• NOVELS書き下ろし小説

  • 夜の帳に闇は閃く

    【2】ハンティング指令

     はしばみ有希ゆき、性別は女性。年齢はもうすぐ二十二歳。
     そして職業は、プロの殺し屋だ。キャリアは今年で八年になる。
     フリーランスではなく亜貿社という組織に属している。もっとも彼女の本当のボスは亜貿社の社長ではない。亜貿社自体が黒羽くろば家の傘下に入っているが、それとは別に有希ゆきと彼女のチームは文弥ふみやの直属の部下――あるいは「駒」――と位置付けられていた。
     三月二十一日、土曜日。この日、三日前に大きな案件を片付けたばかりの彼女は自宅のマンションでだらけていた。
     自室のベッドで、うつらうつらと半覚醒状態の惰眠を貪る有希ゆき
     その部屋の扉がノックも無しに開いた。
    有希ゆきさん、お電話ですよ」
     上半身だけをのぞかせた同居人の桜崎おうざき奈穂なおが用件を告げる。
    「電話ぁ?」
     ベッドの上でうつ伏せになっていた有希ゆきは、起き上がらずに顔だけを横に向けて不機嫌丸出しで応えを返した。彼女は「居留守を使いたい」と全身で主張している。
    文弥ふみやさまからですよ。起きてください」
     家事落伍者の有希ゆきに代わって家内環境維持を一手に引き受けている奈穂なおが、ベッドサイドへ歩み寄って有希ゆきの身体を揺する。
    文弥ふみやから? 後で電話すると言っとけ」
    「そういうわけにはいきませんって!」
     そう言いながら奈穂なおは、有希ゆきが着ている寝間着代わりのスウェットをグッと引っ張った。
    「グェッ! おいっ、締まってる締まってる!」
     スウェットの襟で喉を圧迫された有希ゆきが渋々身体を起こす。
     ベッドの上に座る有希ゆきを、奈穂なおはエプロンの両腰に手を当てて睨み付けた。――タヌキ顔の優しい目付きの所為か、少しも怖くなかったが。
    「早く電話に出てください。あたし、有希ゆきさんの代わりに叱られるなんて嫌ですからね」
    「すっぴんでヴィジホンに出ろってのか?」
     ノーメイクの顔で人前に出たくないという有希ゆきの言い分は、普通の女性ならば真っ当なものだろう。彼女のことを良く知らない相手になら通用したかもしれない。
     だが有希ゆきが仕事以外でメイクすることはほとんど無いと知っている奈穂なおには通用しない。
    「カメラをオフにすれば良いじゃないですか」
     それにヴィジホンには音声のみのモードもある。有希ゆきの言い分は電話に出ない口実にならないものだった。
    有希ゆきさん、文弥ふみやさまがお待ちですよ。ほら、早く!」
     奈穂なおに繰り返し急かされて、有希ゆきはようやくベッドを離れる。それでも、せめてもの抵抗のつもりなのか足取りはのろのろとしたものだった。

    『ようやく来たね』
     ディスプレイの中の文弥ふみやの表情は、怒りではなく呆れを映していた。
    「女は支度に時間が掛かるんだよ」
     文弥ふみやの嫌み(?)に対して、有希ゆきは定番の言い訳を返す。ただ、自分でも白々しいと思っている所為で説得力は皆無だった。
    『そうみたいだね。寝癖が残っているよ』
    「なっ!?」
     有希ゆきは慌てて自分の髪を撫でた。カメラの前に出る前に髪だけは解かしてきたのだが、急いでいたので仕損じがあったのかと思ったのだ。――有希ゆきも一応、人前に出る時は身だしなみを、最低限は気にしている。
     自分の髪を撫で回し、有希ゆきはわずかに訝しげな顔付きになった。
     映像の文弥ふみやはその微妙な変化の前で、声に出さずに笑っていた。
    文弥ふみや、テメエ……」
     文弥ふみやに騙され、いや、からかわれたと覚って、有希ゆきがヴィジホンの画面を睨み付ける。
    『急いではくれたみたいだね。待たされたことは、これで相殺にしてあげるよ』
     文弥ふみやは半笑いの口調でそう言うと、急に真顔になった。
     有希ゆきも鋭い目付きはそのままに、口元を引き締める。
    「仕事か?」
    『仕事だ』
    「でかい案件ヤマ?」
    『重要な案件あんけんだ』
     有希ゆきの質問に文弥ふみやは端的な答えを返し、
    『今晩八時、いつもの場所にチーム全員で来てくれ』
     その上でこう付け加えた。

    ◇ ◇ ◇

     東京副都心のやや外れにあるシティホテル『ホテル・ブラックスワン』。格付けとしては一流に届かず、然りとて二流のレッテルを貼るのは気が引けるという手頃な高級感があるホテルだ。なおベルギーやスペインの『ブラックスワンホテル』とは、特に関係は無い。
     一般どころか諜報関係者にも知られていない事実だが、このホテルは四葉家の実質的支配下にあり、黒羽くろば家の拠点の一つになっていた。黒羽くろば家はここに獲物を誘き寄せて情報を抜き取ったり、下請け・・・との打ち合わせに使ったりしている。
     文弥ふみや有希ゆきのチームに集まるよう命じたのもこのホテルだ。指定された時刻は午後八時。有希ゆき奈穂なおはその十分前にホテルに着いた。日常生活はだらしない有希ゆきだが、仕事に遅れたことはない。彼女は自分の仕事の厳しさを己の経験から思い知っていた。
     ホテルのロビーにはチームのメンバーである若宮わかみやが待っていた。
     若宮わかみや刃鉄はがね、コードネーム『リッパー』。有希ゆきより三歳上の、中肉中背の男性である。一時期スキンヘッドにしていたが、目立ちすぎるという理由で今では髪をありふれたスポーツ刈りにしている。
     また以前は如何にも「その筋の者」という雰囲気を漂わせていた鋭い容貌だったが、今の彼は、少なくとも他人から見た限り、僧侶のような落ち着いた佇まいを身に着けていた。
     有希ゆきが声を掛ける前に、若宮わかみや有希ゆき奈穂なおへ顔を向けた。
    「よう、早いな」
     歩み寄ってくる若宮わかみやに、有希ゆきが軽く手を上げて話し掛ける。
    「クロコはまだか?」
     若宮わかみやの返事を待たず、有希ゆきは足を止めた彼に問い掛けた。
    「まだだ。――いや」
     若宮わかみやが答えた直後、ロビーに背が高めである以外は特徴らしい特徴が無い壮年の男性が入ってきた。
    「来たか」
     その男を見て有希ゆきが呟く。彼こそが、たった今話題にしていた『クロコ』。有希ゆきの最も付き合いが長い相棒で、本名は鰐塚わにづか単馬たんば。コードネームの『クロコ』は鰐塚わにづかの鰐=クロコダイルの略であると同時に裏方「黒子」の意味でもある。
     なお奈穂なおのコードネームは『シェル』。これは彼女の得意魔法から付けたもので、「貝殻」や「外殻」ではなく「弾丸」を意味している。
     そして有希ゆきのコードネームは『ナッツ』。有希ゆきの苗字、はしばみからセイヨウハシバミ=ヘーゼルナッツの連想ゲーム的な命名であると同時に、「いかれている」という意味でもあった。
    「すみません、待たせてしまいましたか?」
     謝罪する鰐塚わにづか若宮わかみやは「いや」と小さく首を振り、有希ゆきは「まだ時間前だ」と答えた。
    「全員揃ったことですし、参りましょうか」
     そして有希ゆきの横に控えていた奈穂なおが、ニコニコ笑いながら他の三人を促した。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきがこのホテルに呼び出されるのはこれが初めてではない。むしろ結構な頻度で呼び出されている。部屋も毎回同じ。三階の小会議室だ。
     四人がその会議室の前に着くと同時に、中からスーツ姿の若い女性が出てきた。有希ゆきたちはその女性のことを知らなかったが、向こうは有希ゆきたちのことを知っていた。
     その証拠に彼女は誰かと問うこともなく、開けた扉を手で押さえて四人の先頭にいた有希ゆきに「中でお待ちください」と話し掛けた。やはり彼女は文弥ふみやの部下なのだろう。
     会議室の中には三十歳前後と思われる、ホテルの制服を着た女性が一人。ホテルスタッフの格好をしているが、彼女も黒羽くろば家の手下・・に違いない。そうでなければ、今ここにいるはずがなかった。
     スタッフの女性に勧められて有希ゆきは三人掛けソファの中央に腰を下ろした。続いてその両隣に若宮わかみや鰐塚わにづかが腰を下ろす。奈穂なお鰐塚わにづかの横に立ったままだ。これは毎回のことだった。
     何時もの黒服たちの姿は見えなかった。だが何時でも飛び込んでこられるよう、何処かに隠れているに違いない。自分たちは一応文弥ふみやの身内だが、だからといって警戒を怠ることはあり得ない。黒羽くろば家はそんな甘い連中ではないと、有希ゆきは知っていた。
     午後八時ちょうど。文弥ふみやが供を一人連れて会議室にやってきた。まるで扉の外でタイミングを計っていたかのように、予定ピッタリの時間だ。
     供に連れている男性は有希ゆきたち四人にも馴染みの人物だった。
     中肉中背、二枚目なのに印象が薄く記憶に残らない容姿。こうして目の当たりにしていれば誰だか見分けられるが、別れた後に似顔絵を描けと言われると困惑してしまう。文弥ふみやの側近、黒川くろかわ白羽しらははそんな外見の持ち主だった。
     文弥ふみやの姿を見て、若宮わかみや鰐塚わにづかが立ち上がり挨拶をする。奈穂なおは彼らに合わせてお辞儀をした。
     だが有希ゆきは座ったままだ。これも、毎回のこと。
     文弥ふみやはそれを咎めず、有希ゆきの向かい側に座り足を組んだ。その膝の上に緩く組み合わせた両手を置く。ドラマで「悪の貴公子」役が演じるようなポーズだが、文弥ふみやのそれは様になっていた。黒川くろかわは腰を下ろさず文弥ふみやの斜め後ろに立った。
    「揃っているね。じゃあ早速」「ちょっと待った」
     早速仕事の話を、と言い掛けた文弥ふみや有希ゆきが遮った。
    「お前……文弥ふみやだよな?」
    「妙なことを言うんだね、有希ゆき。他の誰に見えると?」
    「ヤミじゃねえよな……?」
     有希ゆきが戸惑っている原因は、文弥ふみやの服装にあった。裾の長いルーズフィットのセーターにスキニーパンツ。着ている者が男であるという先入観が無ければ、チュニックニットかミニのニットワンピースにレギンスを組み合わせたようにも見える。
     文弥ふみやは今、特にメイクをしていない。だがこのまま女子トイレに入っても、咎められることはないと思われた。
    「変装はしていないよ。……ちょうど良い機会だから君たちの意見も聞かせてもらおうかな」
    「……何でしょうか」
     鰐塚わにづかの声には警戒感が滲んでいた。
     若宮わかみやも訝しげな目を文弥ふみやに向けている。
    「僕がメンズの、所謂大学生ファッションを着ると悪目立ちするとある人から言われたんだ。どう思う?」
    「…………」「…………」「…………」「…………」
    「怒らないし、君たちの不利益になるような真似はしないから、正直に答えて欲しい」
     そう言われても、気軽に答えられるような間柄ではない。
     また、正直に答えられるような内容の質問でもなかった。
     有希ゆきでさえも答えない、その沈黙を文弥ふみやは回答だと解釈した。多分それは、間違いではない。
    「……そうか」
     文弥ふみやの声には隠し切れない落胆がこもっていた。
     それを放っておけないと感じたのだろう。
    「悪目立ちというのは良く分かりませんが、目立つのは確かだと思います」
     若宮わかみやが真面目な口調で文弥ふみやに告げた。
    「し、失礼ですが、文弥ふみやさまのお顔立ちは綺麗すぎると思うんです!」
     焦った口調で奈穂なおがフォローしようとした相手は、文弥ふみやなのか、若宮わかみやなのか。
    「そうかな? 深雪みゆきさんやリーナに比べれば大したことないと思うけど」
     首を傾げる文弥ふみや。だが容姿の比較対象として深雪みゆきとリーナを持ち出すのは、どう考えても適当ではない。
    「そのお二人は別格ですよ……」
     奈穂なおのツッコミは、本気の呆れ声だ。
    「……それもそうか」
     ツッコミを入れられた文弥ふみやも、納得するしかないという表情だった。
    「でも、……いや」
    「?」「?」
     文弥ふみやの不自然なセリフの中断に、奈穂なおだけでなく有希ゆきも頭上に疑問符を浮かべる。
     文弥ふみやが新たな比較対象として例に挙げようとしたのは九島光宣だった。しかしそれは、言葉にならない。光宣に自分が劣っていると口にするのは、たとえ顔の美醜のことであっても文弥ふみやには抵抗があったのだ。
    「……普段からそういう格好の方が、素顔を隠しやすいんじゃないか?」
     有希ゆきのセリフは明らかにフォローの為のものだったが、彼女的には、いい加減なものではなかった。
    「少なくとも男物のスーツを着て化粧をしているより、ジェンダーレスファッションでメイクをしている方が自然だぜ」
     文弥ふみやが目を見開いて有希ゆきの顔をまじまじと見詰めた。
    「な、何だよ」
     居心地悪そうに身動ぎする有希ゆき
    「ああ、いや……」
     文弥ふみやは一つ瞬きをして有希ゆきから視線を外した。わずかに下を向き組んだ足の上に置かれた自分の両手に目を向ける。
    「なる程ね……そういう考え方もあるのか」
     それは文弥ふみやにとって新しい視点だったのか、彼はしばしの間、考え込んだ。
    「……すまない。無駄話で余計な時間を取らせたね」
     改めて有希ゆきたちへ目を向けた文弥ふみやは、完全に意識を切り替え黒羽くろば家次期当主の顔をしていた。
    「今回の仕事は暗殺と言うよりハンティングだ」
    「ハンティングと仰いますと、ターゲットの捜索が含まれるということですか?」
     文弥ふみやのセリフに鰐塚わにづかが質問を返す。
    「ターゲットの発見が第一段階になるのは、そのとおり。だけど鰐塚わにづかが考えていることとは、おそらく違う」
    「隠れている的を探し出して仕留めるのではないと?」
    「隠れてはいるだろうね。ただし、特定の標的を探すのではなく、条件に当てはまる相手を排除して欲しい」
    「不特定多数相手の殺しか?」
     ここで有希ゆきが口を挿んだ。
    「多数と言うほど多くはないと思う」
    「その条件とやらを言えよ」
     有希ゆきの急き立てるような質問に、文弥ふみやは薄らと笑った。
     次の瞬間、有希ゆきの背筋に悪寒が走った。ただしそれは文弥ふみやの笑みが酷薄なものだったからではなく、その笑みが嫌な予感をもたらしたからだった。
    達也たつやさんを狙う連中を仕留めて欲しい」
    「……あの人・・・を狙う? そんなバカな連中がまだいたのか?」
     有希ゆきは自分の予感が間違っていなかったと確信した。有希ゆきは同様の依頼――司波しば達也たつや暗殺を目論む者たちを逆に暗殺するという仕事を、過去に何件か請け負っている。
     それらの依頼は、どれもこれも一筋縄では行かないものだった。純粋に相手が手強かった案件もあれば、有希ゆきが相手の罠にはまってしまった案件、暗殺自体は簡単だったが酷く後味の悪い結末を迎えた案件もあった。
     何より質が悪いのは、司波しば達也たつやの暗殺阻止というこの仕事が本質的に無意味だという点だ。
    「あの人」の暗殺など、成功するはずがない。有希ゆき自身、かつて一度「あの人」の暗殺に挑んだことがある。そして、惨めに失敗した。
     ――あれは、殺し屋の手に負える代物ではない。
     ――あれは、人の手が届くもの・・ではない。
     ――あれは、正真正銘の化け物だ。
     それが、有希ゆきの実感だった。
     最近は「あの人」絡みの仕事が来なくなって有希ゆきは正直ホッとしていたのだが、残念ながらまだ縁は切れていなかった。
    「今のところ実働部隊は広域暴力団の末端組織だ」
    「どうせ背後に大物が控えているんだろ」
     有希ゆきの口調は早くも投げ遣りだ。彼女は「今回も大変な仕事になる」と、既に達観していた。
    「大物かどうかは人によって意見が分かれると思う」
    「勿体振るなよ」
     有希ゆきが軽い苛立ちを見せる。
    「現在判明しているのはロシア系マフィアとイタリア系マフィア。両者が手を組んでいるかどうかはまだ調査中だ」
     文弥ふみやは「勿体振っている呼ばわりは心外だ」という表情ですぐに答えを返した。
    「そういう言い方をするってことは、手を組んでる可能性が高いんだろ」
     決めつける有希ゆき
     彼女がそのセリフを完全に言い終える前に、鰐塚わにづかが「マフィア・ブラトヴァ?」と呟いた。
    「クロコ、何か言ったか?」
    鰐塚わにづか。マフィア……何だって?」
     前者が有希ゆき。後者が文弥ふみや
     鰐塚わにづかは一瞬、二人に何を訊かれているのか分からないような表情を見せる。
     だが彼はすぐに、自分が独り言ちていたことに気付いた。
    「……マフィア・ブラトヴァ、私たち情報屋の間で囁かれている噂の一つです」
    「マフィア・ブ、ブラ、ブラトヴァ? 何だそりゃ?」
    「ブラトヴァ」が口に馴染まなかったのか、有希ゆきは噛みながら問いを重ねた。
    「ロシアンマフィアとシシリアンマフィアが上の方でつながっているという噂があるんですよ。そのシンジケートの名がマフィア・ブラトヴァです。正式な名称なのか通り名のようなものなのかは分かりませんが」
    「マフィアってのは血縁とか地縁とかを重視するんだろ? ロシアとイタリアが手を組むなんてあり得るのか?」
     有希ゆきが納得できないという顔で反論する。
    「情報屋の間でも、その点が疑問視されていました。ですが今のあの人・・・・・を暗殺しようなんて大
    それたことを実行しようとしているんです。それくらいのバックがいなければ、そちらの方が不思議ですよ」
    「……まあ、それはそうかもしれないが」
     達也たつやの暗殺を企てるのがどれほど無謀なことなのか、有希ゆきは身に染みて知っていた。だから彼女は、鰐塚わにづかの根拠とも言えない理屈に思わず納得してしまう。
    「それでは足りない」
     だが文弥ふみやは納得しなかった。
    達也たつやさんの暗殺などという暴挙を請け負ったのは、背後に大規模な犯罪シンジケートが控えているから、というのは間違っていないだろう。だがそもそも達也たつやさんを暗殺しようなどと考えてそれを実行に移すのは、たかが国際犯罪結社ごときが決断できることじゃない」
    「マフィア・ブラトヴァのバックにはさらに大物が控えていると?」
     この鰐塚わにづかの反問に、
    「相当な財力を持つスポンサーが付いていると思う」
     文弥ふみやは「財力」という限定付きで肯定の回答を返した。
    「我々に対するご依頼に、そのスポンサーは含まれますか?」
     こう訊ねたのは若宮わかみやだ。
    「いや、君たちに掃除・・してもらいたいのは実行部隊だけだ」
     文弥ふみやはその問い掛けに頭を振り、「対象は国内に限られる」と付け加えた。
    「何だ、経費で海外旅行させてもらえるわけじゃねえのか」
    「シベリアに骨を埋めても良いなら旅費くらい負担してあげるけど?」
     有希ゆき文弥ふみやが軽口を応酬する。――奈穂なおは横で聞いていて「笑えない」と思っていたが。
     少しも和まなかった空気を気にする素振りもなく、文弥ふみや黒川くろかわに向かって「あれを」と指示した。
     黒川くろかわは何時の間にか手に持っていたデータケーブル内蔵型の携帯端末からケーブルを引き出し、その端子を鰐塚わにづかに差し出した。
     鰐塚わにづかはすぐにその意図を察した。自分の携帯端末を取り出し、一言黒川くろかわに断ってからケーブルを端末につなぐ。
    「良いですか?」
    「どうぞ」
     黒川くろかわの問い掛けに鰐塚わにづかが頷く。黒川くろかわが自分の端末を操作し、データ転送が始まった。
     データ転送に有線接続を使う第一の目的は盗聴対策だが、転送速度も若干上がる。無線技術と同様にケーブルの性能も上がっているからだ。転送は五秒も掛からずに完了した。
    「今渡したのは、この件でこれまでに確保した者とその所属組織の情報だ。返り討ちにした実行犯だけでなく、周囲を嗅ぎ回っていた連中も含まれている」
     鰐塚わにづかがケーブルを外している最中に文弥ふみやは、転送したデータの中身を説明した。
    「まずそこから潰せば良いのですね?」
     若宮わかみやの質問に、文弥ふみやは「いや」と首を横に振った。
    「そいつらの始末は別に手配している。君たちは新顔に対応してくれ」
     そしてこう言い添える。
    「護衛じゃないんだよな?」
     今度は有希ゆきが質問した。
    「言っただろう。君たちの仕事は狩りだ」
    「のこのこやられにやって来たチンピラのバックを突き止めて潰せ、ってことか」
    「そういうことだ」
     文弥ふみやが、今度こそ頷く。
    「準備が調い次第、取り掛かってくれ」
     そして、言わずもがなの指示を付け加えた。

    ◇ ◇ ◇

    「段取りはどうする? このままあたしのマンションで打ち合わせるか?」
     文弥ふみやを送り出した会議室で、有希ゆきが他の三人にこれからのことを訊ねる。
     若宮わかみやがチームに加わった後、有希ゆきは3LDKの部屋に引っ越した。住人は有希ゆき奈穂なおの二人なので住むだけなら2LDKか、いっそ2DKで十分なのだが、チームのメンバーが増えて打ち合わせをする為の部屋が必要になったのだ。
    「もらったデータを精査したいので、一晩もらえますか? そうですね……、明日の午後一番でどうです?」
     鰐塚わにづか有希ゆきの問い掛けに対して、遠慮の無い口調で答えを返した。
    「俺も目を通しておきたい。データをもらえるか」
     若宮わかみや鰐塚わにづかに同調する。
    「いいぜ。じゃあ、ここで解散だな」
     自前のケーブルを端末につないでいる鰐塚わにづかに、有希ゆきは背を向けて片手を軽く振った。
     そのまま会議室の出口へ足を進める。
     有希ゆきの背中に続いた奈穂なおが扉の手前で振り返って、ぺこりとお辞儀をしながら「失礼します。おやすみなさい」と律儀に挨拶を告げた。

    ◇ ◇ ◇

     翌日の昼過ぎ、有希ゆきの部屋に集まった四人は三者三様に悩ましげな表情を浮かべていた。
    「……やはりあの人・・・の了解を得る必要があると思いますよ」
     鰐塚わにづかが諦観のたっぷりこもった声音で沈黙を破る。
    「……文弥ふみやから話を通してもらうだけじゃダメなのか……?」
     有希ゆきが悩ましげに、と言うより苦しげに反論する。単に嫌がっているというレベルを超えた、宗教的な禁忌に触れる恐れに似た忌避感が彼女のセリフから溢れ出ていた。
    「敵と誤認されるのは避けたい。顔見知りだからと手心を加えてくれる方ではないだろう」
     若宮わかみやの口調は自分自身に言い聞かせるようなものだった。
    有希ゆきさんが苦手意識を持つのは分かりますけど、もう時効だと思いますよ。達也たつやさまは昔のことを何時までも引きずる方ではありませんって」
     最も悩み具合が軽かった奈穂なお有希ゆきに慰めの言葉を掛けた。――ただしそれが、気休めでないという保証は無い。
    「そうかぁ? むしろ忘れるとか許すとかとは、無縁な人な気がするんだが」
     言われた有希ゆきには、気休めとしか思えなかった模様。
     彼女は以前、誤って――催眠術で操られて達也たつやに刃を向けた際、「次に姿を見せれば消す」と念を押されている。事実は少し違うのだが有希ゆきの心にはそういう風に捻じ曲がった記憶が、避けられぬ死の予感と共に刻み込まれていた。
     彼女も理性では、顔を見せただけでいきなり消されることはないと分かっている。だが有希ゆきが懐いている、達也たつやに対する忌避感は理屈ではなかった。それは生存本能が命じる、逃避衝動にも等しいものだった。
    「ナッツ。今回の仕事にあの人の監視が不可欠だということは理解していますよね?」
     鰐塚わにづかの問い掛けに、有希ゆきは不承不承頷いた。
    「では、あの人に尾行を気付かれない自信がありますか?」
    「……ねえよ」
     有希ゆきは嫌々、仕方無く、不本意感丸出しでこれも認めた。
    「ならばやはり、挨拶・・は必要です。我々の、身の安全の為にも」
     この時、鰐塚わにづかは目が据わっていた。「身の安全の為」という彼のセリフは百パーセント本気だった。
    「……分かったよ」
     有希ゆきはようやく、覚悟を決めた声音と不貞腐れた顔で頷いた。
    「クロコ。挨拶のセッティングは任せても良いか?」
    「任されました」
     頷く鰐塚わにづかを見て、いよいよ達也たつやとの「挨拶」が避けられないと実感した有希ゆきの表情は、一層渋いものになった。

    ◇ ◇ ◇

     その日の夜、鰐塚わにづか文弥ふみやに呼び出されて二日連続で『ホテル・ブラックスワン』を訪れていた。彼は有希ゆきも連れてこようとしたのだが、彼女は今回に限って決して首を縦に振ろうとしなかった。
    「……達也たつやさんを襲撃しようとする相手を捕らえて背後関係を突き止めるという方針は理解した。僕もそれで良いと思う」
     鰐塚わにづか文弥ふみやに説明したプランは、敵の襲撃が予想される場所と状況に網を張って暗殺の実行部隊を捕らえ、背後に潜む者を狩り出していくというオーソドックスなものだった。
    「ありがとうございます。つきましては、あの方の登下校及び通勤時に尾行させていただくご許可と、あの方がお勤めのFLTに潜入する伝手を頂戴したいのですが」
     鰐塚わにづかは具体的な作戦の前提として、達也たつやが襲撃される幾つかのシチュエーションを想定した。巳焼島との往復中、魔法大学の通学路、魔法大学構内、FLTとの往復路、FLT内部、財界人との面談の場、この六通りだ。
     その内、巳焼島との往復にはVTOLを使用しているから鰐塚わにづかたちには手の出しようがない。魔法大学の構内は警備が厳重で、仮に暗殺者を発見しても捕まえておく場所が無いので除外。財界人との面談の場も同じ理由で作戦上は無視することにしている。
     鰐塚わにづかは残る三つのシチュエーションについて、文弥ふみやの協力と口添えを依頼したのだった。
    達也たつやさんはFLTに勤めてるわけじゃないけど……リクエストは了解した。明日、達也たつやさんのご意向をうかがってからの回答になるが、おそらく大丈夫だろう」
    「ご承諾をいただけたなら、チーム全員であの方に直接ご挨拶したいのですが」
    「そうだな……。確かにその方が良いだろう」
    「よろしくお願いします」
     鰐塚わにづか文弥ふみやに畏まった表情で頭を下げる。顔は緩んでいない。だが鰐塚わにづかは顔の表情以外から漏れ出す雰囲気で、肩の荷が下りたという安堵感を隠せていなかった。

    ◇ ◇ ◇

     翌日、文弥ふみやは巳焼島を訪れた。
     朝食後、達也たつやに「会って相談したいことがある」旨のメールを送ったら、「巳焼島で会う」という回答があったのだ。
     亜夜子あやこは今日も深雪みゆき、リーナと三人でお出掛けだ。以前の深雪みゆき亜夜子あやこは、決して一緒に遊び回るような間柄ではなかった。二人の間には微妙な緊張感が存在していた。
     文弥ふみやが見たところ、それは今も消えていない。しかしそれはそれとして、女性には女性同士の付き合いというものがあるのだろう。あるいは、ご近所付き合いの延長なのかもしれない。――単に、表面的に付き合う分には楽しいだけという可能性もある。
     文弥ふみやとしては、本当は亜夜子あやこに同席して欲しかった。いや、この言い方では誤解を招くかもしれない。文弥ふみやは相談内容の性質上、本当は亜夜子あやこも同席すべきだと考えた。
     達也たつやに対する攻撃は今や四葉家に対する攻撃と同義であり、これに対処するのは四葉家の諜報部門である黒羽くろば家の責務だからだ。少なくとも文弥ふみやはそう確信している。
     黒羽くろば家当主である彼の父親は、異なる考えを持っているのかもしれないが。
     巳焼島では今、恒星炉プラントの建設が急ピッチで進んでいた。恒星炉は実験段階をクリアして、既に部分的な商用運転段階に移行している。現在、達也たつやはその一層の効率化を目指して、主に人造レリックの改良に注力していた。
     そんなわけで達也たつやは多忙だ。しかし、研究所に到着した文弥ふみやはすぐに達也たつやの許へ通された。どうやら文弥ふみやの到着予定に合わせて、時間を取っておいてくれたようだ。
     達也たつやは研究所内に置かれた喫茶室にいた。室内に他の人影は無い。元々利用者が少ないのか、文弥ふみやの為に貸し切りにしてくれたのか。
     多分後者だろうと考えた文弥ふみやは、待ち時間が無かった――自分の為に時間を空けていてくれたことと合わせて、恐縮しながら達也たつやの正面に腰を下ろした。
     時間を割いてくれたことに対する御礼という型どおりの挨拶を文弥ふみやが述べた後、達也たつやが早速用件を訊ねる。文弥ふみやも今日は世間話をするつもりではなかったので、すぐに鰐塚わにづかの要望を伝えた。
    「分かった。厚意はありがたく受け取らせてもらう。暗殺者の始末は文弥ふみやに任せよう」
    「はい! お任せください!」
    「配下の者との顔合わせは俺の方からも頼みたい。早速だが、明日の晩でも構わないか?」
    「構いません。こちらで都合を合わせさせます」
    「場所は……そうだな。あまり同じ場所ばかり使うのもまずいだろう。四方八方亭は知っているな?」
    「南青山の料亭ですね。僕の方で部屋を押さえておきます」
     四方八方亭は文弥ふみやが言ったとおり南青山にある料亭で、ホテル・ブラックスワンと同様に四葉家の実質的な支配下にある。四葉家の関係者だけでなく政治家も密談に利用しており、黒羽くろば家にとっては重要な情報収集拠点の一つだった。
    「そうか。では、頼む」
     このような事情から、今の段階では・・・・・・おそらく文弥ふみやの方が達也たつやよりも四方八方亭に対して顔が利く。達也たつやは一瞬でそう結論し、文弥ふみやに予約手続きを譲った。
    「はい! 時間は如何いたしましょうか?」
    「八時半にしよう」
     達也たつやが指定したのは言うまでもなく夜の八時半で、文弥ふみやはそんな分かり切ったことを問い返さなかった。笑顔で「かしこまりました」と頭を下げる文弥ふみやは、良くできた女性秘書か、然もなくば有能なメイドのようだった。

    ◇ ◇ ◇

     三月二十四日、夜。
     有希ゆきたち四人は南青山の某裏通りにある料亭を訪れていた。
     畳の部屋に不慣れなのだろう。有希ゆきは座布団の上でモゾモゾしている。
     若宮わかみやは正座こそ苦にならないようだが、やはり落ち着かない様子だ。
     鰐塚わにづかは情報屋として様々な場所に出入りしているからか、表面上は平然としていた。
     意外だったのは奈穂なおで、彼女が一番高級料亭の雰囲気に溶け込んでいた。
     そんな状態で待つこと三十分弱。
     文弥ふみや達也たつやを伴って、時間どおり・・・・・に現れた。
     達也たつやに続いて文弥ふみやが着座する。
     二人とも、正座に慣れている座り方だ。特に達也たつやは堂々として、かつ隙の無い姿だった。
    「既に達也たつやさんがご存じの者もいるけど、改めて自己紹介をしてもらおうか」
     腰を落ち着けた文弥ふみやの、第一声。彼は挨拶でも労いでもなく、達也たつやに対し礼を尽くすことを有希ゆきたちに要求した。
     誰も反感は懐かなかった。鰐塚わにづか奈穂なおは最初からこの程度で反発を覚える性格ではなかったし、有希ゆき若宮わかみやはそれどころではなかった。生き死にを何度もくぐり抜けてきた二人は、全身に力を入れて逃走衝動を懸命に抑え込んでいた。
     有希ゆきは心の中で悪態を吐いた。――こいつ、ますますヤバくなってるじゃねえか、と。
     若宮わかみやは心の中で呻いていた。――この男は本当に人間なのか、と。
     二人を圧迫しているのは、避けられない死の予感。
     達也たつやは殺気を放っていない。彼はただ、そこにいるだけだ。
     有希ゆき若宮わかみやが感じているのは、絶対的な戦力差。相手がその気になれば、自分たちは抵抗すらまともにできないだろうという実感。生殺与奪の権を眼前の存在に握られているという確信。
    「では最年長の私から……」
     鰐塚わにづかが先陣を切ると同時に、有希ゆき若宮わかみやは同時にこっそり息を吐いた。達也たつやの目が鰐塚わにづかへ向いたことで、身体を縛り上げる緊張から解放されたのだ。
     自分たちが独り相撲を取っていたということに、二人は気付いていなかった。
     彼女たちは勝手に達也たつやとの戦いをシミュレーションして、その結果得られた死の幻影に怯えていただけだった。
     鰐塚わにづかの自己紹介が終わり若宮わかみやの番になる。達也たつやに目を向けられても、つい先程のような緊張を若宮わかみやは覚えなかった。それは有希ゆきも同様だ。嫌々名乗っている最中、達也たつやの視線を浴びても、有希ゆきは最早絶望に囚われなかった。
     有希ゆき若宮わかみやも、仮定の世界においてすら、達也たつやに抗うことを放棄したのだった。

     こうして有希ゆきたち四人と、達也たつやの顔合わせは終わった。
     鰐塚わにづかが説明した暗殺者迎撃プランに、達也たつやは鷹揚な態度で許可を出した。
     ただしそこには「明後日から」という条件が付いていた。

    【幕間】

     二〇九九年三月二十五日、午前十時。
    「そろそろ出掛けようか」
     達也たつやが部屋の扉をノックしながら深雪みゆきに呼び掛ける。
     すぐにドアは開いた。
    「かしこまりました」
     嬉しそうに応える深雪みゆきの装いは、春らしい色合いの上品なワンピースだ。このまま三つ星ホテルで催されるパーティーに出席できそうな装いだが、ドレスというほど格式張ってはいない。柔らかなキャペリン(ガーデンハット)が良い塩梅のアクセントになっている。街着としてもおかしくない、絶妙のラインに収まっていた。
     今日は深雪みゆきの、十代最後の誕生日だ。達也たつやは仕事を休んで、これから深雪みゆきを遊びに連れて行くところだった。
    「どう、タツヤ? 惚れ直した?」
     深雪みゆきの後ろからリーナが顔を出す。彼女は侍女よろしく、深雪みゆきの支度を手伝っていたのだった。自分のオシャレには結構無頓着なところがあるリーナだが、深雪みゆきを飾り立てるのは楽しいようだ。「お人形遊び」の延長のようなものだろうか。
    「そうだな、とても魅力的だ」
     達也たつやは臆面もなく、少しも躊躇わずに、真顔で応えた。
    「あらあら……。平常運転ね」
     呆れ顔ながらも嬉しそうなリーナ。
     深雪みゆきは頬を赤らめ、少し恥ずかしそうに「ありがとうございます……」と小声で囁いた。
     玄関で靴を履き終えた深雪みゆき達也たつやが左腕を差し出す。
     深雪みゆきは手をつなぐのではなく、腕を絡めた。
     絡めた腕を抱え込むような格好で深雪みゆきがピッタリと身を寄せる。
     達也たつやはそのままの体勢でリーナへと振り返った。
    「後はよろしく頼む」
    「ええ、任せて。――行ってらっしゃい。好い一日を!Have a naice day!
     ニッコリ笑ったリーナに見送られて、達也たつや深雪みゆきとのデートに出掛けた。

    ◇ ◇ ◇

    「さて、と……」
     達也たつや深雪みゆきを見送ったリーナは、やけに気合いの入った笑みを浮かべた。
    (ワタシもさっさと準備をして出掛けなければ、ね)
     リーナは心の中で呟き、自分の部屋に戻った。

     リーナの自宅は達也たつや深雪みゆきの自宅と同じビルの同じフロア。行き来に掛かる時間はゼロ分だ。彼女は自分の部屋でスポーティな服に着替え、日本の法に触れない隠し武器を取り出してウエストポーチに詰める。
     そのタイミングでドアホンの呼出音が鳴った。リーナの顔に意外感は浮かばなかった。ポーチを腰に巻きながら、音声操作で「はい、どなた?」と応答する。「はい」が応答ボタンの代わりで「どなた?」が返答だ。
    花菱はなびしです』
    「今開けるわ」
     その言葉どおりリーナは玄関に急ぎ足で向かい、ドアカメラのモニターをチラッと見ただけで靴を履いて扉を開けた。
    「おはようございます、リーナお嬢様。本日もご機嫌麗しく……」
    「行くわよ」
     兵庫ひょうごの挨拶を遮って、リーナが玄関から外に出る。扉が閉まり、自動的に施錠された。
    「かしこまりました」
     兵庫ひょうごは中断させられた口上に拘らず、リーナに一礼する。
     その時には既に、リーナはエレベーターに向かっていた。

     地下駐車場に向かうエレベーターの中で、リーナが兵庫ひょうごに「準備はOK?」と訊ねた。
    「もちろんでございます。お二方のご利用予定ルートには手の者を配置済みです」
    「そう。タツヤに気付かれないのは無理でしょうけど、ミユキには覚られていないわよね?」
    「その点については厳重に申し付けております」
     兵庫ひょうごの答えに、リーナは「結構よ」と取り敢えずの納得を示した。
     その直後、エレベーターが停止しドアが開く。
     エレベーターホールを出てすぐの所に、何本ものアンテナにパラボラアンテナまで備えた中継車のような大型のボックスワゴンが停まっていた。リーナが一瞬戸惑った表情を見せたのは、三年前、彼女が初来日した際に作戦で使った指揮車と外見がそっくりだったからだ。
     しかしリーナの足が止まったのは、一瞬と言って良い短い時間だった。彼女は兵庫ひょうごに促される前に、自分でドアを開けてボックスワゴンに乗り込んだ。
     車内は、外から見た印象を裏切らなかった。シートは二列。後ろ半分は情報機器で埋まっている。後列のシートは前列との間隔が広く取られており、ラップトップのコンソールで車載機器を操作できるようになっている。
     この点は三年前の作戦で使った指揮車より効率化されているな、とリーナは思った。ただし定員は運転手を含めてわずか四名。人員の輸送は考えず指揮管制に特化したレイアウトだ。
     後列の奥に座ったリーナは、ドアポケットから通信機のヘッドセットを取り出して頭に装着した。そしてすぐに、バンドに組み込まれている通信機のリモートスイッチを入れる。
    「総員に告げる」
     リーナは慣れた口調でマイクに向かって話し始めた。
    「今回のミッションは、知ってのとおり――」
     ボックスワゴンが発進したが、それで彼女の口調が乱れることはなかった。
    「――今日一日、タツヤとミユキの邪魔をする者を徹底排除するのが目的だ。相手が何者だろうと、今日は二人の邪魔を許してはならない。……残念ながら」
     ここでリーナが声のトーンを落とす。
    「タツヤに気付かれずミッションを遂行するのは不可能だろう。だが――」
     そしてもう一度、彼女は声を張り上げた。
    「ミユキには、我々の介入を気取らせてはならない。困難な任務だが、各員の全身全霊を以て遂行されたい。諸兄の奮闘に期待する」
     まるでスターズ総隊長時代に戻ったような、もしかしたらあの当時よりも引き締まった表情で発破を掛けるリーナ。
     ヘッドセットのスピーカーから彼女の激励に応える声が届いた。
    「お疲れ様です」
     そして隣席の兵庫ひょうごは、彼女に労いの言葉を掛けた。

    ◇ ◇ ◇

     予約していたレストランの個室でランチを済ませた後、達也たつや深雪みゆきをジュエリーショップへ連れて行った。誰もが知っているような高級ブランドの路面店だ。
     達也たつや深雪みゆきの腰に手を回して、ショーケースの前に誘導した。達也たつやが真っ直ぐに向かったそこは、大粒のダイヤモンドを使った指輪のカウンターケースだった。
    「気に入ったデザインを選んでくれ」
    「買ってくださるのですか……?」
     深雪みゆきの声には「誕生日プレゼントにしては高価すぎるのではないか」という疑問が込められている。
    「単なる誕生日プレゼントではない」
     達也たつや深雪みゆきが口にしなかった疑問を正確に理解した。
    「エンゲージリングだ。ずいぶんな遅刻だが、受け取って欲しい」
     カウンターの向こうで深雪みゆきの美貌に放心していた女性店員が、我に返って「まあっ!」と控えめに声を上げる。
     深雪みゆきは口元をほころばせ、頬を少しだけ赤く染めながら、同時に訝しげな表情を浮かべた。
    「婚約の指輪は既に頂戴しておりますが……?」
     遠慮がちに深雪みゆきが事実に言及する。
    「勘違いではないか」と指摘された格好だが、達也たつやに動揺は無かった。彼の表情は「想定内」と語っていた。
    「あれは叔母上が選んだ物だ。謂わば四葉家としての婚約指輪。今日は俺がお前にエンゲージリングを贈りたい」
     店員の顔に一瞬、驚愕と緊張が走ったのは、四葉家のことを知っていたからだろう。もしかしたら四葉家の名前で一時期ニュースを騒がせた達也たつやのことを思い出したのかもしれない。
     ただその表情は一瞬で消えた。さすがは高級ブランドの、最も高額な商品を取り扱うカウンターを任せられた店員だけのことはあると言えよう。
     一方、深雪みゆきの顔に表れた動揺は、一瞬では消えなかった。目を見張って硬直している彼女の頬は、今や鮮やかに紅潮していた。
     深雪みゆきが目を伏せ顔を俯かせて、静かに深く息をする。顔を上げた深雪みゆきは、淑女の笑みに内心の動揺と歓喜を隠していた。
    「――それでは、達也たつや様が選んでくださいませんか?」
    「分かった」
     これも想定内だったのか、達也たつやは慌てず、迷わず、ケースの中に展示されている大小のダイヤがバランス良く並んでいる指輪を指差した。特別に大粒の石ではないが、それが逆に宝石の自己主張を適度に抑え、清楚な印象になっている。
    「これを見せてもらえませんか」
    「かしこまりました」
     店員が満面の笑みを浮かべてケースから指輪を出す。
    「どうぞお試しください。お客様にはちょうど良いサイズだと思いますよ」
     そう言いながら、店員は深雪みゆきではなく達也たつやに白い手袋を渡した。
     達也たつやは戸惑うことなく手袋をはめて、右手で指輪を、左手で深雪みゆきの左手を持った。
     深雪みゆきが自分の左手を凝視する。
     その薬指に、達也たつやが右手に持つ指輪をはめた。
     深雪みゆきは左手を顔の前に持って行って、薬指にはまった指輪をうっとりと見詰めた。
    「気に入ってもらえただろうか?」
     達也たつや深雪みゆきに訊ねる。
     深雪みゆきは指輪から視線を離し、達也たつやの瞳を見上げて「はい」と答えた。
    「それは良かった」
     達也たつや深雪みゆきに向かって落ち着いた笑顔で頷き、店員に視線を転じた。
    「ではこの指輪をオーダーします」
     この指輪の値段は一千五百万円。このレベルの価格帯になると、サイズだけでなく指の形にピッタリ合うように指輪のアームその他を一から作るセミオーダーが現在の主流だ。値段はこの加工費を最初から含んでいる。
     店員の笑顔は達也たつやのそれとは対照的に落ち着きの無い、興奮を隠せていないものだった。
     店員は丁寧な手付きで深雪みゆきの手から指輪を抜き取り、柔らかな布を張ったトレーへ慎重に置いた。その上で達也たつやに「お支払いは如何いたしましょうか?」と訊ねる。その声は少し震えていた。
     彼女は若く見えるが、この仕事を十年以上続けているベテランだ。その彼女でも、一度の来店でこの金額の商品を即決する客というのは初めての経験だった。――なお達也たつやがこの店に来るのは確かに初めてだが、下調べはオンラインカタログや仮想店舗で十分に行っていた。彼も第一印象で指輪を選んだのではない。
    「こちらのカードで構いませんか?」
     そう言って達也たつやが取り出したのは、利用限度額無制限のクレジットカードだった。
    「はい……取り扱っております」
    「では一括払いで」
     店員の笑みが不自然に固まった。それでも彼女は口調を崩さず「かしこまりました」と答えてカードを受け取った。

     その後、指の計測やデザインのバリエーションその他の細かい説明、カードの照会と認証手続きなどで、店を出た時には入店から二時間近くが経過していた。
     もっともこの程度、達也たつやには織り込み済みの時間だった。店の外には既に達也たつやが呼んだタクシーが停まっていた。ロボットタクシーではなく高価な有人タクシーだ。二人はそのタクシーに乗って次のデートスポットへ向かった。

    ◇ ◇ ◇

    「ここが最後だったわね?」
     達也たつや深雪みゆきを高層ホテルに連れて入ったのを離れた所に停めた車の中から見て、リーナは隣席の兵庫ひょうごに訊ねた。
    「はい。こちらのレストランでディナーを召し上がってお帰りになるご予定です」
    「何とか気付かれずに済んだみたいね……」
     安堵の息とため息を同時に吐きながらリーナが漏らしたセリフを補足すると、「(ここまで)何とか(ミユキに)気付かれずに済んだみたいね」となる。
     ため息が混ざるのも無理はないだろう。リーナは約半日、むず痒さを堪えて、ついでに砂糖を吐きたくなるのを我慢して、達也たつや深雪みゆきのデートに付いて回ったのだ。しかも深雪みゆきに気付かれてはならないという条件付きだ。
    「疲れた……。心臓に悪いミッションだったわ……」
     シートに身体を預けてリーナはぐったりと全身の力を抜いた。遠足ではないが、今日のミッションは自宅に帰るまでが仕事。まだ完了したとは言えないのだが、兵庫ひょうごを含めて車内の誰も彼女の態度を咎めなかった。
     精神的な疲労は、大なり小なり彼らも同じだったからだ。
     彼らによる護衛は確かに、深雪みゆきには気付かれなかった。だが今日の深雪みゆきは最初から、達也たつや以外は視界に入らない状態だった。
     しかし、言うまでもなく達也たつやは違った。彼は護衛に気付いていただけでなく、自ら暗殺者を見付け出し、度々リーナや兵庫ひょうごたちに視線で指示を出していた。
     護衛対象が護衛に先んじて不審者に気付くというのは、ある意味で護衛の不甲斐なさに対するダメ出しだ。フィアンセをエスコートしている最中の人間にダメ出しを喰らうプレッシャーは、リーナたちの精神を酷く消耗させていた。
     達也たつやも普段であれば、味方を徒に疲弊させるような真似はしない。今日のデートには彼もそれだけ神経を尖らせていたということに違いなかった。