• NOVELS書き下ろし小説

  • キグナスの乙女たち・前日譚

    後編

     [2]

     三月三日、日曜日。
     克人かつとは先週と同じように、レンタカーで遠上とおかみ家を目指していた。
     今日は幹線道路を外れた支路でも、路上の雪は除かれている。だが道の左右には、まだうずたかく積もった雪が歪な壁となっていた。
     当然、見通しは良くない。現代の自走車の標準装備として衝突防止システムは装備されているが、元々道幅も狭く、また交通管制システムでカバーもされていない支路だ。克人かつとはスピードを落として運転していた。
     その御蔭で、とも言えるだろう。
     いきなり進路上に人影が飛び出してきたのを見ても、彼は大して慌てることなく車を止められた。
    (子供?)
     車の前に立ち塞がっている人影は、身長百五十センチ台前半くらいの小柄な体躯。
    (……いや、中学生くらいの女の子か?)
     ダウンジャケットにスリムジーンズ、頭にはフライトキャップ、足元はヒールの無いショートブーツという中性的なファッションだが、運転席の克人かつとを睨み付けている顔の性別は明らかに女性、それもかなり可愛い女の子だった。
     何故睨まれているのか、克人かつとに心当たりは無い。自走車の停止位置から女の子まで十メートル以上の余裕があるし、車道にいきなり飛び出してきたのは向こう側。客観的に見て非があるのは彼女の方で、睨まれるのは立場が逆ではないかと思われる。
     とはいえ相手はまだまだ子供。ここでクラクションを鳴らすのも大人げない。
     幸い他に、車の通りは無い。克人かつとは相手の言い分を聞こうと車を降りることにした。
     彼がドアを開けるのと同時に、女の子が車に向かって歩き出した。
     克人かつとは自走車を降りてその一メートル前方に立ち、少女が近寄るのを待った。
     二メートルの距離を挟んで少女が立ち止まる。
    「失礼な真似をしてすみません」
     それが少女の第一声だった。
     彼女はそう言いながら勢い良く頭を下げる。車の前に飛び出した行為はとても褒められたものではないが、今の彼女の振る舞いは克人かつとに好感を懐かせるものだった。
    「あの、十文字じゅうもんじさんですよね?」
     克人かつとが彼女の言葉に反応するより先に、少女が二の句を継いだ。
    「そうですが?」
    「あたし、遠上とおかみ茉莉花まりかっていいます」
     少女の自己紹介に、克人かつとは微かに目を見張った。

    ◇ ◇ ◇

     克人かつとの訪問予定時間が近づくにつれ、遠上とおかみ家には落ち着かない空気が充満していった。
     そわそわしているのは良太郎りょうたろう芹花せりかの大人二人。当事者のアリサの方がむしろ落ち着いていた。
     今日の彼女は制服姿ではない。落ち着いた色のAライン・ラウンドカラーのワンピースを着ている。エレガントな雰囲気がアリサに良くマッチしていた。
     良太郎りょうたろう芹花せりかのシナリオでは、アリサは克人かつとが来るまで、自分の部屋で待機している段取りになっている。彼女はその指示どおり、机に向かって静かに勉強をしていた。既に中一の学年末試験は終わっているが、彼女には獣医という目標がある。
     明確な目標があれば、モチベーションを維持しやすい。これはアリサの場合にも当てはまる。獣医になる為の勉強は、彼女にとって日常の一部だった。
    「アリサ?」
     とはいえ何も聞こえなくなる程、没頭していたわけでもない。
    「はーい」
     部屋の外から呼び掛ける芹花せりかの声に、アリサはすぐに応えた。
    「ちょっと良いかしら」
     芹花せりかの言葉に、アリサは机の前から立ち上がって部屋のドアを開けた。
    「小母さん、なに?」
    「アリサ、茉莉花まりかが何処にいるのか知らない?」
    「お昼ご飯の後、会ってないけど。家にいないの?」
    「そうなのよ。靴も無いし、外に出たんだと思うけど……」
     芹花せりかは今にもため息を吐きそうな困惑顔だ。
    「ごめんなさい、小母さん。ちょっと分かりません。何も聞いてないし……、今日はクラブの日でもないはずだけど……」
    「そう……。困った子ね。出掛ける前に行き先くらい言えないのかしら」
     そう言いながら、芹花せりかにそれほど心配している様子は無い。
     今の時刻は午後一時五十分。中学生が出歩いて危ない時間帯ではない。この辺りは治安が良く、犯罪に遭遇するリスクは小さい。またああ見えて茉莉花まりかは目端が利く。事故に巻き込まれる懸念もしなくて良いだろう。
     ただ克人かつとと約束している時間は午後二時――もうすぐだ。先週は芹花せりか茉莉花まりかも敢えて克人かつとに会わなかったが、アリサを預けると決めた今週は、家族として最低限の礼儀は尽くしておくべきだ。
    「……良いわ。あの子がいると、かえって失礼な真似をしそうだし」
     だが家にいなければ挨拶のしようもない。芹花せりかは逆に、娘の不在をポジティブに考えることにした。
    「…………」
     姉妹のように育った親友を酷評する言葉に、アリサは曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

    ◇ ◇ ◇

    「……遠上とおかみ動物病院のお嬢さん、か?」
     克人かつとは紳士だ。年下の女の子であろうと、親しくなるまでは基本的に丁寧な言葉遣いで話す。
    「やだなぁ、アハハ。あたしはお嬢さんなんて柄じゃないよ」
     だが茉莉花まりかは、何となく改まった態度を取りにくい少女だった。
    「……って、違うでしょ、あたし!」
     照れ笑いに相好そうごうを崩していた茉莉花まりかはお手本のようなセルフツッコミを見せた後、慌てて表情を引き締めた。
    十文字じゅうもんじさん、あたし、貴方にお願いがあります!」
     茉莉花まりか克人かつとにビシッと指を突き付ける。
     他人を指差す非礼についてはひとまず横に置いておくとして、茉莉花まりかの語調はどう見ても「お願い」ではなく「要求」だった。
    「私は君のお宅へうかがう途中だ。言いたいことがあるなら、君の家で聞かせてもらいたいと思うが、どうだろうか?」
    「いえ、ここで聞いてください!」
     克人かつとは宥める口調で妥協案を提示したが、茉莉花まりかは頑固だった。
    「……分かった。だがもうすぐ約束の時間だ。手短に頼む」
    「良いですよ」
     克人かつとの求めを、茉莉花まりかは胸を張って快諾する。
    十文字じゅうもんじさん!」
     そして上半身を前に傾け、頭の上で「バンッ」と音を立てて手を合わせた。なる程、これは確かに「お願い」のポーズだ。
    「お願いです! アーシャを――アリサを東京に連れて行かないでください!」
     茉莉花まりかの「お願い」は、克人かつとが何となく予想していたものだった。
    「しかし、アリサさんは我が十文字じゅうもんじ家の魔法資質を受け継いでいる可能性が極めて高い。十文字じゅうもんじの魔法を学ばなければ危ないのだ」
     顔を上げて、克人かつとを真っ直ぐに見詰める茉莉花まりか。その視線は真っ直ぐすぎて、克人かつとは後ろめたさを覚えずにはいられない。
     遠上とおかみ家の家庭事情はこの一週間である程度調べ上げてある。十三歳の少女が姉妹同然に育った相手と別れたくないという気持ちは、克人かつとにも理解できる。いや、理解できるような気がする。
     正直に言えば、アリサと茉莉花まりかを引き裂くような真似は克人かつと自身も気が進まない。しかしこのままではアリサの身が危ういというのも事実だ。茉莉花まりかの懇願に頷くことはできなかった。
    「アーシャが抱えているリスクはお父さんから聞いています。でもあたしは、アーシャと離れ離れになりたくないんです!」
    「しかし……」
    十文字じゅうもんじさん。アーシャに十文字じゅうもんじ家の魔法を教えてくれる家庭教師を派遣してもらえませんか」
     困惑していた克人かつとが、茉莉花まりかのこの言葉に虚を突かれ、目を見張る。
    「厚かましいお願いだと分かっています。でもあたし、アーシャに会えなくなるのもアーシャが不幸になるのも嫌なんです!」
    「好き」や「嫌」という気持ちだけで行動できるのは子供の特権だろう。いや、ここまで純粋ピュアになるのは、現代の少年には難しいかもしれない。これは少女だけに許された特権なのかもしれない。
     その姿は十師族じゅっしぞくとしての義務を第一に考える克人かつとにすら、眩しく見えるものだった。
     心を動かされなかったと言えば嘘になる。
     だが――。
    「……それはできない」
     頷くことは、できなかった。
    「何故ですか!?」
    十文字じゅうもんじの魔法を、十文字じゅうもんじ家の外に出すことはできない」
     もしここに母親の芹花せりかがいたら「スキルのコントロールを修得した後で北海道に帰っても良いという言葉は嘘だったのか」と指摘して、克人かつとを追い込んでいたかもしれない。だが茉莉花まりかは残念ながら、そこまで頭が回らなかった。
    「アーシャが可愛くないんですか!? あの子は半分だけでも、貴方の妹でしょう!」
     茉莉花まりかは、理屈ではなく情に訴えた。
    「個人的には、君の言っていることはもっともだと思う。だが俺の一存でルールは曲げられない」
    十文字じゅうもんじさんは当主なんでしょう? 十文字じゅうもんじ家で一番偉いんじゃないんですか!?」
     茉莉花まりかの糾弾に、克人かつとは苦い顔で頭を振る。
    「当主だからといって一人で何でも決められるわけではないのだ。他の家のことは分からないが、十文字じゅうもんじ家の当主は一族の最大戦力であり最後の切り札。敵の攻撃を食い止める最終防壁。それ以上の存在ではない」
    「……どうしても、あたしのお願いを聞いてもらえないんですか?」
    「――すまない」
     茉莉花まりかがギュッと唇を引き締め、両手を固く握り締める。
    「そうですか……。仕方がないですね」
     茉莉花まりかがそう言いながら後ろ向きに下がる。
     まるで、助走の為の距離を取るように。
     セリフだけなら茉莉花まりかの言葉は諦めを示していたが、克人かつとは緊張を解くのではなく高めた。彼女の声は、間違いなくこの国の魔法師の中で最強の一角である十文字じゅうもんじ克人かつとをさえも警戒させる剣呑な気配を孕んでいた。
    「――お願いは止めです! 力尽くで言うことを聞いてもらいます!」
     そう叫ぶのと同時に、茉莉花まりかの身体から眩い想子光が迸った。

    ◇ ◇ ◇

    良太郎りょうたろうさん」「芹花せりかさん」
     キッチンで一緒にお茶菓子の準備をしていた良太郎りょうたろう芹花せりかが同時にお互いの名前を呼んだ。
    良太郎りょうたろうさんも感じた?」
    「ああ。これは」
     二人が硬い表情で頷き合う。
     良太郎りょうたろう芹花せりかが捉えたのは強力な魔法が放たれている気配。
     数字落ちエクストラである良太郎りょうたろうは言うに及ばず、芹花せりかも一流とは言えないが、標準的なレベルには達している魔法師だ。魔法を発動しているのが自分の娘であるということくらいは、多少離れていても感じ取れる。
    「何故? あの子はまだ、魔法を使う訓練を受けていないはずなのに……」
     今の日本の制度では、正式な魔法の教育は魔法科高校でしか始められない。とはいえナンバーズは大抵、一族内で独自に魔法教育を始めるし、ナンバーズでなくても魔法の基礎訓練なら教えてくれる私塾がある。魔法科高校の予備校的な、中学生向けの塾だ。
     だが茉莉花まりかには家の中で魔法を教えていないし、塾にも通わせていない。幾ら才能があっても、これ程に強力な魔法を発動できるはずはなかった。
    「……茉莉花まりかのクラブで教えている総合格闘技の流派はマーシャル・マジック・アーツの入門編としての性格を持つ。コーチも本人も気付かぬ内に、魔法の基礎技術を会得していたのかもしれない」
    「才能、かしらね……」
     芹花せりかがぽつりと呟く。そこには娘を心配する親心だけでなく、娘の才能に対するな羨望が微かに、だが確かに含まれていた。
     良太郎りょうたろうはそれを、咎めなかった。妻が娘に対して懐いた醜い感情は、自分にも覚えのあるものだったからだ。克人かつとを前にした自分に嫉妬があったことを、良太郎りょうたろうは否定できない。
    「小父さん、小母さん!」
     キッチンを支配しようとしていた息苦しい空気は、飛び込んできたアリサの切羽詰まった声に破られた。
    「これ、ミーナに何かあったのよね!? 助けに行かなきゃ!」
     何故魔法の訓練を受けていないアリサに分かったのか? という疑問を懐く精神的な余裕は、良太郎りょうたろうにも芹花せりかにも無かった。
    「そうだな、車の鍵を取ってくる!」
     ハッと我を取り戻した良太郎りょうたろうが早足で自走車のキーを取りに行く。
     こんなに強力な魔法を発動した状況も気になるが、それ以上に正規の訓練を受けていないにも拘わらず強い魔法を使っている茉莉花まりかのコンディションが心配だ。芹花せりかとアリサも、慌てて車庫に向かった。

     良太郎りょうたろうが電子キーでドアを解錠し、ごついオフロード車の水素燃焼エンジンを始動させる。その時には既に、助手席に芹花せりか、後部座席にアリサが乗り込んでいた。
    良太郎りょうたろうさん、場所は分かる?」
    「あっち!」
     芹花せりかの問いに答えたのはアリサだった。
    「大通り沿いの小さな牧場から少し家の方へ入った所!」
     アリサの説明に、良太郎りょうたろうは何故分かったのかと訊ねはしなかった。
    十文字じゅうもんじさんが来ているはずの道じゃないか」
     不吉な予感が、アリサの感覚に対する疑問を覆い隠していた。
    良太郎りょうたろうさん。あの子、まさか?」
     芹花せりかの声は、少し震えていた。
    「急ごう」
     良太郎りょうたろうはそう言って、同乗者のシートベルトを確認せずにオフロード車を発進させた。

    ◇ ◇ ◇

     余剰想子光の迸りと共に、茉莉花まりかの身体に沿って魔法障壁が形成される。
    (これは……『十神とおがみ』の個体装甲魔法『リアクティブ・アーマー』か?)
     十神とおがみが「数字落ちエクストラ」として第十研を追放されたのは今から三十七年前。二十年世界群発戦争、別名第三次世界大戦末期のことだ。USNAが成立した直後であり、既に世界大戦の終結が見え始めていた頃(大戦終了の時期は一般的に二〇六五年九月頃のこととされている)。
     旧第十研の目的は首都防衛、要人保護の魔法を開発すること。それに対して十神とおがみは、自分自身にしか魔法障壁を展開できなかった為この目的に合致せず、研究所から放逐されたと言われている。
     しかしこれには、裏があった。無敵の装甲を纏い敵陣深くに突入可能な十神とおがみの魔法に特攻用、暗殺用の使途を見出した軍の幹部によって、十神とおがみの魔法師は表舞台から隠されたのだ。これは正史として認められている過去ではないが、少なくとも克人かつとはそう聞いている。
    (しかし……、これは?)
     だが少女の身体の周りに展開されている魔法障壁は、到底「無敵の装甲」と呼べるものには見えない。特攻兵器となり得る十分な強度を備えているとは思われなかった。
     この少女が「十神とおがみ」の魔法師として、まだ未熟だからだろうか?
     克人かつとの戸惑いを余所に、茉莉花まりかは闘志満々だ。自分の魔法が通用しないかもしれないと、恐れている様子は何処にも無い。
    「行きます!」
     その言葉は克人かつとに対するものと言うより、自分自身を鼓舞するものだろう。
     そう叫ぶと同時に茉莉花まりかの身体は、魔法障壁を纏ったまま弾き出される勢いで飛んだ。
    「やあぁぁぁ!」
     飛び横蹴りの体勢で突っ込んでくる茉莉花まりかを、克人かつとは防御型ファランクスで迎え撃つ。
     茉莉花まりかの右足を覆う魔法障壁と、克人かつとが構築したドーム型の魔法障壁が衝突した。
     茉莉花まりかの魔法障壁が砕け散る。
     克人かつとが読み取った障壁の強度からすれば当然の結果。
     しかし。
     次の瞬間、いや、瞬きする間も無い刹那の時間で茉莉花まりかを覆う魔法障壁は再構築された。
     茉莉花まりか克人かつとの魔法障壁が拮抗する。
     ただ単に再建されただけではなかった。
     茉莉花まりかの身を守る障壁は、克人かつとのファランクスに匹敵するレベルにまで強度が上がっていた。
     障壁魔法より先に、茉莉花まりかの身体を飛ばしていた移動魔法が切れる。
     魔法障壁同士の反発で茉莉花まりかの身体が後方に撥ね飛ばされた。お互いの魔法障壁の性質が「物体のベクトル反転」だった為に反発力が生じたのだ。
     茉莉花まりかは空中で器用に宙返りして路上に足から着地した。運動神経の良さだけでなく、日頃から身体を鍛えていることがうかがわれる身のこなしだ。
     しかし克人かつとは彼女の身体能力よりも、茉莉花まりかが見せた魔法障壁の再構築の方に意識を奪われていた。
     今の障壁再構築は、意図的なものではない。
     偶然という意味ではなく、最初の障壁が崩れ去るのを認識してから自分で意図して魔法を再発動したのでは、絶対に間に合わないタイミングだった。
     自動的に障壁魔法が再発動したのは、明らかだ。
    (最初の障壁崩壊をトリガーにして新たな障壁魔法が発動する仕組みか……?)
     旧第十研で命名された十神とおがみ家の個体障壁魔法は『リアクティブ・アーマー』という名称だったと聞いている。
     もし今見た魔法が『リアクティブ・アーマー』なら、基本原理は十文字じゅうもんじ家のファランクスと同じだ。
     あらかじめ何種類もの障壁魔法を何枚も待機させておいて、障壁が破られるたびに、同時に待機状態にあった障壁を顕現させる。それが『防御型ファランクス』のシステム。
    『防御型ファランクス』の性質は「絶え間なく障壁を更新し続ける」ものだが、『リアクティブ・アーマー』は「より強い障壁を張り直す」仕組みなのだろうか?
    (……強度を増していくものだとして、回数に限界はあるのか?)
     もし障壁再構築の回数に制限が無いとすれば『リアクティブ・アーマー』の強度は無限に上昇していくことになる。しかし魔法に限らず、この世界に「無限」は存在し得ない。間違いなく『リアクティブ・アーマー』の再構築回数には限度があるはずだ。それも、余り多くないだろう。
    (だから、特攻用なのか)
     克人かつとは推測を重ねた結果、そう思った。発動回数に低いところで限界があれば、敵の真っ只中で魔法が切れて無防備になってしまう可能性が高い。片道切符の特攻にしか役に立たないと見做されても仕方が無い部分があると思われた。
     無論、魔法師を道具扱いした側の肩を持つつもりは全く無いが。
     防御態勢を維持したまま考察を繰り広げていた克人かつとに向かって、茉莉花まりかが再び「やあぁ!」と叫びながら突進する。茉莉花まりか的には雄叫びのつもりなのだろう。しかし克人かつとにしてみれば、声質が可愛らしすぎて微笑ましくしか感じない。
     今回の茉莉花まりかによる攻撃は体当たりだった。背中から当たるのではなく、右脇を締め右肩から当たるチャージだ。左手の掌を相手に向ける形で頭部をガードしているのは、顔を大事にする女性の本能だろうか。
     衝突の威力はかなりのものだった。今回は障壁魔法に移動系魔法ではなく、加重系魔法を重ねていたのだろう。状況に応じて異なる魔法を並列発動する。茉莉花まりかの魔法はまだ未熟だが、そのセンスは本物だ。
     しかしやはり、実力が違う。
     練度が違う。
     この瞬間までに積み上げてきたものが違い過ぎる。
     加重系魔法の終了と同時に、茉莉花まりかはまたしても弾き飛ばされた。
     舗装された車道を転がっていく茉莉花まりか。だが立ち上がった彼女に、怪我をしている様子は無い。それどころか服に痛みも汚れも見当たらない。魔法障壁がしっかり彼女を守ったようだ。
    「まだまだぁ!」
     茉莉花まりか克人かつとの元へ駆け寄る。だがドーム状の障壁に阻まれて、その内側には踏み込めない。
    「たあぁぁぁ!」
     甲高いかけ声と共に、茉莉花まりか克人かつとの障壁にパンチの連打を繰り出す。軽量級プロボクサーに匹敵するようなパンチの回転速度は、自己加速魔法の併用か。
     それでも、克人かつとのファランクスは破れない。一枚一枚の障壁は何度か壊れているのだが、瞬時に出現する次の障壁を纏めて破壊する威力は、茉莉花まりかの攻撃には無い。
     それどころか茉莉花まりかの身を守る障壁も砕け始めていた。
    (……四回……五回……六回……)
     リアクティブ・アーマーによる障壁の再構築を、克人かつとはファランクスに伝わる手応えで把握していた。
    (七回)
     再構築が七回を数えたところで、茉莉花まりかが自ら後退する。五メートル以上の距離を取った茉莉花まりかは、魔法障壁を纏っていなかった。自分の意思で解除したのではないだろう。障壁魔法のような、いつ終了させれば良いのか予測が難しい魔法は、発動中の魔法を解除する別の魔法を用意するのが一般的だ。克人かつともファランクスを使用する際はそうしている。だが茉莉花まりかが解除の為の魔法を使った形跡は無い。
     おそらく、生死に関わる本当の限界が訪れる前に自己防衛機構が働き無意識に魔法を解除したのだろう。現代魔法のシステムからすればあり得ないのだが、魔法は人間の技能であり精神の機能だ。自分を守る仕組みが意識を超えて作動するというイレギュラーも、絶対に無いとは言い切れない。
     しかしそれは「本当の限界」に間近まで迫っていたということ。
    (リアクティブ・アーマーで障壁を再建できる回数は八回、多くても九回が限度、といったところか)
     同じ基本システムを持つファランクスの障壁更新限度は術者によって異なるが、克人かつとの限界は九百九十九回だ。これは実験で測定した回数で、実戦であればもう少し落ちるかもしれない。
     克人かつと茉莉花まりかでは年齢も経験も、何より積み重ねてきた修行の質と量が異なる。だがそれを考慮しても、九回と九百九十九回では差がありすぎる。
    (やはり「より強力な障壁を再構築する」というシステムに無理があるのだろう)
     克人かつとは元・十神とおがみの魔法について、心の中でそう結論した。
     それでいったん、魔法の技術的な考察を打ち切った。
     今はそれより優先すべき問題がある。
     彼の視線の先では、大きく肩で息をしていた茉莉花まりかが呼吸を整えようとしていた。
     明らかに、彼女はまだ続けるつもりだ。
     だが――これ以上は危険だ。
     魔法師の正式な教育が高校からとなっているのには理由がある。
     第二次性徴発現の前後二年、女子の場合は安全マージンを取ってその後さらに二年間程度は魔法演算領域に負荷を掛けすぎない方が身体の為には良いと言われているのだ。男子ならば平均的に九歳から十三歳、女子ならば平均的に八歳から十四歳の期間は、魔法が肉体の成長を損なうというのが日本での定説だ。この期間に魔法の修行をさせる場合は、特にきめ細かなケアが必要だとされている。――なおUSNAでは、根拠薄弱としてこの基準は採用されていない。
     克人かつとが見たところ目の前の少女は、まさにこの「魔法を使うべきではない期間」に該当する。エクストラとはいえ元は魔法師開発研究所出身の家系。家庭内のケアは心配要らないかもしれないが、ただでさえ魔法が肉体に負荷を掛ける時期なのにこれ以上激しい魔法戦闘を続けては、将来どんな悪影響が生じるか分からない。
    (魔法演算領域になるべく負荷が掛からない方法で、この戦いを終わらせる)
     克人かつとは早期決着を決意した。身体に攻撃を当てずに魔法障壁だけを、再構築の仕組みごと吹き飛ばす。具体的には再構築が完了するより先に、次の攻撃を叩き付ける。『攻撃型ファランクス』ならそれが可能だ。
     そして無系統魔法で魔法技能を一時的に麻痺させる。克人かつとはそういう小技が苦手なのだが、今はそんなことを言っている場合ではなかった。
     茉莉花まりかの中から制御しきれない想子光が漏れ出し始める。
     克人かつとはじっと動かぬまま、魔法発動態勢に入った。
     克人かつと茉莉花まりかの間で、緊張が高まる。

    ◇ ◇ ◇

    「始まったか!」
     走り出した直後の運転席で、良太郎りょうたろうの口から焦りが独り言となって漏れ出す。
     彼が捉えたのは魔法障壁同士のぶつかり合いで生じた想子の波動。それが巨大な銅鑼を打ち鳴らした響きのような幻聴となって良太郎りょうたろうの意識に届いたのだ。
    良太郎りょうたろうさん、急がないと!」
     その「音」は魔法的な知覚の持ち主ならば、誰にでも「聞こえる」程はっきりしたものだった。良太郎りょうたろうだけでなく、当然芹花せりかにも聞き取れた。
    「小父さん、これってミーナなんですか!?」
     そして、アリサもその波動を捉えていた。
    茉莉花まりか十文字じゅうもんじさんだろう」
    十文字じゅうもんじさんが、何でっ?」
     アリサがパニックを起こしかける。
    「今のところ十文字じゅうもんじさんは、ただ受け止めているだけのようだ。だがそれだけでも茉莉花まりかにはダメージになる。早く止めないと」
     良太郎りょうたろうの表情から、余裕が完全に消える。彼は既にアクセルをベタ踏みしているが、自走車の安全装置の所為でスピードが上がらない。
     茉莉花まりかの気配は、すぐ近くと言って良い距離から発せられている。歩きでも二十分以下の距離だろう。車なら今の速度でも五分以内。しかしその五分が良太郎りょうたろう芹花せりかには、そして彼ら以上にアリサにとっては耐えられない程に長く、もどかしく感じられる。
    (ミーナ!)
     アリサがギュッと両目を閉じた。
     その瞬間、アリサの「視界」に茉莉花まりかの背中が現れる。
    「えっ?」
     思わず声を上げ、アリサが瞼を上げる。
     目に映るのは車内の光景。茉莉花まりかの姿は無い。
    「アリサ、どうしたの?」
     芹花せりかが助手席から訊ねる。
     しかしアリサに、その質問に答える余裕は無い。
     アリサがもう一度、目を閉じる。
     脳裏に浮かび上がる茉莉花まりかの背中。そしてその向こうに、茉莉花まりかへ厳しい眼差しを向ける克人かつと
     茉莉花まりかの身体から激しい光が迸る。
     あれは魔法の光だと、アリサは直感で理解した。
     茉莉花まりかに向かって克人かつとが右手を翳す。
     そしてその手から、圧し固められた「力」が――。
    「駄目ぇっ!」
     アリサの口から絶叫が、全身から想子光が、そして意識と無意識の境界に開かれた『ゲート』――精神と外界をつなぐ門――から強力な魔法が放たれた。

    ◇ ◇ ◇

    「まだだよ!」
     茉莉花まりかが声と気合いを絞り出す。CADも持たず何ら魔法的な手順を踏んでいないにも拘わらず、茉莉花まりかの身体に沿って魔法障壁が形成される。
     ――まるで超能力者と魔法師のハイブリッドのような娘だ。
     この姿に、克人かつとはそう思った。
     だが手順を無視している以上、普通に魔法を使うより大きな負荷が掛かっているはずだ。一刻も早く止めないと、本当に取り返しがつかないことになるかもしれない。
     ここで終わらせるべく、克人かつとは魔法演算領域の出力を上げた。
     左手に持つ携帯端末フォルムのCADから攻撃型ファランクスの起動式を呼び出す。
     ――射出点を右手に設定。
     ――射出する障壁の威力を防御の魔法と相殺し合う強度に定義。
     ――照準を茉莉花まりかの魔法障壁に固定。
     ――終了条件を障壁の破壊と定め、
     ――攻撃型ファランクスを発動する。
     茉莉花まりかが魔法で飛び出すのに先んじて、克人かつとの右手から幾重にも重なり合った魔法障壁の砲弾が撃ち出される。
     その瞬間の出来事だった。
    『駄目ぇっ!』
     耳ではなく心に響いた声。
     そして茉莉花まりかを中心にして構築されたドーム状の魔法障壁が、克人かつとのファランクスを防ぎ止めた!
     障壁の砲弾とドーム状の障壁が相討ちの形で砕け散る。
     次々と押し寄せる障壁の砲弾を、
     次々と再構築される障壁のドームが受け止める。
    「これは……」
     克人かつとがファランクス中止のコマンドを実行する魔法を行使する。
     茉莉花まりかに向かって放たれていた障壁の砲弾が途絶えた。
     わずかに遅れて、茉莉花まりかを中心に展開されていたドーム状の魔法障壁も消え失せる。
     茉莉花まりかは呆気に取られた表情を浮かべている。それを見れば、克人かつとのファランクスを受け止めた障壁魔法を行使したのは彼女でないと分かる。
     いや、彼女の表情をうかがうまでもなかった。
     ドーム状の障壁を築いたのが茉莉花まりかであるはずはない。
     何故ならあれは――。
    (……ファランクス)
     克人かつとが独り言を漏らし掛けて止めた言葉が示すとおり、あの障壁魔法は『防御型ファランクス』だった。
     茉莉花まりかの身体を覆っていた『リアクティブ・アーマー』の障壁が消える。思い掛けない事態に彼女も戦意を喪失したようだ。
     まるで戦いの幕引きを告げるように、車高の高いオフロード車が茉莉花まりかの背後に迫り、駐まった。降りてきたのは茉莉花まりかの父・良太郎りょうたろう、母・芹花せりか、それと芹花せりかの手を借りたアリサ。
     足元がふらついているアリサを見て、克人かつとは何が起こったのかを確信した。
     茉莉花まりかを守った『防御型ファランクス』を発動したのはアリサだ。肉眼で直接視認できない保護対象を守る魔法障壁を構築するという高等テクニックを、まだ魔法を使えないはずのアリサが成し遂げたのだ。
    (やはり彼女の魔法資質は俺に匹敵するか、凌駕する)
     克人かつとは改めて異母妹が秘めている魔法師としての才能を確信した。それと同時に、すぐにでも魔法教育を始めなければ危ないという思いを強くした。
     高すぎる適性は、暴走を起こしやすいということでもある。高校時代の後輩の少女は事象干渉力が強すぎて、意図せずに現実を凍り付かせてしまうことがしばしばあった。アリサの危うさは、あの後輩以上だ。せめて魔法発動を抑制する技術を学ばないと、高い確率で自滅してしまう。
     一般的なセオリーに当てはめれば、アリサは魔法教育を避けるべき時期だ。しかし今『防御型ファランクス』を発動したことからも分かるとおり、彼女の場合は学ばずにいる方が危ない。
    「ミーナ、大丈夫!?」
     芹花せりかに支えられた態勢のまま、アリサが茉莉花まりかの側に駆け寄る。「なんでこんなバカな真似をしたの!」と叱り付ける声は芹花せりかのものだ。
    十文字じゅうもんじさん、ご迷惑をお掛けしました」
     そして良太郎りょうたろうは、克人かつとの前で深々と頭を下げた。
    「いえ、私には何も……。遠上とおかみさん、もうお嬢さんに『十』の魔法を教えているのですか?」
     首を横に振った後の質問は、思わず口に出た疑問だった。
    「……いいえ、教えていません。まさか娘が十神とおがみの魔法を……」
     良太郎りょうたろうも「信じられない」とばかりにかぶりを振る。
    「そうですか……余計なお節介かもしれませんが」
    「いえ」
     克人かつとが言い掛けた言葉を良太郎りょうたろうが遮る。
    「娘の魔法資質を甘く見ていました。すぐにでも教育を始めることにします」
     克人かつとに改めてアドバイスされるまでもなく、良太郎りょうたろう茉莉花まりかの危うい才能を理解していた。
     同時に、アリサの才能も。
    「今日のことで、感情的なしこりは棚上げにしなければならないと思い知りました。私たちはまず、子供たちのことを考えなければ」
    「同感です」
     これは克人かつとが言うべきセリフではなかったかもしれない。
    「――よろしくお願いします」
     だが良太郎りょうたろうは、頷いた克人かつとに握手を求めた。

     [3]

     克人かつと茉莉花まりかの間で起こったちょっとしたいさかいを経て、遠上とおかみ家を交えたアリサと克人かつとの話し合いが持たれた。
     茉莉花まりかはここでもアリサの東京行きに散々抵抗した。だが自分自身も魔法を暴走させる一歩手前だったことを指摘されて、最終的にはアリサが十文字じゅうもんじ家に引き取られることに同意せざるを得なかった。
     アリサはもうすぐ訪れる春休みに東京へ行き、翌年度から東京の中学校に十文字じゅうもんじ家から通うことになった。

     そして三月三十一日、日曜日。新千歳空港しんちとせくうこう出発ロビー。
     今日、アリサは北海道を発ち、東京の十文字じゅうもんじ家へ行く。
    「アーシャ、あたしのこと忘れちゃ嫌だよ! 毎日電話するからね!」
     搭乗ゲートをくぐろうとしているアリサに、茉莉花まりかが涙声で縋り付いていた。彼女の声を聞いた第三者の中には「毎日電話するなら忘れようがないのでは?」と思った者もいたが、本人は大真面目だ。
    「忘れるわけないよ。たとえ何があっても、私はミーナを忘れたりしない。離れていたって、私はいつでもミーナのことを想っているから」
    「アーシャぁ」
     遂に茉莉花まりかが本格的に泣き出してしまう。アリサも彼女の背中をさすりながら涙を滲ませている。
     放っておくと、いつまで続くか分からない雰囲気だ。
    「……アリサ、そろそろ飛行機の時間よ。茉莉花まりかも、もう離れなさい」
     この場には克人かつと良太郎りょうたろうもいたが、二人の間に割って入ることができたのは芹花せりかだけだった。
    「うん……、分かった」
     茉莉花まりかがアリサにしがみついていた手を放し、一歩下がって俯いたまま目をこする。
    「ミーナ、私、行くね」
    「アリサ、あたし本気だから。二年後、約束だよ」
    「うん、私も頑張る。じゃあ二年後に」
    「必ずだよ!」
     搭乗ゲートへ進むアリサへ、茉莉花まりかが目を涙に濡らしたまま大きく手を振る。
     振り返ったアリサが、目が赤くなった顔に微笑みを浮かべ、小さく手を振り返した。

    ◇ ◇ ◇

     西暦二〇九九年三月。
     今日は全国に九校ある魔法大学付属高校で一斉に入学試験が行われる日だ。
     ここ八王子の第一高校にも大勢の受験生が集まっていた。彼らは基本的に関東の中学校出身者だが、中にはもっと遠方から入学を希望して試験を受けに来た中学生もいる。南は石垣島から、北は北海道まで。
     南西諸島はともかく、北海道には第八高校がある。東北、中国、四国、九州地方にも魔法科高校は配置されている。にも拘わらず一高を目指す者が少なくないのは、あの司波達也の母校という理由が大きい。
     まだ今年二十歳という若さでありながら日本だけでなく世界に、軍事面だけでなく技術・学問の分野でも名を轟かせている司波達也は、魔法師を目指す若者、その中でも魔工師を目指す子供たちにとって憧れの存在であり目指すべき目標となっていた。彼にあやかろうと、全国から大勢の少年少女が集まり、一高の競争率を大きく引き上げていた。
     そんな大勢の受験生の中でも白銀に近いアリサの淡い金髪はその美貌と相俟って、とても目立っていた。魔法師は整った外見を持つ者が多い傾向にある。だがその中にあっても、アリサの容姿は際立っている。
     だから彼女を見付けるのは、この人混みの中でも難しくはなかったに違いない。
    「アーシャーっ!」
     背後から掛けられた懐かしい声に、アリサは顔をほころばせて振り返った。――電話回線越しには日常的に聞いていたが、肉声を聞くのは久し振りだ。
    「ミーナ」
    「久し振り!」
     アリサが完全に振り返りきる前に、駆け寄った茉莉花まりかがアリサの肩に腕を回す。二人ともこの二年で背が伸びているが、それでもアリサの方が相変わらず五センチほど高いので、茉莉花まりかが少しぶら下がるような体勢になっている。
    「約束どおり来たよ! 勉強も頑張った!」
     茉莉花まりかがあの日別れた空港でアリサと交わした約束は「高校は同じ学校に行く」だった。
    「私たち二人とも、四月からここに通えると良いね」
     アリサの言葉に茉莉花まりかが大きく頷く。
    「絶対、一緒に通うから! アーシャの方こそ、落ちないでよ!」
    「もちろん、私も頑張るよ」
     周りの受験生にとっては、二人ともライバルである。
     だが仲良く校舎に向かう二人を見ていた中学生たちは、男女の区別無く揃って微笑ましげに唇を緩めていた。

    〔キグナスの乙女たち・前日譚 完〕