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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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夜の帳に闇は閃く
【1】闇夜の上京
午後八時過ぎ。調布にある四葉家東京本部ビルの屋上ヘリポートに小型の電動VTOLが着陸した。そのVTOLの床は、通常の小型機よりずっと低い。ヘリポートの床からの高さは、ピックアップトラックとほぼ同じだ。乗降にタラップは必要としない。
司波 達也 は自分でVTOLのドアを開けてヘリポートに降り立った。すぐ側ではパイロットを務めた執事の花菱 兵庫 が機内から荷物を下ろしていた。
達也 はふと、一ブロック離れて建つ中層ビルに目を向けた。六階建てのマンション。このビルは十階建てだから、見下ろす視線になる。
今日は二〇九九年三月十四日。日中、全国に九校ある国立魔法大学付属高校、通称『魔法科高校』で卒業式が行われた。達也 の再従兄弟である黒羽 姉弟も今日四高を卒業した。そしてあの二人は明日から、達也 が見ているマンションに住む予定になっている。
達也 が中層マンションを見ていたのは、ほんの短い時間だった。彼はすぐに兵庫 を引き連れてビルの中へ向かった。深雪 およびリーナと夕食を摂った後、達也 はビル内にある彼の研究室に向かった。
地下三階でエレベーターを降りる。
そのまま研究室に向かうのではなく、彼はエレベーターホールで足を止めた。そこに達也 の個人的な部下が片膝を突いて彼を待っていたからだ。
男の名は藤林大門。古式魔法の名門・藤林家の前当主の異母弟。
三年前、当時の藤林家当主・長正は甥である九島光宣の逃亡を助ける目的で達也 に騙し討ちを仕掛けた。藤林家として、この裏切りのけじめを付ける為に選ばれたのが大門だ。彼は達也 に――四葉家に、ではなく――臣従を誓った。以来、彼は達也 の私的な部下として働いている。
「何か」
「御身を狙う者がおりましたので始末致しました」
「ああ、それか」
今年に入ってから達也 の周りには度々、彼を害そうとする者が出没していた。去年の夏から達也 には様々な素性の監視の目が付き纏っていたが、今年に入ってから単に監視するだけでなく暗殺目当ての者が追加されていた。
「お気付きでしたか」
「朝、出掛ける時に見た。言うまでもないが、当局の連中に気付かれていないだろうな?」
達也 は大門の問い掛けに頷いた後、暗殺者を始末したことを自分を監視する当局の人間に覚られなかったかどうか訊ねた。
「抜かりはございません」
大門の淡々とした答えに、達也 は再び頷いた。
達也 の問い掛けは形式的なもので、最初から当局に尻尾を掴まれるような失態を大門が演じたとは考えていない。彼が達也 の配下になってから約一年間、その技量は藤林の名に恥じないものと分かっていた。
「身元は?」
達也 が暗殺者の素性を問う。
「広域暴力団の末端組織の構成員です。ただそれにしては不自然に高い技量の持ち主でした。背景をお調べしましょうか?」
「いや、それには及ばない。こちらが然るべく対処すれば、その内、向こうも諦めるだろう」
達也 の言う「然るべき対処」とはつまり、付き纏うだけならともかくそういう素振り を見せれば殺すということだ。
「今の対応を続けるということでございますね」
「それで頼む。万に一つも深雪に 危害が及ぶことがあってはならない」
「かしこまりました」
片膝を突いた体勢のまま恭しく頭を下げた大門をその場に残して、達也 は彼の個人研究室へ向かう歩みを再開した。◇ ◇ ◇
翌日の夕方。
文弥 と亜夜子 はこれからしばらく暮らすことになる、調布のマンションに到着した。四葉家東京本部ビルの隣のブロックに建つ中層マンションだ。実はこのマンションも、幾つかのファミリー企業やダミー会社のクッションを入れて、丸ごと四葉家が所有している。
いや、四葉分家・黒羽 家の物になっている、と表現する方が適切かもしれない。
このマンションは六階建てのビルだが、六階に住居は無い。各部屋のドアの内側は放送局か通信社かという様相の、情報機器でびっしりと占められた空間になっている。
住宅の外見を装ったその「部屋」も、元々は一フロアに八戸の3LDKが横一列という造りだったのだが、今は各戸を仕切る壁が大きく切り取られて中で繋がっていた。床はOAフロアになっており、一般的なオフィスと同じ土足仕様だ。
建設当初はこの最上階も居住用に造られていたから、一応の生活インフラは揃っている。寝泊まりは可能だろう。しかしトイレはともかく、浴室は二戸分しか残されていない。他は防水性を必要とする別の用途に転用されている。
キッチンは四戸分残されているが、まともに調理ができるのは一つだけで、残りはキッチンと言うより「給湯室」だ。まだ「お茶出し」が普通の習慣だった時代に、中規模以上の企業のオフィスに付属していた、キッチンとしては申し訳程度の物だった。
また東の角部屋には五階との通路が設けられている。そして五階の角部屋が文弥 と亜夜子 の住居だ。魔法大学に在学中は、二人に六階の「支部」の管理権限が与えられていた。
亜夜子 も文弥 も小さなバッグだけを手にして上京している。小型のスーツケースすら持ってきていない。生活に必要な物だけでなく必要性の低い私物までも、既に黒羽 家の使用人によって運び込まれていた。当然掃除も完璧、冷蔵庫の中身も今すぐ生活が始められるように補充されている至れり尽くせりぶりだ。客観的に見てこの二人は良いところの御令嬢、御令息だった。
「姉さん。達也 さんたちの所に挨拶に行こう」
自分の部屋に手荷物を置いた文弥 が亜夜子 の部屋の前で呼び掛けた。現在時刻は午後五時を少し過ぎたところ。挨拶に訪問しても、遅すぎる時間帯ではない。
部屋の中から「ちょっと待って」という声がしたかと思ったら、ほとんど同時にドアが開いた。文弥 は外開きの扉を危ういところで躱した。
「汗を流させて欲しいのだけど」
そう言いながら部屋を出てきた亜夜子 は、ジャケットとスカートを脱いだシャツ一枚の姿。
「なんて格好をしてるの……」
文弥 は呆れ声を漏らした。余り恥ずかしがっている様子は無い。
「下着は着けているわよ」
「それは、スリップが見えているから分かるよ」
亜夜子 が着ているシャツの裾からは、シャツとは別にレースの裾がのぞいている。
なお文弥 の視線は亜夜子 の顔に向いていた。彼女が部屋から出てきた一瞬で服装をチェックしていたのだろう。
「スリップじゃないわ。長めのキャミよ」
キャミソールには下着もアウターもある。亜夜子 は「見えているのは下着じゃないキャミソール」と言いたいのだろう。
しかし文弥 は一言、「嘘吐き」とバッサリ切り捨てた。
普通の十八歳男子なら「下着じゃない」と言われて「嘘だ」と言い切るのは難しかったはずだ。しかし文弥 は仕事 で頻繁に変装する関係で、メンズだけでなくレディースの衣服にも詳しい。
亜夜子 もそれを知っているから「下着じゃない」と強弁せずに、含み笑いだけを返して浴室へ姿を消した。バスローブ一枚で
亜夜子 が浴室を出ると、リビングでは文弥 が受話器 で電話をしていた。亜夜子 が何時出てきても良いように、音声通話を選んだのだろう。
「……いえ、疲れてなどいません。……ありがとうございます。では七時にお邪魔させていただきます。……失礼致します」
締めの言葉を口にして、文弥 は受話器 を充電器の上に置いた。
「達也 さん?」
「そうだよ」
「お約束は七時?」
少しだけ聞こえた文弥 の発言から、亜夜子 は電話の内容を推測した。
文弥 が「そうだよ」と言いながら立ち上がる。
「ディナーかしら?」
「昨日から用意してくれていたそうだから、断れなかったよ」
「……余り時間が無いわね。和食? フレンチ?」
ディナーの招待を受けるとなれば、それに合わせた装いをしなければならない。亜夜子 の問い掛けは、その為のものだ。本当はそんなに堅苦しく考える必要の無い相手なのだが、亜夜子 は達也 にも深雪 にもだらしない姿を見せたくなかった。
「カジュアルなコースだって」
「それが一番困るのよね……」
文弥 の答えを聞いて亜夜子 が顔を顰める。一口に「カジュアル」と言ってもピンからキリまである。気合いを入れてカクテルドレスで出掛けたら周りが普段着で浮いてしまうこともあれば、その反対もあり得た。
亜夜子 は悩んだ末、「浮いても良い」方針で臨むことにした。
文弥 は嫌々ながら、それに付き合った。文弥 はスーツを着用しネクタイを締めて、亜夜子 はカクテルドレスに身を包んで、四葉家東京本部ビル三階のレストランを訪れた。
ウエイターに案内されて会食のテーブルへ。そこで待つ達也 と深雪 を見て文弥 は「しまった」と動揺を過らせ、亜夜子 は笑顔を微かに強張らせた。
立ち上がって二人を迎えた達也 と深雪 の格好は、普段着の域を出ない物だった。
ただ幸い、文弥 たちはそれほど気まずい思いをせずに済んだ。
達也 も深雪 も普段着ではあるが、それほどラフな格好でもない。達也 はノーネクタイながら暗い色合いのテーラードジャケットを着ていたし、深雪 はドレスでこそないがオーソドックスで上品なワンピース姿だ。
見方によっては、相手がフォーマルでもカジュアルでも雰囲気を合わせやすい服装。達也 たちの側でも、文弥 と亜夜子 がどういう格好でやって来るのか迷ったのかもしれない。
「二人とも、卒業おめでとう」
まず達也 が、文弥 たちの卒業を祝う。
「それから少し気が早いけど、魔法大学入学おめでとう」
達也 に続いて深雪 が、魔法大学入学に対する祝辞を贈った。
入学式はまだ二週間以上先なので、深雪 本人が言うように少し気が早い。だが文弥 も亜夜子 も野暮な指摘はせず、声を揃えて「ありがとうございます」と返した。
「二人とも、遠慮無く掛けてくれ」
達也 がそう言って、自分の椅子を引く。
間髪を容れずウエイターが深雪 と亜夜子 の椅子を同時に引いた。文弥 は深雪 が腰を下ろすのを待って、ウエイターを目で制し自分で引いた椅子に座った。
「文弥 君、亜夜子 さん、これからはご近所ね。二人に限って困ることは余り無いと思うけど、何でも気軽に相談してちょうだい」
「ありがとうございます、深雪 さん。お言葉に甘えて、頼りにさせていただきます」
麗しく微笑み掛ける深雪 に、亜夜子 も負けじと艶やかな笑みを返した。
そんな二人を、達也 は余裕の笑みと共に見ている。
「ところで達也 さん。裏社会の人間に付き纏われているとうかがいましたが」
姉が見せた対抗意識に達也 のような余裕を持てなかった文弥 が、唐突に話題を変えた。
「興味があるなら話しても良いが、食事が終わってからにしよう」
「……はい。すみません」
先走りを自覚して、文弥 は恥ずかしそうに謝罪した。「――狙いは俺の暗殺だろう」
デザートが終わりコーヒーと紅茶の時間になって、達也 は年初から煩わされている小悪党の跳梁について話し始めた。
「暗殺!?」
達也 は何でもないように語っている。実害は無いという自信の表れだろう。
深雪 にも動揺が見られないのは、既に教えられていたことだからだ。
しかし達也 の周りを怪しげな連中が暗躍していることは知っていても、その破落戸の目的が達也 を暗殺することだと今日初めて聞かされた黒羽 姉弟は驚きを隠せなかった。
「許せませんわね……」
「……その身の程を知らぬ輩の素性は判明しているのですか?」
同時に、憤りを隠そうともしなかった。
「昨日うろついていたのは、広域暴力団の末端組織の構成員だった。ただし背後にいるのは表向きの親組織ではないようだ」
「……僕たちに調べさせてください」
ごく短い間を置いてこう申し出た文弥 は、目がすっかり据わっていた。
「別に構わないが……俺の私的な部下で対応できる相手だ。素性を突き止める必要は無いぞ」
「達也 さんの私的な部下と仰いますと、藤林家の方ですね?」
「そうだ」
達也 は藤林大門を自分の 部下として迎え入れるに当たって、一応真夜の許可を取っている。それと知らず四葉家配下の工作員と衝突しないように、本家・分家には大門が達也 の配下に収まった事実をその時に通知した。だから亜夜子 が大門のことを知っていても、達也 にとっては意外ではなかった。
「それに、俺には当局の監視が付いている。その中には公安の人間もいる。管轄が違うとはいえ彼らも警察官だ。目に余るようならそれなりに対応するだろう。逆に警察が手を出さないような相手なら、そいつらに口実を与える結果になりかねない」
達也 が「警察が手を出せない」ではなく「出さない」と言ったのは、言い間違いではない。警察と犯罪組織の癒着などあってはならないことだが、達也 のようにある意味で権力者にとって目障りな人間は、それを警戒しないわけにいかないのだった。
「特殊な背後関係が疑われるなら、尚更放置してはおけません。不利益につながるような不用意な真似はしませんから、せめて背景だけでも調べさせてもらえませんか」
ただ文弥 と亜夜子 が官憲に尻尾を掴まれるような下手を打つとは達也 も考えていない。
「そこまで言うなら調べてみてくれ」
達也 は文弥 の気が済むようにさせることにした。◇ ◇ ◇
転居したばかりの自宅に戻った
文弥 は、彼の側近の黒川 白羽 を呼び出した。
「若、急な御用ですか」
黒川 は文弥 が家の仕事を手伝い始めた中学生時代に教育係兼護衛として付けられていた部下だ。普段は黒服組の一員として活動しているが、文弥 が単独で任務を任せられた際には今でも彼の右腕として付き従っている。
黒羽 家でも指折りの実力者で、現在の黒羽 家当主である文弥 たちの父親の信頼も厚い。もしも文弥 が四葉家の次期当主に指名されていたなら黒川 は文弥 のガーディアンに選ばれていただろう。黒川 は文弥 にとってそういう部下だった。
「達也 さんの暗殺を企む身の程知らずがいる。知っているか?」
「知っています。実働部隊は円川会。全国的広域暴力団の曾孫組織ですね」
「曾孫組織? 三次……いや、四次団体ということか?」
「その方が分かり易かったですか?」
「そんな末端組織が何故達也 さんを……? いや、待て。円川会?」
文弥 が視線を虚空に彷徨わせて記憶を探る。
「それって年末に報告を受けた、ロシアンマフィアに乗っ取られた暴力団の名称じゃないか?」
「ご記憶でしたか」
座っていた椅子から身を乗り出した文弥 に、黒川 は涼 しい顔でとぼけた言葉を返した。
「……僕を試したのか?」
「まさか。滅相もない」
「…………」
黒川 は文弥 の視線から目を逸らさない。
根負けしたのは文弥 の方だった。
「……ロシアンマフィアが達也 さんの命を狙ったのか?」
「それは調べてみなければ分かりません」
「ではすぐに調べてくれ」
「承知いたしました」
文弥 の命を受けて、黒川 はお茶も飲まずに部屋を出て行った。「お父様に相談しなくて良いの?」
二人きりになって亜夜子 が文弥 に訊ねる。彼女は弟が黒川 と話している時には、横で黙って聞いていた。
「訊かなくても答えは分かっているから必要無いよ」
「そうかもね」
二人の父親は未だに、心の底では達也 のことを嫌っている。相談しても反対されるだけだろう。その点で文弥 と亜夜子 の意見は一致していた。
「でもお父様の許可をいただかないと人手が足りないわよ」
「東京の人員だけで十分だ」
しかし実行面においては、二人の意見は食い違っていた。
「それでは余計な時間が掛かってしまうわ」
「……別に急ぎの仕事じゃないから。ヤクザ如きでは達也 さんに掠り傷一つ付けられないし」
亜夜子 の指摘に対して、反論になっていない反論を返す文弥 。
今頃反抗期かしらね? と亜夜子 は思った。
文弥 は父親の貢が達也 に向ける理不尽な敵意を不愉快に思っている。その所為で達也 が絡むと、貢に対して頑なになる傾向があるようだ。亜夜子 は以前からそう感じていた。
「お父様には私の方から話しておくわ。それなら良いでしょう?」
亜夜子 の提案に、文弥 は同意しなかった。
拒否も、しなかった。◇ ◇ ◇
魔法大学も三月は長期休暇だ。普段と違って大学が休みになる時期は、
深雪 が達也 の仕事に付いて行くことも不可能ではない。しかし深雪 が巳焼島やFLTに同行することは、ほとんど無かった。
自分が一緒に行っても達也 の役に立てない。それよりは達也 の為に自宅を快適に整えることを優先するべきだというのが深雪 の考えだ。
兄妹から恋人の段階を飛び越えて婚約者になったことに当初は戸惑っていた深雪 だが、ようやく心が現実に追い付いたのか。一時も離れていたくないという強迫観念じみた想いから解放され、達也 の帰りを待つ 余裕ができた。――深雪 は既にフィアンセと言うよりも、新妻の心境に至っているのかもしれない。
そんなわけで黒羽 姉弟の為の簡単な歓迎会を行った翌日も達也 は恒星炉プラントの仕事で巳焼島に行ったが、深雪 は東京に残っていた。
その深雪 から、亜夜子 の許に電話があった。午前十時のことだ。
電話を終えた亜夜子 は、困惑気味の顔を文弥 に向けた。
「文弥 」
「何?」
二人は朝から部屋の整理をしていた。事前に掃除はされていたし生活に必要な物はきちんと収納されていたが、使い勝手には好みがある。住みやすいように日用品や家電の再配置を行っていたところだった。
「誰からの電話だったの?」
その手を止めて文弥 が問い返す。彼は姉の態度に戸惑っていた。
亜夜子 が困惑を露わにするなど滅多に無いことだ。だからといって今の彼女からは、緊張感が伝わってこない。非常事態が発生したというわけでもなさそうだった。
「深雪 さんからなんだけど……」
「深雪 さんから?」
文弥 の声が真剣味を増した。
深雪 は本家の次期当主。緊急でなくても重要な用件なのかもしれない、と思ったのだ。
――しかし、文弥 の予想は外れた。
「一緒にお出掛けしないかって」
「はっ? お出掛けって、何をしに?」
「ショッピングじゃないかしら」
意外すぎて思考がフリーズしてしまった文弥 は、次の言葉をひねり出せるようになるまでに十秒以上を要した。
「……良いんじゃない。行っておいでよ。片付けは進めておくからさ」
意外感に囚われている間は突拍子もないとしか感じられなかったが、冷静に考えてみるとそんなに変な誘いでもなかった。深雪 も亜夜子 もまだ二十歳前の若い女性なのだ。一緒にショッピングに出掛けようというのは、何もおかしくない。
「何を言ってるの。文弥 も一緒よ」
「はっ?」
文弥 の顔には「何を言っているんだ?」と書かれていた。
「はっ、じゃなくて。文弥 も一緒に行くのよ」
「何で!?」
「何を慌てているのよ……」
文弥 の剣幕に、亜夜子 は面食らって目を丸くする。
「逆に、何で一緒じゃないと思ったの?」
「僕は男だよ!」
叫ぶ文弥 。
「知ってるけど」
小首を傾げる亜夜子 。
「女性二人の買い物に男一人でついて行けるわけないだろ!」
「二人じゃないわよ。リーナも一緒なんですって」
一昨年の夏。リーナが亡命した際、彼女を達也 の許に案内したのは亜夜子 だ。それ以降も交流は続いており、気安く「アヤコ」「リーナ」と呼び合う程度には親しくなっていた。
「女性三人に男一人じゃ余計辛いよ! ……って、リーナと?」
一方、文弥 とリーナは友人同士ではない。だがリーナが達也 の代わりに深雪 の護衛役を務めている関係で交流がある。彼が「シールズさん」でも「リーナさん」でもなく「リーナ」と呼んでいるのは、本人から強く望まれたからだ。ちなみにリーナの方は、文弥 に断りもなく「フミヤ」と呼び捨てにしている。
「昨日の晩は彼女、『身内の歓迎会だから』って遠慮したみたいでね」
「何か……らしくないね」
「これから会う機会も増えるから、リーナとも交流を深めて欲しいというのが深雪 さんのお考えみたい」
「それは、僕と、ってこと?」
「そうなんじゃない? 私とリーナがお友達なのは、深雪 さんもご存じのはずだから」
「確かに……必要かも、しれない」
何処となく苦渋が滲む口調で、文弥 は姉から聞かされた深雪 の言い分を認めた。文弥 も亜夜子 も魔法大学に通っている間は、学業だけでなく家の仕事 も首都圏中心の活動になるだろう。リーナと仕事で一緒になる機会も増えるに違いない。
既に親しくなっている亜夜子 は急に連携を取らなければならない状況になっても、スムーズな意思疎通が多分可能だ。しかし文弥 は、今のままでは、そうはいかない。
「……分かった、付き合うよ。出掛けるのは何時から?」
「十一時に本部ビルの一階ロビーで待ち合わせ。都心の方に出掛ける予定だから、文弥 もちゃんとお洒落してね」
「男の僕にお洒落を期待しないでよ……」
文弥 はぼやきながら頷いた。◇ ◇ ◇
「アヤコ、フミヤ。久し振りっ!」
待ち合わせのロビーに着いた文弥 たちを、リーナの笑顔が出迎えた。
今日の彼女は明るい色のパンツスーツで活動的、かつ都会的なイメージだ。
全くの偶然だが、文弥 のジャケット姿とリーナのスーツ姿は色違いのお揃い かと勘違いするほど印象が似ていた。
二人は背格好も似通っている。文弥 の身長は百六十五センチ、リーナは百六十三センチ。
リーナは全体的に引き締まった体型で服装によっては華奢にすら見えるが、軍で鍛えられただけあって筋肉はしっかり付いている。
一方の文弥 は十八歳になってもまだ美少女の変装 が似合う、男性にしては細身で小柄な体型だ。かなり鍛えているのだが、体質的なものか筋骨隆々にはなれない。見た目よりも力があると言うより、筋力どおりの見た目にならないと言うべきか。
このように外見が似通っているせいで、良く似た印象の服装が「ペアルック」ではなく「お揃い」に見えているというわけだった。都心の雑踏の中でも
彼女たち 四人は注目を集めていた。特に男性から熱い視線を浴びている。文弥 にとっては大層不本意だが、彼もその対象に入っていた。
「フミヤはきっと、大学で目立つでしょうね」
「僕より姉さんの方が人目を惹くと思うけど」
素っ気ない文弥 の反応に、リーナは意味ありげな笑みを浮かべた。
「確かにアヤコは美人だけど、魔法大学の学生は美女に免疫があるのよ。ミユキやワタシを毎日見ているのだし」
リーナは恥ずかしげ皆無で自分を美女の代表格に数えている。
文弥 はそれを図々しいとは感じなかった。深雪 はもちろんのこと、リーナもまた絶世の美女であるのは客観的な事実だからだ。
客観的というなら姉の亜夜子 も間違いなく、文句なく美女。だが深雪 とリーナを上回るインパクトを有しているかと問われたならば、首を縦には振れない。
ここまでは文弥 にも、異議は無かった。
「でもフミヤのような美少年はいなかったから」
しかしこの暴言は見過ごせなかった。
「美少年はないだろう。もう大学生なんだから」
だが文弥 の反論は、リーナには通じなかった。
「大学生だから珍しいのよ」
彼女は「美少年」という文弥 に対する評価を、改める気は無いようだ。
「リーナ、そんなことを言うものではないわ。文弥 君、嫌がっているじゃない」
深雪 がリーナをたしなめる。
だが文弥 的には、深雪 の善意の方が心に刺さった。
「深雪 さん、入学式にはどのような服装で参加されましたの?」
亜夜子 が唐突に話題を変えたのは、文弥 が本気で嫌がっていることを察したからだろう。
「ワンピースにジャケットよ。スーツと迷ったんだけど、スーツのスカートは丈が短い物が多いから」
深雪 が話題転換の意図に気付いた様子は無かったが、質問には素直に答えた。もしかしたら「先輩としてのアドバイスを」という使命感を刺激されたのかもしれない。
「確かに若者向けのスーツは、膝丈や膝上丈のスカートが多い印象ですね」
亜夜子 が実感のこもった相槌を打つ。彼女も私服は――仕事で使う変装用の衣装以外は、丈の短いスカートをあまり好まない。
「じゃあ、そういうセレモニー用の服を見に行かない?」
リーナが会話の流れに乗って提案する。
今日の外出には、予め決まっていた目的は特に無い。リーナの思い付きに、反対意見は出なかった。
予約していたレストランでランチを済ませた後、四人はデパートに向かった。外出当初は若者向けのファッションビルを見て回るつもりだったが、入学式用の服の参考にするということでややお高めのテナントをのぞいてみることにしたのだ。
しばらく、文弥 にとっては退屈で居心地の悪い時間が続いた。ただ彼にとって幸いなことに、他の客から訝しげな目を向けられることは無かった。
幸いではあったが同時に不本意でもあった、かもしれない。他人の目から見ても、レディーススーツやドレッシーなワンピースを「ああでもない、こうでもない」と見て回るグループに違和感なく溶け込んでいたのだから。
深雪 、リーナ、亜夜子 という三人の美女が文弥 の前で身体に服をあてがい、試着して見せる。カジュアルなテナントなら実際に着替えるのではなくバーチャルミラーで服を着た姿を合成するのが主流だが、このフロアのブティックは試着用の実物を用意している。バーチャルでは分からない着心地を選べるというのが、各店舗の謳い文句だった。
見ているだけで良いなら若い男にとって間違いなく天国。だが毎回感想を求められる文弥 にとっては拷問だ。
達也 ならば深雪 に呆れられてもリーナに罵られても亜夜子 に軽蔑されても平然と笑っていられるだろう。だが文弥 はそこまで開き直れない。だから彼は毎回最適な答えを求めて、知恵を振り絞った。
彼の努力は美女の機嫌を損ねないという形で報われていた。三人は上機嫌で五つ目のテナントを離れた。
次に彼女たちが向かったのはエスカレーターだ。ある程度満足してくれたのだろう、と文弥 は思った。婦人服売り場はこのフロアだけではないが、下の階はもう少し対象年齢が上で、上の階はカジュアルなファッションを扱っていると案内されている。
もう結構な時間をこのデパートで費やしている。そろそろ帰るか、それでなくとも別のビルに場所を移すのではないかと文弥 は考えた。
しかし彼の予想に反して、彼女たちが向かったのは上の階だった。
「今度はタウンウェアか」と文弥 は気合いを入れ直す。フォーマルファッションは褒めるポイントがある程度パターン化されているので、そこまでコメントに悩まない。しかしカジュアルファッションは種類自体が多いので、的外れなことを言わないよう更なる注意が必要だ。
だが生憎――あるいは幸い、彼の気合いは空回りした。姉たちはレディースカジュアルのフロアを素通りして、さらに上の階へ向かった。
このデパートの最上階にはラウンジがある。ティーブレイクに向かっているのだろうか。
そう考えた文弥 は気を緩めた。しかしそれは、少なからず早計だった。
リーナに代わって先頭に立った亜夜子 がエスカレーターを降りたのは、メンズファッションのフロアだった。
「……姉さん。ここ、メンズだよ?」
間違いじゃないか、間違いであって欲しいという願望を込めて文弥 は訊ねる。
「そうよ? 貴方の服を見るんだから当然じゃない」
だが亜夜子 の答えは、非情なものだった。
「それともレディースの方が良かった?」
その上で面白そうに訊ねられては、「……いや、ここで良いよ」と答える以外の選択肢は、文弥 には無かった。「うーん……。ウエストをかなり詰めないといけないわね」
「もう一サイズ下でも良いんじゃない?」
「でも胸回りは案外ボリュームがあるから」
「肩幅はそんなに無いのにね」
文弥 の携帯端末から転送させた 彼の体格データとカタログデータを見比べながら、亜夜子 たちは忌憚の無い意見を交わしている。
耳に飛び込んでくる彼女たちの言葉は、目に見えない矢にグサグサと刺される錯覚を文弥 に与えていた。
身長が低いことだけではない。腰回りが細いのも肩幅が狭いのも、文弥 にとっては悩みの種なのだ。姉たちには悪意が無く、ただ正直な感想を述べているだけだと分かるから余計に心が痛かった。
彼も本当は期待していたのだ。
もっと背は伸びると。
自分は成長が遅いだけで、大学生になる頃にはもっと男らしくなっていると。
文弥 にしてみれば根拠の無い期待ではなかった。彼の身近にいる同性は体格に恵まれた者が多い。例えば父親の貢は身長百七十七センチ。特別に背が高いというわけではないが、平均は上回っている。
再従兄弟の達也 は百八十二センチ。遠縁ではあるが同じ四葉分家の次期当主である新発田勝成に至っては百八十八センチの長身だ。自分だって、と文弥 が期待しても無理はないだろう。
ところが十八歳になる前に、彼の身長の伸びは百六十五センチで完全に止まってしまった。文弥 はこの事実を一年掛けて受け容れた。
自分は達也のように 男らしくはなれない。自分にそう言い聞かせるのは文弥 にとってかなり辛いことだった。それでも何とか自分の中で折り合いを付けたのだが、その客観的な事実を突き付けられると今でも心の傷痕が痛むのだ。
「……文弥 。これを当ててみて」
亜夜子 に呼ばれて、文弥 は心の中の顰め面を面倒臭そうな表情で隠した。
当ててみて、と亜夜子 は言ったが、彼女が持っているのは服ではなく電子カタログだ。そして彼女が手招きしているのは、壁にはめ込まれた姿見の横。
文弥 は何の疑問も持たず、その鏡の前に立った。文弥 が背筋を伸ばして正面を向いた直後、鏡の中に白のメスジャケットを着た文弥 の姿が映し出された。試着する服のデータと鏡の前に立った人物のリアルタイム合成映像を表示するバーチャルミラーだ。
鏡の中の文弥 を見て、深雪 が「あら」と声を上げた。
「深雪 さん、ご記憶ですか?」
「ええ……。もう七年前になるのかしら」
「そうですね。あの時は黒っぽい色でしたけど」
「あら、ネイビーではなかった?」
「ええと、そうでしたね」
深雪 と亜夜子 が話しているのは沖縄に大亜連合が攻め入った沖縄事変の直前に、黒羽 家の別荘で催されたパーティーのことだ。そのパーティーで文弥 はネイビーのメスジャケットに黒のカマーバンドを着けていた。
「でも今は、この色の方が似合っていますね」
鏡の中の文弥 は、白のメスジャケットを着てアスコットタイを締めている。
「私もそう思うわ」
深雪 も亜夜子 と同じ考えだ。
「試しにネイビーブルーやネイビーグレーも見てみたいわ」
そこへリーナがリクエストを出した。
文弥 は何も言わない。実際に着替えるならともかく、バーチャルミラーに別のデータを読み込むだけで彼に手間は無い。好きにさせておこう、というスタンスだ。
亜夜子 が電子カタログの画面上で指を滑らせた。カタログのタブレットがバーチャルミラーのコントローラーになっているのだ。鏡の中で文弥 のジャケットがたちどころに色を変えた。
「ウーン……」
それを見てリーナが唸る。深雪 も微妙な表情をしている。
「暗い色だと、余計『美少年』に見える……」
リーナは大真面目な顔で呟いた。
「勘弁してくれ……」と文弥 は思ったが、彼女が軽口ではなく本気でそう思っているのが分かるので文句は言えなかった。口に出してしまうと本格的に落ち込みそうな気がした。
「何でだろう? 後退色の所為で実際より小柄に見えてるから?」
リーナの独白めいたセリフに、「それはあるかも」と亜夜子 が相槌を打った。深雪 は何も言わなかったが、彼女にも異論は無さそうだ。
その後、バーチャルとリアルの試着を繰り返した末に、文弥 は明るいベージュのスーツを深雪 とリーナの二人からプレゼントされた。
試着の最後の方では、文弥 の表情がある種の悟りを開いたようなものになっていた。デパートを出た後もウインドウショッピングは続いた。何度も着せ替え人形扱いに耐えなければならなかった
文弥 だが、これだけは幸いなことに荷物持ちは強要されていない。
家路についた時には、空が暗くなり始めていた。とはいえここはメガロポリス東京。時刻はまだ夕方の範囲内でもあるし、非力な女性でも不安を感じる時間帯ではない。ましてや強力な自衛手段を持つ深雪 たちが帰宅を焦らなければならない理由は、普通なら無かった。
ところが駅に向かう動力歩道(所謂「動く歩道」)の上で、文弥 が急に鋭い空気を纏った。
「文弥 ?」
それは深雪 やリーナは気付かない程のわずかなものだったが、亜夜子 を刺激するには十分な変化だった。
「付けられている」
抑えた声で文弥 が警戒を促す。
「――あれね」
亜夜子 は「自分も確認した」という意味で短く囁きを返した。
「何かあったの?」
二人が見せた緊張感に、リーナが反応した。
「良からぬ目を向けている連中がいるわ」
「深雪 さん、尾行されています」
亜夜子 がリーナの質問に答え、文弥 が深雪 に注意喚起する。
「尾行? もしかして最近、達也 様に付き纏っている不届きな人たちかしら?」
深雪 は落ち着いた態度を崩さず、静かに問い返した。
「その可能性は低くないと思います」
口に出して答えた文弥 の推測は控えめなものだったが、心の中ではほとんど確信していた。
「捕らえますか?」
彼が深雪 にこう訊ねたのは、達也 を付け狙う敵の正体を見極める手掛かりを掴めるのではという思惑もあってのことだった。
「必要無いわ」
だからこの答えを聞いて、文弥 は落胆を覚えた。
「そんなにがっかりしなくても良いのよ」
文弥 は少し不謹慎な――深雪 に迫る脅威を利用しようとしたという意味で――心の裡を隠していたつもりだったが、深雪 には読まれていたようだ。
「捕まえた人たちは文弥 君に預けるから」
しかし、続く深雪 の言葉に彼はハッとした顔で尾行していた者たちの気配へ意識を向けた。 肉眼では捉えられなかったが、賊が次々と拘束されていくのが気配で分かる。文弥 はこの時初めて、深雪 に陰から護衛が付いていたと気付いた。
「……本家の護衛ですか?」
「花菱 さんの部下の方々よ。私は必要ないと言っているのだけど、聞き入れてくれなくて」
深雪 が微かに「やれやれ」と首を振るような仕草を見せた。
彼女が言う「花菱 さん」は達也 の個人執事の座に納まっている花菱 兵庫 のことではなく、その父親で本家の執事を務める花菱 但馬 のことだ。但馬 は四葉家序列第二位の執事であり、四葉家が傘下に組み入れた、四葉の血族以外からなる実戦部隊を統括している。
深雪 は四葉家次期当主。幾らリーナという護衛役が付いているとはいえ、但馬 の役目上、深雪 の身辺を警護する人員を出さないという選択肢は存在しなかった。特に、今日のように達也 が別行動をしている場合には。
「花菱 さんの方から派遣されている人たちは、調査は専門ではないから。詳しい事情は文弥 君の方で調べてくれない?」
深雪 が口にしなかった言葉が、文弥 にはハッキリと聞こえた。
――達也 様を付け狙う輩を放ってなどおけない。
それは文弥 自身の決意でもあった。
「喜んで」
その言葉どおり、文弥 の表情は晴れ晴れとしていた。
晴れやかな笑みの中で、彼の目は獰猛な猟犬の光を帯びていた。