• NOVELS書き下ろし小説

  • リッパーvs石化の魔女

    [8]『決行』

     

     十月二十八日、日曜日午後七時半。
     有希ゆき鰐塚わにづかは国防陸軍のK市基地から徒歩約十分の写真スタジオにいた。金曜日に妙子たえこ若宮わかみやを連れ込んだ所だ。
     この貸しスタジオは今回の仕事で中継基地として使うために亜貿社あぼうしゃが架空名義で借り上げている物件だった。有希ゆきには余り必要のない物だが、移動手段として自走車が必須のスナイパーにとって中継基地は欠かせない。
     ここもスタジオそのものよりも付属する駐車場目当てで、有希ゆきの為ではなく妙子たえこの為に用意された拠点だ。
     今日は妙子たえこの運転手も鰐塚わにづかが務めている。有希ゆきが今、ここにいるのは鰐塚わにづかのお付き合いという側面が強かった。
    「アニーから連絡はあったか?」
     有希ゆきが腕時計を見ながら鰐塚わにづかに問い掛ける。
    「ええ。たった今、配置に付いた合図のシグナルを受信しました。まだ三十分……いえ、二十八分ありますから、少し早すぎるような気もしますけど」
     彼女たちの仕事は、早ければ早い程良いというものではない。
     特にスナイパーである妙子たえこは大きな狙撃銃を持ち歩いている。待機時間が長くなればそれだけ、発見されるリスクも増大する。
     鰐塚わにづかの懸念はもっともだったが、有希ゆきは余り心配していなかった。
    「あいつも素人じゃないんだ。その辺りのことは、ちゃんと考えているだろ」
    「そうですね……」
     鰐塚わにづかも本気で心配しているわけではない。今回の仕事は色々な点でいつもとは勝手が違うので神経質になっているだけだと、彼自身自覚していた。
    「……良い場所が確保できたなら、それに超したことはない。そもそも狙撃可能なポイントに潜り込めるかどうかも賭けだったからな」
     しばらく沈黙が続いた後、有希ゆきが思い出したように、こう付け加えた。
    「しかし、ターゲットを上手く誘導できるでしょうか。ターゲットが窓のある部屋にいるかどうかすら分かっていないんですが」
     鰐塚わにづかもずっと妙子たえこのことを考えていたのだろう。有希ゆきの言葉に、すぐ反応した。
    「ダメなら別の手を考える。とにかく、最終的にまとれれば良いんだ。出たとこ勝負はいつものことだろ」
    「それはそうですが……、今回はいつも以上に計算できない要素が多すぎます。ナッツ、くれぐれも引き時を誤らないでください」
    「分かってるよ。あたしだって、軍に捕まって実験台になるのはごめんだ。……おっと、もうこんな時間か」
     再び目を遣った腕時計は、八時十五分前を指していた。
    「あたしもそろそろ行くよ」
    「車は何時でも出せる状態にしておきます。ナッツ、お気をつけて」
    「ああ」
     有希ゆきは軽く手を振って、スタジオの裏口に向かった。荷物は少ない。彼女は小さなレディースのデイパックを背負っているだけの軽装だった。

    ◇ ◇ ◇

     妙子たえこに予告された時間を間近に控えて、若宮わかみやも研究施設襲撃のスタンバイに入っていた。
     彼に迷いが無かったわけではない。妙子たえこの言うことを全面的に信じて良いのかという疑念は、若宮わかみやの中から消えていない。だが、他に手掛かりは無い。彼は「疑ってみても、仕方が無い」と割り切ってこの夜に臨んでいた。
     彼が隠れているのは、研究施設の向かい側にある、安さが取り柄のコーヒーチェーン店だ。若宮わかみやは大胆にも――あるいは、無謀にも――正面玄関を突破するつもりだった。
     もちろん彼にも勝算はある。警備システムダウンという非常事態が発生すれば、警備兵は持ち場を死守するよう命じられるに違いない。
     応援が駆け付けるには、いつもよりも時間が掛かるはずだ。
     正面玄関の警備兵は四人。一般の兵士では四対一でも若宮わかみやには敵わない。
     自分を改造した者たちに懐く彼の怒りと憎悪に嘘は無い。しかし同時に、若宮わかみやは彼らによって植え付けられた自分の戦闘力に自信を持っていた。
     若宮わかみやが空のカップを長テーブルに置き、腕時計に目を落とす。
     時刻は七時五十五分。
     支払いは商品と交換で終わっている。若宮わかみやは席を立って表に出た。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆき若宮わかみやより、少しだけ慎重だった。
     ここの研究施設は、カムフラージュの為か平凡なオフィスビルのような外観を呈している。周囲の建物に高さ制限が掛けられているということもない。道路を挟んだ隣のビルは、研究施設とほぼ同じ高さだ。
     彼女はそのビルの、屋上に侵入していた。
     道路の幅は八メートル。ビルとビルの間隔は十二メートル前後。普通の人間でも、ちょっとした道具を使えば跳び越えられる距離だ。
     無論、その程度のことは国防軍も認識していて、屋上には侵入防止の警備装置が設置されている。だがそれで安心したのか、兵士の見張りはいない。警備システムが生きている限り使えない「道」だったが、もうすぐその問題は解消される。
    (あと一分……三十秒……時間だ!)
     研究施設の窓から漏れていた光が、いきなり消えた。
     有希ゆきが掛けているゴーグルに映っていた赤外線の網も消え失せている。
    (……いつもながら恐れ入るぜ)
     一秒の狂いもない鮮やかな手並みに有希ゆきは舌を巻いた。
     同時に彼女は『身体強化フィジカル・ブースト』を発動した。
     異能の力が有希ゆきの肉体を満たし、彼女のパワーとスピードが数倍から十数倍に増幅される。
     強化していない状態でも、有希ゆきは走り幅跳びでコンスタントに七メートルを跳ぶ。不十分な助走距離、足場の悪さ、フェンスの存在など様々の不利な条件を勘案しても、十二メートルを跳び越えるのに必要な強化率は五倍もあれば十分だ。
     彼女は迷いも恐れも無く、ビルの谷間に跳び出した。
     有希ゆきの小柄な身体が夜空に舞う。防刃手袋に守られた有希ゆきの手が、研究施設の鉄柵を危なげなく掴んだ。無論、彼女の足は屋上の縁をしっかり捉えている。
     有希ゆきは軽々と柵を乗り越え、国防陸軍K市強化施設への侵入を果たした。

    ◇ ◇ ◇

    (ハァ……。噂以上に凄い身体能力ですね)
     妙子たえこは双眼鏡を目に当てたまま、心の中で感嘆を漏らした。
     彼女が潜伏している場所は、基地を挟んで研究施設の反対側。およそ八百メートル離れたビルの一室だった。
     狙撃するには少々距離がある。だが他に適当なポイントが見つからなかったのだ。研究施設の窓は基地に面している側以外、全てダミーだったのである。
     妙子たえこは夜間、無人となった事務所の窓から標的となる研究施設を双眼鏡で観察していた(「観測」と表現した方が適切かもしれない)。そこでちょうど、有希ゆきの跳躍を目撃したのだった。
    (あの距離を跳ぶパワーもですが、それより距離感とバランスが素晴らしい。幾らパワーやスピードを増幅してもそれだけでは、ああはいかない。パワーに振り回されて体勢を崩すのが関の山です。どうやらナッツは、異能頼りの力自慢ではないようですね……)
     有希ゆきの評判を、妙子たえこは様々な同業者から聞いていた。情報源は亜貿社あぼうしゃの同僚だけでなく、「ナッツ」の正体を知らない商売敵も含まれている。
     彼らの「ナッツ」に対する評価は、一様に高かった。
     ただそのほとんどが、「人間離れした身体能力」に言及したものだったのである。
     妙子たえこはそこに、一抹の不安を覚えた。「ナッツ」は「異能頼りの力自慢」ではないか、と。だが今、その懸念は払拭された。流れ弾によるフレンドリーファイヤの心配はしなくても良さそうだ。
    (さて、もう一人の方は何処にいますかね)
     妙子たえこが考えたのは若宮わかみやのことだ。彼がいるのは研究施設の正面。彼女の位置からは、建物の陰になって見えない。
    (また馬鹿な真似をしてなきゃ良いんですが)
     妙子たえこは自分がフラグ・・・を立ててしまったことに気付いていなかった。

    ◇ ◇ ◇

     研究施設の正面では、大きな騒ぎが起こっていた。警備の兵士が続々と集まってきている。その素早さは、明らかに若宮わかみやの見込み違いだった。
     国防軍の施設は原則として非常時用の独立電源を備えている。もちろん、この研究施設にも自家発電設備がある。
     だから、普通・・の理由による停電は発生しない。
     事故にしろ犯罪にしろ、外部要因で電気の供給が止まることはあり得ないのだ。停電が発生するとすれば、その原因は内部で発生した故障か、人為的な事故か、破壊工作か。
     だが故障や事故なら、警備システムへの電力供給まで全面的に止まってしまうというのは考え難い。警備責任者は真っ先に、破壊工作を疑った。
     そこに侵入者の出現である。正面エントランスが賊に突破されたという報せに、警備隊長は他所の警戒をいったん棚上げにして全隊に正面エントランスへ向かうよう命じた。
     元々エントランスを警備していた四人の兵士は予定どおり一分も掛けず倒した若宮わかみやだったが、通報を許したのは予定外の失策だった。その点、彼は普通・・の兵士の力量を過小評価していたと言える。
     応援が駆け付けてくる足音に、若宮わかみやは倒した兵士の端末から館内情報を入手する計画を諦め、闇雲にエントランスから逃げなければならなくなった。
     彼にとって幸運だったのは、停電によって施設の中がほとんど真っ暗になっていたことだろう。
     急に暗闇へ放り込まれた警備隊は、暗視装置を準備できなかった。廊下に窓は無く、唯一の光は各隊員が持つ携行ライトのみ。
     警備兵が操る細く絞り込まれたライトの光条を避けて動くのは、若宮わかみやにとって難しいことではなかった。
     しかし警備隊を避けて闇雲に走り回った所為で、彼は自分の現在位置を完全に見失ってしまっていた。辛うじて分かるのは、自分が今三階にいるということくらいだ。
     このまま当てもなくうろうろしていたのでは、ターゲットまでたどり着ける可能性は限りなくゼロに近い。
     手掛かりを得るには、手当たり次第に扉を開けてそこにいた職員から話を聞き出すか、警備兵を逆に襲って訊問するか。
     しかし、ついさっき警備兵を過小評価した所為で現在の状況に陥っている若宮わかみやとしては、心理的に後者の手段は選びにくかった。
     かといって、扉の向こうに何があるのか、何が潜んでいるのか全く分からない。目に付いた部屋に片っ端から押し入るというのは、余りにも不確実性が大きい。
     若宮わかみやは、闇の中で立ち竦んでしまった。

    ◇ ◇ ◇

     屋上の扉に、鍵は掛かっていなかった。
     電気の供給が途絶えたのを受けて、電子錠が解除されたのだ。避難経路が閉鎖されてしまうのを防止する為の仕組みとしては妥当な物だが、有希ゆきの目には酷く不用心に見えた。
     一般の建物ならば、災害に備えて避難路確保を最優先するのは正しいだろう。だが軍事施設を民間のビルと同じポリシーで運用するのは如何なものか。――もっとも、そのお陰で有希ゆきは鍵を壊す為に苦労する必要が無かったのだが。
     彼女は扉を開け、用意しておいたストッパーで閉まらないよう固定し、転落防止柵へと駆け寄った。侵入に使った側ではなく、基地に面する側に。
     有希ゆきは鉄柵に手を掛け、何度か揺すって強度を確かめると、デイパックを背中から下ろしてコンパクトに纏められたザイルを取り出した。
     ザイルを鉄柵にしっかり結び付け、その端をベルトの金具に固定する。
     金具の具合を確かめると、今度は座り込んで靴底にソフトスパイクのような物を取り付けた。スパイクは爪先に集中している。
     立ち上がってスパイクが外れないことを確認するや、彼女はひらりと鉄柵を跳び越えた。
     いったん屋上の縁を掴んで落下を止め、そのまま壁面へと下りる。壁に張り付いただけでなく、そこから横に移動を始めた。
     この、まるで蜘蛛のような動きを可能にしているのは、有希ゆきが着けている手袋と靴底に固定したソフトスパイクだ。亜貿社あぼうしゃが現代忍者用の装備として最近開発した、その名も『壁蜘蛛』だが、ブロック状の装飾がされた外壁ならともかく凹凸が少ない壁面を移動するには、強い腕力と軽い体重という条件を満たさなくてはならない為、事実上有希ゆきの専用装備となっている。
     有希ゆきは最上階各部屋の窓に近づき、耳を澄ませて中の音を窺った。
     事前の調査では、ターゲットの居場所を特定することまではできなかった。だがこの施設の基本的な構造については調べがついている。
     この建物でまともに宿泊できる部屋は最上階にしかない。実験体の私室はもっと下の階にあるが、造りは入院用病棟の大部屋と大差がない。仮にも佐官である多中たなかを軟禁している場所は、最上階以外にあり得なかった。
     有希ゆきは端から順番に窓へ近づき、耳を澄ませた。
    (……ここか)
    『身体強化』で増幅されている聴力は窓に耳をくっ付けなくても、ある程度近づくだけで室内の話し声を聞き分ける。この窓の向こう側から聞こえてきた声は、間違いなくターゲット――多中たなか少佐のものだった。
     そしてもう一人、若い女性の声も有希ゆきの耳に届いていた。
    (こっちは護衛の魔法師だろうな。仲間なかま杏奈あんなか……)
     多中たなかの護衛についている女性兵士の素性については若宮わかみやから聞いている。
    『石化の魔女』の異名を持つ強化措置を受けた魔法師。仲間なかま杏奈あんな
     有希ゆきの脳裏に、彼女自身の手で命を奪った女子大学生の顔が浮かび上がる。
    「…………」
     彼女は軽く頭を振って雑念を意識から追い出し、窓のすぐ横にベストから取り出したボタン大の機械を貼り付けた。そして窓が端から何番目かを改めて確認し、壁を登って再び屋上に上がった。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきが研究施設に忍び込んだのを見て、妙子たえこは双眼鏡を下ろし潜伏している部屋の窓を開けた。
     そして、窓の下に立て掛けておいたライフルを手に取る。
     最近流行の電動モーター式セミオートマチックライフル(小型モーターで排莢・次弾装填を行うライフル。ガス圧式と違ってリロード時の振動で狙いがずれる心配をせずに済み、引金から指を離さず続けて撃てる)ではない。伝統的な手動ボルトアクションだ。
     彼女は小さく開けた窓の隙間から銃口を突き出し、右目で光学照準器をのぞいた。照準器の視界には照準線レティクルと共に赤い光点が映っている。妙子たえこはいったん照準器から目を離し、再度双眼鏡で目標の窓を確認してから、改めて照準器をのぞき込んだ。
     有希ゆきが窓の横に貼り付けた小さな機械の正体は、赤外線発光器だった。彼女がのぞき込んでいる照準器には赤外線フィルターが組み込まれていて、発光器が放つ赤外線を赤い光点として可視化しているのだ。
     双眼鏡にも赤外線モードが搭載されていて、妙子たえこは目に当てたまま繰り返し可視光モードと切り替えることで窓と発光器の位置関係を把握した。
     発光器の赤外線を基に、銃口を研究施設の窓へ向ける。
     彼女は頭の中で三十を数えて――有希ゆきが最上階の廊下に到達するタイミングを測って、引金を引いた。
     銃声が夜空に轟く。
     ボルトを動かして次弾を装填し、五つ数えてもう一度、人差し指を引き絞る。
     再び夜空に響き渡る銃声が、狙撃手の存在を声高に主張した。
     音速を超える弾丸を放つ銃撃音を完全に消し去る消音器サプレツサーは存在しない。
     そんなことは魔法でも使わない限り不可能だが、あいにくと妙子たえこは魔法師ではない。
     彼女は二度の銃撃の成果を確認せず、急いでライフルを分解・格納し双眼鏡をデイパックに押し込んでその場から逃げ出した。

    ◇ ◇ ◇

     突然の停電は多中たなかに激しい動揺をもたらした。
    「何があった!?」
     そして彼の側には、不安を紛らわせる為の八つ当たり可能な存在が侍っていた。
    「……少々お待ちください」
     仲間なかま杏奈あんな多中の下から・・・・・・抜け出してベッドに身を起こし、裸足の足を床に付けて立ち上がった。
     かすかな非常灯の明かりで、テキパキと服を身に着ける杏奈あんなの姿を見て、多中たなかも手探りで服をかき集める。彼がまだ下半身しか隠し終えない内に、杏奈あんなは電池式のランタンを見付けてきた。
    「申し訳ございません、閣下。情報端末も電源が落ちていて、施設内の情報が確認できませんでした。おそらくこの停電は、建物全設備に及んでいると思われます」
    「わ、分かった。取り敢えず、少し向こうを向いていろ」
     多中たなかの喚き声に杏奈あんなは数度瞬きすると、訝しげな表情になりながらも「ハッ」と答えて彼に背を向けた。
     杏奈あんなの背後で、ごそごそと不器用な音が続く。
    「もう良いぞ」
     そう言われて、杏奈あんなは振り返った。
     多中たなかは一応、常装の軍服を着ている。だがボタンが途中で一つずれていた。
     杏奈あんなは然り気無く目を逸らし、気付かなかったふりを装った。
    「全電源喪失状態にあると言うんだな? 原因は分かるか」
    「……推測でよろしければ」
    「構わん」
     杏奈あんなの返答に生じた不自然な間を多中たなかは気にしなかった。
     大方彼は、思考時間とでも勘違いしたのだろう。実際には、多中たなかの服装――ボタンの掛け違えに気を取られて、反応が遅れただけなのだが。
    「当施設が何者かの襲撃を受けているのだと考えます」
     杏奈あんなはそんなことなど微塵もうかがわせない態度で答えを返した。もっとも、彼女が多少不自然な態度を取ったとしても、多中たなかにそれを気に掛ける余裕は無かったに違いない。
    「襲撃!? 敵国の工作員か!?」
     多中たなかは滑稽なくらい狼狽していた。
     人格面に問題はあっても能力は地位に相応しいものを持ち合わせているはずだが、この時の彼は破壊工作の可能性に考えが至っていなかったようだ。
    「正体までは分かりません」
     ただ、この答えに逆上して杏奈あんなを怒鳴りつけたり殴りつけたりする程までには、多中たなかも平常心を失っていなかった。
     彼のパニックは外に向かって発散されるのではなく恐怖心という形で内側に向かった。
     いったん立ち上がっていた多中たなかが音を立ててベッドに座り込む。
     ランタンの光に浮かび上がる彼の顔は、青ざめ、強張っている。細かく震える唇は、不明瞭な発声で「まさか」と「そんな」を繰り返していた。
    「閣下、如何致しましょうか」
     杏奈あんな多中たなかに指示を求めた。
     恐怖心の虜になった多中たなかが彼女の声を認識していたのかどうか、それすら怪しかったが、杏奈あんなはそれ程待たずに済んだ。
     それは、彼女が多中たなかに話し掛けた直後と言って良いタイミングだった。
     鈍い音を立てて窓一面に細かな亀裂が走る。
    「閣下、伏せてください! 狙撃です!」
     叫ぶと同時に、杏奈あんな多中たなかを押し倒す。多中たなかは勢い余って床に転がり落ちたが、彼に杏奈あんなを責める余裕は無かった。
     二度目の銃声と共に、窓ガラスが砕け散る。防犯ガラスがライフル弾を受け止めるのは、一発が限度だった。
     ここで腰を抜かさなかったのは、腐っても現役士官ということだろう。多中たなかは両手両膝を突いて立ち上がり、ぎこちない足取りで廊下へ続くドアへ向かった。
    「お待ちください、閣下。無闇に動くのは危険です!」
     杏奈あんなが慌てて多中たなかを呼び止める。
    「馬鹿者! ここにいてはいいまとではないか!」
     しかし、多中たなかは聞く耳を持たない。一瞬で説得が無駄であること覚った杏奈あんなは、
    「ではせめて、私が先導します!」
     自分の身を盾とすることを選んだ。
    「う、うむ。分かった」
     多中たなかはわずかに残っていた理性で、杏奈あんなに道を譲る。
     杏奈あんなは慎重にドアを開け、隙間から廊下の様子を窺った。照明が落ちた廊下はほぼ完全な暗闇に覆われ、人影の有無が見分けられる状態ではなかった。
     それでも彼女は懸命に耳を澄ませ、物音がしないのを確認して、ランタンを片手に廊下へ出た。
     その背中に、多中たなかが続こうとする。
    「閣下、賊が潜んでいるかもしれません。確認しますので、少しだけお待ちください」
     しかし「賊」という脅しが利いたのか、今回は大人しく杏奈あんなの忠告に従った。

    ◇ ◇ ◇

     三階でいったん足が止まってしまった若宮わかみやだが、正面エントランスの応援に下りた警備兵が階段を上ってくる足音に上へ上と追い立てられていた。
     そして最上階へと続く階段の踊り場で、彼は銃声に再び足を止めた。
    (これは……外部からの狙撃か?)
     彼の耳には、窓が割れる音までは届かなかった。だが音の伝わり方から、彼は屋内の銃声ではないと判断した。
     そう考えて若宮わかみやの脳裏に浮かんだものは、『アニー』こと姉川あねがわ妙子たえこの顔だった。
    (同じ施設の関係者が同じ時期に何人も暗殺の標的になるとは考え難い。今の銃撃は多中たなかを狙ったものだろう)
     希望的観測の要素が皆無であるとは彼自身、思っていない。だが他に多中たなかの所在に関する手掛かりを持たない若宮わかみやは、その可能性に賭けると決めた。
    (銃声が聞こえてきたのはこの上だ)
     彼は闇の中に伸びる階段を駆け上がった。

    ◇ ◇ ◇

     廊下の天井に張り付いている有希ゆきは、多中たなかを室内に押しとどめた杏奈あんなの行動に心の中で舌打ちを漏らした。
    (……優秀な護衛じゃねえか)
     妙子たえこの狙撃に驚いて部屋から飛び出してきた多中たなかを仕留める。――彼女の作戦は成功の一歩手前でつまず躓いていた。
     狙撃の後、すぐにドアが開いたところまでは計算どおりだった。
     だが部屋の中から姿を見せたのは、多中たなかではなく護衛の女兵士だった。
    仲間なかま杏奈あんなか……)
     有希ゆきの脳裏を「あたしを殺して!」と叫んだ山野やまのハナの悲痛な顔が過る。「ふざけんな」と叫んだ苦しげな声が蘇る。
    (止めろ)
     有希ゆきは揺れ動く自分の心に命じる。
    (つまらない感傷だ。そもそもハナたち二人の間に存在した事情は、あたしには関係無い)
    (ハナはあたしが手に掛けてきた何十人の中の一人でしかない)
    (自分が何者なのか思い出せ。あたしはただの殺し屋じゃないか)
     有希ゆきは、自分に「殺せ」と命じた。
    (仕事の邪魔をするヤツは単なる障碍物だ。障碍は、排除する)
     彼女が迷いに囚われていたのは、ほんの数秒の短い時間だった。
     だがそれは、状況の混乱を招くには十分な時間だった。

    ◇ ◇ ◇

     最上階にたどり着いた若宮わかみやは、小さいがそれなりに強力な灯りを持つ人影を認めた。その背後に憎き多中たなか少佐が顔を出しているのを目撃した。
    「――!」
     彼は喉元までこみ上げていた雄叫びを噛み殺し、そのエネルギーを駆ける勢いに上乗せして、多中たなか少佐へ向かい突進した。
     声は押し殺せても、若宮わかみやに足音まで殺す余裕は無かった。
     靴音へ向けて杏奈あんなが携帯ランタンを翳し、広がった光の中にナイフを手にした若宮わかみやの姿が浮かび上がる。
    多中たなかぁ!」
     発見された、と認識するや否や、若宮わかみやの口から咆哮が放たれた。押さえ込んでいた激情が一気に噴き出したのだ。
    「ひぃっ!」
     多中たなかが悲鳴を上げて室内に逆戻りする。それだけでなく、彼は顔を引っ込めるや否やドアに鍵を掛けた。
     ――廊下に杏奈あんなを残して。
    「チッ!」
     有希ゆきは舌打ちを漏らして天井から飛び降りた。
     慌てて杏奈あんなが振り返る。
     しかし、杏奈あんなの目の前には無人の暗い廊下が広がるのみだった。
     彼女が顔を向けた時には既に、有希ゆきは彼女の視界を出ていた。
     杏奈あんなは迷わず新たな「賊」――有希ゆきのことだ――の発見を諦め、再び若宮わかみやへと向き直った。
     自分が閉め出されたことに対する不平不満の類は、杏奈あんなの頭の中には無かった。彼女にとっては、当然のことだからだ。
     もし多中たなかが廊下に残っていたら、杏奈あんなが彼を部屋の中に押し戻しただろう。
     多中たなかが逃げ戻った部屋の扉が開いたままだったなら、杏奈あんなが閉めていただろう。そして鍵を掛けるよう叫んだに違いない。
     多中たなかの利己的な行動は杏奈あんなにとって、むしろありがたいものだった。
    「そこをどけ、『石化の魔女』! 強化実験体同士で争うつもりは無い!」
     襲い来る敵は撃退するのみ。
     そんな風に、戦うことだけに意識が向いていた杏奈あんなの心が若宮わかみやの言葉に反応する。
    「貴方も実験体なのですか?」
    「そうだ。俺も多中たなかに人生を捻じ曲げられた一人だ」
    「だから閣下をあやめると?」
     杏奈あんなの問い掛けに若宮わかみやは「言うまでもない」とばかりに無言で頷いた。
    「だったら、戦いは避けられません。私は閣下を守らねばならない」
    「何故だ!? お前もヤツの犠牲者だろう?」
     若宮わかみやが苛立ちを問い掛けに換えて杏奈あんなにぶつける。
     杏奈あんなの表情は――無表情は、変わらない。
    「そうですね。客観的に見れば、確かに私は人体実験の犠牲者でしょう。ですが私の身体を弄り回したのは日本軍で、閣下は――多中たなか少佐は、私の恩人です。だから私の忠誠はあの方の許にあります。閣下は、殺させません」
    「日本軍……?」
     若宮わかみやの口から違和感が漏れる。
    「お前……帰化軍人か?」
    「そうです」
     杏奈あんなは淡々とした口調で彼の問い掛けを肯定した。
     彼女から、自分の過去を隠そうとする意図は全く感じられない。
    「ヤツに、軍に入るよう言われたんだな? 帰化の便宜を図る条件に」
    「ええ」
    「それがヤツの手口だ! 俺もそうだった。あの野郎は、何も知らない俺に一般兵としての権利を与えると嘘の約束をちらつかせて実験施設に志願させたんだ!」
    「貴方が調整体であることは知っています。閣下からうかがいました」
    「やつの手口を知って……?」
     愕然とした口調で投げかけられた質問に、杏奈あんなはどうでも良さそうな顔で頷く。
    「調整体には法令上、一般国民と変わらない権利が保証されていることも知っています。でもね」
     その時、マインドコントロールされているはずの杏奈あんなの素顔が一瞬だけ露わになった。
    「そんなの、騙される方が悪いんです。私の故郷はそういう所でしたよ」
     感情表現を制限された「無」表情を超える、「虚無」の表情。
    「貴様……!」
     激発しかけた若宮わかみやもまた、表情を「無」に沈めた。
     若宮わかみやが無言で杏奈あんなに斬り掛かる。
     杏奈あんなの目が想子光を放った。
     若宮わかみやの身体が硬直する。――いや、停止と見紛う程に、動作が極端にスピードダウンした。
     杏奈あんなの『減速領域』だ。視認した「物」の運動速度を、定率で引き下げる魔法。
     本当の『減速領域』は一定の空間を対象に、そこに侵入した物質の運動速度――分子運動を含む――を低下させる魔法だが、杏奈あんなが使う魔法は視認できる物体のみを対象としている。
     この点で言えば正規の『減速領域』の劣化版だが、その代わり杏奈あんなは見ただけで――視認しただけでその物体にブレーキを掛けることができる。彼女は、そういうスピード重視の強化改造を受けていた。
     そのからくりはループ・キャストだ。杏奈あんなは『減速領域』の魔法式をループ・キャストで構築し続け、減速する対象が無い時は破棄する。
     つまり「見た」時には既に魔法発動の準備が整っているのだ。
     だからと言うべきか、彼女が戦闘継続可能な時間には十分間という制限がある。それ以上ループ・キャストを続けると、魔法演算領域のオーバーヒートを起こしてしまう。
     十分間限定の魔女。それが強化魔法師・仲間なかま杏奈あんなの正体だった。
     ランタンを床に落とした杏奈あんながナイフを抜き、切っ先を若宮わかみやに向ける。
    杏奈あんなの魔法に拘束された若宮わかみやの全身から、想子光が放たれた。
    術式解体グラム・デモリツシヨン』。放出された想子の圧力が、自らの身体を縛る『減速領域』の魔法式を吹き飛ばした。
     調整体『くろがねシリーズ』は、長時間戦闘継続能力をコンセプトに製造された遺伝子操作魔法師だ。設計の際にフォーカスされたのは肉体の耐久性、スタミナ、そして想子保有量。
     若宮わかみやはその『くろがねシリーズ』の中でも特に豊富な想子保有量を持って生まれた。そこに目を付けた調整体開発チームは、若宮わかみやの為に想子操作の特殊訓練プログラムを組み上げた。
     この訓練によって、若宮わかみやは自身が保有する膨大な想子をある程度自由に操作できるようになった。その成果が『術式解体グラム・デモリツシヨン』だ。
     彼にとって『術式解体グラム・デモリツシヨン』は怨敵『魔兵研まへいけん』に与えられた能力ではない、使用を忌避する理由は何処にもなかった。
     あと三十センチで杏奈あんなの切っ先が届く――その段階で若宮わかみやが自由を取り戻す。彼は杏奈あんなのナイフではなく彼女の腕を外に払って、攻撃の軌道を変えた。
     杏奈あんなのブレードが若宮わかみやの頬をかすめる。若宮わかみやの肌に一本の赤い線が刻まれた。しかし、それで怯む程度の復讐心なら彼は今、ここに来ていない。
     若宮わかみやがナイフを横に薙ぐ。その軌道上には杏奈あんなの喉。
     彼女は自分の得物で斬撃を防ぐのではなく、ステップバックして若宮わかみやの刃を躱す。
    杏奈あんな若宮わかみやの手の内を忘れてはいなかった。
    術式解体グラム・デモリツシヨン』ともう一つ、彼が得意とする魔法。
    『高周波ブレード』。
     超高速振動する刃と打ち合えば、合わせたナイフの方が切断される。決して防御が不可能な魔法ではないが、あいにくと杏奈あんなは防御に必要なスキルを持っていない。
     回避を完全なものとする為に、杏奈あんなは大きく後退した。
     彼女の背中が壁にぶつかる。
     若宮わかみやがそれを追いかけて、大きく踏み込んだ。
     杏奈あんなの目が想子の煌めきを宿す。
    『減速領域』。
     足を前に踏み出した体勢で、若宮わかみやの肉体が硬直する。
     すかさず、その全身から想子光が放たれた。
    術式解体グラム・デモリツシヨン』。
     若宮わかみやもあらかじめ警戒していたのだろう。今回自由を取り戻すまでに掛かった時間は、たかだか一秒前後だった。
     しかし、先を読んでいたのは杏奈あんなも同じ。
     持ち上げられた彼女の右手には、サブコンパクトピストルが握られていた。
     彼女は、壁まで後退した時には既に、拳銃を抜き終えていたのだ。
     銃口の向きは、若宮わかみやの腹。しかもその中央だ。
    『減速領域』の影響を脱した若宮わかみやは、足に渾身の力を込めて横に跳ぼうとした。
    (間に合わない)
     だが、彼の足が床を蹴るより杏奈あんなが人差し指を引き絞る方が速い――。
     杏奈あんなの足下というわずかな空間を除いて暗闇に覆われた廊下に銃声が響いた。
     若宮わかみやが腹を押さえて両膝から崩れ落ちる。
     杏奈あんなはローキックのフォームで、蹲る若宮わかみやの頭を蹴り抜いた。
     若宮わかみやの身体が横倒しに吹き飛ぶ。
     彼の意識は、完全に刈り取られていた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは来た時と同じ階段を使って屋上に戻った。
     転落防止柵のすぐ下に置いておいたデイパックを回収し、中からザイルを再度取り出す。彼女はそれを鉄柵の、多中たなか少佐が逃げ込んだ部屋の真上にしっかり結んで固定した。
     有希ゆきは柵から身を乗り出して屋上から窓までの距離を目で測り、それに合わせてザイルに結び目を作る。
     そして結び目のすぐ上を握り、鉄柵を蹴って夜空に飛び出した。
     彼女の身体が、ザイルを結びつけた鉄柵を支点とした振り子運動を行う。
     窓は妙子たえこの狙撃で砕け散っている。
     一度の銃撃だけなら防犯ガラスの全面に細かなひびが走るだけで、人が通れる穴にはならなかっただろう。現に窓ガラスを粉々に砕いたのは、二発目の銃弾だった。
     有希ゆき妙子たえこに二発目を撃つリスクを冒させたのは、この為だったのだ。
     無論、確実に多中たなかを部屋から燻り出すという目的もあった。だがそれに失敗した場合は窓から飛び込むことを、有希ゆきはあらかじめ計画に織り込んでいた。
     その布石が今、活きている。
     有希ゆきは夜空に弧を描いて、多中たなか前に・・・飛び込んだ。

    ◇ ◇ ◇

     若宮わかみやを完全に無力化したと見極めて、杏奈あんな多中たなかが立てこもった部屋の扉をノックした。
    「閣下、曲者は排除しました。もう出てきていただいても大丈夫です」
     杏奈あんなは十分部屋の中に届く声で呼び掛けたつもりだった。
     しかし、中から返事は無い。
     元々杏奈あんなは、多中たなかが部屋から出るのに反対だった。
     部屋の窓は基地に面している。その向こう側のビルまで、およそ八百メートル。
     狙撃には少々遠い距離だ。
     しかも基地が目の前だから、銃声がしたなら警察より先に警備兵が駆け付ける。
     こうした諸条件は、軟禁の初日に確認済みだ。だから彼女は、先程の銃撃は脅しに過ぎないと確信していた。三発目が飛んでこなかったことも、彼女の推測を補強していた。
     しかしこの時、彼女は嫌な予感に捕らわれていた。
    「閣下? 鍵を開けていただけませんか」
     返事は無い。杏奈あんなは、多中たなかの声の代わりに銃声を聞いた。
    「閣下!?」
     ドンドン、と激しくドアを叩く。
     耳を扉にくっ付けてみても、部屋の中からは何も聞こえない。
     杏奈あんなは右手に握ったままのサブコンパクトピストルを鍵穴に向けて、引き金を引いた。
     銃を所持する者を閉じ込める部屋だ。鍵は銃撃で破壊できない強度を与えられているが、それは室内から操作できない電子錠の話。囚人の気休めに付けられている――プライバシーが守られているという気休めだ――シリンダー錠には、通常の強度しかない。
     杏奈あんなは跳弾に曝されることもなく、鍵の破壊に成功した。
     勢い良くドアを開ける。
    「閣下!?」
     目に飛び込んできた光景に、杏奈あんなは立ち竦んだ。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきが室内に飛び込んだ時、多中たなかが窓の方を向いていたのは単なる偶然だった。
     彼は自分が拳銃をテーブルに置きっ放しにしていたことを思い出して、それを取りに向かったところだった。
     グリップに手が届いたタイミングで窓の外から飛び込んできた「何か」に、多中たなかはそれが人影だと認識する前に銃口を向けて引き金を引いた。
     思いがけず迅速な反応に有希ゆきは肝を冷やす。
     だが所詮はパニックに捕らわれた結果の反射的な射撃。スピードは狙いの正確さを伴っていなかった。有希ゆきが回避するまでもなく、銃弾は彼女の一メートル以上左を通過した。
     有希ゆきは器用に家具を避けて一回転し、落下の勢いをコントロールして立ち上がる。
     多中たなかは拳銃を構えたままだが、その手は震え狙いは定まらない。
     有希ゆきは銃を無視して踏み込んだ。
     多中たなかの指が引き金を引くより速く、
     有希ゆきのナイフが多中たなかの喉を貫いた。

     有希ゆきはナイフが刺さったまま多中たなかの身体を床に転がし、柄尻に付けた細い紐を手繰ってナイフを回収した。
    「Nuts to you!」
     彼女が自分に仕事の完了を告げる決めゼリフに、激しく扉を叩く音が重なった。
    『閣下!?』
     必死な声が廊下から聞こえてきた。
     有希ゆきは一瞬も迷わず窓に走る。
     小さく揺れているザイルに飛びつき、『身体強化フィジカル・ブースト』のパワーに任せて屋上へ登る。
     彼女が鉄柵に手を掛けた時にはまだ、屋上には誰もいなかった。現時点で停電が始まってから二十分程しか経っていない。誤差を織り込んでも、あと三十分以上この状態が続くはずだ。
     有希ゆきは予定どおり、侵入経路を逆にたどって脱出することにした。
     ザイルを回収し、デイパックを背負う。
     逃走経路の隣のビルは、基地を臨むこのサイドの反対側だ。
    (よし、行くか)
     彼女がスタートを切ろうとしたその時、
     強化された彼女の聴力はすぐ近くまで迫った、階段を駆け上がる足音を捉えた。
    「チッ!」
     有希ゆきは助走を中断した。
     多分、そのまま跳んでも追跡者に先んじることはできただろう。階段を駆け上がる足音の主が屋上の扉を開けた時には、有希ゆきは隣の屋上に立っている、そんなタイミングだった。
     だが相手は間違いなく銃を持っている。
     背後から銃弾を浴びる可能性は無視できなかった。
     屋上の扉が乱暴な騒音と共に開く。
     その向こうから現れたのは、予想どおり、仲間なかま杏奈あんなだった。

    ◇ ◇ ◇

     床に倒れた多中たなかの姿に、杏奈あんなが立ち竦んだのは一瞬のこと。彼女は多中たなかに駆け寄るのではなく、廊下の端、屋上へ続く階段へ走った。
    (許さない)
     多中たなかが死んでいるのは、脈を取るまでもなく一瞥しただけで明らかだった。
    (よくも閣下を)
     彼女は恩人――と自分が思い込んでいる者――の死を悼より、その仇を討つことを選んだ。
    (絶対に逃がさない)
     窓の外に、微かに、だが確かに、大きく揺れるザイルが見えた。
     風に煽られた揺れ方ではなかった。誰かが今まさにザイルを掴んで外壁を登っていたのだ。間違いない。
     上手く間に合えば、転落防止柵を乗り越えようとしている暗殺者を射殺できる。それに間に合わなくても「閣下」にもらった「減速」の力で必ず仇を取る。
     杏奈あんなは固く心に誓いながら、階段をひたすら駆け上がった。
     最後の一段を蹴って、一気に屋上へ続く扉のノブを掴む。
     力いっぱいノブを捻って、杏奈あんなは体当たりする勢いで扉を押した。
     鍵は掛かっていなかった。
     杏奈あんなの身体が夜空の下に飛び出す。彼女は暗殺者が上がって来るであろうサイドに身体ごと振り向いた。
    (いた!)
     小柄な人影が鉄柵のこちら側に立っている。
    (間に合った……!)
     絶好の射殺タイミングには残念ながら間に合わなかった。
     だが仇に逃げられてしまうという最悪の事態は避けられた。
     出入り口から鉄柵まで、約十五メートル。小柄な暗殺者が立っている所までなら十二、三メートルというところだろう。
     彼女の『減速領域』の射程距離は十メートルだ。二、三歩近づくだけで仇の動きを止められる。
     杏奈あんなは軽く膝を曲げてダッシュの体勢を作った。『減速領域』に捕らえてしまえば復讐は成ったも同然だ。彼女は一気にケリを付けるつもりだった。
     しかし、そんな彼女の出鼻を挫くように小柄な人影がナイフを投げる。
     不意を突かれはしたが、杏奈あんなは警戒を怠ってはいなかった。
     ナイフは彼女の視線に絡め取られ、空中で静止して五秒経過後、屋上に落ちた。
    「射程距離十メートル、持続時間五秒ってとこか」
     暗殺者が聞こえよがしに呟く。
    (測られた!?)
     杏奈あんなは動揺がおもて面に顕れるのを抑えられなかった。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは屋上に姿を見せた杏奈あんなを、敢えてその場から動かずに観察した。
    (まだ『減速領域』とやらは使っていないな)
     後ろ手にそろそろとナイフを抜いて、動きが阻害されていないことを確認する。
     杏奈あんなが軽く膝を曲げて身を沈める。
     前へ飛び出す予備動作だと、有希ゆきは即座に理解した。
    (間合いを詰めるつもりだな。この距離だと魔法の射程外ってことか)
     杏奈あんなの魔法についての情報をもたらした若宮わかみやは、『減速領域』が何処まで届くのか、正確な間合いは知らなかった。
     現在、有希ゆき杏奈あんなの距離は十二・五メートル。相手の魔法『減速領域』の厳密な射程距離が分かれば勝算はグッと高まる。
     杏奈あんなの両足に力が入る。
     有希ゆきはその機先を制するタイミングで、ナイフを投げた。
     重心が前へ飛び出す為のポジションに移動した状態で、左右に躱すことはできない。伏せるのも、手で払い落とすのも杏奈あんなの体勢では不可能だ。
     ナイフから身を守るには、魔法で受け止めるしかない――。
     ナイフは有希ゆきの注文どおり、空中で止まった。
     静止した位置は、有希ゆきから二・五メートル。つまり、杏奈あんなから十メートル。
     静止した時間は、きっかり五秒。
    「射程距離十メートル、持続時間五秒ってとこか」
     目測した結果を相手に聞こえる声で呟いてみる。
     杏奈あんなの顔に、はっきりと動揺が浮かび上がった。
    (当たりか)
     思惑が的中しても、有希ゆきの意識は苦々しさで満たされていた。
     こんなに容易く自分の手の内を読まれるようでは、玄人とは呼べない。
     保有しているスキルは有希ゆきより上かもしれないが、それを活かす総合的な戦闘技術が未熟だ。強い武器を持てばそれだけで強くなれるわけではない。
    (ハナといいコイツといい……素人がプロの仕事場に出てくるんじゃねえよ!)
     有希ゆきの苛立ちが最高潮に達した。
     彼女の全身に、かつてないレベルで異能の力が満ちる。
     有希ゆきの身体が杏奈あんなの視界から消えた。
     杏奈あんなが目で追えない程のスピードで、有希ゆきが横に跳んだのだ。
     杏奈あんなが狼狽を露わにして顔を左右に振った。
    「なっ!?」
     彼女の口から驚愕が漏れる。
     有希ゆき杏奈あんなの左から急接近していた。――五人の有希ゆきが。
     忍術に分身を生み出す技術は存在する。『分身の術』は『忍術使い』が幻術で自らの虚像を作り出す古式魔法の一つ。
     だがこれは、幻術ではない。有希ゆきは魔法が使えないから、古式魔法の『分身の術』ではあり得ない。
     彼女が今見せているのは、忍術の常識を破る、残像による『分身』だ。『身体強化』の異能が生み出す超速が、先人の誰一人として成し遂げられなかった「魔法に匹敵する体術」を実現した瞬間である。
     杏奈あんなの『減速領域』は、視認した物体に作用する。しかしそれは「見えている物全てに対して」という意味ではない。現代の魔法は「事象干渉対象を特定する情報を変数として魔法演算領域に送り込み魔法式を構築する」ものであり、杏奈あんなの『減速領域』もこのシステムに従っている。ただ見ただけで魔法の対象を設定などできるはずがない。
     彼女に施された強化措置は、視覚を通じて意識のフォーカスを合わせ、当該物体のイメージを自動的に変数として魔法演算領域に送り込むというものである。
     だから彼女はループ・キャストが持続している間、視認した物を止めずに済ませることができないし、視界に映っていても実在する物体として認識していない物に『減速領域』を作用させられない。
     今の場合。
    「同一人物(有希ゆきのことだ)が五人もいるはずがない」という常識が分身を実在の物体と認識することを妨げ、その中に混じっているかもしれない実体を止めることもできなかったのである。
     もっとも――彼女が見た五人の有希ゆきは、全て虚像だったのだが。
     杏奈あんなは魔法が発動しないまま、迫り来る分身の一つに銃を向けた。
     次の瞬間、彼女は膝裏に強い衝撃を受け、襟首を背後から掴まれて強制的に跪かされた。
     襟首を掴んでいた手が頭に移動する。髪をしっかり掴まれて、彼女は振り返ることができなくなった。
     喉に冷たい鋼の感触が生じた。
     ナイフの腹が押し付けられたのだと、彼女はすぐに覚った。
     冷たい感触が鋭い刺激に変わる。喉の皮一枚を切られたと、彼女は理屈抜きに実感した。
    多中たなかはもう死んだ」
     暗殺者が小柄な女性であることは杏奈あんなも見当が付いていた。だが頭のすぐ後ろから降ってきた声は、彼女が予想していた以上に若かった。
    「お前はヤツの護衛だろう? 護衛対象が死んだ以上、もう戦う理由は無いはずだ。なのに何故、あたしを追った? 自分が負けるはずはないとでも思っていたのか?」
     有希ゆきの問い掛けに、杏奈あんなが首を振ろうとする。
     だが、髪を掴まれている所為で、痛みに呻く羽目になった。
    「……そんなことは関係ない! 閣下は、多中たなか少佐は私の恩人だ。恩人を殺されて、黙っていられるものか!」
    「恩人だから、仇を討つと?」
    「そうだ! 恩には報いなければならない。恨みは晴らさなければならない! 暗殺者、私はお前を許さないぞ!」
     有希ゆきが大きくため息を吐く。
     彼女はナイフを握る右手を少し動かした。
    「っ……」
     杏奈あんなの口から痛みを訴える声が漏れ、彼女の喉には一筋の血が流れる。
    「許さなきゃ、どうするって?」
    「…………」
    「啖呵を切る時は状況を良く考えてからにしろよ」
    「くっ……殺せ! 恩人の仇も取れずにのうのうと生き存えるつもりは無い!」
    「はぁ……」
     有希ゆきの口から、さっきよりも長く、深いため息が漏れた。
    「クッコロとか、お前は何処ぞの女騎士かよ? ハナといいお前といい、どうして命を粗末にしたがるかね?」
    「ハナ!? ハナを知っているの!?」
     突然、杏奈あんなの口調が変わる。まるで別人になったような変化に有希ゆきも戸惑いを禁じ得なかったが、それでも杏奈あんなの拘束する手は緩めなかった。
     杏奈あんながマインドコントロールを受けていることを知らない有希ゆきには、ハナの名前でマインドコントロールが揺らいだのだと推測すらできない。ただ、明らかに風向きが変わったのは感じ取っていた。
    「ハナは死んだよ。悪徳教祖に利用されてな」
    「そう……」
    「お前のことを気に掛けていたぜ。死ぬ間際に、お前の名前を口にした程だ」
     この空気の中、真実を話すのは、有希ゆきもさすがに気が引けた。
    「……恨んでいたでしょう? 私のことを。あの子が手に入れるはずだったものを、横取りしたようなものですからね」
     だが有希ゆきが喋らなくても、杏奈あんなは不都合な真実にたどり着いた。
     いきなり、ピストルを握っている杏奈あんなの右手が動く。
     有希ゆきはナイフに力を加えて、反撃を思い止まらせようとした。
     しかしそれは、無駄だった。
     杏奈あんな有希ゆきに対する反撃を企てたのではなかった。
     彼女が手にしたサブコンパクトピストルの銃口は、彼女自身の胸、その真ん中に押し付けられた。
     夜空に銃声が響く。
     自ら心臓を撃ち抜いた杏奈あんなは、遺言も残さず屋上の床に崩れ落ちた。
    「馬鹿野郎が……」
     有希ゆきの手には、杏奈あんなの髪が数本だけ残された。