやさんも珍しくお休みなのかしら」
     発言どおり珍しいと思いながら、それがおかしなこととは亜夜子あやこは思わなかった。達也たつやは今月の誕生日で二十歳、深雪みゆきは先日の誕生日で十九歳になったばかり。二人とも若い盛りだ。休みの日に出掛けるのは不自然でも何でもない。
    「それに付いていくんだよ」
     亜夜子あやこの呑気な態度に、文弥ふみやは苛立ちを見せなかった。ただ事務的にこれからの行動方針を伝えた。
    文弥ふみや、本気?」
     むしろ感情的な反応を見せたのは亜夜子あやこの方だった。
    「婚約しているお二人のデートに割り込むなんて……。たとえ馬に蹴られなくても、遠慮すべきじゃないかしら」
     亜夜子あやこは呆れ顔で、文弥ふみやに蔑みの目を向けた。
    「デートに付いていくなんて言ってないだろ!」
     特殊性癖の男性にはご褒美になりそうな視線だったが、そんな趣味を持たない文弥ふみやは声を荒げて言い返した。
    達也たつやさんの暗殺を企む連中が出てこないか、見張るだけだ! 達也たつやさんの了解は取ってる」
    「のぞき? 余計に趣味が悪いと思うけど」
     亜夜子あやこが態とらしく目を丸くする。
    「仕事・だ・よ」
     文弥ふみやはムスッとした顔で一音一音区切りながら反論した。
    「冗談よ」
    「冗談にしても質が悪いよ」
     文弥ふみやから向けられる非難の視線。亜夜子あやこはそれを、スルーした。
    達也たつやさんはご自分を囮にするおつもりかしら」
    「まさか。達也たつやさんお一人ならともかく、深雪みゆきさんが一緒なのに」
    「そうよねぇ……」
     その点は亜夜子あやこも同感だった。
     彼女は視線で「じゃあ、どういう経緯?」と弟に問い掛けた。
    兵庫ひょうごさんが教えてくれたんだよ」
     亜夜子あやこから数々の暴言(?)を浴びせられた直後であるにも拘わらず、文弥ふみやは回答を渋らなかった。
    達也たつやさんたちは兵庫ひょうごさんの運転でお花見に行くそうなんだ。二人の邪魔をされたくないから、怪しい連中を片付けて欲しいって」
    達也たつやさんは了承されているのね?」
     亜夜子あやこが念を入れて確認する質問に、文弥ふみやは「疑われるのは心外」という表情で頷いた。
    「……でも、お花見の時期はもう過ぎているんじゃない?」
     文弥ふみやの答えに納得した亜夜子あやこが、別の点で首を傾げる。
    「染井吉野が満開の時期だと、達也たつやさんたちが素顔で桜を楽しむのは難しいからじゃない?」
    「それもそうね」
     文弥ふみやの意見は亜夜子あやこが納得できるものだった。
    「それに、染井吉野に拘る必要も無いか」
     また彼女は、花見=染井吉野という固定観念に囚われていたと、自らを省みることもできていた。
    「それで、達也たつやさんたちはどちらに行かれるの? 遠出になるのかしら」
    「いや、すぐ近くだよ。市内の植物公園」
    「ああ、あそこ。歩いても行けるんじゃない?」
    「日曜日にこの距離を深雪みゆきさんが普通に歩いていたら大騒ぎだと思うよ」
    「美人すぎるのは不便ね。私は程々で良かったわ」
     亜夜子あやこがさらりと呟いた。特に僻んでいる様子は見られない。
     独り言ちた姉に、文弥ふみやは「何言ってるの」という呆れた目を向けた。世間一般の尺度に当てはめれば亜夜子あやこは十分「美人すぎる」カテゴリーに属する。程度の差こそあれ、普通に――気配を消さずに街を歩けば、人だかりを作り出すに違いない。
    「――運転手がいるんだから態々歩く必要は無いよ」
     文弥ふみや亜夜子あやこの独り言には触れなかった。口調も、呆れ声ではなかった。
    「僕たちも車で付いていこう。黒川くろかわに自走車を準備させている」
    「一台だけ?」
    「車は二台。バイクを六台用意させた。車が多いと駐車場の確保が大変だからね」
    「ドローンは?」
    「そっちも手配は終わっているよ」
     上出来、という顔で亜夜子あやこが頷く。
    「すぐに支度するから五分ちょうだい」
    「そこまで急がなくても良いよ。十分後に出よう」
     文弥ふみやはそう言って亜夜子あやこに背中を向けた。
     亜夜子あやこは小さな音を立てて扉を閉めた。

    ◇ ◇ ◇

     達也たつや深雪みゆきが向かった植物公園は桜よりも薔薇の方が有名だが、お花見スポットとしも名を知られている。日曜日ということもあって、園内の人口密度は高かった。
     それでも文弥ふみやが予想したとおり、満開の時期に比べれば人出は減っている。人の波で達也たつや深雪みゆきの姿が見えなくなるという状態にはならなかった。
     公園内には制服警官の姿もあった。ハイテク型犯罪が増える一方で、スリや置き引きといった昔ながらの犯罪も無くなってはいない。毎年この季節の桜の名所は、彼らにとっての稼ぎ所だった。
    「やっぱり注目を集めているわね……」
     気配を消し、距離を置いて達也たつやを尾行している亜夜子あやこが、通信機越しにうんざりした口調で文弥ふみやに囁いた。深雪みゆきに向けられた眼差しは怪しいものばかりで、暗殺者の視線を検出するのに苦労しそう、というぼやきだ。
    『仕方が無いよ。分かっていたことじゃないか』
     文弥ふみやから慰めているともたしなめているとも取れる応えが返ってくる。
    「そうは言ってもね。男の人が深雪みゆきさんに目を奪われるのは理解できるし、その中に不埒な妄想を懐く強者がいるのも想定内よ。でも……」
     亜夜子あやこは耐え切れないとばかり、一つため息を挿んだ。
    「むしろ女性の方に煩悩だらけで見詰める目が多いってどういうこと? おかしくない?」
    『普通の男は、妄想することすら恐れ多いと感じてしまうんだろうね。深雪みゆきさんならそんなこともあるさ』
    「意気地が無いわね、今時の男って……」
     亜夜子あやこは百年前に使い古されたような感想を漏らした。

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみやからの命令は無かったが、有希ゆきたちのチームも同じ植物公園に来ている。有希ゆき奈穂なおと二人で、若宮わかみやは一人で、文弥ふみやたちと同じように花見客を装って達也たつやに殺意を向ける人影がいないかと目を凝らしていた。
     それだけなら黒羽くろば家の人員が単に増えたのと同じだ。
     だがやっていることは似ていても、意識が違っていた。
     文弥ふみや亜夜子あやこも、のぞき見のような真似をしているのは万が一に備えてだ。
     一方、有希ゆきには「来る」という確信があった。文弥ふみやが知らない情報を有希ゆきが掴んでいたわけではない。根拠は同じ暗殺者としての・・・・・・・・・経験と嗅覚だった。彼女は「以前の・・・自分ならここで狙う」と思ったのだ。
     有希ゆきの感覚では、そろそろまともな殺し屋が出てきてもおかしくない頃合いだ。そして達也たつや普通に手強いだけ・・・・・・・・の標的と考えているかつての自分のような・・・・・・・・・・暗殺者には、この植物公園は絶好のロケーションだった。
    「いるかもしれない」と考えて探すのと、「いるに違いない」と考えて探すのと。
     有希ゆきが先に殺し屋を見付けたのは、この違いによるものだろう。
    (何だアイツ……。やべえぞ)
     見付けたまでは良かったが、その相手が只者ではなかった。どんな技を持っているのか、どのくらい強いのかは遠くから見ただけでは分からない。だが強いということだけは、それも尋常でない力を秘めているということだけは一目で分かった。
     こいつは本隊だ、と有希ゆきは感じた。敵がこれまでに、偵察目的でけしかけてきたようなチンピラではない。外見は日本人と区別が付かないが、密入国したマフィアのヒットマンに違いないと有希ゆきは直感した。
    (こんな所でまともにやり合ったら、一般人を大勢巻き添えにして大惨事だぞ……)
    (そうなりゃ、警察だって黙っちゃいないだろう)
    (マフィア相手に警察が本気になるのはちっとも構わねえが、こっちにまで飛び火しそうだぜ)
     そんなことになったら、到底責任は取れない。
     ――これは、自分の手に負えない。
     ――少なくとも方針は決めてもらわないと動けない。
    「――文弥ふみや、怪しい奴を見付けた。あたしはどうすれば良い?」
     そう考えた有希ゆき文弥ふみやに電話を掛けて判断を仰いだ。
     文弥ふみやに責任を押し付ける為に、判断を委ねた。
     焦りを隠せない有希ゆきを、奈穂なおが隣から訝しげに見ていた。

    ◇ ◇ ◇

    「……こちらでも確認してみるよ。指示するまで待機してくれ」
    『分かった。監視を続ける』
     有希ゆきとの通話を終えた文弥ふみやは、間を置かず亜夜子あやこを呼び出した。
    「姉さん、有希ゆきが殺し屋を見付けたみたいなんだ。作戦を話し合いたいから、こっちに来てくれる?」
     亜夜子あやこから承諾の返事をもらって、文弥ふみやはいったん通信機を待機状態に戻した。

     文弥ふみやがいるのは桜が植えられている区画とは少し離れた所にあるテラスだ。この辺りに植えられている花は時季外れで蕾にすらなっていない為、人は比較的少ない。文弥ふみやたちは予め、達也たつや深雪みゆきが足を向けなさそうなここを落ち合う場所に定めていた。
     亜夜子あやこは通信から五分未満で文弥ふみやと合流した。桜の園からここまで、普通に歩いて十分は掛かる距離なのだが、巧みに人混みをすり抜けてきたようだ。
    「怪しそうな人を見付けたんですって?」
     文弥ふみやの隣に座るなり、前置きを省いて訊ねる亜夜子あやこ。良く見ると彼女は、不満を押し殺している表情だった。いや、彼女が感じているのは不満ではなく不甲斐なさか。有希ゆきが先に不審者を発見したことに、彼女は納得できていなかった。
    「そうだよ。隠し撮りさせようとしたけど、すぐ勘付いたような素振りを見せたので中止した。有希ゆきが言うように、只者じゃない」
    「でも監視はさせているのよね?」
    有希ゆきたちとは別に、黒川くろかわにも見張らせている。僕たちで直接確認して、行けそうだったら確保しようと思うんだけど」
     文弥ふみやのプランを聞いて、亜夜子あやこは「うーん……」と短く考え込んだ。
    「手強そうだったらどうするの?」
    「始末する。尚更放っておけないよ」
    「こんなに人目が多いのに?」
    「[毒蜂]を使おうと思う」
    [毒蜂]は文弥ふみやたち姉弟の父、黒羽くろば貢が編み出した暗殺用の精神干渉系魔法だ。術を掛けられた者が認識した痛みを、本人が死に至るまで無限に増幅する。文字どおり、針の先で付けられた程の小さな傷で命を奪う。
     この魔法の犠牲者には致命傷の痕跡も内臓の損傷も毒物も残らない。死体から死因を特定するのは不可能であり、検死をしても「心疾患による突然死」という結論しか出ないだろう。
     また精神干渉系魔法には珍しく発動手順が定式化されており、黒羽くろば家の暗殺部隊は[毒蜂]を切り札の一つとして使っている。
     定式化されていると言っても精神干渉系魔法への適性が必要な為、亜夜子あやこは[毒蜂]を使えない。だが[ダイレクト・ペイン]という遣い手が希少な精神干渉系魔法を十八番とする文弥ふみやは、本家本元の父親以上に[毒蜂]を使いこなすようになっていた。
    「駄目よ、文弥ふみや達也たつやさんに付き纏っているのは暗殺者だけじゃないのよ。魔法の行使は厳しく見張られていると思うわ」
    「機械に感知されるような雑な使い方はしないよ」
     自分は魔法の行使を機械的なセンサーに捉えられるほど未熟ではないと主張する文弥ふみや
    「情報部や公安にも、感知系が得意な魔法師はいるのよ」
     だが、余計なリスクを冒すべきではないと考える亜夜子あやこに、再度止められてしまう。
    「じゃあ、姉さんはどうすべきだと思うんだ? まさか、放置するとは言わないよね?」
     達也たつやを狙う殺し屋を放置すれば、結局達也たつやがその殺し屋を片付けてしまうだろう。文弥ふみやには許容できない展開だ。
    達也たつやさんのお手を煩わせるつもりはないわ」
     その思いは、亜夜子あやこも同じだった。
    「そうね……当局を利用できれば、それが一番良いんだけど」
    「殺し屋と情報部を噛み合わせるってこと?」
     亜夜子あやこの瞳を見返す文弥ふみやの眼差しには「当局の諜報員が任務外のことに指一本でも動かすかな?」という疑念が見え隠れしていた。
    「情報部や内情を当てにしているんじゃないわよ」
    「情報部」は国防陸軍情報部のことで、「内情」は内閣府情報管理局のことだ。どちらも外国の工作員や反政府過激派を主なターゲットにしており、犯罪者には関心が薄い。
    「公安だって似たようなものだろ」
    「公安」――警察省公安庁はテロリスト対策を自分たちの縄張りと考えている。外国人犯罪も治安維持に拘わるレベルにならなければ、公安は腰を上げない。
    「満開の時期程じゃなくてもこの人出だもの。公安じゃない警察も来ているはずよ」
    「そりゃ来てるだろうけど……手に負えるのかなぁ」
     有希ゆきの感覚だけでなく、隠し撮りに即気が付いた点を考えても、問題の殺し屋は只者ではない。花見の警備に駆り出される普通の警察官が制圧できる相手とは、文弥ふみやには思えなかった。
    「所轄の中にもできる人はいると思うわ。公園内の警官はチェック済みなんでしょう? 映像を見せてくれない?」
     黒羽くろば家に与えられる任務は、何らかの法令に触れるものばかりだ。警察官の配置を確認するのは黒羽くろば家が仕事に臨む際のルーティンとなっている。今日はいつもの諜報任務ではないが、黒羽くろば家の家人は近辺に展開している警官の位置情報と映像データを確保していた。
     公園内の警官の数は、片手の指に満たなかった。表面的には事件が起こっているわけでもその兆候があるわけでもないから、人数が少ないのは当たり前のことだ。
     隠し撮りした写真を一覧表示にした亜夜子あやこは、すぐに「あらっ?」と声を上げた。
    「姉さん、どうしたの?」
    文弥ふみや、使えそうな方がいたわ」
    「知り合い?」
     文弥ふみやの問い掛けに、亜夜子あやこは一枚の写真を通常表示に戻した。
    「えっと……」
     ざっと見た時は気付かなかったが、文弥ふみやにも見覚えがある顔だ。ただ、誰だったかすぐには思い出せなかった。魔法師は大体において記憶力に優れていて、文弥ふみやも例外ではない。だがその記憶力にも限度というものがあった。
    文弥ふみやは二年前に少し会っただけだから思い出せないのかもしれないわね」
    「ああ、空澤からさわ巡査か」
     しかし亜夜子あやこのヒントで、文弥ふみやは正解にたどり着いた。
    「今は巡査部長ですって」
     ただし、当然だがその記憶はアップデートされていない。
    「姉さん、最近会ったの?」
    「桜田門の辺りで偶然お見掛けしてね。有能な人だから、近況をすずに調べさせたのよ」
     文弥ふみやはこのセリフに疑いを持たなかった。空澤からさわ亜夜子あやこの実質的な初任務に協力してその達成に貢献したことは亜夜子あやこから聞いているし、父の貢が行わせた裏付け調査の結果も見ている。また二年前、アメリカからパラサイトが侵入した際の対応も、結果的に逃げられはしたが見事なものだった。そうした事実を踏まえれば「有能な人だから調べさせた」という亜夜子あやこの主張には十分な説得力があった。
    「確かに使えそうだね。でも、具体的にどうするの?」
    「通報して捕まえてもらうだけで良いんじゃない?」
    「それだけ……?」
    「作戦は複雑な方が良いというわけではないわ。シンプルに済ませられるのならその方が良いはずよ。大切なのはプランの見栄えじゃなくてミスを起こさない仕組みと、想定されるミスに適切な対応をする仕組みを備えておくことよ」
    「フールプルーフとフェイルセーフだね。コンティンジェンシープランをメインプランにビルトインするとも言えるかな。それくらい分かっているよ」
    「嫌ね。大学生になったからといって途端に横文字を使いたがるのは、かえって軽薄に見えるわよ」
    「はいはい。僕が訊きたかったのはその、不測の事態に対する備えの部分なんだけど」
     文弥ふみやの目は「やれやれ、すぐにお姉さん振りたがる……」と語っていた。
     その眼差しを受け止める亜夜子あやこの瞳は「文弥ふみやのくせに生意気」と同じく無言で語っていた。
     ……二人は不毛な睨み合いをすぐに止めた。
    「相手の逃亡に備えてくれる?」
    「暴れた時の助太刀は要らないの?」
    「状況次第ね。一般人に被害が出そうな状況になれば手を出しても文句は言われないと思うわ」
    「積極的に手出しはしないってことだね。了解」
     文弥ふみやはそう言って、テラスに備付けのベンチから立ち上がった。
    黒川くろかわたちと一緒に囲んでおくよ。有希ゆきにも協力させる。刑事さんの方はよろしく」
    「ええ、任せて」
     一拍後れて立ち上がった亜夜子あやこは、そう答えて文弥ふみやと別れた。

    ◇ ◇ ◇

    空澤からさわさん?」
     突然背後から名前を呼ばれて、空澤からさわは思わず振り返りながら身構えた。
     振り返った先には、驚きに顔を強張らせた美女がいた。身構えた空澤からさわの反応にびっくりしたのだろう。しかし彼女はすぐに表情を緩め微笑んだ。
     色っぽい外見だが、良く見るとまだ若い。美少女と呼んでも違和感が無い年頃に見えた。
    「……空澤からさわさんでしょう? お久し振りです」
    黒羽くろばさん……ですか?」
     口調は自信無げだが、空澤からさわは相手が誰だか分かっていた。何時以来の再会なのかもはっきり覚えている。
     会ったのは二年ぶり、本格的な再会は五年ぶりだ。それでも確信は揺るがない。彼女は彼にとって、忘れられない女性だった。
     と言っても、別れた恋人とか将来を約束した仲とかではない。彼女と共有した体験が、彼の心に強烈な印象を刻み込んでいたのだ。
    「ええ。ですが、以前のように亜夜子あやこと呼んでください」
    「お久し振りです。黒羽くろばさん……亜夜子あやこさんも東京に来ていたんですね」
    「はい。今年から魔法大学の学生です」
    「そう言えば、そんなご年齢でしたね」
    空澤からさわさんはご出張ですか」
    「いえ、警察省に出向中です」
    「まあ! ご栄転ですのね。今は巡査部長さんですか? それとももう、警部補になられたのかしら」
     空澤からさわの現在の階級は調査済みだ。
     だが目をキラキラさせて訊ねる亜夜子あやこの笑顔に、白々しさは一切無かった。
    「巡査部長です」
    「順調にご栄達なさっているのね。おめでとうございます。……それと、もしよろしければ、以前のように話してくださいませんか。空澤からさわさんに丁寧語を使われると、何と申しますか、距離を感じてしまいます」
    亜夜子あやこさんが以前のように気軽に話してくだされば、本官もそうしますよ」
    「私は以前からこのような喋り方だったと思いますが……」
    「ああ……、そうでしたね。いや、そうだったね」
     空澤からさわは勘違いをした照れ臭さに頭を掻いた。
     ――そう言えば彼女は五年前も、こういう大人びた言葉遣いをしていた。
     空澤からさわ亜夜子あやこと初めて会ったのは、高校二年生の夏休みだ。当時彼女はまだ中学生だった。
     亜夜子あやこは良家の子女を集めた泊まり込みのサマースクールに潜入調査目的で参加していた。
     第二高校に通っていた空澤からさわはひょんなことから亜夜子あやこと知り合い、土地勘の無い彼女を色々と案内している内に、亜夜子あやこが調査していた事件に巻き込まれた。
     いや、自分から積極的に関わっていったと言う方が正確かもしれない。当時の空澤からさわは青臭い正義感の虜になっていた。自分でもそう思うくらいだから相当だ。――今も他人から見れば、正義漢という点は大して変わっていないのだが。
     空澤からさわ亜夜子あやこに交流があったのは二年前のごく短い時間の再会を除けば、五年前の一ヶ月に満たない間だけのことだ。
     だがそれは、密度の濃い日々だった。
     まだ高校生の空澤からさわと中学生の亜夜子あやこが、国際犯罪結社相手に共闘したのだ。
     亜夜子あやこにとっては実質的な初任務だったし、空澤からさわにとっては掛け値無しに初めての実戦だった。お互いの心に強い印象が刻まれたのは、ある意味で自然な成り行きと言えよう。二人の間には時間の長短に拘わらない戦友の絆が結ばれていた。
    「それで、何の用だい? ただ懐かしくて声を掛けたわけじゃないんだろう?」
     空澤からさわの言葉遣いは、すっかり五年前に――高校生時代に戻っていた。
    空澤からさわさんに声を掛けたのは懐かしかったからですよ」
    「他にも理由があるんだね?」
     亜夜子あやこの含みがある言い方を、空澤からさわは聞き逃さなかった。
    「花見客の中に怪しい者が紛れ込んでいます。おそらく、殺し屋の類ではないかと」
     空澤からさわの顔色が変わった。これが普通の・・・女子大学生の言葉なら、聞き流しはしなくても話半分にしか受け取らなかっただろう。だが空澤からさわは、亜夜子あやこが何者なのかを知っている。彼女が四葉一族分家、黒羽くろば家当主の娘だということを。
     その彼女の警告だ。真面目に受け止めないはずはなかった。
    「……もしかして、君たちの仕事関係か?」
    「見付けたのは偶然です。今日は陰ながら次期当主さまのお供をしておりまして。そのついでに桜を愛でていたら、怪しい者が目に付いたんですよ」
    「次期当主と言うと、四葉家の……?」
     空澤からさわは二高の卒業生で先祖代々古式魔法『忍術』を継承してきた家の出身だが、十師族を中心にした魔法師社会とは距離を置いている。だが魔法師の犯罪者を相手にすることも多い仕事上、情報収集は怠っていない。仮に魔法師社会の事情に疎くても二年前の、あれ程の大事件の焦点だった四葉家次期当主とその婚約者のことは、知らないはずがなかった。
     亜夜子あやこはニッコリ笑うことで、空澤からさわの言葉を認めた。
    「その男は弟に見張らせています。凶器を所持していると思いますので、確かめていただけませんか? 証拠を発見する前でも、職務質問なら可能だと思いますが」
    「……分かった」
     空澤からさわが迷ったのは、ほんの数秒だった。
    「だが怪しい素振りがないかどうか、自分の目で確認したいので案内してくれないか」
    「はい、それで結構ですよ」
     亜夜子あやこ空澤からさわにクルリと背を向けて、軽やかな足取りで彼を先導し始めた。

    ◇ ◇ ◇

    (なる程……。有希ゆきが尻込みするわけだ)
     殺し屋を自分の目で確かめて、文弥ふみやは心の中で思わず納得の呟きを漏らしていた。
     その殺し屋は、確かに只者ではなかった。文弥ふみやは相手の精神に肉体的な・・・・痛みを直接・・与える魔法の遣い手だ。それは言葉を換えれば、精神が認識する肉体の情報をハッキングし不正に書き換える魔法とも言える。
     この魔法に熟達する過程で、文弥ふみやは他者の肉体情報を読み取るスキルを発達させた。その感覚が彼に告げている。――この男は普通の人間ではない、と。
     常人には持ち得ない身体能力と肉体強度。それは、自然に獲得したものではなかった。生来の素質やトレーニングによる能力向上とは別に、手を加えられた痕跡がある。
     生来の・・・、遺伝子操作に因るものではない。
     肉体に何かが埋め込まれているノイズも無い。
    (強化人間か……)
     おそらく生化学的な強化だろうと文弥ふみやは判断した。
    (姉さんの判断を疑うわけじゃないけど……二十八家でもない刑事に対処できるのか?)
     無理だろうな、と文弥ふみやは思った。
     彼の感覚では、近接戦闘の距離まで近付かれてしまえば十師族でも苦戦する相手だ。いや、十師族であっても戦闘に慣れていない魔法師なら後れを取るかもしれない。自分が負けるとは思わないが、必要以上の騒ぎになってしまう可能性は否定できなかった。
    「――コール、ナッツ」
     文弥ふみやは待ち受け状態で耳に付けたままだった通信機のスイッチを入れて、音声コマンドで通話先を選んだ。
    有希ゆき。こちら文弥ふみや
    『はいよ。段取りが決まったのか』
     応答はすぐに返ってきた。有希ゆきの方でも文弥ふみやの指令を待っていたのだろう。
    「刑事に職質をさせる。君たちの役目は逃亡の阻止だ」
    『逃げられそうになったら力尽くで足止めしろってことか?』
    「刑事が振り切られていなければ足止めに徹してくれ。そうでなければ、追跡して捕まえろ。――最悪、殺しても構わない」
    『公園の中も外も周りは堅気の人間だらけだが、見られても良いのか?』
     有希ゆきが殺し屋を見てすぐに思い浮かべた懸念を、言葉を換えて口にする。
    「僕も追う。人目が無い所で押さえろ」
     見られたくないなら人がいない所で暴れれば良い。――文弥ふみやの答えはシンプルだった。
    『日曜日だぜ。そう都合の良い場所が見付かるか?』
    「場所なら作る・・から心配しなくて良い」
    『見付けるんじゃなくて作るのか。黒羽くろば家の魔法は便利だね。羨ましいぜ』
    「愚痴は暇な時に聞いてあげるよ」
    『要らねえよ。……それで、何処があたしらの受け持ちだ?』
    「君たちはいったん、東側の駐車場方面を見張って欲しい」
    『了解。以上か?』
     文弥ふみやが「ああ」と答えた直後、通信は向こうから切れた。
     失礼と言えば失礼な態度だが、文弥ふみやは特に、不満も苛立ちも覚えない。彼が有希ゆきたちのチームに求めるものは、礼儀ではなかった。

    ◇ ◇ ◇

    「ええと……良かった。まだ騒ぎは起こしていませんでしたね。あの人です」
     空澤からさわを案内してきた亜夜子あやこが、殺し屋を目立たないように指差した。
    空澤からさわさん?」
     亜夜子あやこは振り返り、空澤からさわの顔を見て訝しげな声を上げる。
     空澤からさわの表情は強張っていた。
    「……あれは確かに只者じゃない」
     亜夜子あやこと身体を入れ替えるようにして、空澤からさわが前に出る。彼は「下がって」という言葉と共に片手を亜夜子あやこの前に翳して、この位置に留まるよう彼女に指示した。そして自分は大勢の花見客の間を足早にすり抜けて、あっと言う間に殺し屋の前に立った。
     殺し屋の顔を軽い驚きが過った。直前まで空澤からさわに気付かなかったことに戸惑いを覚えている表情だ。
     花見客の隙間をすり抜ける空澤からさわは周囲の一般人に気配を同化していた。それは彼の家が受け継いできたスキルの一つ。森にあっては木に同化し、野原にあっては風に同化し、人里にあってはそこに住む人々に同化する。
     術の名前は特に無い。なぜならこれは、隠密・・の基本技能だからだ。
     空澤からさわ家は真田家に仕え「忍び名人」と称えられた唐沢玄蕃の子孫を自称しているが、真実かどうかは分からない。ちなみに空澤からさわ刑事自身は、有名人を祖先に据えて家系に箔を付けた可能性の方が高いと考えている。ただ彼の家が忍術を伝える古式魔法師の家系であるのは、紛れもない事実だ。空澤からさわも親から忍術を伝授されている。
     古式魔法の忍術は、幻覚を操る類のものが多い。
     だが空澤からさわが受け継いだ忍術は[跳躍]や[消重]に代表されるような、自身に作用する慣性や重力に干渉するものが主体だった。魔法を使わない肉体派・・・の忍術と併用することで人の域を超えた運動を実現するのが空澤からさわ家の得意分野だ。その性質上、空澤からさわは「忍術使い」の魔法だけでなく「忍者」の体術も会得している。彼が殺し屋に気付かれることなくその前に立つことができたのはそれ故だった。
    「警察です。少し良いですか」
     だが職質をするなら自分を警察官と相手に認識させる必要がある。空澤からさわは警察手帳をしっかりと提示しながら殺し屋に声を掛けた。
     殺し屋の反応は、空澤からさわだけでなく亜夜子あやこ文弥ふみやにとっても予想外のものだった。
     いきなり殴り掛かってきたのだ。
     それも破れかぶれの大振りパンチではなかった。両手を下げた状態から足を踏み出しながら繰り出す、左腕をしならせて放つフリッカージャブに似たパンチ。間髪を容れず打ち込まれる右ストレート。スピードも威力も人間離れした、完全な不意打ちだ。
     しかし空澤からさわは殴り飛ばされるのではなく、常人のレベルを超えた反射神経でパンチを二発ともブロックした。スピードには完全に対応した空澤からさわだったが、威力には抗しきれずよろめくよ
    うに後退る。
    「刑事さん!」
     慌てて駆け寄り、空澤からさわを背後から支える亜夜子あやこ
    「駄目だ! 離れて!」
     空澤からさわ亜夜子あやこを振り解くようにして前に出た。同時に殺し屋の追撃に備えて防御体勢を取る。
     殺し屋もまた、前に出た。だがそれは追撃の為ではなかった。殺し屋は空澤からさわの横をすり抜け、亜夜子あやこを乱暴に引き寄せて背後から首に左腕を回し、右手で銃を突き付けようとする。
     殺し屋の意図は明白だった。亜夜子あやこを人質にして逃げようとしているのだ。しかし、殺し屋は脅迫のセリフを口にできなかった。
     空澤からさわが殺し屋の拳銃を、左手で掴んでいた。銃身を掴み、上に捻り上げて銃口を空に向けている。一歩遅れはしたが、空澤からさわは超人的な反応速度で殺し屋の企みを阻んだ。
     殺し屋の判断も速かった。彼は銃を手放し、亜夜子あやこ空澤からさわへと突き飛ばした。
     両足が宙に浮く勢いで背中を押された亜夜子あやこの身体を、空澤からさわは慌てて受け止める。
    「大丈夫ですか!?」
    「あ、ありがとうございます」
     亜夜子あやこは動揺を露わにした顔で空澤からさわにお礼を告げた。そしてその後にすぐ「申し訳ございません」と謝罪の言葉を付け加える。
    「下がっていろと言われておりましたのに、私が不用意な真似をした所為で……」
     殺し屋は亜夜子あやこを受け止めた隙にこの場から逃げ去っていた。
    「大丈夫です。追いついて見せます」
     空澤からさわ亜夜子あやこをやや乱暴な手付きで立たせると、殺し屋が逃げた方へ猛然と走り出した。
     取り残された亜夜子あやこは道の端に寄って、携帯端末に連動した通信機を取り出す。亜夜子あやこは俯いて通信機の端を耳に当てた。
    「コール、文弥ふみや
     そして音声コマンドにより通話先を呼び出す。
    『姉さん、何?』
     応答はすぐにあった。
    「暗殺者に発信器を取り付けたわ。チャンネルは九番よ」
     亜夜子あやこは殺し屋に組み付かれた瞬間、相手のジャケットに米粒大の発信器を付着させていた。
    『了解。見てたよ。迫真の演技だったね』
    「あっそ」
     文弥ふみやのからかうような口調のセリフに、亜夜子あやこは素っ気無い答えを返した。
    『殺し屋はフォローしているよ。刑事さんが追いつけないようなら僕の方で処理する』
     亜夜子あやこの反応が薄かったからか、文弥ふみやはすぐに口調を改めた。「フォローしている」という表現で、殺し屋を監視していると亜夜子あやこに伝える。
    「公園を出るまでは手出しを控えなさい」
     ただ亜夜子あやこの声音は必要以上に冷たいものになっている。本当は自分の演技・・を羞じらっているのかもしれない。
    『了解』
     文弥ふみやは通信機の向こう側で、賢明にもそこに触れなかった。

    ◇ ◇ ◇

    「ターゲットは南門の方へ向かっている。発信器のチャンネルは九番だ」
     文弥ふみやは片目だけズームに設定した眼鏡型ゴーグルで暗殺者の姿を追い掛けながら、通信機に話し掛けた。
    『了解……信号を確認した。すぐに移動する』
     通信の相手は有希ゆきだ。彼女たちのチームは文弥ふみやの指示で東側の駐車場に控えていた。文弥ふみやの指示が間違っていたとは言えない。あくまでも包囲網の一角として持ち場を指定されただけだ。それは有希ゆきも理解していた。少なくとも彼女の声に、不満の気配は無い。
    「念の為、若宮わかみや奈穂なおは公園の外で共犯の襲来に備えてくれ。黒川くろかわもそちらに回す」
    若宮わかみや奈穂なお黒川くろかわさんから指示を受ければ良いのか?』
     有希ゆきは短期間だが黒川くろかわから忍術――魔法でない方の忍術だ――の指導を受けている。その時以来有希ゆきは、黒川くろかわだけは「さん」付けで呼ぶようになった。――なお文弥ふみやのことは相変わらず呼び捨てなのだが、文弥ふみや本人も黒川くろかわも、そんなことは気に掛けていない。この時も文弥ふみやは「そうだ」と落ち着いた口調で答えただけだった。
    『二人には伝えておくよ。他には?』
     有希ゆきの質問に「以上だ」と答えて、文弥ふみやは自分から通信を切った。
     ズームになった視界の中で、空澤からさわ刑事が暗殺者を追い掛けている。徐々に差は詰まっているが、公園内で追いつけるかどうかは微妙なペースだ。
     文弥ふみやはズームを切って、ゴーグルに半透明の園内地図を映し出した。赤い光点が暗殺者に付けた発信器の位置、青い光点が自分の位置だ。それを視界の四分の一に収まるよう調節して、文弥ふみやは南門に向けて移動を開始した。

    ◇ ◇ ◇

    (……くそっ、追い付けない)
     亜夜子あやこから殺し屋と聞いた不審な男――彼はそれが事実だと確信していた――を全力疾走で追跡する空澤からさわだが、中々追い付けずにいた。
    (魔法を使っているようには見えないのに。こいつ、普通の人間じゃない)
    (――強化人間か?)
     空澤からさわは流れる景色で自分の移動速度が分かる。交通取締の任務に就いたことは無いが、そういう仕事に回されたときに備えて自主的に練習して身につけたスキルだ。
     彼の場合そのスキルは高速で動く乗り物を運転している時だけでなく、自分の足で移動している時にも働く。今彼は、百メートル五秒から六秒のペースで移動していた。
     もちろん、肉体だけの力で出している速さではない。体術に魔法を組み込んだ[風足]という高速走法によるスピードだ。短距離・直線の移動には[雷足]というもっと速い走法があるから厳密に言えば全力疾走ではないかもしれない。だが[雷足]に付随する様々な制約条件を考えると、賊の追跡に使える技術の中では[風足]が最も速い。それを使って普通の人間・・・・・に追いつけないのは、あり得ないことだった。
     あいにくと自分の魔法的な知覚力は並以下と空澤からさわは自覚していた。だから今追い掛けている殺し屋が彼に魔法の行使を感知させない熟練の魔法師という可能性は否定できない。だがそれよりも「あの殺し屋は強化人間だ」と考える方が空澤からさわにはしっくりきた。

    ◇ ◇ ◇

    (それにしても、予想以上に速いな)
     魔法を併用して移動しながら、文弥ふみやは心の中で呟いた。
     文弥ふみやの想定を超えているのは強化人間と思しき暗殺者だけではなかった。追随する空澤からさわの移動速度も文弥ふみやの想定外だった。
     空澤からさわが身体能力だけでないのは、遠くから見ているだけですぐに分かった。
    (しかしあの魔法は何だ……?)
     ただ空澤からさわが何の魔法を使っているのかまでは分からなかった。
     やっていることは分かる。自身の肉体に作用する慣性を制御して走る速度を上げている。だが制御が細かすぎて、慣性制御魔法の工程を増やすだけでは真似できそうになかった。
     走るという行為も歩くという行為も、地面を蹴る足(蹴り足)で前に進む動作と踏み出した足(軸足)で身体を支える動作の繰り返しで成り立っている。身体を支える動作には身体を止めるという側面もある。慣性が作用しなければ、蹴り足で生み出した推進力は軸足が体重を受け止めた際にかなりの部分が相殺されてしまう。
     もっとも体重を受け止めながら足裏で地面を掴み身体を前に引っ張るように軸足を使って、減速を抑えることは可能だ。足を余り高く上げず歩幅を狭め両足を同時に地に着けることで、慣性に頼らずに前進することも不可能ではない。短い距離を直線に進むだけなら、慣性制御とこの歩法の組み合わせで瞬間移動と見間違える程の速度を出せるだろう。
     だが空澤からさわは特殊な走法ではなく、普通にスポーティな走り方をしている。蹴り足による加速と軸足による支持・減速を繰り返す走り方だ。慣性制御で高い速度を得る為には身体の重心が軸足の設置点を越えた時点で慣性を中和し、蹴り足を利かせる時点で慣性中和を最大にし、推進力が速度に変わった時点で慣性を戻し、軸足が着地する一瞬だけ慣性を中和して、着地が完了し軸足に体重が乗った瞬間再び慣性を戻すという細かい調整が必要になる。それを全て、一歩ごとに繰り返し行わなければならない。
     おそらくその操作を魔法の工程の積み重ねではなく肉体の動作に合わせて自動的に行う仕組み、エージェントのようなものに魔法の制御を代行させる古式魔法の術式なのだろう。大陸系方術士が用いる高速走行魔法[神行法]も似たようなシステムの魔法なのかもしれないと文弥ふみやは思った。
     そういう魔法的な考察を行いながら、文弥ふみやは自身の移動速度も維持していた。彼は普通に走りながら、高さを三十センチ前後に抑えた[跳躍]を繰り返し織り交ぜることで速度を稼いでいる。傍から見れば文弥ふみやの方が忍者っぽい走りに見えたかもしれない。
     植物公園の南門方面は雑木林になっている。
     花見客は公園の北側に集中しておりただでさえ来園者の姿は疎らだ。
     先程園内放送で南側の雑木林に不審者が向かっていると注意が呼び掛けられたので、人影はすっかり無くなっていた。
     黒羽くろばの魔法を使わなくても、そこに人目の無い状況ができあがっていた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆき身体強化フィジカルブースト超能力者サイキックだ。身体能力強化率は生化学的な強化を上回る。
     また有希ゆきは小柄な女性だが、忍者の体術修行と実戦で鍛えられた彼女の肉体は鍛えた男性に勝るとも劣らぬ運動能力を発揮する。素の身体能力×強化率で、身体強化フィジカルブーストをフル稼働させた有希ゆきの走力は、生化学的強化人間の暗殺者を上回っていた。
     それに桜園から南門までの道より、彼女がいた東側駐車場からの道の方が直線的だ。
     自身の能力と地の利で、有希ゆきは先回りに成功した。
     だからといって彼女は、殺し屋の前に立ち塞がったりはしなかった。正面衝突を恐れたのではなく、追い掛けてくる刑事に顔を見られたくなかったからだ。
     有希ゆきは道の近くに生えている木の陰に隠れて、ポーチから得物を取り出した。彼女が普段、愛用している得物はナイフ。だが取り出した武器は、飛び道具だった。
     銃ではない。有希ゆきは人並みに――殺し屋としてはという意味だ――銃を使う技術はあるが、銃声を嫌って実際に使用することは余り無い。発射音という点ではずっと静かな、その代わり拳銃よりずっと嵩張るクロスボウでもない。今日用意した得物はもっと彼女の特性にマッチした物だった。
     玩具版のパチンコという名称でも知られている、ゴムで弾を飛ばすシンプルな武器。スリングショットだ。
     有希ゆきは身長に応じて腕も短いので、ゴムを引く長さは稼げない。だが彼女には身体強化フィジカルブーストがあるので人間の筋力では到底引けないような強力なゴムを使ったスリングショットを操れる。
     射出の音がしないわけでは無いが、銃に比べれば無いに等しい。また、同じく静かな武器であるクロスボウに比べて発射に掛かる時間は圧倒的に短い。それでいて近距離なら十分な殺傷力を発揮する。有希ゆきが最近お気に入りになった飛び道具だ。
     粘土を固めて作った弾丸をスリングショットにセットし、気配を殺してターゲットの接近を待つ。
     ターゲットの殺し屋はすぐに現れた。殺し屋が走るスピードは速い。周りには有希ゆき以外にも黒羽くろば家の戦闘員が潜んでいるはずだが、有希ゆきは彼らが行動を起こすのを待たなかった。
     スリングショットのゴムを引きながら木の陰から半身を出し、粘土の弾丸を撃ち出す。
     腹を狙った弾丸はわずかに逸れて、殺し屋の右足の付け根に命中した。
     路上に転倒する殺し屋。だがそのまま無様に倒れ伏すことはなく、前転して片膝立ちに体勢を立て直す。
     有希ゆきの直感が危機を伝えた。
     己の直感に逆らうことなく、半ば反射的に有希ゆきは木の陰に隠れる。
     サプレッサーで抑えられた、それでも明瞭に聞こえる銃声が有希ゆきの耳に届いた。
     彼女が身を隠している幹を銃弾が掠める。
     何時でも逃げ出せる体勢で、有希ゆきはしゃがみ込んだ。
     銃声と、幹の裏側に銃弾が食い込む音。
     銃声は二発。幹が裂ける音は一つ。
     それきり、音が止んだ。
     有希ゆきは小さな手鏡を出して様子を窺う。
     追い掛けてきた刑事が片膝立ちの殺し屋に銃を向けている姿が鏡に映った。

    ◇ ◇ ◇

     空澤からさわは殺し屋の背中を視界に捉えていた。
     だが思ったように距離が縮まらない。彼は焦りを感じ始めていた。
     南門が近付いている。所轄に応援を頼んではいるが――今日は順番で言えば、警察省に出向中の彼が所轄の応援に来ている――公園の外に出たら逃がしてしまう可能性が高いと空澤からさわは感じていた。
    ([雷足]を使うか……?)
     一か八かの賭けに出るべきか、彼は迷った。[雷足]は[風足]と違って直線的にしか動けない。途中で止まることもできないし、周囲の状況も限定的にしか知覚できない。途中に見えていない障碍物――例えば罠――があれば、自滅に近い形で大ダメージを負ってしまう。
     だが[雷足]は元来、奇襲と緊急離脱の為の魔法だ。これを使えば、殺し屋に追い付いて一撃を加えることが確実にできるだろう。――罠が無ければ。
    (――ええい、やってやる!)
     彼が決意を固めた、その瞬間のことだった。
     殺し屋が突如、体勢を崩して転倒した。
    (何だ? 撃たれた?)
     転ぶ直前、殺し屋は右足にダメージを負ったような反応を見せた。銃声はしなかったが、まるで小口径の銃で撃たれたような仕草だった。
    (エアガン……あるいは、スリングショットか……?)
     事実はまだ分からない。とにかくこれはチャンスだった。――チャンスに、見えた。
     だが空澤からさわは、殺し屋に突進しようとして逆に急停止した。
     起き上がり片膝立ちになった殺し屋は、銃を持っていた。
     銃口を道のすぐ側に立っている太い木に向け、躊躇わず引き金を引く。
     空澤からさわは状況を覚った。
     殺し屋の足を止めた狙撃手が、木の陰に隠れているに違いないと。
     空澤からさわは素早く懐から拳銃を出した。そして殺し屋に向けて、引き金を引いた。
    「銃を捨てろ!」
     空砲による威嚇射撃を経て、空澤からさわは殺し屋に銃の放棄を迫った。
     殺し屋は両手を挙げてゆっくりと立ち上がる。
     その足下へ、空澤からさわは実弾を撃ち込んだ。
     銃弾が透水性舗装面に食い込み、破片が飛び散った。
    「もう一度言う。銃を捨てろ」
     空澤からさわの勧告に殺し屋は肩を竦めるような仕草を見せて、銃を握る右手を開いた。
     拳銃はゆっくり回転しながら落下し、サプレッサーを付けた銃口を空澤からさわの方へ向けた状態で路面に落ちた。
     落ちたその衝撃で、拳銃が暴発する。
     余程の安物だったのか。いや、暴発するよう仕組まれていたのだろう。
     空澤からさわは反射的にしゃがみ込んだ。
     空澤からさわの銃口が殺し屋から逸れる。
     殺し屋は拳銃を拾うのではなく、空澤からさわへと襲い掛かった。
     二人の距離は十メートル弱離れていた。それが殺し屋の一跳びで零になる。
     迎え撃つ空澤からさわは引き金を引くのではなく、立ち上がりながら殺し屋を銃で殴りつけた。
     彼が愛用している拳銃はオートマチックではなくリボルバーだ。理由は、頑丈だから。日本の警察官は軍人と違って多数の殺人を前提にしていない。拳銃を携帯する主目的も射殺ではなく制圧だ。ステンレス製リボルバーのグリップは、マガジンが収まっているオートマチックのそれと違って殴打の武器になる。オートマチックに装弾数で劣っていても、頑丈なリボルバーの方が空澤からさわにとっては使い勝手が良かった。
     中段から面を打つ要領で叩き込んだグリップは、顔の前に翳された殺し屋の左腕の骨を折って止まった。
     その直後、拳銃を握る空澤からさわの右腕に「熱」が走った。知覚が認識に変わった直後、「熱」は痛みへと変化した。
     空澤からさわは見た。スーツとシャツの袖を突き破って、彼の右腕に小さなナイフが突き刺さっている。柄の無い、棒手裏剣のような細いナイフだ。
     空澤からさわは刃を押し込まれる前に右腕を引いた。手からすっぽ抜けた拳銃が背後に飛んでいく。彼はバックステップで殺し屋から距離を取った。
     左手で刺された傷口を押さえる。血は止まりそうにないが、反応が早かった御蔭か刃が重要な神経や血管に届いている様子は無い。だが当面、右手は使えそうにない。
     殺し屋の方も左腕が折れている。しかし先程まで右手で銃を握っていたことから推測して、利き腕は右だ。状況は空澤からさわの方が不利だった。
     殺し屋もそう判断したのか、逃走ではなく闘争を選んだ。
     空澤からさわの血に濡れたナイフを殺し屋が投じる。彼我の間合いは数メートル。そしてその投擲は、素人どころか並みの軍人や警官、ボディガードや格闘家にも躱せぬ程、速く鋭かった。
     だが空澤からさわは、並み・・ではなかった。負傷の影響を感じさせない素早い身のこなしでナイフを避けると、殺し屋に向かって左手から何か・・を飛ばした。
     投げたのではない。手はほとんど動いていなかった。ただ指を弾くような仕草を見せただけだ。
     殺し屋にはその何かが見えていたようだ。反射的に腕で顔をかばう。
     その腕の上で小規模な爆発が起こった。
     火力は大したものではない。ジャケットの袖を焦がしもしなかった。ただその爆発で生じた白煙が、殺し屋の視界を遮った。
     空澤からさわが指で弾いて飛ばしたのは、親指の爪程の大きさの球体。黒色火薬を米糊で丸く固めて作った礫だ。もちろん、ぶつけただけで爆発するような代物ではない。
     では何故、殺し屋の腕に衝突した瞬間に起爆したのか。
     答えは単純。空澤からさわの魔法によるものだ。
     彼が得意とする魔法は[跳躍]を始めとする、自分自身に作用する慣性と重力を制御する魔法と、もう一つ。――火薬を併用する魔法。
     これも、彼が受け継いだ家伝の魔法だ。
     火薬の扱いを得意とする忍者と言えば、伊賀者が知られている。空澤からさわの家は、本当は伊賀忍者の系譜なのかもしれない。
     空澤からさわが使った礫の火薬は、煙が多く出るよう調合されていた。その煙によって殺し屋の視界が遮られる。また顔のすぐ前、自分の腕で生じた爆発に殺し屋は動揺していた。
     動揺していると言っても、取り乱しているわけではない。戦闘に向けられるべき集中力が少し散漫になった程度だ。
     しかしそれでも、隙は生まれた。
     その隙に乗じて、空澤からさわは本格的な攻勢に転じた。

    ◇ ◇ ◇

    (へぇ……やるじゃないか)
     雑木林の木の陰から空澤からさわの戦い振りを見ていた文弥ふみやは、心の中で軽い感嘆を漏らした。
     空澤からさわの身体がフワリと宙に浮く。
     蹴りつけてくる足に、殺し屋はナイフを突き立てようとする。
     だが空澤からさわ空中を蹴って・・・・・・殺し屋を飛び越え、その背中を斜め上方から踏み付けた。
     背後から突き飛ばされた殺し屋は、逆らわず路上で前転してすぐに体勢を立て直す。
     しかしその時点で既に、空澤からさわの跳び蹴りが迫っていた。
     キックを右腕でブロックする殺し屋。
     空澤からさわはその腕の上に立ち、殺し屋の頭部めがけてローキック・・・・・を放つ。
     骨折している左腕では蹴りをブロックできない。殺し屋は、足場にされている右腕を勢い良く上げて空澤からさわを跳ね飛ばした。
     巧みにバランスを取って姿勢を維持したまま、空澤からさわは道路の端に着地する。
     殺し屋はナイフを持つ右腕をダラリと垂らした。蹴りをブロックしたダメージに加えて片手で成人男性を跳ね上げた無理の影響で構えが取れないのだ。
     もたつく殺し屋を尻目に、空澤からさわは再び宙に舞う。
     殺し屋は空澤からさわの空中殺法にすっかり翻弄されていた。空澤からさわが殺し屋を取り押さえるのも時間の問題だろう。
     文弥ふみやは何時でも介入できるように[ダイレクト・ペイン]の専用CADを構えていた。
     だが、どうやら手助けは必要なさそうだ。
     南門の外でも騒動が発生している。暗殺者の逃走をバックアップする仲間が応援に駆け付けたようだ。文弥ふみやはこの場の見届けを有希ゆきに任せて、そちらの様子を見に行くことにした。

    ◇ ◇ ◇

    「良くやるよ……。白々しくならないところが凄えよな」
     有希ゆきは再生された動画を見ながら、思わず声に出していた。
     場所は有希ゆきのマンション。時刻は夕食前。大きな画面に映し出されているのは、今日調布市の植物公園で撮影した殺し屋の動画だ。
     植物公園の一件は空澤からさわが殺し屋を取り押さえ、殺し屋の仲間は駆け付けた所轄の刑事が逃がしてしまうという結末で幕を下ろした。大勢の警察官が集まった状況では動くに動けず、有希ゆきのチームは逃げる殺し屋一味の追跡を断念しあの場を撤収したのだった。
    「こういうシチュエーションって、美人だと絵になりますねぇ」
     有希ゆきの隣で奈穂なおが羨ましそうな声を上げた。画面の中では殺し屋に突き飛ばされた亜夜子あやこ空澤からさわが抱き止めていた。
    「で、どうだ、クロコ。該当するデータはあったか?」
     有希ゆきがモニターから離した目を鰐塚わにづかに向けた。この動画は公園の監視カメラの録画データだ。それを鰐塚わにづかがハッキングしたものだった。彼女は、人相照合ソフトで殺し屋の正体を割り出せないかどうか試している鰐塚わにづかに、その成果を訊ねた。
     鰐塚わにづかが再生中の録画と付き合わせているのは、裏社会で取引されている仕事人の顔写真付きデータベースだ。仕事人――殺し屋やテロリストの顔写真付きデータなどというものが取引されているのは不思議な気もするが、これはあちこちの組織が敵対勢力について流したデータを纏め上げたもの。つまりこのデータベースは外注先のリストであると同時に賞金首のリストでもあった。
     ただ、このデータベースは完璧ではない。いや、完全版と言うには、漏れが多い。例えば、今この場にいない若宮わかみやのデータは入っているが有希ゆきのデータは含まれていない。正直に言えばこのデータベースで今日の殺し屋の正体が判明する可能性は低いと有希ゆきは考えていた。
    「――やはり該当はありませんね」
     それは鰐塚わにづかも同じだった。そもそもそんなに簡単に正体が割れては、殺し屋稼業は上がったりだ。殺し屋は、若宮わかみやのように陰と闇の中で正面から暗殺を実行できる者ばかりではない。顔を知られた時点で引退するか、新しい顔を用意するのが一般的と言える。現在行っている照合作業はあくまでも念の為のものだった。
    「警察に身柄を押さえられたのは、やはり痛かったですね」
    「仕方ねぇだろ。あの状況じゃ」
    「そうなんですけどね……」
     ふて腐れたように言う有希ゆきに、鰐塚わにづかは同意しながらもため息を吐いた。
    「豚箱に侵入するか」
    「いえ、それは止めた方が良いでしょう」
     しかし有希ゆきの思い付きに、鰐塚わにづかは表情を一変させて彼女を止めた。
    「押し入ろうってんじゃないぞ。穏便に入り込むつもりだ」
    「騒ぎを起こして態と捕まるつもりでしょう。駄目です」
    「何でだよ」
    「せっかくFLTに入り込んだのに、そっちの仕事はどうするんですか」
    「ぐっ……」
     言葉に詰まった有希ゆきと、さっきよりも大きなため息を吐く鰐塚わにづか
    「これまでと方針は変わりません。次の襲撃を待ちましょう」
    「……分かったよ。それしかねーか」
    「あのー、一つ気になったことがあるんですが」
     二人の口論を黙って聞いていた奈穂なおが、遠慮がちに口を開いた。
    「気になっていること?」
     訝しげな声で、有希ゆきが続きを促す。
    「今のシーンは大勢の人に見られていますよね? あそこにはあの男だけじゃなくて、他にも敵がいたと思うんです」
    「そうですね。アタッカーの側にバックアップが控えているのはセオリーです」
     今度は鰐塚わにづかが相槌を打ち、「それで?」という目を奈穂なおに向ける。
    亜夜子あやこさま、そいつらに目を付けられなかったでしょうか?」
    「……仕事の邪魔をされた仕返しに来るってのか?」
     有希ゆき奈穂なおの指摘に、軽い意外感を示した。
    「無いとは言えねぇが……。そんなことで一々面子だ何だと騒ぐのはチンピラのやることだぜ。今日の奴は、少なくともチンピラじゃなかった」
    「面子? いえ、そうではなくてですね……」
    「んっ? ……何を心配しているんだ?」
     話が噛み合っていない。そう感じた有希ゆきは、改めて奈穂なおに真意を訊ねる。
    「殺し屋が達也たつやさまの周囲を嗅ぎ回っているのなら、亜夜子あやこさまと達也たつやさまが親密な関係だということを突き止めるのは難しくないと思うんです。亜夜子あやこさまは深雪みゆきさまと一緒にお出掛けとかなさっていますし」
     有希ゆき奈穂なおの指摘を、今度は真面目に受け止めた。
    「つまり仕事の邪魔をされた腹いせじゃなくて……。あの人・・・をつり出す餌に使おうと企むかもしれない、と言いたいのか?」
    「はい。あり得るんじゃないでしょうか。もちろん、亜夜子あやこさまがマフィアの殺し屋如きに後れを取るとは思いませんが」
    「……そうだな。亜夜子あやこがやられる心配はしなくても良いだろうが……クロコ、どう思う?」
    「そうですね……。亜夜子あやこ様が狙われる可能性はあります」
     鰐塚わにづかも慎重な口振りで奈穂なおの指摘を認める。
    「ただ我々には何もできませんよ。亜夜子あやこ様は黒羽くろば家がガードしているでしょうし、四人ではあの人・・・の周りを見張るだけで手一杯です」
     その上で、心配しても無駄だと奈穂なおを諭した。

    ◇ ◇ ◇

     国際秘密結社『ギルド』、その暴力犯罪実行部隊である『マフィア・ブラトヴァ』。彼らはチャイニーズマフィアとの抗争に疲弊したヤクザ組織を数多く傘下に収めているだけでなく、嘆かわしいことに警察内部にも魔の手を伸ばしていた。
    「災難だったな」
     空澤からさわに取り押さえられた殺し屋に取調室で話し掛けているのは、所轄署の警部補だ。取調室にいるのは警部補と殺し屋の二人だけ。他の刑事は同席していない。
     警部補は机に指で簡単な二つのシンボルを描いた。ラテン十字とロシア十字。ロシア十字は横棒が二本の六端十字架だ。
     殺し屋は手錠を掛けられた手で、六端十字架の下に横棒が三本の八端十字架を描いた。
    「安心しろ。カメラもマイクも切ってある」
     警部補の言葉に、殺し屋が緊張を緩めた。
    「兄弟、あの刑事は何だ? ただの人間ではないだろう」
    「お前を捕まえた刑事のことか? 奴は本省から来ていた応援だ。魔法師だよ」
    「魔法師にしてもあの動きは、普通ではなかった」
    「ロシア人の兄弟には馴染みが無いかもしれんな」
     警部補が言うように、この殺し屋はロシアからの密入国者だった。外見が日本人と区別が付かないのはハーフとかではなく、そういう民族だからだ。
    「あいつは忍術使いだよ」
    「忍者か……!」
     殺し屋が単なる驚きを超えた食い付き・・・・を見せる。二十一世紀末になっても「忍者」と「侍」は外国人にとって特別なニュアンスがあるようだ。
    「そんなことよりも……」
     警部補は苦笑しながら話題を変えた。
    「お前に発信器が付けられていたぞ」
     苦笑含みから一転したシリアスな口調になって警部補が殺し屋に告げる。
    「何ぃ!?」
     殺し屋は本気で驚いていた。どうやら気付いていなかったようだ。
    「豆粒程の発信器がお前のジャケットの裾近くに付いていた。繊維に絡んで貼り付くタイプだ。軽く押すだけでくっついて、激しく暴れても外れない優れものだよ。SISのエージェントが使っているタイプと同じ物だが、本当に心当たりは無いのか?」
     SISは英軍秘密情報部の略称だ。MI6の通称でも知られている。
    「ジャケットの裾?」
    「ああ。この辺りだ」
     警部補は立ち上がり、自分の左腰の前側を指差した。
    「……あの女か!」
     警部補が腰を下ろすのとほぼ同じタイミングで、殺し屋が叫ぶ。
    「お前が人質に取ろうとした女か?」
    「ああ、間違いない。その場所に触れたのはあの女だけだ」
    「なる程」
     警部補は、武器の所持を万が一にも覚られぬよう他人との接触を注意深く避ける殺し屋の習性を知っている。それにあの女・・・ならば発信器を付けるくらい朝飯前だろうと納得した。
    「……何者なんだ?」
     向かい合う相手の奇妙な物分かりの良さに違和感を覚えた殺し屋が、探る目付きで警部補に訊ねる。
    黒羽くろば亜夜子あやこ。ターゲットの再従姉妹だよ」
     警部補はマフィア・ブラトヴァの秘密メンバーだ。組織が誰を標的にしているか当然知っていたし、亜夜子あやこの素性は調書に書かれていた。
    「あの女も四葉の一族か? それにしては歯応えがなかったが……?」
    「戦闘要員ではないのだろう」
     ただ、警部補は「触れてはならない者たちアンタッチャブル」四葉家の「更なる闇」、黒羽くろば家のことは知らなかったようだ。
    「女でなければ務まらない仕事もあるからな」
    「確かに、若さに似合わず随分と色っぽい女だった」
     自分自身で得た実感から、殺し屋は警部補の言葉に納得した。これは殺し屋の目が節穴と言うより、亜夜子あやこの演技がそれだけ優れていたと考えるべきだろう。
    「しかし、的の身内か……。使えそうだな」
     殺し屋が漏らしたセリフに警部補が眉を、器用に片方だけ上げた。
    「……誘き出す餌に使うという意味か?」
    「今回の的は、とにかく狙える機会が少ない。人質も考えるべきだろう」
    「お前の考えは分かった。だが、出してやれるまで少し時間が掛かりそうだ。兄弟に伝えておいてやるよ」
     警部補はそう言って立ち上がった。
     殺し屋もそれにならった。
     気安い雰囲気は消え、二人とも硬い表情で取調室を後にした。