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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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キグナスの乙女たち・前日譚
前編
[1]
西暦二〇九七年二月二十四日、日曜日。日本魔法師社会の頂点に立つ十師族を構成する十の家の一つであり「鉄壁」の異名を取る十文字家の当主・十文字克人は辺りにまだ雪の残る新千歳空港に足を下ろした。
随行はいない。小さな旅行バッグを手に提げたその姿はせいぜい一、二泊程度の旅行、というより出張を思わせる。
彼は空港から苫小牧方面行きの個型電車に乗った。北海道の個型電車は克人が慣れ親しんでいる首都圏の物とは違って半円筒の透明な屋根が付いている。一部で「チューブ・キャビネット」と呼ばれている所以だ。チューブといっても完全に密閉されているわけではないので、今世紀初めに提唱されて結局は夢物語に終わったハイパーループのように減圧して空気抵抗を減らすという仕掛けは組み込めないのだが。
克人が個型電車を降りたのは北海道南西部のとある町――ここでは仮にS町としよう――の市街地の西外れの駅。そこで予約しておいたレンタカーを借り、川に沿って内陸部へ進む。
北海道南西部のこの辺りは道内でも積雪が少ない地域だが、それでも町の名を冠する川を遡り山間部に入っていけば雪はやはり残っている。除雪された幹線道路を外れ、冠雪した支路を進むこと十数分。克人はある動物病院の前で車を降りた。
病院に隣接する居宅には『遠上』と書かれた表札が掛かっていた。克人は訪問をあらかじめ告げて了解を取っていたので、すんなり中に通された。だが明らかに、歓迎されている雰囲気ではない。座卓を置いた和室の応接間で克人の向かい側に座る世帯主は硬い表情の下に迷惑がっているのを隠し切れていないし、お茶を持ってきてすぐに引っ込んだ夫人は敵意を隠そうともしていなかった。
克人はポーカーフェイスで内心のため息を隠した。遠上夫妻の態度は非難できない。彼は歓迎されなくて当然の用件を持ってきているのだから。無言の敵意を向けられる程度は許容範囲だ。克人は正面から罵倒される可能性すら覚悟していた。
もっとも、覚悟していたからといって何も感じなくなるものでもない。まして今回は自分に――十文字家の側に非がある。克人は待ち人が現れるまでの間、居心地の悪さに耐えなければならなかった。
正面に座るこの家の主、遠上良太郎は形式的な挨拶を口にした後、黙ったままだ。明らかに自分との会話を拒んでいる相手の心を解きほぐすような話術を持ち合わせていない克人は、気まずい空気のまま無言の行に付き合う他、為す術がなかった。
会話をしない相手の顔を正面から見続けるのはかえって挑発と受け取られかねない。克人は廊下側に目を逸らした。
この家は古い民家をリフォームした物らしく、断熱性や空調設備は現代の標準的な性能を備えているが、内側の造りは前世紀中頃の様式になっている。この応接間と廊下を仕切る建具も伝統的な襖だ。襖紙の柄は中々凝った山水画で、手持ち無沙汰の時間を鑑賞で潰すにはちょうど良かった。
そのまま待つこと十五分。
「ただいま!」「ただいま」
玄関から帰宅の挨拶が元気な声と内気そうな声の二重唱で届いた。
「ようやく帰ってきたか……」
その呟きは克人のものではない。この家の主、遠上良太郎が零したものだ。
「ごめーん、遅くなっちゃって」
襖越しに、元気な方の少女の声が聞こえる。
この家には二人の少女が暮らしていると分かっている。はたして克人の目当ての少女は賑やかな方だろうか。それとも静かな方だろうか。
余り長く待つ必要は無かった。「あたしも!」という声と、それをたしなめている気配がした後、「失礼します」という呼び掛けがあった。
直前に聞こえてきたものとは異なる少女の声だ。どうやら彼がこれから言いにくい話をしなければならない相手は賑やかでない方の少女らしい。
声や口調が内気そうだからといって、性格までそうであるとは限らないのだが。
「入りなさい」
克人の向かい側に座る良太郎がその声に応える。
すぐに襖が開いた。
廊下に膝をついていた少女が軽やかに立ち上がって応接間に入る。
彼女の外見に、克人のポーカーフェイスは破られた。
良太郎の隣、自分の斜め前に座った少女の姿に、克人は驚きを隠せない。
少女は日曜日であるにも拘わらず、何故か紺のカーディガンの下に黒のセーラー服を着ている。だが克人が驚いたのは、その点ではない。
白銀に近い淡い金色の緩やかにうねる髪、濃い緑の瞳に動揺したのでもない。少女の実の母親が金髪のロシア人だということは父親の和樹から聞いている。克人が緑の瞳を見るのは初めてだったが、あらかじめ白人種の容姿を持っている可能性が高いと分かっていれば驚く程のことではなかった。
克人が目を見張ったのは、少女から伝わってくる濃密な魔法の気配。大きな力を発散しているのではなく、強いエネルギーが小さな身体に凝縮されているのを感じたからだ。
それは「十」の魔法師に見られる特徴。己の感覚が正しければ、この少女は自分に匹敵する「十」の魔法師としての資質を秘めている。
この直感が克人の心を揺さぶったのだった。
「アリサ、十文字さんにご挨拶しなさい」
良太郎に促されて、少女が克人に身体ごと目を向ける。
「はじめまして、伊庭アリサです」
克人はいつまでも驚いてばかりではなかった。少女による初対面の挨拶に、彼はすぐ自己紹介を返した。
「十文字克人です。私は貴女の異母兄に当たります」
ただその何処か他人事のような表現は、彼と少女の関係からすれば相応しいものではなかった。◇ ◇ ◇
事の発端は二〇九七年二月二十三日、土曜日。師族会議を狙った箱根テロ事件が、首謀者であるジード・ヘイグこと顧傑の死によって幕を閉じたばかりの週末のこと。
十師族を代表して顧傑を最後(最期)まで追跡した十文字家当主・十文字克人は、前当主であり父親でもある十文字和樹に呼ばれて彼の書斎に来ていた。
当主が代替わりしたからといって、書斎の主が変わったりはしない。十師族の十文字家は代替わりしたが、実業家としての十文字社長は今でも和樹のままだ。書斎の本棚には会社関係の書類綴りや本が並んでいる。
「――事後の処理は以上の通りです。四葉家、一条家、七草家の同意も得てあります」
「そうか。調整ご苦労だったな、克人。……ああ、待て。私からも話がある」
一礼して退出しようとした克人を和樹が呼び止める。
既に立ち上がっていた克人は逆らわず、執務中の仮眠用ベッドにもなる一人掛けのソファに戻った。
「実はな、克人……」
克人は無言で、父の言葉を待つ。
だが和樹は中々本題に入ろうとしない。
「先代?」
遂に待ちきれず、克人が続きを促した。
和樹が観念した表情で口を開く。
「克人、実はだな」
しかしまたしても、言葉が途切れてしまう。
「……言いにくいことでしたら、また日を改めては?」
克人が丁寧語を使うのは、十師族十文字家当主として先代当主に礼儀を払っているからだ。この時点ではまだ、克人は父親の話がごく私的なものだと予想していない。
「いや、今話しておく。本当はもっと早く伝えておかねばならなかったことなのだ」
腰を浮かせ掛けた克人が元の態勢に戻る。
和樹は今度こそ、本題に入った。
「克人、お前には腹違いの妹がいる」
克人は大きく目を見開いたが、言葉を無くしはしなかった。
「……念の為にうかがいますが、和美のことではないのですよね?」
克人には元従弟の義弟と異母弟と異母妹が一人ずついる。義弟は勇人、異母弟は竜樹、異母妹の名は和美という。
克人の実母は彼が二歳の時に死去した。病死だった。
そして彼が五歳の時に、父親の和樹は今の妻と再婚した。竜樹と和美はこの後妻の子供だ。
年齢差もあり克人と二人の弟妹の関係は、それほど親密とは言えない。克人には幼少の頃から十文字家の次期当主としての厳しい訓練が課せられていて、弟と妹の面倒を見られなかった。だが一応、生まれた時から同じ家に住んでいる。今更「妹がいる」と改まって告げられる関係ではない。
「無論違う。名前は伊庭アリサ。北海道南西部のS町に住んでいることが分かっている。年は今年の九月で十四歳だ」
「伊庭アリサ……。竜樹と同学年ですか。九月生まれということは、生まれたのは慶子さんと結婚した翌年ですね」
慶子というのは和樹の後妻、克人の義母の名。和樹が再婚したのは克人が五歳の時、今から十四年前の十二月だ。
「ダリヤとは慶子と結婚する前に別れている」
竜樹は来年の二月で十四歳。同学年でも、アリサより半年近く生まれたのは遅い。確かに妊娠期間を考えれば、アリサは再婚前にできた子供かもしれない
「それはつまり、結婚直前まで二股を掛けていたということだろう。親父殿、まったく言い訳になっていないぞ」
克人の言葉遣いが十師族・十文字家前当主向けのものではなく、父親向けのものに変わった。
息子の指摘に和樹の目が泳ぐ。やはり後ろめたさはあるようだ。
「……ダリヤさんというのが浮気の相手か? 日本人ではなさそうだな」
ダリアならばそういう花もあるので、日本人女性の名前としてあり得なくはない。だが『ダリヤ』というのは、日本人の名前とは思えなかった。
「浮気……、まあ、そうなるか。亡命ロシア人だ」
和樹は浮気と決め付けられたのが不本意そうだったが、結婚直前まで別の女性と付き合っていたのだからそう言われても仕方が無いだろう。たとえ、付き合い始めた時期は結婚した後妻の方が後だったとしても。
現在の妻、慶子を選んだのは今は亡き和樹の父親、十文字家初代にして先々代当主の十文字鎧だ。当時既に当主の座は和樹のものだった。だが遺伝子的に親というだけで本当の意味での血のつながりが無いにも拘わらず――和樹は調整体でこそないが、人工授精・人工子宮で生まれた「試験管ベビー」だった――、自分を息子として育ててくれた父親が選んだ相手を、和樹は断れなかった。
父親に逆らえなかったからという理由だけではなく、慶子は十文字家直系の魔法師を産む母親に相応しい者として、前妻が死んでから二年以上を掛けて慎重に選ばれた相手だった。それに対してダリヤ――ダリヤ・アンドレエヴナ・イヴァノヴァ、当時は既に帰化していて伊庭ダリヤに改名――は少し訳有りな相手だった。亡命ロシア人という点を横に置いたとしても、十師族当主の夫人としては不安が残る要素があった。
なお克人は異母妹の母親の国籍のことを、実は余り気にしていない。「日本人ではなさそうだな」というのは、ふと思っただけのセリフだ。生者であれば工作員の可能性とか残された家族が人質にされる可能性とかで問題になったかもしれないが、故人であれば裏切りを警戒する必要は無い。――娘が母親から任務を受け継いでいるかもしれないと考える程、克人は疑り深くなかった。
「親父殿にも事情があったのだろうから、昔のことを非難するつもりは無いが……、何故今になって隠し子のことを打ち明ける気になったのだ?」
「か、隠していたのではない。ダリヤが私の子を産んだことを、私は知らなかったのだ」
克人が非難を込めた眼差しで父親を見詰める。
和樹は息子の視線から目を逸らした。
「……当主の座をお前に譲って、私の中に自分の人生を振り返る余裕が生まれた。そこでまず気になったのは、不本意な形で別れたダリヤのことだ。ダリヤは私に何も告げず、ただ一通の置き手紙を残しただけで姿を消した」
克人が無言の圧力で続きを促す。
「無論、探そうと思えば探せただろう。だがダリヤはきっと、私に良かれと思って身を引いた。その意思を尊重すべきだと当時の私は考えた。私は浅はかにも、彼女が身ごもっているとは思わなかったのだ」
下がった口角に、和樹の深い後悔が滲んでいる。
父親に向ける克人の目付きが、少し和らいだ。
「私がダリヤの消息を求めたのは、ただ彼女が息災かどうかを知りたかっただけだ。それ以上の目的は無かった。だが彼女はもう、この世にいなかった。八年前に病死していた」
和樹が唇を震わせる。
克人は無言で、続きを催促するのではなく、話が自発的に再開されるのを待った。
「……お前の妹はダリヤの亡命を助けた夫婦に引き取られていた。文句を言える筋合いでないのは分かっているが……、すぐに報せてくれれば放置などしなかったものを」
克人は奥歯を噛み締めている父親をしばらく黙って見守っていたが、やがて躊躇いがちに問い掛けた。
「親父殿。その子を引き取るつもりか?」
息子の視線を避けていた和樹が、克人と目を合わせる。
「克人、お前が決めろ。いや、お前に決めてもらいたい」
克人が反論しようとするのを、和樹が手を上げて遮った。
「アリサは――お前の妹は、おそらく私の力を受け継いでいる」
「十文字家の魔法を?」
「そうだ。だからお前に決めてもらいたい。十文字家当主として、『十』の魔法を受け継ぐ可能性が高い女の子をどう扱うべきか。その子の私生活を尊重して、そっとしておいてやるべきか。それとも十師族として、力を持つ者にはそれに応じた責任を果たさせるべきか」
「そういうことでしたら」
克人は全く迷わなかった。
再び十師族当主の口調に戻って自分の意見、いや、決定を述べる。
「我が家に引き取るべきでしょう。『十』の魔法資質を受け継いでいるなら、正しい力の使い方を学ばせてあげなければならない。さもなくば命を縮めることになりかねない」
旧第十研で開発された十文字の魔法師には、自分の限界を超えた魔法の力を振るう機能が埋め込まれている。それは制御できる技術であり、制御しなければ暴走してしまう素質だ。
和樹が四十代半ばにして魔法力を失ったのは、この機能を使い続けた結果だ。十文字家正統として危険性を熟知していた和樹でさえ、魔法師としての寿命を削る結果になった。使い方を学ばなければ魔法力を失うだけでは済まない。人間としての寿命を縮めることになる。
この様に、克人の判断は十師族の利害のみに基づくものではなかった。だが現在の家族から引き離す決定を迷わなかったのはやはり、彼の価値観が十師族のものに染まっているからだろう。
「……そうか」
それに対して和樹の方が「娘を現在の家族から引き離し、引き取って側に置く」という決断に苦渋の色を滲ませていたのは、まだ顔を合わせたことすら無いとはいえ、子に対する愛情が働いた結果か。
煮え切らない態度の和樹に対して、克人はドライに話を進める。
「ではその異母妹を引き取っている家の名と場所を教えてください。早速交渉に行こうと思います」
克人の言葉は自分が一人で異母妹を迎えに行くことを前提にしている。和樹が同行することを考えていない。これはもちろん、和樹の体面を考慮したからではない。自分を捨てた父親にいきなり「一緒に暮らそう」と言われた時の異母妹の心情を慮ったのでもない。――和樹に「捨てた」つもりはなかったかもしれないが、今まで放っておかれた娘からすればそう思われても仕方が無い。
克人が異母妹を引き取る決意をしたのは、彼女が(半分だけでも)血のつながった妹だからではなく、十文字家の魔法師である可能性が高いからだ。一族の魔法師として十文字家に迎え入れる以上、当主の自分が行くのは当然であり、当主の座を退いた和樹が出る幕では無いと克人は考えたのだった。
「――後で地図を渡す。養父母一家の名は遠上家だ」
ようやく腹を括った顔で、和樹は異母妹を引き取っている家族の苗字を告げた。克人が一人で行こうとしていることについても、十文字家当主として当然の判断だと考えているのか異を唱えなかった。
「……? もしや、あの十神ですか?」
「その元・十神だ」
それは第十研を追われた数字落ちの名前だった。◇ ◇ ◇
異母兄妹と聞かせられたアリサは、克人の予想に反して心を乱さなかった。
「そうですか。貴方が私の、本当の兄……」
彼女はただ、独り言のようにそう呟いただけだった。
「知っていたのですか?」
克人は丁寧な言葉遣いで訊ねる。妹ということを抜きにしても、六歳年下の少女に対する態度としては堅苦しすぎるかもしれない。
「ママから――死んだ母から聞かされていました。私の父は遠い所で生きていると。偉大な魔法師で母のことを愛してくれていたけど、どうにもならない事情があって母の方から別れを告げたと。だから父のことを恨むな、全ては自分の責任だから、と……母はいつも言っていました」
アリサが俯き、顔の前に流れた淡い金色の髪が彼女の表情を隠した。
「まだ幼かった私には分かりませんでしたけど……、母の言葉は、私にというより自分に言い聞かせるものだったような気がします」
突き放したような口調でアリサが故人を振り返る。
「アリサ、ダリヤさんのことを悪く言うべきじゃない」
そんなアリサを、良太郎がたしなめる。しかしそのセリフには何処か遠慮が感じられた。少なくとも克人の耳にはそう聞こえた。
「偉大な、というのは過大な評価だと思いますが」
克人は敢えて事務的な口調を使った。
「父は先日まで十師族・十文字家の当主でした。十師族はご存じですか?」
十師族、と聞いて良太郎が微かに眉を顰めたが、克人は気付かなかったふりをした。
「知っています。『十文字』さんというのはやはり、十師族の『十文字』だったんですね」
「そうです」
ここで克人は、やや性急かもしれないが、本題に入ることにした。
「そして貴女も十師族・十文字の血を引いています」
「実感がありません……」
「でも魔法は使えるのでしょう?」
他人事のように呟くアリサに、克人がやんわりと切り込む。
「分かりません……」
アリサの答えは、克人にとって予想外のものだった。
「十文字さん。アリサには、魔法に触れないようにさせています。理由はお分かりだと思いますが」
良太郎が意味ありげな視線を克人に向ける。それは皮肉げで哀れむような眼差しだった。
旧第十研で開発された魔法師の中で、魔法演算領域過剰活性化技術『オーバークロック』を与えられた魔法師は十文字家のみ。この機能故に十文字家は旧第十研出身の魔法師の中で「最強の十」と認められたのだが、同時に『オーバークロック』は「魔法演算領域の燃え尽き現象」による魔法力の消失にもつながり魔法師としての寿命を縮めることにもなっている。
十文字家前当主・十文字和樹はまさに『オーバークロック』の度重なる使用により魔法師として引退せざるを得なくなった。最強故に短命、十文字家に与えられたこの宿命を、「十のエクストラ」である遠上良太郎は哀れんでいるのである。
しかし克人は落ち着いていた。
「遠上さん。どうやら貴方は我々の事情をご存じのようです。ならばお分かりでしょう。アリサさんが十文字家の魔法資質を受け継いでいる以上、学ばずにいる方が危険です」
克人の指摘に、良太郎が息を詰まらせる。
「――しかし、積極的に魔法を使おうとしなければ、オーバーヒートのリスクは低い」
「発生の確率が下がるだけです。いったんオーバーヒートが起これば、オーバークロックとの相乗作用で普通の魔法師より重篤化する可能性が高い。制御の術を身に着けなければ危険です」
克人と良太郎が睨み合う。
いや、睨んでいるのは良太郎だけで、克人はむしろ困惑しているようだが、とにかく二人は無言で目を合わせていた。
「あの?」
そこへ不思議そうなアリサの声が割り込む。
「オーバーヒートって何のことです? もしかして、私に関係することですか?」
「それは」
「小父さん、ごめんなさい」
良太郎が慌てて回答しようとするが、アリサに遮られてしまう。
アリサが良太郎を「小父さん」と呼ぶのは、彼女が遠上家の養女になっていないからだ。
「私は十文字さんのお話を聞きたいの」
アリサが克人と目を合わせる。その瞳の中に、それまでの控えめと言うより気弱な印象に反する意志の強さを見出して、克人は内心意外感を禁じ得なかった。
「魔法演算領域のオーバーヒートは命に関わることもある、魔法師に特有の病です。アリサさんは魔法に触れてこなかったそうですので、詳しい説明は省きますが、十文字家前当主の血を引く貴女は、重篤なオーバーヒートを発症する可能性が無視できない」
「私はその病気で死んじゃうんですか?」
死を口にしながら、アリサに怯えている様子は無い。もしかしたら実感が無いだけかもしれないが、それだけではないように克人は感じた。
「いいえ。十文字家の魔法師がオーバーヒートを患いやすい理由は分かっています。その対策も確立している。十文字家で魔法の使い方を修得すれば、オーバーヒートで魔法を失うことはあっても死ぬことはありません」
「そうですか……。それで十文字さんは私にその『使い方』を教えてくれるのですか?」
「そうです」
「…………」
アリサが再び俯いて顔を隠す。
「ですが、今日貴女に会いに来た本題はそれではありません」
しかし克人のこの言葉に、彼女はすぐに顔を上げた。
アリサは何かに気付いたように目を見開き、何かを予感したように顔を強張らせていた。
「アリサさん、十文字家に来てください。今更と思われるかもしれませんが、十文字家は貴女を家族として迎えたい」
黙り込み怯えているようにも見えるアリサに、克人は躊躇わず本来の目的を申し出た。
アリサが良太郎に目を向ける。
縋り付く眼差し。
良太郎は優しい声で「アリサがしたいようにしなさい」と告げた。
アリサが三度俯く。
座卓に隠れて克人からは見えないが、彼女の両手は膝の上で固く握り締められブルブル震えている。
「何故……」
アリサがか細い声を絞り出す。
克人は「何故」に続く質問に見当が付いていたが、アリサが自分の口で言い終えるまで待った。
「……何故、今なんですか」
その質問は、問い掛けというより非難のような口調で放たれた。
「恥ずかしい話だが、我が家がアリサさんのことを知ったのはつい先日なのです。十文字家当主を先月引退した父が貴女の母上の消息を調べさせて、ようやく貴女の存在を知ったという次第で……。私が貴女のことを父から聞いたのは昨日のことなんです」
「母の消息を、調べた? 何故ですか?」
「父は十師族当主の重責から解放されて、ようやくお母上の行方を調べる余裕ができたと言い訳していました。お母上――ダリヤさんのことが、最大の心残りだったとも」
「母と私を捨てたのにですか!?」
アリサが初めて激しい感情を見せる。
「父が二股をかけていたのは事実です。その結果、あなた方母子が苦労しなければならなかったことも。その恨み言は心行くまで父にぶつけてください」
「自分には関係無いと仰るんですか!」
「アリサ、十文字さんに当たるのは筋違いだ」
興奮したアリサを良太郎がたしなめる。
「ダリヤさんが十文字さんのお父上と付き合い始めたのはアリサが生まれる三年前。十文字さんの実の母君が亡くなられた直後のことだ。当時はまだ幼い少年だった十文字さんにとっては、ダリヤさんのことも愉快であろうはずがない。私たちはダリヤさんにお付き合いを止めるよう言ったのだが、耳を貸してはもらえなかった」
「いえ、節操が無かったのは先代・和樹が負うべき咎です。ダリヤさんに対してはただお気の毒にという気持ちしかありません」
良太郎の言葉を克人がきっぱり否定する。それが強がりでないことは、良太郎にもアリサにも直感的に理解できた。
克人の揺るぎない意思に呑まれたのか、激しく荒れていたアリサの心が落ち着きを取り戻す。
「アリサさん」
「はい……」
「貴女には、父親を詰る正当性がある。人でなしと罵る資格がある。これまでの負債を取り立てる権利がある」
アリサが不思議そうな目で克人を見返す。彼女は異母兄が何を言いたいのか分からなかったようだ。
「今までの恨み辛みを叩き付ける為にも、一度父に会ってみませんか。もし一緒に暮らすのが嫌なら、東京にマンションでも用意しましょう。もしここで暮らしたいのであれば、魔法の制御方法を身に着けた後、戻ってくれば良い。私は貴女に十師族としての生き方を強制するつもりはありません。十師族・十文字家当主の名に懸けて約束しましょう」
アリサの隣で、良太郎が目を見開いている。彼の顔には「意外」と大書されていた。アリサも酷く混乱している様子だ。まさか克人がここまでアリサ自身にとって都合の良い提案をするなど、彼女は思いもしなかったのだろう。
「小父さん……」
「アリサ。さっきも言ったように、お前がしたいようにしなさい。ただ私の考えを言わせてもらえば――」
「うん、なに?」
「実のお父さんに会うだけでも会ってきたらどうだろう。東京で暮らすかどうかは、それから決めても良いと思う」
そう言って良太郎は克人に目を向けた。
「もちろん、それでも構いません」
すかさず、克人が頷く。
「少し……考えさせてください」
アリサは結局、目を伏せた状態で答えを保留した。
「分かりました。来週、またお邪魔します。それでよろしいですか?」
「家は構いませんが……」
良太郎がそう言いながら、アリサへ視線を向ける。
「はい……」
アリサは克人と目を合わせぬまま頷いた。◇ ◇ ◇
「アーシャ!」
克人が遠上家を辞してすぐ、アリサとお揃いのカーディガン、同じセーラー服を着た少女が応接間に駆け込んできた。
黒髪ストレートのショートボブ、どんぐり眼の可愛い少女だ。
「ミーナ」
アリサにミーナと呼ばれたこの少女は、遠上家の長女にして末っ子の茉莉花。『ミーナ』というのはアリサの母親が付けた茉莉花の愛称だ。ロシア人女性の名前『ジャスミン』(Жасмин)の略称である『ミーナ』に由来する。――なお言うまでも無いかもしれないが、『アーシャ』は『アリサ』の愛称である。
十三歳にしては大人っぽくきれいな顔立ちのアリサと、溌剌として如何にも「お転婆娘」という雰囲気できれいと言うより可愛らしい顔立ちの茉莉花。外見は似ていないし血のつながりも無いが、二人の間に通い合う空気は友人同士と言うより姉妹のように感じられる。
見た目の印象では、大人っぽいアリサが姉で年相応の茉莉花が妹。アリサが座っていて茉莉花が立っているから分からないが、身長もアリサの方が五センチ近く高い。
だが実は、この二人は誕生日が一日違いの同い年だ。アリサの方が一日早いので、誕生日基準でもアリサが姉、茉莉花が妹という点は間違っていないが。
「まだ着替えていなかったの?」
自分同様制服のままの茉莉花にアリサが訊ねる。
「気になってそれどころじゃなかった!」
茉莉花が座卓の向かい側ではなく、アリサの横に、彼女に向かって座った。アリサは良太郎と茉莉花に挟まれた格好だ。
「茉莉花、襖を閉めなさい」
襖を開けっ放しにした娘の行儀悪さをたしなめる良太郎。
「アーシャ、さっきの男の話は何だったの!?」
だが茉莉花の耳に、いや意識に、父親の声は届いていなかった。
茉莉花に至近距離まで詰め寄られても、アリサは後退ったり仰け反ったりはしなかった。
鼻と鼻がくっつきそうな距離で、穏やかな微笑みを浮かべて茉莉花の目を見返すアリサ。
これには茉莉花の方が少し顔を赤らめて、恥ずかしそうに身を引いた。
「さっきの男って十文字さんのこと?」
「十文字って十師族の!? 十師族がアーシャに何の用があるっていうの?」
「あの人、血のつながった私の兄さんなんだって。それで、東京で一緒に暮らさないかって」
「アーシャ、東京に行っちゃうの!?」
茉莉花がアリサの両肩を挟み込むように掴む。
「ダメだよ! 行っちゃやだ!」
茉莉花が再びアリサに迫る。
――チュッ
しかしその直後、茉莉花は両膝を突いた体勢で襖が開いたままの廊下まで後退った。「ズザーッ」というマンガチックな効果文字が目に浮かぶような勢いだった。
茉莉花が顔を真っ赤にしているのは、アリサにキスをされたからだ。――唇ではなく、鼻の頭だが。
「ごめんなさい。ミーナが可愛かったから、つい」
口をパクパク開け閉めするだけで声を出せない茉莉花に、チロリと舌を出してアリサが言い訳する。先刻まで克人の前で見せていた硬い態度からは想像し難い茶目っ気だ。
娘たちの淫らな(?)一幕を見せられた良太郎は平然としている。この程度のじゃれ合いは、つい二、三年前までは日常的に見られる風景だった。
「私だってミーナと別れたくはないよ」
アリサがポツリと告げた一言に、茉莉花が赤面したまま期待に目を輝かせる。
「でも十文字さんが言うには、私、このままだと長生きできないんだって」
「それ本当っ?」
勢い良く躙り寄ってきた茉莉花の質問は、アリサではなく良太郎に向けられたものだった。
「絶対に早死にすると決まっているわけじゃない。その可能性があるというだけだ」
「でも、可能性はあるんだ?」
娘に問い詰められて、良太郎が言葉に詰まる。
「……それでね。そうならない方法を十文字さんが教えてくれるそうなの」
「じゃあ教えてもらおうよ!」
勢い込む茉莉花にアリサは曖昧な笑みで応えた。
茉莉花の表情がハッと何かに気付いたものに変わる。
「……もしかして、東京で一緒に暮らすのが条件?」
「うん、そう」
コクリと頷くアリサ。
茉莉花の顔が、違う意味で赤くなった。
「何それ! 人の弱みに付け込んで! 卑怯! サイテー!」
「茉莉花」
そのまま何処までもエキサイトしていきそうな茉莉花に、良太郎がブレーキを掛ける。
「アリサも、そろそろ着替えてきなさい。この話は芹花さんも交えて後でじっくりしよう」
芹花は良太郎の妻、茉莉花の母の名だ。
「はい」
一人でゆっくり考える時間が欲しかったアリサは、良太郎の言葉に素直に頷いた。
「……はーい」
茉莉花もやや不満げながら、先送りに同意した。◇ ◇ ◇
茉莉花は自分の部屋に戻り、ベッドに寝転んで「はぁ~っ」と大きくため息を吐いた。だがすぐに「このままでは制服に皺が付いてしまう」と思い直し、ベッドから降りて着替えの為にカーディガンとセーラー服を脱いだ。
三月とはいえまだ雪が残っている。朝晩の気温は氷点下まで下がり、日中も摂氏十度に届くことは無い。にも拘わらず、セーラー服の下はブラとショーツ、それにサイハイソックス――太ももの半ばまであるオーバーニーソックス――だけだった。
中学一年生にしては中々グラマーだ。ブラジャーのカップはC。だが、決して太っているわけではない。身体を動かすのが好きなのか、腰は引き締まっていてお腹に贅肉は見当たらない。
ただソックスとショーツに挟まれた領域は率直に言ってむっちりしており、茉莉花の密かでない悩みの種だった。
彼女の自室は元々七歳年上の兄が使っていた部屋だ。小学生の頃はアリサと同じ部屋を使っていたのだが、兄の遼介が関東の大学――魔法大学ではない――に進学したのを機に個室をもらったのである。
なおその兄は去年の一月、USNA旧カナダ領域バンクーバーに留学して、その二ヶ月後に消息を絶っている。一年が経過して未だに音信不通だが、父も母も茉莉花もほとんど心配はしていない。
魔法師の遺伝子を受け継ぐ者には許されないはずの留学が、交換留学という形で何故か許可された。その段階で本人も家族一同も胡散臭さを感じていたし、それを承知の留学だった。
どうせ「数字落ち」である遠上家の者には、魔法師としてまともな活動の機会など期待できない。「数字落ち」に対する差別はかなり薄れている。だがそれでも、魔法師社会で活躍できるのは元々の「数字」を隠している場合に限られる。各ナンバー研究所由来の特殊能力を使わない、それが魔法師のコミュニティに「数字落ち」が受け容れられる条件だ。
だが遠上家の魔法は「十」の特徴を非常に強く受け継いでいる。旧第十研由来の魔法を隠したままでは二流、せいぜい一流半の魔法師にしかなれない。そんな風に自分を偽らなければならないくらいなら、魔法師以外の生き方を選ぶ。それが遠上家の方針だった。
だがその様なしがらみは、日本国内に限った話だ。日本を脱出できれば、本来の自分として活躍できる道が開ける。遼介は留学先のバンクーバーからそういう趣旨の手紙を送ってきた。傍受を警戒したのか電子メールではなく、態々エアメールで。だから父も母も茉莉花も、失踪は遼介自身の意思だと思っていた。故にそれほど心配していないのである。
(……お兄、今どこにいるの?)
しかし茉莉花は今、兄の不在に愚痴を零さずにいられない心境になっていた。
年が離れている所為か、遼介は茉莉花にとって甘えさせてくれる良い兄だった。茉莉花も遼介によく懐いていた。
その茉莉花よりも遼介を慕っていたのがアリサだ。今ここに遼介がいてアリサの東京行きに反対してくれたなら、アリサは迷わずその言葉に従っていただろう。いや、もしも遼介があのまま東京近隣の大学に通っていたら、アリサは彼が近くにいるという理由で東京に行くと決めるかもしれない。だがその場合、遼介が北海道に戻ってくればアリサも戻ってくるに違いない。
茉莉花の両親はアリサに遼介と結婚して動物病院を継いで欲しいと考えている。アリサもそれを嫌がっていない。まだ中学一年生だが、獣医を目指しているのがその証拠だ。――なお留学前の遼介は工学部、茉莉花は勉強が苦手だから、遼介と結婚するとしてもしないとしてもアリサが良太郎の後を継ぐのに障碍は無い。無論、良太郎も茉莉花もアリサに病院を継げと強要するつもりも無い。
茉莉花の本音は、アリサに東京へなど行って欲しくない。ただ、血のつながった家族と暮らしたいとアリサが望むなら、自分が邪魔するのは間違いだと理解するだけの分別はあった。
それに、アリサに万が一のことが起こる可能性を低減する方法があるというなら少しの間くらい寂しさを我慢できるし、また我慢すべきだと茉莉花も思う。
アリサには遺伝的に早逝する要素がある。それを遠上一家は知っていた。良太郎とその妻・芹花だけでなく、長男の遼介も知っているし茉莉花にも教えられている。当時まだ小学生だった少女に告げる内容ではないかもしれないが、もしもの時に適切な行動が取れるようにと母親の芹花が敢えて伝えたのだ。
その遺伝的要素とは、十文字家のものではない。母親から受け継いだものだ。
アリサの母、ダリヤは新ソ連が作り出した調整体だった。
新ソ連の遺伝子操作技術は、豊富な実験サンプルの蓄積によって日本よりもむしろ進んでいる。だが魔法師の調整は生化学的な遺伝子操作だけで成否が決まるものではない。実は魔法的、より正確な表現を期するならば呪術的な要因が強く影響している。新ソ連の調整体技術はこの面のアプローチが弱かった。
元々オカルト的なものへの親和性が高い土地柄であるにも拘わらず、いや、だからこそかもしれないが、新ソビエト連邦建国時にあの国は唯物主義に傾いた。国力低迷時代への反動だったのかもしれない。
魔法という精神的な技術に対しても、長い間、魔法式の数学的な分析と改良に拘っていた。――原理面を重視しすぎた所為で応用的な、エレクトロニクスを利用した魔法工学技術が停滞したのは皮肉というしかないが、その点は取り敢えず今は関係無い。
要点は、新ソ連が開発した調整体は日本やUSNAの調整体に比べて生命体として不安定であるという事実だ。形質的には異常が見付からないにも拘わらず、肉体が正常に機能しない例が頻発した。医学的には原因不明。ただ強い魔法を使えば使う程、肉体の機能不全が発生するという相関が経験則的に判明しただけだった。
新ソ連がスパイ活動を通じて調整体の胎児期に、精神を遺伝子改造された肉体に適合させる処置――呪術的な儀式を分析して現代魔法にアレンジしたもの――が必要であると知ったのは最近のことだ。二十年近く前に亡命してきたアリサの母親ダリヤ・アンドレエヴナ・イヴァノヴァは、当然この適合処置を受けていない。ダリヤは魔法を使わない生活をしていたからか、肉体の変調に襲われることは滅多に無かったが、結局若くして病死してしまった。
魔法を使わなくても調整体の宿命からは逃れられなかったのだ。調整体第二世代であるアリサも、いつ調整体の悲劇に見舞われるか分からない。そこに十文字家のネガティブな要因――それが具体的に何なのか茉莉花は知らない――が加われば、悲劇の確率はますます上昇してしまう。
悲劇を避ける、少なくともその可能性を引き下げる手段があるなら手に入れるべきだ。そこに議論の余地は無い。
ただ茉莉花は、絶対に必要なことの為であってもアリサと別れて暮らすのは嫌だった。
理屈ではない。
彼女はセーラー服を脱いだ状態で着替えを中断したまま――下着姿のまま、ぺたんと床に座り込んだ体勢で自分の感情を持て余していた。◇ ◇ ◇
茉莉花の部屋の前で彼女と別れて、自分の部屋の学習机の前にアリサはそっと腰を下ろした。
音を立てず、長いため息を吐く。物音を立てないようにするのは彼女の癖だった。何故そんな癖が付いたのかはアリサ自身にも分からない。特に苛められたり虐げられたりした記憶は無い。躾に関しても、遠上家は大らかな方だ。
彼女はそのまま一分以上、じっとしていた。制服を着替えなければと思ってはいるが、中々身体が動かない。克人との面談は、それほど長い時間でなかったにも拘わらず彼女を深く消耗させていた。
(とにかく、着替えなきゃ)
アリサは心の中で呟いてゆっくり立ち上がった。
まず紺色のカーディガンを脱いでハンガーに掛ける。
次に臙脂色のスカーフを抜き取り、袖のボタンを外し、フロントのファスナーを下げる。
セーラー服の下はスリップではなくブラカップ付きのキャミソール。
アリサの華奢な上半身のラインが露わになる。
スリムと言うより未熟。胸もようやくAカップまで育ったところで、同年代の中でも遅い方だがアリサは余り気にしていなかった。
スカートのホックを外し、サイドファスナーを下ろしてスカートを脱ぐ。
黒いタイツに包まれた細く形の良い脚が露わになった。
小女性愛者でなくても目を離せなくなる妖精のような肢体だ。
未熟な上半身が、かえってその魅力を引き立てている。
クローゼットのハンガーに脱いだセーラー服を丁寧に掛け、セーターとウールのスカートを取り出しながらアリサはさっきの会話をぼんやり思い出していた。
(私、どうなるのかな……?)
早死にすると言われても実感は乏しい。母親との死別という身近に死を感じた経験はあっても、アリサはまだ十三歳。自分自身の死は未だ遠い世界の出来事だ。
彼女は普通の十三歳とは違って、自分が不安定な存在であることは知っている。だがそれは教えられた知識だ。稀に揺らめく炎のような「何か」の片鱗を自分の内側、自分の奥底に感じる時はあっても、それが己が身を脅かすものなのかどうかは正直なところ分からない。それが何でどんな性質のものなのか、明確に認識できる形での体験がないから、自らを害する脅威なのかどうかを判断できない。
(結局、私は自分のことを本当の意味では知らないんだ……)
圧倒的な知識不足、経験不足。中学一年生なら当たり前かもしれないが、自分は当たり前の中学生とは言えない。きっと、当たり前では済ませられない。
(知らなきゃならないのよね……多分)
自分が死ぬことへの実感は無くても、死がどういうものなのかなら、アリサは理解している。
死。
死別。
それは、思い出になってしまうということ。
二度と会えなくなるということ。
(ミーナやリョウ兄さん――遼介さんに会えなくなるのは……嫌だな)
死にたくない、ではなく、好きな人に会えなくなるのは嫌。それがアリサの中で出された結論のようなものだった。◇ ◇ ◇
遠上家のテーブルに克人の提案が話題として上ったのは、食事が終わって後片付けを済ませた後だった。なお食後の皿洗いその他は茉莉花とアリサの仕事だ。「娘」の躾に関して、良太郎の妻・芹花は茉莉花とアリサを差別しない。
きれいに片付いたテーブルに芹花が人数分のティーカップを並べたところで、良太郎が「アリサ」と呼び掛けた。――余談だが、遠上家は紅茶党である。
まず芹花が良太郎の隣に座り直し、良太郎の正面に「はい」と応えたアリサが、その隣に茉莉花が腰掛ける。
「アリサの考えを聞く前に、今回の話の整理と補足をしようか」
全員が着席したのを見届けて、良太郎が口火を切った。
「今日、十師族・十文字家当主が家に来てアリサを引き取りたいと言ってきた。現当主の克人氏はアリサの異母兄だ。このことはもう、アリサも知っている」
芹花が「そうなの?」とアリサに目で訊ねる。
アリサは芹花に向かってコクンと頷いた。
「十文字家はつい最近までアリサの存在を知らなかったらしい」
「そんなことってある?」
芹花が棘のある口調で疑問を呈する。
「私が受けた印象だが、嘘は言っていなかったと思う」
「それはそれで腹が立つわね……」
芹花はどうしても納得できない様子。十文字家に対する怒りは良太郎よりも彼女の方が強いようだ。芹花は良太郎と違い元『十神』ではないから、旧第十研絡みの怨みではなく同じ女性として亡くなったダリヤの境遇に対する強い同情が反映されているだろう。
「それで、十文字さんのお申し出はそれだけ?」
どうやら芹花は詳しい話を聞いていないらしい。良太郎が経緯を整理しているのは、主に芹花の為なのだろう。
「アリサを引き取って、十文字家に特有の魔法疾患を予防するテクニックを教えておきたいというのが提案の趣旨だ」
「お父さん、その疾患って何?」
茉莉花が問いを挿む。彼女はさっきからずっと、それが気になっていた。
「旧第十研で開発された魔法師の中で『最強の十』と呼ばれた十文字家には『鉄壁』の異名を支える切り札となる特殊なスキルがある」
良太郎もこの話を始めた時から、その点については説明するつもりだった。
「一時的に魔法演算領域を超過稼働させることで、術者の限界を超えた魔法力を絞り出す秘術。だがそれは同時に、術者自身の身を損なう諸刃の剣だ」
「身を損なうって?」
茉莉花が話の腰を折るが、良太郎に気にした素振りは無い。
それこそが要点。最初から、質問されれば幾らでも答えるつもりだった。
「魔法師の、いや、人の無意識には森羅万象の情報を取り込み、それを意識で認識できる形態に加工する領域がある。これを私たち魔法師は『魔法演算領域』と呼んでいる」
「加工って?」
茉莉花の素朴な疑問。
別に、彼女の理解力が貧弱なのではない。アリサも口にしないだけで、同じ事を思っていた。
「世界は本来一体の存在で、その情報は膨大すぎて人間の意識には収まりきらない。だから一にして連続不可分の世界の情報を、私たちに認識できる大きさへと切り分ける加工を無意識で行っていると言われている。分かるかい、茉莉花?」
良太郎が態々念押ししたのは、娘の学業成績が芳しくないことを知っているからだった。
「へぇー」
案の定、茉莉花は分かったようで実は理解していない顔をしている。
「ミーナ、ホールケーキをそのまま出されても食べにくいでしょう? ケーキを出す時は食べやすいように八つに切って、お皿に取り分けて、フォークを付けるじゃない。それと同じようなものじゃないかしら?」
「なる程ぉ。さすがはアーシャ、お皿に盛るだけじゃなくて、フォークを付けるってところがミソだね。そうでしょ、お父さん」
「……まあ、それで理解できるなら構わない」
心の中では「もう中学生だというのに、家の娘たちは大丈夫か?」と思った良太郎だが、余り脱線しすぎるといつまでも話が終わらないしお説教する程のことでもないと考え直した。
「話を戻すぞ。魔法はこの精神機能を逆転させ、人の認識を世界に反映させる技術だ。何故そんなことができるのかは取り敢えず脇に置く。魔法は魔法演算領域の働きによるものとだけ分かっていれば良い」
アリサと茉莉花が揃って頷いた。なお芹花は、レベルはそれ程高くなくても一人前の魔法師なので、この辺りのことは常識として知っている。
「魔法演算領域の性能は人間一人一人で異なる。魔法師でない人間はその性能のレベルが現実を書き換える最低ラインに達していない為、魔法を使えない」
ここで良太郎は表情を改めた。
「茉莉花。アリサ。二人とも勘違いしてはいけないよ。魔法師は魔法演算領域の性能が高いから魔法を使える。だけどそれは、魔法師がそうでない人間より優れているという意味ではない」
魔法師に対する間違った劣等感は疑心暗鬼、恐怖に変わり「人間主義」に結実しテロにまで発展している。間違った優越感は、そんな間違った劣等感以上に人を歪ませる危険性がある。
魔法師は決して優越種ではない。それを肝に銘じておかなければならない。
――良太郎は娘たちにそう教えようとしていた。
しかし。
「えっ? そんなの、当たり前でしょ」
茉莉花が呆れ声を漏らし、アリサがその言葉に、控えめに頷く。
この二人には念押しの必要など無かったようだ。
「そうか。分かっているなら良い。偉いぞ、二人とも」
良太郎の称賛を受けて、茉莉花が得意げに鼻孔を膨らませる。中学生といってもこういうところはまだまだ子供だ。
アリサの反応はもう少し大人っぽかったが、それでも嬉しそうな表情を隠していない。
良太郎が二人に慕われている証拠だろう。この一幕を見たなら、世の多くの父親は羨望を懐くに違いない。
ここで良太郎が小さく咳払いをした。もしかして、照れ臭かったのだろうか。
「……魔法演算領域の性能差は当然、魔法師同士の間にもある。魔法の才能と呼ばれているのは、大部分魔法演算領域の性能のことだ。この性能は持って生まれたものに大きく左右されるが、それだけではない。ある程度は後天的に鍛えることができる。しかし先天的なものにせよ後天的なものにせよ、その時点で発揮できる性能には限界がある。イコール、魔法師の力の限界だ」
茉莉花からも、アリサからも質問はない。
二人とも、話の続きを待っている。
いよいよ本題だと予感している目を、二人は良太郎に向けていた。
「だがさっきも言ったとおり、十文字家にはこの限界を一時的に乗り越えるスキルがある。魔法演算領域の活動を本来の上限以上に引き上げて、限界を超えた魔法力を発揮するスキル、オーバークロック」
「昔のコンピューターに同じ用語がなかったっけ?」
首を傾げる茉莉花に、良太郎が頷きを返す。
「茉莉花の言うとおりだ。オーバークロックという用語は昔の個人用コンピューターの改造技術に由来している。単に言葉の一致だけでなく、パフォーマンスを向上させる点も、故障や寿命短縮につながる点も同じだ」
「そのスキルを使うと寿命が縮むんですね?」
今度はアリサが訊ねる。
良太郎は答えを躊躇わなかった。
「限界以上の力を引き出せば耐久限度を超えた負荷が掛かる。それは機械も人間も、肉体も精神も同じだ。本人の限界を超えた魔法は魔法演算領域を損傷させ、その寿命を縮める。魔法演算領域のオーバーヒートと呼ばれる症状だ。オーバーヒートは魔法師ならば誰にでも起こりうる病だが、オーバークロックのスキルはその発生リスクを高めてしまう」
「それが小父さんと十文字さんが言っていたオーバーヒートなんですね……」
アリサが「ようやく分かった」という顔で頷く。
良太郎は目で頷き返して話を続けた。
「オーバーヒートの影響は魔法演算領域、魔法技能だけに留まらない。魔法演算領域は魔法師だけにあるものではなく、本来は魔法を使う為のものですらない。人が世界を認識し、世界の中で生きていく為の機能だ。魔法演算領域の機能が停止すれば、人は世界を正常に認識できなくなる」
「狂ってしまうということ?」
「運が良ければね」
良太郎は娘の質問に硬い笑みで答えた。
「魔法演算領域の本来の役割は、世界の姿を人が認識できる大きさに切り分けることだ。人は世界の、ありのままの姿に耐えられない。大きすぎる情報に曝された人間に待っているのは、ショック死だ」
「…………」
アリサと茉莉花が言葉を失う。
「……悪いことに、十文字家の魔法師にはオーバークロックのスキルが先天的に備わっている。本人が意識しなくても、知らず知らずの内にオーバークロックを使ってしまうリスクは、確かに小さくない。自分の精神を守る為には、スキルを使わないだけでは不十分だ。スキルが暴走しないように、コントロールしなければならない」
「小父さん」
アリサがそれまでにまして、真剣な顔を良太郎に向ける。
「つまり、十文字さんの言葉が正しいということですか?」
「オーバークロックに関しては、彼は嘘を言っていない」
「スキルを意識的にコントロールして、オーバーヒートを起こさないようにする方法を教えられるのは十文字家だけなんですね?」
「あのスキルを与えられたのは、旧第十研で開発された魔法師の中でも十文字家だけ。使い方を教えられるのもあの家だけだろう」
「分かりました」
頷いたアリサの顔付きは、今までよりもむしろ穏やかになっていた。
「小父さん、本当のことを教えてくれてありがとう」
アリサがぺこりと頭を下げる。その表情は、既に決意を固めているもののように見えた。
「アリサが十文字家の教えを受けなければならないのは分かりました」
ここで、まるでアリサが決定的な一言を発するのを遮るように、芹花が口を挿む。
「でもそれなら、東京でスキルのコントロール方法だけ教わって、またここに帰ってくれば良いのではないかしら」
「十文字さんはそれでも良いと仰った」
芹花は良太郎の答えに意外感を隠せなかった。
「だったらお言葉に甘えましょうよ」
だがすぐに気を取り直してそう続けた。その言葉はきっと、良太郎にというよりアリサに向けたものだった。
「そういうわけにもいかないだろう……」
しかしアリサが反応するより先に、良太郎が首を横に振る。
「魔法師各一族が持つ固有技能は原則として門外不出。ましてやオーバークロックは十文字家を最強たらしめている秘術だ。教わるだけ教わって後は無関係というのは、幾ら当主が許容しても周りの者が許すまい」
「それは……」
「そもそも十文字家は、血を分けた娘を引き取ると申し入れてきているのだよ。責任を放棄するとか金銭で処理したいとかなら幾らでも文句を付けられるだろうけど、今までの分も責任を取ると言っているんだ。口出しするにも限界がある」
「…………」
芹花もその程度の理屈は分かっているようで、何も言えなくなってしまう。
「アーシャはそれで良いの?」
そう言いながら、茉莉花が隣の席からアリサの腕に縋り付いた。
「東京よ、ミーナ。同じ日本。二度と会えなくなるわけじゃないんだから」
「東京は遠いよ。会いたい時に会えないんだよ」
「ヴィジホンで顔は見られるし、お話もできるでしょう?」
「でも、触れない」
目尻に涙を滲ませた茉莉花がアリサの手を取って、両手で包み込む。
「電話越しじゃ温もりは分からないよ」
「もう、ミーナったら……」
アリサは茉莉花に手を預けたまま柔らかく微笑んでいる。
その笑みは、泣くのを堪えているようにも見えるものだった。