• NOVELS書き下ろし小説

  • リッパーvs石化の魔女

    [7]『仕掛』

     

     基地からの自宅に戻る途中、天下の公道で暗殺され掛かった多中たなか少佐は帰宅後、憔悴しきった顔でリビングのソファに座り込んだ。彼の右腕には包帯が巻かれている。若宮わかみやのナイフで受けた傷は、事情聴取の傍ら警察の病院で一通りの治療を受けていた。
    仲間なかま一等兵、酒だ!」
    「はい、ただ今」
     杏奈あんながマインドコントロールを受けている者に特徴的な抑揚に乏しい口調で応え、「ただ今」の返事のとおりすぐにウイスキーの瓶とショットグラスを持ってきた。
     多中たなかは左腕でスコッチウイスキーをショットグラスになみなみと注ぎ、ストレートのまま一気に呷った。彼は空になったグラスを再びウイスキーで満たし、狂気すら感じさせる据わった眼差しを琥珀色の液体に向けた。
    「クロガネの小僧が何故今頃になって……」
     呻き声で呟き、再び一気にグラスを呷る。
    「もう七年だぞ。ヤツには身寄りも戸籍も無い。とっくに野垂れ死んでいるものと……」
     多中たなかはローテーブルに右拳を振り下ろし、うっかり忘れていた傷の痛みに顔を歪め、「くそっ!」と悪罵を漏らした。
     調整体『くろがねシリーズ』の最高傑作だった『若宮わかみや刃鉄はがね』を強化兵士の実験体として引き抜いたのは多中たなかだった。当時、若宮わかみやはまだ十二歳。
     そして三年後、十五歳になった若宮わかみやは強化施設から脱走する。
     強化実験をごり押しした結果、最も優れた個体を失った失態を糊塗すべく、多中たなかとその一味は一定の成果を出していた『くろがねシリーズ』のデータを改竄し、失敗作の烙印を押して全個体廃棄処分になるよう仕向けた。
     若宮わかみやのデータも廃棄個体として処理され、脱走の件は多中たなか一味の内部だけに秘匿された。
     その御蔭で若宮わかみやは殺し屋として自由に活動できていたとも言えるが、彼が殺し屋『リッパー』となったのは多中たなかの与り知らぬところだ。
     今日、若宮わかみやが目の前に姿を見せたのは、多中たなかにとってまさに青天の霹靂だった。
    「俺はもう、お終いだ……」
     多中たなかが両手で頭を抱え込む。
     自分の命を狙う若宮わかみやを上手く撃退できたとしても、その後若宮わかみやが捕まれば、あるいは死体でも彼の身体を軍が入手すれば、処分したはずの『くろがねシリーズ』が生きていたことが発覚する。
     当然軍はその経緯を調べるだろう。そうなれば、自分が『くろがねシリーズ』のデータ改竄を主導したことがバレてしまう。
     実際には成功していた調整体魔法師を廃棄に誘導したのだ。
     貴重な戦闘魔法師を失ったことで軍がこうむった損害は甚大。今度こそ、多中たなかは国防軍によって処分されるに違いない。
     絶望に囚われた多中たなかの耳に、杏奈あんなが腰を折り唇を近付けた。
    「――少佐。私がお守り致します」
     彼女のセリフ自体は護衛としての忠義を示すものだったが、その口調は残念ながら人間味に欠けるものだった。乏しい表情も相俟って、さながらアンドロイドだ。
     これは強化措置の副作用によるもので、彼女に責任は無い。責任を問うなら、彼女を強化施設に放り込んだ多中たなかにこそ帰されるべきだろう。
     しかし、平常心を失っている多中たなかにそんな理屈は通用しない。
    「気休めを言うな!」
     多中たなか杏奈あんなを怒鳴りつけ、ソファに引きずり倒す。
     ローテーブルが激しく揺れ、ショットグラスがひっくり返りウイスキーが床にまでこぼれた。
     濃厚な蒸留酒の匂いがリビングに広がり、多中たなかの鼻腔を刺激する。鼻から入り込んだ酒精が多中たなかの理性を更に奪った。
     彼は杏奈あんなの両手を押さえると、貪るように無理矢理彼女の唇を奪った。
     杏奈あんなは、抵抗しなかった。
     多中たなか杏奈あんなの襟元に両手を掛け、引き裂くように左右に引いた。ボタンが弾け飛び杏奈あんなの胸元が露わになる。
     同時に多中たなかが顔を顰めた。急激な動作が右腕の傷に響いたのだ。その痛みが、彼の興奮を少し冷ました。
    「……抵抗しないのか?」
     多中たなかは再び杏奈あんなの両腕を押さえ込み、彼女の自由を奪った上でそう訊ねた。
    「少佐のお心が少しでも慰められるのであれば、お望みのとおりになさってください」
     相変わらず表情に乏しく、機械的な口調だが、多中たなかを見上げる双眸は熱く潤んでいる。その眼差しが、多中たなかの劣情に再び火を点けた。
     多中たなか杏奈あんなの身体に覆い被さる。
    「私は少佐に救われた恩を、忘れていません」
     杏奈あんなの囁きは果たして多中たなかの耳に届いたかどうか。
     届いたとしても、情欲に支配された多中たなかには、彼女の真情を理解する意思が無いに違いなかった。
     いや、真情と言うなら、おそらく杏奈あんな本人も理解していない。
     彼女が帰化手続きに関して多中たなかに恩を感じていたのは紛れもない事実だ。
     だがその感情は、人体実験によってねじ曲げられた。
     国防軍は魔法師開発の初期、人の枠を超えた力を持つ魔法師の叛乱を恐れ、遺伝子改造によって決して叛逆することのない先天的な忠誠心を植え付けようとした。
     しかし、この試みは失敗する。
     当該遺伝子操作により作り出された魔法師『エレメンツ』は、精神的に不安定で忠誠の対象を計算できない存在だった。
     国防軍はこの失敗を踏まえ、後天的に忠誠心を強化、強制する方向に方針を転換した。
     杏奈あんなはマインドコントロールの一環として、上官に対する盲目的な忠誠心を植え付けられている。
     彼女の中では、この強制された忠誠心が恩義の記憶と結び付き、強固な思い込みとなっていた。
     それを「愛」と錯覚する程の思い込みに囚われているのだった。

    ◇ ◇ ◇

     多中たなか少佐は国防軍に見捨てられた、と考えていた。だが公道上での襲撃が発生した翌日、具体的には十月二十三日火曜日、包帯を巻いた痛々しい姿で出勤した多中たなかは基地司令部に呼び出され、しばらく基地内に寝泊まりするよう命じられた。
     暗殺者の襲撃から彼の身を守る為だ。彼に命令を伝えた幕僚は「佐官ともあろうものがたびたび警察の世話になるのは外聞が悪い」と忌々しげな口調でこの措置の理由を説明したが、多中たなかにしてみれば司令部にどう思われようと今更だった。
     基地が彼の身の安全を保障してくれるというのだ。昨日の絶望を引きずっていた多中たなかにとっては、態の良い軟禁であっても、思いがけない救いの手だった。
     多中たなか少佐が宿泊を命じられた場所は厳密に言えば基地の中ではない。K市の陸軍基地に隣接する軍の研究施設だ。だが多中たなかにとっては、かえって都合が良かった。
     研究所の正体は魔法師強化施設。彼にとっては古巣も同然の場所であり、周りが敵ばかりの基地より居心地が良いと思われた。
     またこの研究所は杏奈あんなの強化措置を担った施設でもあり、いざとなれば援軍も期待できると多中たなかは考えた。
     彼は上機嫌で、軟禁生活を始めた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆき多中たなかの動向を掴んだのは、十月二十五日、木曜日のことだった。
     二十三日、多中たなかが自宅に戻らなかったことに、彼の動向を別々に見張っていた鰐塚わにづか妙子たえこが不審感を懐き、協力し合ってその所在を突き止めたのである。
    まとは軍の研究施設に缶詰か……。良く分かったな」
     一般的に考えて、軍の施設は民間より情報セキュリティがしっかりしているはずである。有希ゆきの「良く分かったな」は「軍の情報をこの短時間で良く調べられたな」という意味だった。
    「はあ、そうですね」
    「何だ、他人事みたいに。まだ仕事が終わったわけじゃないが、まとの居所を突き止めたのは間違いなくお手柄だぞ」
     有希ゆきのセリフに、鰐塚わにづか妙子たえこと顔を見合わせた。
    「変なんです」
     有希ゆきに応えを返したのは妙子たえこだった。
    「変? 何が?」
     有希ゆきが訝しげな表情で問い返す。
    「簡単すぎたんですよ」
    「簡単……? まとの居所を突き止めるのが簡単すぎたってことか?」
     首を傾げた有希ゆきの言葉に、妙子たえこ鰐塚わにづかが同時に頷いた。
    「普通に考えれば、軍が多中たなか少佐を暗殺者の凶刃から守る為に匿ったのです」
     鰐塚わにづかのセリフに、有希ゆきが頷く。
    「私たちもそう考えて、基地の出入り業者に探りを入れてみました。ですがそれはあくまでも最初の足掛かりで、調査は当然長引くと考えていたんです」
    「――ところが、欲しい情報が早速転がり込んできた、と?」
     有希ゆきの推測に、今度は鰐塚わにづかが頷いた。
    「ええ。まるで向こうが故意に漏らしたのではないかと思いたくなる程、簡単に」
     有希ゆきが眉を顰める。
    「……罠か?」
     有希ゆきの疑念は、おそらく誰もが懐く当然のものだ。しかし鰐塚わにづかは、首を横に振った。
    「私は違うと思います」
    「私もです」
     妙子たえこ鰐塚わにづかに同調する。
    「これは私の――私たちの推測ですが、ターゲットは軍に煙たがられているのではないでしょうか」
     有希ゆき妙子たえこが何を言いたいのか、すぐに理解した。
    「軍はわざと、多中たなかを暗殺させようとしているってのか? 根拠は?」
    「ありません。敢えて言うなら、この情報が持つ臭いです」
     鰐塚わにづかは根拠が無いことを認めながら、自信を見せていた。
    「そうか」
     有希ゆきはそれ以上、追及の姿勢を見せなかった。
    「……納得していただけるんですか?」
     妙子たえこが意外感を露わにして問い返す。
    「他に手掛かりは無いからな。仮にこれが罠だとして、軍が故意にガセネタを流したとすれば、調査を続けてもこれ以上の情報は出て来ないだろ。時間の無駄だ」
     有希ゆきの視線をまともに浴びて、妙子たえこは気圧されたように頷いていた。
    「だったら、このネタが本物だという前提で行動を起こした方が良い。罠だとしても、食い破れば良いだけだ。現役の軍人をろうってんだ。その程度のリスクは最初から覚悟している」
     有希ゆきのセリフに、妙子たえこが「はぁ……」と感嘆のため息を漏らした。
    「ナッツ、惚れ惚れするような侠気おとこぎですね。憧れます」
    「褒め言葉になってねえからな」
     有希ゆき妙子たえこをジロリと睨む。
     妙子たえこは白々しくそっぽを向いた。

     お茶菓子を持ってきた奈穂なおに「何をやってるんですか」とたしなめられて、変則的な睨み合いをしていた有希ゆき妙子たえこ――有希ゆき妙子たえこを睨んでいたが、妙子たえこは明後日を向いたままだった――は仕事の打ち合わせに復帰した。
    「では、K市基地の隣にある研究施設に侵入してターゲットを仕留める、という方針で行くんですね」
     鰐塚わにづかの問い掛けに有希ゆきはきっぱりと頷いた。
    「期限を切られていないといっても、そろそろ片付けなきゃやばいだろ」
     有希ゆきの指摘に、今度は鰐塚わにづかが頷く。
    「じゃあクロコは、まとが研究施設の何処にいるのか、できるだけ詳しく探ってくれ」
    「了解です」
    「アニーは施設の窓を狙えるポイントを見繕っておいてくれ」
    「それは構いませんが……軍の施設なら当然防犯ガラスを使っているでしょうから、外から狙撃で仕留めるのは困難ですよ?」
    「分かっている。あたしもライフルでれるとは思っていない」
    「……何か策があるんですか?」
    「策って程じゃないがな」
     妙子たえこは一秒前後、有希ゆきの瞳を見詰めて、頷いた。
    「――分かりました。明日中に狙撃ポイントを見付けておきます」
    「よし。後は何時るかだが……これはクロコの調査待ちか」
     有希ゆきが歯切れ悪く話し合いを締め括ろうとしたその時、電話のコール音が鳴った。
     奈穂なおがサブモニターで相手を確かめる。そして、彼女は慌てて振り返った。
    有希ゆきさん、文弥ふみやさまからです!」
     有希ゆきは無意識の動作で口元をティッシュで拭い、胸元を見下ろして服装の乱れをチェックした。そこでハッとした表情に続いて憮然とした顔になったのは、文弥ふみやのご機嫌をうかがうような反応をしてしまった自分に腹を立てたのだろう。
    「つなげ」
     奈穂なおに命じるぶっきらぼうな口調も同じ理由だったに違いない。
    「はい」
     奈穂なおが応えたのと同時に、壁面の大型ディスプレイが文弥ふみやのバストショットを実物大で映し出した。
    有希ゆき、久し振りだね。何だか機嫌が悪そうだけど、嫌なことでもあったのかい?』
     有希ゆきが何も言わないうちに、文弥ふみやの方から親しげに話し掛けてくる。
    「この前話してから、一ヶ月も経ってねえよ」
     無愛想な口調で有希ゆきが応えを返す。文弥ふみやの問い掛けは無視した。彼女は悪い意味での怖いもの知らずではないので「お前の電話が不機嫌の原因だ」とは言えなかった。
    『まだそんなものだったかな……。最近どうも、時間が経つのが早くてね』
    「そりゃ、年寄りのセリフだぜ。然もなきゃ、働き過ぎた」
     有希ゆきの返しに、画面の中の文弥ふみやが苦笑いする。
    『……働き過ぎということにしておいてくれ。最近忙しくてね』
    「だったらあたしと無駄話してないで仕事に戻ったらどうだ?」
    『そうだね。仕事の話をしよう』
     文弥ふみやが真顔になる。有希ゆきも自然と、隙の無い姿勢を取った。
    多中たなか少佐を軟禁している強化兵士の研究施設は、次の日曜日の午後八時から一時間、電気系統の故障により警備システムがダウンする予定だ』
     有希ゆき文弥ふみやのセリフに反応するまで、一瞬以上のタイムラグがあった。
    「次の日曜っていうと、二十八日か。故障が予定されているのか?」
    『ああ。あくまでも予定だ』
     皮肉っぽく訊ねた有希ゆきに、文弥ふみやは白々しく頷いた。
    『後は、言わなくても分かるね?』
    「ああ。貴重な情報、ありがとよ。あたしらもその予定に従って動くことにするぜ」
    『いきなりで悪いけど、日曜日には必ず片付けて欲しい』
    「この仕事に期限は無いんじゃなかったのか……? まっ、了解だ。あたしも一つのヤマをだらだら引っ張るつもりは無い」
     有希ゆきは期限が急遽設定された理由を、くどくど訊ねることはしなかった。
     警備システムを切断するところまでお膳立てされているのだ。プロの矜持に懸けて、この状況で泣き言は口できない。
    「任せろ。二十八日の夜に、確実に仕留める」
    『吉報を待っているよ』
     力強く断言した有希ゆきに、文弥ふみやは満足げな笑顔で念を押した。

    ◇ ◇ ◇

     二十二日、月曜日に多中たなか少佐を襲撃して失敗した若宮わかみやは、警察の手配を警戒して水曜日まで隠れ家にこもっていた。彼は注意深くマスコミの報道を追い掛け、事件の報道が全くされていないことに不審感を懐き、一つの結論に達した。
     彼が多中たなか少佐を襲った件は、報道管制が敷かれている。世間には事件のことが全く知られていない。一般人にとって若宮わかみやは容疑者でも何でもなく、顔も知らない、注目に値しない群衆の一人だ。
     おそらく自分を誘い出す為だろう、と若宮わかみやは考えた。
     警察は彼が現れるのを待ち構えているに違いない。しかし、このまま隠れているという選択肢は彼の中に存在しない。若宮わかみやにとっては、『魔兵研まへいけん』に対する復讐が全てに優先する。――自分の命より。
     二十四日水曜日、彼は再び多中たなかの帰路を待ち伏せた。警察が張り込んでいるのは覚悟の上だったが、幸い見付かることはなかった。
     それどころか警察官らしき人影も見当たらない。制服警官だけでなく私服刑事もいないのだ。若宮わかみやでなくとも、これを単なる幸運では済ませられないだろう。
     彼は当然、罠を疑った。しかしどれ程感覚を研ぎ澄ませてみても、それらしき人も物も発見できない。彼はこの日、結局何もできずに終わった。

     翌日、若宮わかみやは朝から多中たなかの通勤路で待ち伏せた。場所を変えて、帰り道も見張った。そこでようやく「おかしい」と気付く。
     昨日は警官を探すのに神経を使っていた所為で見落としたのかと思っていた。だが今日は道路を行き交う自走車の中に目を凝らしていたから断言できる。多中たなかは通勤路を使っていない。
     自宅にこもっているのか。
     あるいは、家に帰っていないのか。
     前者ならばまだ良い。リスクを冒してマンションに侵入するだけだ。しかし後者だと、行き詰まってしまう。
     多中たなか米津べいつを襲う為に、彼らの立ち回り先を調べるだけで若宮わかみやはかなりの時間と労力を費やしていた。多中たなかが新しい隠れ家に移動したのであれば、そこを突き止めるのに同じ位の時間と労力が必要になるだろう。
     若宮わかみやに労力を惜しむつもりは全く無い。
     だが、時間は別だ。多中たなか少佐を狙っているのは若宮わかみやだけではないのだ。
     おそらく多中たなかの所在を突き止めるのは、自分より亜貿社あぼうしゃの殺し屋――有希ゆきたちの方が早いだろう。――若宮わかみやはそう思った。
     若宮わかみや有希ゆきと取り交わした「お互いに邪魔をしない」という協定を忘れていない。無視するつもりもない。だが同時に復讐の本丸を譲るつもりも、毛頭無かった。
     多中たなかは彼を強化施設に送り込んだ張本人なのだ。若宮わかみやは施設で彼の身体を直接弄くり回したマッドな科学者以上に多中たなかのことを憎んでいた。その憎しみと恨みは「鉄シリーズが彼を除いて全員殺された」と聞いてますます深く激しいものとなった。
     石猪いしい少尉は正直、どうでもよかった。米津べいつ大尉も、どうしても自分で、という拘りは無かった。しかし多中たなか少佐だけは、己が手で地獄に送ってやりたいというのが彼の偽らざる想いだった。
    (だが、どうすれば良い……)
     彼は元軍人だが、基地内部の情報を密かに流してくれる知り合いはいない。軍の内部に手が届く情報屋の心当たりも無い。
    (――いちかばちか、忍び込んでみるか)
     行き詰まった若宮わかみやは、分が悪い賭けを試してみることに決めた。

    ◇ ◇ ◇

     十月二十六日、金曜日。
     若宮わかみやは早速、K市基地への侵入を試みた。
     基地を取り巻く壁には警備装置が隙間無く張り巡らされている。かといって、ゲートを正面突破するのは論外だ。彼は侵入経路として、基地に隣接する研究施設に目を付けた。
     その施設には用途を知らせるような分かり易い名称もロゴマークもシンボルマークも付いていなかったが、中で何が行われているのか若宮わかみやにはすぐに分かった。彼が身体を改造されたのは――改造と言ってもサイボーグ化手術ではなく薬物とウイルスによる生化学的措置だ――ここではないが、外から見る限り建物の基本的構造が同じだった。
     多中たなかが逃げ込みそうな場所だ――そう感じたのも、ここを侵入経路に選んだ理由だ。
     いや、むしろ「多中たなかが隠れているのではないか」という期待がルート選択に対して決定的に作用したのかもしれなかった。
     客観的に見て、賢い選択とは言えない。
     人体実験は明らかな違法行為。ただ、世界大戦に続く軍事的緊張という時代の要請で見逃されてきただけだ。それも、決して社会が容認したわけではない。見て見ぬふりをしてもらったに過ぎない。ひとたびマスコミで取り上げられたなら、政局が燃え上がること必至。
     それ故、実態を隠蔽する為の警備体制は一際厳重なものとなっている。おそらく、壁を乗り越える方がリスクは低い。侵入しやすい経路を選ぶという意味では本末転倒だ。
     若宮わかみやは多分、心理的に追い詰められて冷静さを欠いているのだ。さ然もなくばこんな愚行を強行しようとはしなかっただろう。このままならば、ほぼ間違いなく彼は国防軍に拘束されていたに違いない。
    「ちょっと、馬鹿な真似は止めてください」
     ――背後から、小声で話し掛けられなければ。
     若宮わかみやは慌てて振り返った。
     自分では警戒を怠っていなかったつもりなのに、背後を取られて気付かなかったことに愕然としていた。
     彼は無意識に迎撃の構えを取り、
    「お前は……」
     相手の正体を認識して構えを解いた。
     お洒落な伊達メガネを掛け、左肩に大きなカメラバッグを背負った若い女性。亜貿社あぼうしゃの殺し屋、アニーこと姉川あねがわ妙子たえこだ。
    「こっちへ」
     妙子たえこ若宮わかみやの手を取ると、有無を言わせず彼の手を引っ張って研究施設の前を離れた。彼女はそのまま十分程歩いて、シャッターの下りた写真スタジオに裏口から入った。
    「ここは?」
     当然とも思われる若宮わかみやの質問を、妙子たえこは黙殺した。
    「――馬鹿な真似は止めてもらえませんか。迷惑です」
     答える代わりに、強い口調で若宮わかみやを詰る。
     若宮わかみやは訳が分からず、目を白黒させた。
    「……いきなりご挨拶だな」
     短くないタイムラグの後、辛うじてそれだけを捻り出す。
    「自覚が無いんですか?」
     妙子たえこの口調がますます刺々しいものとなった。
    「…………」
     実際、何を非難されているのか分からない若宮わかみやは絶句を余儀なくされてしまう。
    「……あんなにガチガチに警備が固められた建物に忍び込もうとするなんて、捕まりに行くようなものじゃないですか」
     妙子たえこはため息を吐きながら呆れ声で指摘した。
     若宮わかみやは、反論できない。彼にも、本当は分かっていたようだ。
    「自棄を起こすのは構いませんから、私たちの迷惑にならない場所でやってもらえませんか。あそこで貴方が捕まると、仕事に支障を来すんです」
    「仕事に……?」
     ここまで黙って非難に甘んじていた若宮わかみやが、ハッと目を見開いた。
    多中たなかはやはり、基地の中に匿われているんだな!?」
     妙子たえこの顔に、一瞬だけ動揺が走る。
     だが彼女はすぐに諦め顔になって、もう一度ため息を吐いた。
    「……多中たなか少佐はあの研究施設に匿われています」
    「やはりか!」
     若宮わかみやは今にも先程の建物に突撃しそうな勢いだ。
    「それから」
     妙子たえこは強い口調で、若宮わかみやの注意を強引に自分へと向けた。
    「今度の日曜日、午後八時に私たちの協力者が施設の警備システムをダウンさせます。忍び込むなら、その時にしてください」
    「……そんなことまで教えて良いのか?」
     強い意外感が興奮を冷ましたのだろう。若宮わかみやは少し落ち着きを取り戻した顔で、やや呆気に取られているような声で妙子たえこに訊ねる。
    「良いです。考え無しで仕事の邪魔をされるよりはましですから」
     答える妙子たえこの口調は投げ遣りなものだった。
    「念の為に言っておきますが、警備兵までいなくなるわけではありませんからね。雑な侵入はしないでくださいね」
    「無論、分かっている。お前たちこそ、巡回に見付かるなよ」
    「そんなドジは踏みませんよ」
     妙子たえこが「では」と言って裏口に向かう。
    「待て」
     若宮わかみやはその背中を呼び止めた。
    「何ですか」
    多中たなかが施設の何処にいるのかまでは、分からないよな」
    「知りませんよ。知っていたとしても、そんなことまで教えると思いますか? 私たちは協力関係にあるのはなく、どちらが先にターゲットを仕留めるか、その競争相手なんですよ」
    「……そうだな。馬鹿なことを訊いてすまない。それと……」
    「まだ何か?」
     苛立ちを隠せない声で妙子たえこが問い返す。
     若宮わかみやは決まり悪そうな顔をしていた。
    「その、さっきは悪かった。止めてくれて、助かった」
    「どういたしまして」
     若宮わかみやの殊勝なセリフに、妙子たえこは素っ気なく応じて今度こそ彼の前から去った。