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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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リッパーvs石化の魔女
[4]『交錯』
十月十四日、日曜日。
有希は石猪少尉を尾行していた。彼女たちの読みどおり、石猪は監視を振り切って都心方面へ向かっていた。
個型電車を使う相手の尾行は難しいのだが、彼女はスタントマンまがいの運転で、自動二輪を使って石猪の乗る個型電車を追い掛けた。
ナオミ・サミュエルの方は仕込み中だ。そもそも件のプールバーは休業中。有希は自分の痕跡こそ残さなかったが、裏口の鍵を壊している。何者かが不法に侵入したのは状況的に明らかだ。
にも拘わらず、店の関係者が警察に届け出た形跡はない。バーの方に後ろめたい隠し事がある証拠だろう。
侵入を気付かれたことは、彼女たちの企てにとってプラスに作用する。バーの関係者には精々、警戒して欲しいところだった。
石猪が下りたのは新宿から二つ西の駅だった。
有希は駅前にバイクを停め、石猪が出てくるのを見張った。石猪は有希の目に気付いた様子もなく、ロボットタクシーに乗り込んで町の外縁部に向かい走り出した。◇ ◇ ◇
石猪がタクシーを降りたのは、町外れの古い工場の前だった。今日は日曜日だが、曜日に関係なく、もう操業していなさそうだ。
石猪が日曜日に動くだろうという有希たちの予測は的中したが、その理由は彼女たちが予想したものとは違っていた。石猪は暗殺を依頼した相手、『アニー』から思いがけないクレームと共に呼び出されたのだった。
「重大な契約違反が判明したので釈明を求める」と強い調子で詰られ、「釈明がなければ暗殺は中止する。前金も返還しない」と言われて仕方無く、危険を冒して指定された場所に足を運んだのだ。
前金として支払った金額は落ち目の多中にとって無視し得ないもので、このまま破談になれば石猪が多中の不興買うのは避けられない。今更敵対勢力に鞍替えもできない彼にとってそれは、死活問題に直結していた。
アニーが指定した待ち合わせ場所は、寂れた雰囲気の商店街に隣接するこの廃工場だった。
副都心のすぐ近くにこんな人気の無い場所があるのか? と石猪は驚きを禁じ得ない。戦後の再開発から取り残された、メガロポリスのエアポケットのような場所だ。
石猪は躊躇いながら廃工場の扉を開けた。
鍵は掛かっていない。
照明は当然のように取り外されていたが、高い位置に設けられた窓から入り込む外光で、薄暗いながらも視界は確保されていた。
「石猪だ! アニー、いないのか!」
静けさと言うより中途半端な明るさに不安を駆り立てられて、石猪は大声で呼び掛けた。
「石猪少尉、五分の遅刻ですよ」
応えはすぐに返ってきた。
ただし、姿は見えない。
片付けられずに積み残されている木箱の陰に隠れているのか。ガランとした建物内に反響して、声の出所も見当が付かない。
「それは……すまない」
「まぁ、良いでしょう。良く来てくれました」
どうやらアニーは石猪に姿を見せるつもりはないようだ。石猪もそれを覚ったようで、彼女の居場所を探すのを止めた。
「……早速だが、契約違反とは何のことだ?」
周囲を念入りに観察する余裕が無いのかもしれない。石猪は焦りを隠せぬ口調で本題を切り出した。
「お心当たりは無いと?」
「ああ、全く思い当たる節が無い」
石猪は精一杯の誠意を声に込めて訴えた。
「そうですか……」
それに対するアニーの反応は冷ややかなものだった。
「私は国防軍関係者をターゲットにした仕事は受けられない、と申しましたが、ご記憶にございませんか?」
「…………」
「石猪少尉、嘘をつ吐きましたね」
石猪の背中に冷や汗が滲む。
アニーの指摘に彼は覚えがあった。石猪は高を括っていたのだ。殺し屋風情に、『摩醯首羅』の正体までたどり着くことはできない、と。
「ま、待ってくれ。そんなはずはない。何かの間違いではないか?」
まともな言い訳はできない。石猪には開き直ることしかできなかった。
「とぼけるおつもりなら、それでも結構ですよ」
「ち、ちがっ」
石猪は言い訳の言葉を最後まで口にできなかった。サプレッサーで押し殺された銃声が、彼の言い訳を遮った。
胸を撃たれて石猪は仰向けに倒れる。
「な、何故……」
言い訳の代わりに彼の口からこぼれた疑問の言葉。それが彼の遺言だった。
二発目の弾丸が石猪の額に血の穴を穿つ。彼は今度こそ、物言わぬ死体となった。「ごめんなさいね」
拳銃を片手に姿を見せたアニーが、石猪の死体に明るい声で謝罪した。
「別に、貴方が嘘を吐いたから殺したのではありませんよ。私はサイコパスではありませんから、そんなに簡単に人殺しはしません。それに、先に嘘を吐いていたのは私の方なんです」 そう言って、アニーは石猪が入ってきた扉に目を向けた。
そこには、目を丸くした有希が立っていた。
「初めまして、ナッツ。亜貿社のスナイパー、アニーです」
アニーは朗らかな口調で有希にそう話し掛けた。◇ ◇ ◇
石猪少尉が乗ったロボットタクシーを尾行した有希は、石猪が入っていった廃工場の壁に背中を付けて耳を澄ませていた。音で中の様子を窺っているのだ。だからといって、壁に耳をつけることはしない。突然の大音量に耳を痛めない為の用心だ。
その代わり、身体強化で聴覚を強化し、建物内で交わされている会話を含めて大小の音を拾っていた。
『とぼけるおつもりなら、それでも結構ですよ』
石猪と殺し屋の交渉が決裂を迎えた直後、有希の耳はサプレッサーで減衰した銃声を捉えた。
予想外の事態に、有希は動揺を禁じ得ない。彼女の常識からすれば、プロの殺し屋があの程度の瑕疵で依頼人を殺すなどあり得ない。
これではまるで、街をうろつくチンピラのやり方だ。
有希はとにかく、状況を確認する為に――今の銃声が石猪に向けて放たれたものかどうか、石猪は本当に死んでしまったのかどうか、等――、廃工場に突入した。
建物の中では、有希が予想したとおりの光景が広がっていた。床には石猪が仰向けに倒れており、額に穿たれた銃創から血が流れている。脈を確かめるまでもなく、致命傷だ。
犯人はすぐに分かった。若い女性――有希より二、三歳年上か――がサプレッサーを付けた自動拳銃を手にして石猪の死体を見下ろしている。
その女は有希と目が合ってもまるで慌てた素振りを見せず、それどころか有希に向かって笑い掛けた。
有希はその笑みを挑戦と受け取った。どうせ殺してしまう相手だから、目撃者に慌てる必要は無い。――女の笑みを有希はそう解釈した。
状況は既に銃を手にしている相手の方が有利。
だが、絶体絶命という程ではない。相手の腕が動いた瞬間、跳躍して狙いを外し懐からナイフを抜いて投げる。身体強化を全開にすれば分の悪い賭けではない。
有希はそうそろ算ばん盤を弾き、己の異能に意識を向けた。
しかし、彼女はすぐに自分の誤解を覚った。
覚らされることになった。
「初めまして、ナッツ。亜貿社のスナイパー、アニーです」
石猪を殺った殺し屋は、有希に銃口を向ける代わりに自己紹介の挨拶を向けた。
有希は思わず脱力してしまう。
「アンタが社長から派遣された殺し屋か」
「ええ、ですが誤解しないでください。石猪少尉は成り行きで私が片付けましたが、私が社長に命じられた役割はナッツのサポートです。この仕事でメインを務めるのはあくまでも貴女。それが社長のご意向です」
「誰が的を殺るかなんて、そんなことはどうでも良いが、あたしを相手に敬語も丁寧語も必要ない。もっと普通に喋ってくれ」
この瞬間、有希は間違いなく気を抜いていた。油断していた、と言っても良い。
「誰が殺しても良いなら、多中は俺に譲ってくれないか」
だがその男の接近に気付かなかったのは、油断ばかりが理由ではなかった。
「誰だ!?」
声と共にいきなり、すぐ近くに人の気配が生じる。有希は最高度の緊張を取り戻して誰何の声を放った。
有希だけではない。アニーも顔から笑みを消し、険しい表情で拳銃を声に向けた。――いや、向けようとした。
しかし謎の男の行動は素早かった。アニーの銃口が上がりきる前に、彼女へと飛び掛かった男は左手で銃身を押さえ、右手で逆手に握ったナイフを振り上げていた。
振り下ろされるナイフ。
有希がアニーと男の間に割り込む。
身体強化が可能にする超人的な瞬発力で眼前に出現した有希に驚いたのか、ナイフを振り下ろす男の右手の勢いが鈍る。
有希の左手刀が男の右手首を捉えた。
男はナイフを取り落としこそしなったが、攻撃を中断し大きく跳び退った。
アニーが今度こそ男へ銃口を向ける。
「止せ!」
不満げな気配が背後から伝わってきたが、取り敢えずアニーは有希の制止に従った。
有希と男が睨み合う。
先に口を開いたのは有希だった。
「お前、米津を殺ったヤツだな? 若宮っていったか?」
無造作に手櫛を通しただけの短い髪。ジーンズにスニーカー、薄手のブルゾン。あの夜と違ってサングラスは掛けていないが、間違いなく米津を殺した男だった。
「……名乗った覚えは無いが?」
男は間接的に有希の質問を肯定する。同時に、「何故知っている?」と言外に問い掛ける。
「米津が言ってただろ」
「良く覚えているものだ」
「目の前で獲物を横取りされたんだ。忘れたくても忘れられねえよ」
再び睨み合う二人。今度は男の方が沈黙を破る。
「……お前たちの獲物じゃない。『魔兵研』のメンバーは俺の獲物だ」
「まへいけん?」
「『魔人兵士開発研究会』。国防軍内で人体実験を行っていたグループの名称だ」
「多中や米津はその『魔兵研』とやらのメンバーだったのか?」
「その二人だけではないがな」
男の瞳には怨念の黒い炎が渦巻いていた。
その目を見るだけで、有希は「こりゃ、何を言っても無駄だな……」と覚ったが、「はいそうですか」と引き下がれる話でもなかった。
「あたしは多中って野郎に別段恨みも無ければ特別な思い入れも無いが、じゃあお任せしますってわけにもいかないんだよ。仕事だからな」
「お前たちは多中を殺せと依頼されているだけなんだろう? だったら、多中が死にさえすれば問題無いのではないか?」
「……まあ、理屈ではお前の言うとおりだよ。的が間違いなく死んだと確認できれば、依頼人は満足する。だがあいにくと理屈どおりでは済まない。こっちは商売だからな。『殺せ』と依頼された以上、的が息をしている限り狙い続けなきゃならない」
「決裂か」
その一言と同時に、若宮の身体から殺気が膨れ上がった。
「待て! 早とちりすんな!」
慌てて有希が制止する。だが当然と言うべきか、若宮は彼女の言葉に従わなかった。
若宮がナイフを振り上げて、目にも止まらぬ勢いで有希に襲い掛かる。そのスピードは、身体強化を活性化させている時の有希に迫るものだった。
「くっ!」
不意を突かれた有希だが、彼女は右手に持ったままだったナイフで若宮の一撃をなんとか弾いた。
有希はすぐに、身体強化を発動した。
――意識の奥底に沈む扉を意思の力で引き開ける。
――扉の向こう側から異能の「力」があふれ出し、
――彼女の全身を満たす。
若宮がナイフを横に薙ぐ。
身体強化を発動した有希の目にも、その攻撃は十分にスピーディーだった。
だが、異能によって反応速度が引き上げられている彼女にとっては、対応できない速度ではない。彼女はナイフで若宮のブレードを受け止めようとした。
(――ヤバッ!)
だがその寸前で直感的な危機感に襲われて、有希は大きく身体を反らした。
彼女のナイフは若宮のブレードに切断され、敵の斬撃は彼女の残像を切り裂いた。
(――『高周波ブレード』かっ!)
有希は一秒未満のタイムラグで、敵の攻撃の正体を覚った。
魔法でも使わない限り、特殊ステンレス鋼の刀身をこうも簡単に切断できるものではない。
思い返せば、米津の死体を検分して若宮が『高周波ブレード』を使うことは分かっていた。
(迂闊だった……)
有希の心が後悔に囚われたのは一瞬だった。
若宮が空振りしたナイフを切り返して刺突の構えを取る。
戦闘は継続中だ。停滞は許されない。後悔に気を取られている余裕など無い。
有希は刀身が半分になったナイフを若宮の顔面目掛けて投げつけた。
若宮は反射的に、顔へ迫るナイフの残骸を払い除けた。
有希はその隙に予備のナイフを取り出す。ブレードの材質は最初のナイフと同じ。『高周波ブレード』に耐えられる刀身ではない。
だが有希は、その点を気にしていなかった。
(――打ち合わなきゃ良いんだろ)
ナイフ戦闘はチャンバラではない。
元々ブレード同士をぶつけ合う頻度は低い。
相手のブレードに触れなければ『高周波ブレード』を警戒する必要は無い。
有希は鋭い刺突を繰り出した。相手がナイフで受けようとすれば、すぐに腕を引いて狙いを変える。相手が反撃を繰り出せばすぐにステップバックする。
防御を許さない必殺の攻撃を持つ敵に対して、有希は徹底的なヒットアンドアウェイで対抗していた。
若宮の肌に幾筋もの浅い傷が刻まれる。
ここまでは、有希のスピードが若宮の攻撃力に勝っていた。このまま推移すれば、この戦いは有希の勝利で幕を下ろしただろう。
有希は決して油断していなかった。だが、警戒が足りなかったのは否定できない。
ナイフを持っていない若宮の左手が自分に向いても、有希はその掌が空であることを確認しただけだった。
若宮に向かって踏み込もうとした有希を、突風が襲う。
有希のスピードがダウンした。
突風といっても、物理的な気流ではない。想子流を叩き付けられて、それを風と錯覚しただけだ。有希の勢いが落ちたのも、空気抵抗によるものではなかった。
若宮が放った想子流の正体は『術式解体』。高圧の想子流を放ち、その圧力で魔法式を魔法の対象物から剥離させることで魔法を無効化する対抗魔法だ。
ほとんど全ての魔法を無効化できる、射程距離が短いという以外に欠点らしい欠点が無い対抗魔法だが、使いこなせる魔法師は極めて少ない。魔法式を吹き飛ばすに足る大量の想子を保有している者は、滅多にいないからだ。
若宮は調整体『鉄シリーズ』の第一世代。『鉄シリーズ』は長時間の魔法戦闘が可能な兵士を作り出す目的で遺伝子を操作された調整体魔法師だ。シリーズ名の「鉄」には頑丈でスタミナが豊富なアスリートを形容する「鉄人」の意味が託されている。
国防軍の研究チームは長時間の戦闘が可能な魔法師を作る為に、まず持久力が高い肉体の遺伝子を組み込んだ。心肺機能に優れていること、ミトコンドリアの活性度が高いことが、肉体面の基本的な条件だった。
そして魔法面では、想子保有量が重視された。
このコンセプトで製造された『鉄シリーズ』の内、若宮は特に大きな想子保有量を備えていた。国防軍の調整体開発チームはこの特徴を活かすべく、若宮に『術式解体』を修得させた。
『術式解体』を組み込んだ戦闘術を叩き込まれた若宮は、「魔法師キラー」という『鉄シリーズ』の調整体の中でも特異な存在となった。
ここで終わっていれば、国防軍は貴重な戦力となる「成功例」を手に入れていただろう。だが色気を出した技術者が、より強力な戦闘魔法師の完成を目指して若宮を人体実験の被験体としてしまった。
強化された有希のスピードに迫る彼の身体能力は化学的人体強化措置の産物である。だがその成功の代償として、数少ない「成功例」の脱走を招いたのだった。
有希のスピードが落ちたのは、『術式解体』の影響だった。異能――サイキックと魔法は本質的に同じものだ。サイキックも『術式解体』の効果から逃れられない。
とは言え、本質的でない部分の差異がもたらす違いは小さくない。
魔法は原則として、定義された終了条件まで一つの魔法式で事象改変をまかなう仕組みになっている。故に魔法式を剥ぎ取られれば、事象改変は中止される。魔法の効果を維持する為には、同じ魔法を発動し直さなければならない。
一方、有希の『身体強化』は彼女が終了を意識しない限り、事象改変が更新され続ける。今も『術式解体』によって『身体強化』が無効化されたのは一瞬のことだ。次の瞬間には、有希のパワーもスピードも元に戻っていた。
だがこの二人の戦いのレベルになると、一瞬の停滞が致命的な隙につながる。
(間に合わない――)
有希は迫り来るブレードに、敗北の予感を覚えた。
――だが、その「時」は訪れなかった。
彼女の弱気な未来予測を覆したのは、サプレッサーで押し殺された銃声だった。
当たってはいない。だが銃撃を避ける為に、若宮は斬撃を中断して床に身を投げなければならなかった。
「私もいるのを忘れないで欲しいわね」
アニーがそれまでとは打って変わった強気な、ある意味殺し屋らしい口調で床に自ら倒れた若宮に声を投げる。彼女が手にする拳銃は、正確に若宮を狙っている。
「ナイフを捨てなさい」
若宮は床から鋭い視線の矢を浴びせたが、アニーの構えに付け入る隙は無かった。やがて彼はゴロリと仰向けに体勢を変えてナイフを握っていた右手の力を抜いた。
アニーが引金を引いた。銃弾は床に落ちたナイフを若宮の手が届かない所まで跳ね飛ばした。「ナッツ、すみません」
アニーは若宮に目を固定したまま柔らかな口調で有希に話し掛けた。
「もっと早く援護したかったのですが。ナッツの動きが速くて、中々……」
「いや、本当に助かった」
これは有希の、掛け値無しの本音だった。アニーの援護射撃が無ければ有希は若宮にやられていただろう。
「良い腕だな」
「それ程でもありません。そいつには不意を突いたにも拘わらず、躱されてしまいましたし」
アニーは不本意そうに、寝転がる若宮を睨む。これは多分、謙遜ではない。彼女の口調は本気で口惜しがっているように聞こえる。
「謙遜しなくても良いだろ。ナイスショットだった」
それを理解していながら、有希は敢えてそう言ってアニーを賞賛した。
「いえ……ありがとうございます」
アニーは満更でもなさそうに、はにかんだ。その間にも、若宮を狙う銃口に揺らぎは無い。
「それと、さっきも言ったがあたしに敬語は不要だ。見たところ、そっちの方が年上だろ?」
有希のセリフが自信に欠けた疑問形になったのは、外見と実年齢が必ずしも一致しないということを、他ならぬ自分自身という実例で良く知っているからである。
「ですが私は入社したばかりで、ナッツは先輩ですから」
「そうなのか?」
有希は「道理で見た覚えが無い顔だ」と思いながら訊ねる。
「ええ。入社したのは一年前です」
この一年、有希は仕事を割り振られる時以外、会社に余り顔を出していない。今回のように同じ相手をターゲットにしない限り、同僚と顔を合わせなくても不思議ではなかった。
「そんなことより、こいつ、どうします? 殺しちゃいますか?」
見張っているのが面倒になったのか、アニーがいきなり話題を変えた。
「殺せ」
二人の話を聞いていたのだろう。若宮が仰向けに寝転んだまま、投げ遣りにそう口を挿んだ。
「早とちりすんな、って言っただろう」
呆れ声で有希が答える。それは、直接には若宮に対する返答だが、アニーに対する回答でもあった。
「あたしは、お前の邪魔をするつもりはねえよ」
「どういうことだ……?」
訝しげに問い返す若宮に、有希は「話しにくいから立って良いぞ」と指図した。
アニーに銃口を向けられたまま、若宮がゆっくり立ち上がる。
「早い者勝ちってことでどうだ?」
向かい合わせになった若宮に向かって、有希は唐突とも思える提案を行った。
「なに……?」
「つまりだな……、お前は復讐を果たしたい。あたしらは仕事を投げ出せない。だからといって、手を組めるような信頼関係は無い」
いったん言葉を切った有希に、若宮が頷く。
「だったらせめて、お互いの邪魔はしないでおこうぜ。お前もあたしらも、多中の息の根を確実に止めるのが最優先のはずだ。早い者勝ち、どっちが仕留めても恨みっこ無し。で、どうだ?」
「……俺はお前たちに負けた。俺の方から仕掛けて、だ。殺されても、文句は言えないところなのに、復讐のチャンスを残してくれるというのだ。異存など、あろうはずもない」
「よし、決まりだ。条件は、互いの邪魔をしないことだけ。良いな?」
「その条件については裏切らないと約束しよう」
「こっちもだ。先に行ってくれ」
若宮が頷き、ナイフを拾って廃工場から出て行く。
その背中にアニーの銃口がずっと向けられていたが、若宮にそれを気にした素振りは無かった。◇ ◇ ◇
若宮が去り、有希とアニーもすぐに廃工場を後にした。
廃工場の床には今も、石猪の死体が転がっている。殺人現場に殺し屋がグズグズしているなど愚の骨頂。既に長居しすぎているくらいだ。二人が急ぎ足になったのは当然だった。
ここへ来るのに使った有希の交通手段は小型バイク。アニーは定員二名の超小型車だ。アニーはスナイパー。銃を運ぶのに、車は不可欠なのだろう。
二人は有希が先導する形で彼女のマンションへ向かった。そして今、二人は有希のマンションのダイニングで向かい合っていた。サングラスを外したアニーは、ますますファッションモデルじみていた。ただし、世界的コレクションでランウェイを闊歩するモデルではなく、ファッション雑誌のページを飾る「読モ」レベルだが。
「ありがとう」
アニーがコーヒーを持ってきた奈穂に朗らかな笑顔でお礼を言う。
「いえ、どうぞ。お好みが分かりませんので、ミルクとお砂糖はご自由にお使いください」
「ええ、そうさせてもらうわ」
もう一度、奈穂に向かって笑顔で軽く頭を下げて、アニーは有希へと向き直った。
有希はアニーの視線を受けて、いつもの甘すぎるコンレーチェのカップをテーブルに戻した。
「さて……まずは改めて自己紹介だ。知っているかもしれないが、あたしは榛有希。コードネームはナッツ」
口火を切ったのは有希の方。
「ええと……。コードネームではなく、私にも名乗れということですか?」
アニーが戸惑った声で問い返す。
「会社の仕事ならコードネームで良いんだけどな。今回は黒羽がらみの案件だ」
「なるほど……。だからチームを組む相手の素性はしっかり把握しておきたい、と?」
「まあ、そういうところだ」
「分かりました」
そう言いながら、心から納得しているようには見えない。
「姉川妙子です。二十二歳になったばかりで、亜貿社に入ったのは一年前、この仕事のキャリアは二年。その前は民間軍事会社で射撃を教えていました。専門は長距離狙撃ですが、銃でしたら何でも得意です」
アニー――妙子の異色なキャリアを聞いても、有希は表情を変えなかった。
「ほぉ……大したもんだ」
ただ、そう呟いただけだ。
「……もしかして、ご存じでした?」
妙子が切れ長の目を微妙に細めながら訊ねる。
有希は苦笑いを浮かべた。
「まあな。会社から助っ人が出ると聞いて、どんなヤツなのかプロフィールだけは聞いていた。外見は知らなかったから驚いたがな。軍事会社出身のスナイパーっていうから、『クリス・カイル』の女版のようなゴツいヤツだと思っていたぜ」
この例えには、妙子も苦笑せずにいられなかった。
「頼りなさそうな見てくれですみません……。つまり今のは、身許照合だったと?」
「ああ。騙すような真似をしたのは悪かったと思っている。だが文弥がらみの仕事は、万が一にも失敗できないからな」
「いえ、そういうことでしたら理解できます」
ここで妙子は、意味ありげな視線を有希に向けた。
「ところで……『文弥』って黒羽文弥様のことですよね? 私たちのスポンサーである黒羽家の御曹司」
有希が「はっ!」と鼻で笑った。
「あいつが御曹司って柄かよ」
「はぁ……随分親しいご関係のようですが、やはり噂は本当だったんですか?」
「噂?」
「社内で噂になっていますよ。ナッツは文弥様の『お気に入り』だと」
「お気に入り……?」
「ええ。好い仲なんじゃないかって」
「好い仲……? 何だ、そりゃ……」
訝しげだった有希の表情が、徐々に凍り付いていく。
妙子は少し顔を赤くして、楽しそうに――恋バナに興じる若い娘のような表情で、有希の疑問に答える。
「平たく言えば、男と女の間柄なんじゃないか、って」
「何だそりゃあぁぁ……!」
有希の顔が一瞬で真っ赤に染まった。
轟き渡る咆哮に、テーブル脇に控えていた奈穂が耳を両手で押さえてギュッと目を閉じた。
爆弾を投げ込んだ妙子は軽く顔を顰めながらキョトンとした目を有希に向けている。
「……違うんですか?」
「違うに決まってんだろ!」
「あら?」
目を丸くして片手を口に当てる妙子。
一方、有希は両手で自分の肩を抱いて悪寒に襲われたように震えている。
「でも、随分親しそうですよ」
「誤解だって言ってんだろ! あいつにはいいようにこき使われているだけだ! 第一、自分より美少女な男と恋愛する趣味は無い!」
「美少女?」
訳が分からないという顔で、妙子は首を傾げた。
そこへ横から、奈穂が口を挿む。
「有希さん、そんなこと言って良いんですか? 文弥さまに言い付けちゃいますよ」
「文弥があたしより美少女なのは事実だろ」
「それはそうですけど……有希さん、文弥さまは男の子ですよ。男の子に美少女度で負けてるとか、自分で言ってて情けなくなりません?」
奈穂の指摘に、有希はそっぽを向いて知らん顔だ。どうやら図星だったようだ。
「はぁ……すごいんですね」
妙子の心底感心していることが窺われる呟きの御蔭で、有希は奈穂から追撃を受けずに済んだ。
「文弥様はいわゆる『男の娘』だったんですね」
その代わり、妙子の誤解を解くのに有希は苦労しなければならなかった。このままだと、妙子の誤解を自分の所為にされてしまうが目に見えていたからだ。
文弥に女装癖は無いと妙子に納得させるのに、有希は小一時間を要した。