• NOVELS書き下ろし小説

  • リッパーvs石化の魔女

    [プロローグ]『遭遇』

     
     首都の西、多摩地域北部に位置する、人口二十万人弱の中規模都市。
     名称は仮に『K市』としよう。副都心の繁華街まで公共交通機関で二十分程度しか離れていないが、「近場で手近に」というニーズから、ここにも「夜の街」と呼べる一角は存在する。B to Cが発達したこの二十一世紀末、「近場」のニーズが最も強いのは、日々のちょっとした娯楽であるこの分野かもしれない。
     都心・副都心の繁華街ほど豊富なバリエーションは無いが、この規模の都市であれば「手近」なニーズに応える「店」は一通り揃っている。店舗を持たず店舗以外で客を取る「店」も、法的にグレーな「店」も、明らかに違法な「店」も。
     二〇九六年十月最初の金曜日。小規模なバーやキャバレーが軒を連ねる薄暗い小道という場所柄と、夜十時過ぎという時間を考えれば、彼女たち三人は明らかに場違いだった。
     一人はフリルで飾られたワンピース。
     一人は、チェックのミニスカートにオーバーニーソックス。
     一人は、素足にショートパンツ。
     中学・高校の制服を着ている娘こそいないが、三人ともローティーン・ミドルティーン向けのファッションサイトに載っているような服装であり、中身もそれに違和感が無い。つまりは、十代前半から十代半ばの少女たちということだ。
     都心・副都心のすぐ近くだからといって、いや、だからこそと言うべきか、この時間のこの辺りに中高生が楽しめるような遊戯施設は無い。彼女たちは、世俗の塵芥ちりあくたで薄汚れた大人が想像するように、楽しむ為ではなく楽しませる為に――その対価として支払われる金銭を目当てに、薄暗い路地に立っているのだった。
    「薄暗い路地に立っている」と言っても、彼女たちに悲愴感は無い。共通しているのは、あっけらかんとした雰囲気。世界大戦を挟んで逆回転した――「正常化した」と言う人々も多い――性道徳意識が、そろそろ弛緩し始めている証拠かもしれない。
     彼女たち三人は、最初からその人数だったのではない。十分前には倍の人数がいた。この三人は売れ残り、と言うより選り好みしてこの縄張り・・・で粘っているところだ。
     彼女たちは、今すぐ金に困っているわけではなかった。男の遊び相手・・・・になるのも、小遣い稼ぎ感覚でしかない。一応は商売・・だが本人たちにプロ意識は欠片も無く、マシな相手がいなければ客を取らずに引き上げるだけだ。事実、彼女たちの間では誰からともなく「今夜は帰ろうか」という声が出始めていた。
     今日最後の品定めと、チェックのミニスカートの少女が路地の入り口に目を向ける。
    「あれっ?」
     そして思わず、年相応の声を上げた。
    「なに?」「どうしたの?」
     ワンピースとショートパンツの仕事仲間がミニスカートの少女に問い掛けながら、彼女の見ている方へ顔を向ける。
     そこには三人と似たような格好で、畳んだ日傘を左腕に引っ掛けてぶら下げた、ツインテールの少女がいた。年齢は中学三年生の彼女たちと同じか、少し下に見える。
    「知ってる?」
    「知らね」
    「あたしも」
     勝手が分からぬ様子でキョロキョロと左右を見回している少女は、彼女たちが見たことのない「新顔」だった。
    「ちょっと! そこのあんた!」
     ショートパンツの少女がツインテールの少女に呼び掛ける。彼女の声は他の通行人にも聞こえていたはずだが、反応したのは当の少女だけだった。
     ツインテールの少女はいきなり声を掛けられたにも拘わらず、怯えた様子も警戒している風も無く、小走りで三人に近付いた。
     ワンピースの少女が微かに顔を顰めたのは、自分と方向性が同じで、かつツインテールの少女の方が客観的に見て美少女だったからだろう。見た目が幼いのも、彼女たちが相手をする客層を考えればプラスに働きこそすれマイナス要素にはならない。
    「こんばんは」
     普通に会話できる距離まで近付いて、ツインテールの少女が人懐こい笑顔でショートパンツの少女に話し掛けた。
    「お姉さんたち、地元の方ですか?」
    「まあね。この辺じゃ、古株かな」
     出鼻を挫かれたショートパンツの少女は、虚勢を張って気後れしていることを隠そうとしている。余り上手く行っているとは言えないが、ツインテールの少女はそれに気付いた素振りを見せなかった。
    「良かった」
     ツインテールの少女はそう言って、あざとく両手を胸の前で合わせた。
    「そういう人を探していたんです」
    「……どういうこと?」
     ショートパンツの少女だけではない。三人の少女は、訝しげな眼差しをツインテールの少女に向けている。
    「顔役さんに紹介してもらいたいんですよ」
     一方、ツインテールの少女は非友好的な視線を気にした風もなく、相変わらずにこにこと笑いながらショートパンツの少女の疑問に答えた。
    「挨拶をさせて欲しくて」
    「ああ……なる程ね」
     納得の声を上げたのはミニスカートの少女だった。
     ツインテールの少女はこの縄張りを仕切っている人間に――ヤクザとは限らない――仁義を通したいと言っているのだ。それはこの少女が素人ではない証拠であり、かつ縄張り荒らしはしないという意思の表明でもあった。
    「感心な心掛けじゃない」
     ワンピースの少女が上から目線でツインテールの少女に声を掛ける。
     明らかに強がっているセリフにも、ツインテールの少女は「ありがとうございます」と低姿勢で応えた。
     三人の少女の瞳から、警戒感が消える。
     警戒感に替わって、同業者に対する親しみと新入りに対する倨傲が宿った。
    「あたし、ミカ。あなたは?」
     ミニスカートの少女の問い掛けに、
    「あっ、申し遅れました。チホです。よろしくお願い致します」
     ツインテールの少女、桜崎おうざき奈穂なおはそう名乗った。

     ミニスカートの少女「ミカ」は、一人で奈穂なおを小さなナイトクラブへ案内した。
    「ちょっと待っててね」
     裏口で奈穂なおを待たせて、ミカがドアホンのボタンを押す。
    (うわっ! あれ、虹彩認証付きじゃない)
     少し離れた所でそれを見ていた奈穂なおは、心の中で驚きの声を上げていた。
     虹彩認識による本人確認は、今では余り一般的な認証システムではない。それは顔認証と同様に、高精細カメラを使えば離れた所から認識できてしまう、つまり無断で個人を特定できてしまうというプライバシー侵害が問題視され、設置が法令で規制されているからだ。
     しかし逆に言えば、相手に意識させずにこっそり本人確認ができるということ。この点をメリットとして評価し、かつ法令に敬意を払わない種類の人々の間では、最初から一方的に虹彩認証を行うシステムが重宝されている。
    (ただの少女売春組織にしては、大袈裟だよね……)
     心の中で「ようやく当たりを引いたかも」と考えている奈穂なおに、ドアホンで会話をしていたミカが振り向く。
    「会ってくれるって」
    「ありがとうございます」
     奈穂なおはすかさず、ぺこりとお辞儀をした。そのまま、あたかも緊張しているように目を伏せる。虹彩認証システムの赤外線カメラを避ける為だ。その程度のことでパターン取得を完全に防げるわけではないが、全く無意味でもない。身元秘匿の必要性は、訓練で散々教え込まれていた。
     内側からロックを解除された扉を開けて、ミカが視線で奈穂なおを促す。
    「……あの?」
     ドアを押さえるだけで自分は中に入ろうとしないミカに、奈穂なおは小首を傾げて見せる。
    「ごめん。あたしは呼ばれてないんだ。一人で行って」
     申し訳なさそうな顔でミカが言う。
    「気にしないでください。案内、ありがとうございました」
     実はミカが一緒にいない方が好都合だった奈穂なおは、笑みを控えめにして軽く頭を下げた。

    ◇ ◇ ◇

     ナイトクラブに入っていく奈穂なおを、二人の男女が少し離れた所に駐めた車の中から見守っていた。
    「上手く潜り込めたようですね」
    「まだまとを確認できてもいねえよ」
     女性は「ナッツ」ことはしばみ有希ゆき。男性は「クロコ」こと鰐塚わにづか単馬たんば。そして奈穂なおのコードネームは「シェル」。三人は殺し屋のチームだ。元々は有希ゆき鰐塚わにづかのコンビで活動していたのだが、今年の春から奈穂なおが「殺し屋見習い」として仲間に加わったのだった。
    「今回のターゲットは用心深いですからね。そう簡単に隙を見せません。だからシェルを送り込んだんでしょう?」
    「さすがは軍人ってか。この仕事にシェルを使うつもりはなかったんだがな」
     今回、有希ゆきが殺すように命じられた相手はこの街の基地に勤務する軍人で、名は米津べいつ大尉。
     米津は鰐塚わにづかが言うように臆病なほど用心深く、仕事を請け負ってから既に二週間以上が経過しているが、有希ゆきは未だに仕掛ける機会を掴めずにいた。
     米津べいつ大尉は基地の外にマンションを借りている。官舎ではなく、民間の賃貸マンションだ。基地の中で暮らしている軍人をまとにするよりはチャンスが多いはず――仕事を請け負った時、有希ゆきはそう考えていた。
     しかし米津べいつの住居には、常に兵士の目が光っていた。それもどうやら護衛ではなく、米津べいつは見張られている様子なのだ。「どうもおかしい」と会社に改めて調査を依頼したところ、米津べいつ大尉は陸軍内の権力闘争に敗れて、要注意人物として監視されているという新たな事実が判明した。
     有希ゆき鰐塚わにづかは「話が違う」と社長に抗議した。二人は「陸軍大尉の暗殺」としか聞いていなかったのだ。それ自体は嘘でも何でもないのだが、ターゲットが軍の監視を受けているとなれば、難易度が桁違いに跳ね上がる。もし故意に隠していたなら、一種の詐欺と言って良い位だ。
     無論社長は「自分も知らなかったことでわざとではなかったと」反駁したし、既に暗殺の依頼は受けてしまっている。今更中止にはできない。結局、期限を延ばしてもらえただけだった。
     改めてターゲットの行動を洗い直した結果、どうやら秘密のお楽しみの時だけは監視が外れるようだ、と分かった。
     監視側が遠慮するのではない。
     監視の目が届かない隠れ家を米津べいつが利用しているのだ。
     無論、実力行使になれば軍の侵入を阻めるはずもないが、監視は公的な命令によるものではなく、謂わば非合法活動として行われている。市街地で騒ぎになるのは、監視側にとっても都合が悪いという事情があった。
     奈穂なおが入っていった店が、その「隠れ家」だ。あのナイトクラブはこの辺りの少女売春を仕切っている元締めの本拠地なのである。
     単に見かじめ料を集めるだけでなく、上客に楽しんでもらう為の個室も備えている。そして米津べいつは、あの店の「上客」だと分かっている。
    「シェルのやつ、上手く切り抜けられるかな?」
     有希ゆきの口調は淡々としたものだが、表情はかなり曇っていた。
     鰐塚わにづかは、心配のしすぎだと笑わなかった。
    「初顔にお得意様の相手はさせないと思いますが……、ターゲットの趣味が分かりませんからね。万が一、気に入られたら……、独りでは難しいかもしれません」
     鰐塚わにづかの意見は、有希ゆきの懸念と同じものだ。そして、そうなる可能性は低くないと有希ゆきは考えていた。少女趣味――性的な意味で――の男にとって、奈穂なおは理想的な容姿の持ち主と言えるからだ。
    「……やっぱ、乗り込むか」
    「危険ですよ? ナッツだって、彼らの守備範囲なんですから」
     鰐塚わにづかの言葉を聞いて、有希ゆきは嫌そうに顔を顰めた。中学生以下の少女を買い漁っているロリコンの守備範囲に入っていると認めるのは、たとえそれが限りなく事実に近いとしても、実年齢十九歳の有希ゆきには納得し難いことだった。
    「……大丈夫だろ。わざわざ『紹介状』まで手に入れたんだ。表の商売で、取引先の顔を潰すような真似はしないだろ」
     しかし自分でもそれを否定するのは難しかった。なので、別の理由を見付けてそこに触れるのを避けた。
    「どうですかね。相手は本物のヤクザです」
    「本業だからこそだよ。外国産なら仁義なんて気にしないかもしれないが、国産だったら軽々しく掟破りはやらんだろ」
    「そりゃあ、チャイニーズマフィアなんかに比べれば、無茶はしないでしょうけど」
    「この稼業、多少のリスクは付きものさ」
     迷彩柄のロングカーディガン、ショートパンツ、Vネックシャツのセットアップで大人っぽく決めた――それでも実年齢より幼く見える――有希ゆきが、助手席のドアを開ける。
    「慎重に行動してくださいよ」
     運転席から掛けられた鰐塚わにづかの言葉に、車から降りた有希ゆきは手を振って答えた。

    ◇ ◇ ◇

     裏口の扉の向こう側には、黒服を着た男が立っていた。年齢は二十歳そこそこ、あるいは十代後半か。「付いてこい」という男の声に、奈穂なおは大人しく従った。
     それほど大きな店ではない。無論、ナイトクラブだからショースペースはある。ダンスフロアも、そこそこの広さを確保している。
     だから余計に裏が狭くなっているのだろう。裏口を入ってすぐの所に、地下と二階へ続く階段があった。
     奈穂なおが案内されたのは、地下だ。抑えられた照明が、文字通りアングラな雰囲気を醸し出している。
     殺し屋見習いとはいえ、奈穂なおは十五歳の女の子。性的な危機を匂わせる空気に、緊張感を覚えずにはいられない。
    須々木すすきさん、ヒロトです」
    「入れ」
     黒服は『ヒロト』というらしい。『ススキ』というのが、元締めの名前か。
     本名かどうかは分からない。奈穂なおには比較的、どうでも良いことだった。
    「失礼します」
     良く躾けられている感じで黒服が地下室のドアを開ける。
    「入れ」
     これはヒロトが奈穂なおに向けた言葉だ。
    「失礼します……」
     おどおどとした声と態度は、特に意識する必要はなかった。地下室には、奈穂なおを萎縮させる雰囲気が漂っていた。
     とはいえ、立ち竦んでしまう程ではない。奈穂なおは一歩入った所で予定どおり、子供っぽく頭を下げた。
    「あの、チホです。ご挨拶に参りました」
    須々木すすきだ。もっと近くに来い」
     奥のテーブルに座っていた細身の男が奈穂なおに応える。年齢は四十歳前後か。細身といっても貧弱な感じはしない。顔付きも身体付きも、鋭さを感じさせる男だった。
    「はい……」
     躊躇いがちに、だが相手を苛立たせないスピードで、奈穂なおが地下室の奥に進む。
     近付いたことで、須々木すすきの向かい側に座っている男の人相が明らかになった。
    (ビンゴ)
     奈穂なおが心の中で呟く。
     元締めの向かい側に座って奈穂なおに舐めるような視線を向けている男性は、今回の仕事のターゲット、国防陸軍の米津べいつ大尉だった。
     奈穂なおは敢えて、米津べいつに目を向けた。そしてすぐに正面へ向き直り、目を伏せる。
     須々木すすきが馬鹿にするような笑みを浮かべる。奈穂なおの仕草は、好色な視線に耐えられない生娘を思わせるものだ。「こんなんで客が取れるのか」と少女売春の元締めは呆れたのだった。
    「こういう仕事は初めてか?」
    「は、はい。あの……この間まで愛人やってたんですけど、『パパ』が破産しちゃって」
    「そりゃ、災難だったな」
     奈穂なおの回答は、この仕事用に作った設定だ。幸い須々木すすきに、疑っている様子は無い。
    「うちじゃ『パパ』の斡旋はやってないが、そっちの方が良いんだったら仲介屋を紹介してやるぞ?」
    「あっ、いえ、当分はフリーでお小遣い稼ぎができればなと……」
    「そうか。まあ、好きにしな」
     お座なりに頷く須々木すすきに、奈穂なおは愛想笑いで応えた。
    「今日は帰って良いぞ。ここでやっていく詳しい条件はヒロトに聞け」
    「ありがとうございます」
     奈穂なおのほっとした声は、演技ではなかった。ここで「脱げ」と言われる状況も「味見させろ」と言われる状況も想定していたのだ。これは考え得る限り、最も都合の良い展開だった。
    「オーナー、少し良いかな」
     しかし、安心するのは早すぎたようだ。
    「何ですか、カーネル」
    (カーネル?)
    「オーナー」とは須々木すすきのことだろう。ならば「カーネル」とは米津べいつを指しているはずだ。
    (「カーネル」って大佐のことよね? 大尉なのに「大佐」って呼ばせているの?)
     奈穂なおは「厚かましい」と呆れた。彼女から見れば大尉でも十分高い地位だと思うのだが、どうやら米津べいつは、今の階級に不満があるらしい。
    (それにしたって「大佐」は背伸びしすぎじゃないかな……)
     奈穂なお米津べいつに同情すら覚えた。
     だが、この思考は一種の現実逃避だった。
    「今夜はそちらのお嬢さんでどうだろうか?」
     奈穂なおの顔が強張る。米津べいつの言葉が予想外だったのではない。予想はしていたが当たって欲しくない、でも十中八九外れない、と考えていたとおりの展開になった為だった。
    「いきなりですか。実績の無い女に、カーネルのような上客の相手をさせたくないんですがね」
    (そうだそうだ!)
     奈穂なおは心の中で須々木すすきにエールを送った。
     米津べいつに買われるというのは、考えようによってはチャンスだ。仕事用の得物も持ってきている。
     だがまだ逃走ルートの見当も付いていないのだ。上手く仕留められても、逃げ切れるビジョンが浮かばない。
    「良いじゃないか。ここでは、危ないことなど無いんだろう?」
    「……そう言われちゃ、仕方ありませんね」
     須々木すすきは頭をガリガリと掻いて、奈穂なおをジロリと睨んだ。
    「俺のシマで仕事をする条件だがな。ショバ代は一割で良い。良心的だろう? その代わり、俺が斡旋した仕事は断るな。逃げても構わねえが、そん時は二度とこのシマに近付かねえ方が良いぞ」
     そう言って、須々木すすきがニヤリと笑う。その笑顔は、「牙を剥いて威嚇した」と表現した方が相応しいものだった。
    「……分かりました」
    「よし。じゃあ、おめえの……ええっと、チホの初仕事だ。この方はカーネルと仰る。今夜は、この方が満足されるまでお相手しろ」
     潜入に当たり、奈穂なおはSOSを送る発信器を持たされている。また有希ゆき鰐塚わにづかと共に、すぐ近くで待機している手筈になっていた。
     しかし、有希ゆきは普通の人間ではないといっても、スーパーマンではない。いや、スーパーウーマンではない、と言うべきか。とにかく、呼んだからといって数秒、数十秒で飛んで来てくれる便利な存在ではない。
     それにこれは、決定的なピンチというわけではなかった。危険に曝されているのはたかが自分の貞操でしかない。ハニートラップを仕掛けるなら、当然に甘受すべきリスクだ。
    「……はい」
     ここは、頷くしかなかった。

    ◇ ◇ ◇

     ナイトクラブでは紹介状の御蔭か、有希ゆきは無事コールガールに間違えられることなく、客として入店できた。
    (うえっ……。ヤク入りじゃねえか)
     ただ、注文したカルーアミルクには勝手に薬物が混ぜられていた。
    (覚醒剤? いや、興奮剤か?)
     有希ゆきはほぼ完全な薬物耐性を持っている。人間の細胞を直接破壊するような薬品・・でもない限り、彼女には毒薬も麻薬も通用しない。
     だから少量の媚薬・・を盛られたくらいで実害は受けないのだが、一服盛られていると分かっている酒を飲み干す程、酔狂ではなかった。
     第一そんな真似をしたら、普通の人間ではないとバレてしまう。クスリが効いているふりをしても、玄人にはすぐに見抜かれてしまうだろう。彼女は自分の演技力を過信していなかった。
     そんなわけで、有希ゆきはグラスに一度、口をつけただけですぐに席を立った。ダンスフロアでリズムに合わせて適当に身体を動かす。彼女の経験上、黙って椅子に座っているより踊っていた方が余計なちょっかいを受けずに済む。
     店内の視線が、有希ゆきへと集まってくる。技術的に見れば姿勢もステップもいい加減だが、そこらの若い娘とは素の運動能力が違う。
     彼女の異能『身体強化フィジカルブースト』は肉体の強度、筋力、知覚能力、反応速度を引き上げるものだ。身体の動かし方を自動的に補正してくれるものではない。
    身体強化フィジカルブースト』をフルに活かす為、最初は自分も知らない内に両親から「忍び」の体術を仕込まれ、異能を自覚してからは自発的なトレーニングを欠かさず続けている。ちょっと踊り込んでいる程度の少女とでは、キレ・・と躍動感が比べものにならない。体格は女性としても随分小柄だが、自信満々にダンスで絡んできた百八十センチ越えの男を圧倒する存在感を有希ゆきは放っていた。
     自分が目立っていることについては、有希ゆきは余り気にしていない。こういう場所では普通に・・・目立っている方が疑われないと、これも経験上分かっているからだ。
     有希ゆきは(彼女にとっては)準備運動程度に身体を動かしながら、絡んでくる男を適当にあしらって時間を潰していた。
    (……奈穂なおのヤツ、本当に大丈夫なのか?)
     彼女の意識は、ダンスにもナンパにも向いていない。鰐塚わにづかから掛かってくることになっている電話と、奈穂なおが送ってくるかもしれないSOSに、有希ゆきは神経を集中していた。
    (まあ、「もしも」なんて無い方が良いんだけどな)
     こういうことを考えると、得てしてフラグ・・・になるものだ。
     疲れてはいないが飽きてきたのでいったん座ろうか、と有希ゆきが考えた直後。
     髪の下に隠した受信機が、奈穂なおのSOSをキャッチした。

    ◇ ◇ ◇

     奈穂なおが連れて行かれたのは、地下二階の「座敷牢」だった。
     鉄格子を見た瞬間、彼女は心の中で「変態だ!」と叫び、強い危機感を覚えた。
     その印象は間違っていなかった。実際に米津べいつは変態だったし、奈穂なおはその毒牙に掛かる一歩手前まで追い込まれた。
     だが今、彼女は別種の、もっと深刻な危難に曝され、脱がされた服をかき集めて身体を隠しただけの下着姿で畳の上にへたり込んでいる。
    (えっ? なに? 何が起こったの?)
     目を見開き硬直した表情は、演技ではなかった。
     鉄格子の外には、黒服ならぬ黒シャツを着た若い男が二人、血溜まりの中に倒れていた。二人とも喉を斬り裂かれている。確かめるまでもなく、即死だ。
     あっと言う間の出来事だった。須々木すすきの手下が見ている前で――米津べいつは見られている方が興奮する、本物の変態だった――服も靴下も剥ぎ取られて、残るはブラとショーツだけになったところで、その男は現れた。
     声を上げる暇も与えずに黒シャツ二人の喉を掻き切り、へたり込んだ奈穂なおと尻餅をついた米津べいつを見下ろす若者。
     奈穂なおは迷わず、リボン型のチョーカーに仕込まれた発信器で助けを求めた。
     このシチュエーションでは勝ち目がないと、一目で分かった。
     得物の「傘」は靴やポシェットと共に鉄格子の外だ。たとえ武器があっても、少なくとも十メートル以上離れなければ、自分では戦いにもならないだろう。
    (こいつ……何者?)
     無造作に手櫛を通しただけの短い髪。ジーンズにスニーカー、薄手のブルゾン。そこらでよく見掛ける格好だ。唯一アウトローらしいのは、夜にも拘わらずサングラスを掛けている点か。しかしそれだってファッションの範疇。身長も百七十センチ台半ばで、太っても痩せてもいない。総じて言えば、ごく平凡な外見だった。
     だが断じて、素人ではあり得ない。仮に店の者を殺した手際を見ていなくても、奈穂なおはそう思っただろう。刃渡り二十センチ程のナイフを手にした佇まいだけで、ただ者ではないと感じさせる。
     しかし殺し屋とも、少し違う気がする。
    (軍人……? ううん、傭兵っぽい……)
     奈穂なおの思考は、彼女が懐いた印象を正確に言語化したものではなかった。彼女が感じたものを正確に表現するなら「脱走兵」だった。
     狩る側であり、同時に狩られる側。奈穂なおは若者から、そんな切羽詰まった雰囲気を感じ取っていた。
    「だ、誰だ!?」
     座ったまま壁際まで後退った米津べいつが裏返った声で誰何する。軍人にしては肝が据わっていない、有り体に言って見苦しい態度だが、奈穂なおはそれを笑う気になれない。立ち上がれないのは彼女も同じだった。
     ただ、その理由は少し違うかもしれない。
     腰が抜けたのではない。奈穂なおが立ち上がれないのは、もっと差し迫った理由だった。
     下手に動かない方が――動けるところを見せない方が良い。
     そう思わせる殺気を、この若い男は纏っていた。
     若者は、ナイフを握る右手をだらりと下げて、奈穂なお米津べいつを見下ろしている。
    「クロガネ」
     若者が初めて、言葉を発した。ハスキーと言うより掠れた、若々しさに欠けた声音だ。
     老いではない。「生きるのに疲れた」というのとも少し違う。酷く摩耗した心を映したような声だった。
    (クロガネ……くろがね?)
     それはおそらく、「誰だ」という問いに対する答えだろう。
     だが奈穂なおはそれを、若者個人の名前とは受け取らなかった。
    「くろがね」という名前が珍しいからではない。青年の口調からそう感じたのだ。
    「クロガネ……? 『くろがねシリーズ』の脱走兵か!?」
     裏返ったままの声で、米津べいつが叫ぶ。
    (『くろがねシリーズ』?)
     何処かで耳にしたことがある。奈穂なおはそう思った。
    (聞いた感じ、調整体の名前なんだろうけど……)
     この状況を打開する手掛かりにならないかと、何とか思い出そうとする奈穂なおの努力は、続く米津べいつのセリフで中断してしまった。
    「た、確か、若宮わかみや一等兵だったな!?」
     米津べいつの言葉に、若者――若宮わかみやの表情が「おやっ?」という風に動く。
     自分の名前を知られていることが、あるいは、米津べいつが自分の名前を記憶していたことが意外だったのだろうか。
     だが若宮わかみやはすぐに、元の無表情に戻った。
    「私に何をするつもりだ!?」
     背中を壁に付けた状態で、なおも後退しようと無駄に足を動かしながら喚く米津べいつ
     若宮わかみやは無言で鉄格子に歩み寄り、鍵の掛かっていない扉に手を掛けた。
    「ひぃぃっ!」
     米津べいつが悲鳴を漏らす。
    「わ、私は、き、君たちの実験に関わっていないぞ!」
    「……判を押しただろう?」
     若宮わかみやがぼそりと呟く。
     それで大体、奈穂なおは事情を察した。
    (この人、実験台にされていたんだ……)
    「手続き上のことだ! 私一人が反対しても、どうにもならなかった!」
    (つまり賛成したってことじゃん)
     米津べいつの言い訳に、奈穂なおは心の中でツッコミを入れる。
     調整体で脱走兵の若者は、何も口にしなかった。
     無言で足を踏み出し、
     靴底で畳を蹴り、一気に距離を詰めて、
     ナイフを米津べいつの喉に突き刺した。
    「ひっ!」
     奈穂なおの口から、自然に・・・悲鳴が漏れた。
     返り血を浴びないようにナイフを抜いた若宮わかみやが、奈穂なおへと振り向く。
     一片の動揺も無い冷たい瞳を、座り込んだ姿勢のまま奈穂なおが見上げる。
    (――殺される)
     奈穂なおがそう思った、その時。
     小柄な人影が、音も無くこの地下二階へ駆け込んできた。

    ◇ ◇ ◇

    「クロコ!」
     助けを求める合図をキャッチした有希ゆきは、ダンスフロアの一番うるさい場所に素早く移動して電話ではなく近距離無線で鰐塚わにづかを呼び出した。
    『ナッツ。どうしました』
     鰐塚わにづかの落ち着いた口調で、彼が状況を把握していないと理解する。
    奈穂なおからSOSだ。助けに行く」
     盗み聞きされても良いように有希ゆきは、酔っ払いに絡まれている友達を助けに行くかのような軽い口調で鰐塚わにづかに告げた。
    『ちょっと待ってください! 状況を……』
    「SOSだぞ。そんな暇ねえよ」
     有希ゆきは無線を切って、店の奥に早足で歩き出す。
     ダンスフロアを抜けたところで、彼女は自らの気配を消した。
     カウンターの奥にいた店員が「あれっ?」という表情を浮かべる。彼には、注文に来たのだろうと待ち構えていた女性客が、いきなり消えたように見えたのだ。
     有希ゆきは「STAFF ONLY」と表示された扉を手前に引いた。
     鍵は掛かっていなかった。
    (ハッ! ザルだな)
     幾ら裏口を厳重に警戒しても、中に入ってしまえばフリーパス。田舎ヤクザらしい間抜けさだ、と有希ゆきは心の中で嘲笑う。ここK市は全国的に見れば決して田舎ではないのだが、大都会の繁華街に巣くうマフィアを何度も相手にしている彼女からはそう見えるのだろう。
     ただ、有希ゆきにとってはフリーパスかもしれないが、店員は一応扉を見張っていたのだ。目を向けても彼女に気付けなかっただけである。
     隠形術。
     魔法ではない、忍の技術。有希ゆきは、古式魔法である『忍術』は使えない。だが魔法と閨房術以外の忍の技術は、高いレベルで身につけていた。特に小型の刃物を使った格闘術と隠形術は現代に生きる忍者の中でも、もう一歩で超一流の域に届くレベルだ。街の喧嘩自慢レベルに見破れるものではなかった。
     彼女は気配を消したまま地下へ向かう。階段を二段下りたところで一瞬足を止め、さらにペースを上げた。
    (血の臭い!?)
     足を止めたのは地下に蟠っていた血の臭いを嗅ぎ取ったからだ。
     奈穂なおの身を案じて足を速めても、足音を消すのは忘れない。
     地下一階で皆殺しの惨状を見ても、もう足を止めない。
     有希ゆきは忍び寄る影と化して、奈穂なおが囚われている地下二階へ駆け込んだ。
     そして彼女の足は、座敷牢を認識したところで止まった。
     変態的性欲充足の舞台装置に呆れたのではない。――いや、呆れてはいたが、足を止めたのはそれが理由ではなかった。
    (……こいつ、何者だ?)
     奈穂なおを見下ろす若者、若宮わかみやが放つただならぬ気配に、警戒を余儀なくされたのである。
     立ち姿に隙が無いわけではない。間に鉄格子がなければ、若宮わかみやのナイフが奈穂なおに届く前に一撃を食らわせる見込みはあった。ただそうなった時、攻撃を仕掛けた自分が無事でいられるビジョンは浮かばなかった。
     相手の身体を刺した直後に、自分も刺される。そんな気がしてならなかった。
     部屋の奥に転がる米津べいつの死体には、この部屋に足を踏み入れたのと同時に気付いている。誰が殺したのか、状況は一目瞭然だ。犯人はこの青年以外にあり得ない。
    (……金目当てじゃねえな)
     こういう気配の持ち主を、有希ゆきは過去に見たことがある。
    (復讐か……?)
     有希ゆきが知っている復讐者はナイフではなく銃を手に取っていたが、怨みを晴らす為に我が身を捨てて人殺しを続けようとしていたその男と良く似た雰囲気を、目の前の若者は纏っていた。
    「ナツさん!」
     奈穂なおがあらかじめ打ち合わせておいた偽名で有希ゆきを呼ぶ。
    「チホ、大丈夫か!?」
    「平気です。ナツさんこそ、危ないから下がってください!」
     有希ゆきが出入り口を塞ぐ位置から脇にずれる。
     ――目の前の男を刺激するな。
     奈穂なおのセリフを、有希ゆきはそういう意味に解釈した。
     奈穂なおを見下ろしていた若宮わかみやが顔を上げる。
     彼はまず有希ゆきを見て、ドアを開け放したままの出入り口に視線を移した。
     若宮わかみやに、有希ゆきを警戒している様子は無い。
     彼は血に濡れたナイフを右手に持ったまま、鉄格子の扉をくぐり、有希ゆきの横を通って部屋の外に出て行った。

     階段を上る足音が聞こえなくなって、有希ゆきは座敷牢の中に入った。
     同じく、足音が消えて警戒を解いた奈穂なおが服を着始めている。
     有希ゆきは壁際で横向きに倒れた米津べいつの側にしゃがみ込んで、喉の傷を改めた。
    「こいつは……」
     眉を顰めた有希ゆきが小声で呟く。
    「何かおかしなところでも?」
     ワンピースのボタンを留め終えた奈穂なおが、胸元のリボンを結びながら有希ゆきの背後に歩み寄って訊ねる。
     有希ゆきは首を左右に振りながら立ち上がり、奈穂なおへと振り返った。
    「ナイフの傷じゃねえな」
    「えっ? でもあたし、ナイフで刺したところを見ましたよ」
     有希ゆきの言葉に、奈穂なおが不思議そうな顔で首を傾げる。
    「どんなに鋭い刃を使っても、摩擦がゼロにならない以上、切ったり刺したりした方向に切り口が引きずられるもんだ。こいつの傷には、それが無い」
    「剣の達人は、斬った相手が斬られたことに気付かないくらい、きれいに・・・・切断したそうですけど」
    「あいにくあたしは、そんな達人に会ったことが無い。でも、こういう切り口を残すヤツならやり合ったことがある」
     有希ゆきの言葉に、奈穂なおが興味津々の表情を見せた。
    「どんな相手なんです?」
    「魔法師だ。……これを見ろ」
     奈穂なおが納得していない表情だったので、有希ゆきは説明を追加した。
    「切り口の端が溶けたみたいになってるだろ?」
    「……ほんとですね」
     米津べいつの死体に顔を近付けて喉の傷をのぞき込んだ奈穂なおが頷く。
    「これは『高周波ブレード』って魔法で斬られた傷の特徴だ」
    「言われてみれば……あたしも教官から習ったのを思い出しました。じゃあ、さっきの男はやっぱり?」
    「何か聞いたみたいだな。だが今はここからずらかるのが先だ」
    「そうですね」
     奈穂なおはそう言って、鉄格子の外に出て靴を履きポシェットと傘を回収した。
    「お待たせしました」
    「忘れ物はえな?」
     奈穂なおが頷くのを確認して、有希ゆきは階段へ向けて走り出した。

    ◇ ◇ ◇

     運良く誰にも見咎められずに、有希ゆき奈穂なおはナイトクラブを脱出し鰐塚わにづかと合流を果たした。
    「何があったんです?」
     運転席の鰐塚わにづかから、心配しているというより、不安げな声で質問が飛ぶ。イレギュラーな事態が発生したと、戻ってきた二人の顔色から察したのだろう。
     その問い掛けに有希ゆきが顔を顰める。しかし、それだけだ。彼女は答えを拒まなかった。
    まとが横取りされた」
    「横取り……? 他の殺し屋にられたってことですか?」
    「そうだ。まとがくたばっちまったのは確認済みだ。不本意だが、この仕事は終わりだよ」
    「それは、最悪ではありませんが……。会社が納得してくれると良いですね。犯人は分かってるんですか?」
     有希ゆきたちは少なくない対価を伴う仕事として殺しを請け負っている。ターゲットが死ねばそれで「めでたしめでたし」とは行かない。
     クライアントは納得するかもしれないが、組織としては「殺すのが間に合わなかった・・・・・・・・」という事実を無視できない。少なくとも、どうしてそういうことになったのかをはっきりさせておく必要がある。
    ったやつの顔は見たぜ。そいつの素性については、シェルがなんか聞いてるようだ」
     仕事中のルールに従い、有希ゆき奈穂なおをコードネームで呼んで彼女に目を向けた。
     有希ゆきの視線に奈穂なおがコクリと頷く。
    「下手人とターゲットが言葉を交わしたのを横で聞いていました。手を下した男の名は若宮わかみや。元一等兵の脱走兵みたいです。動機は怨恨で間違いないと思います。若宮わかみや一等兵は調整体で、軍の研究所で実験台にされていたようです」
    「実験台にされた恨みか……」
     有希ゆきが納得感を込めて呟く。
    「その実験に米津べいつが関わっていたと?」
    「少なくとも、実験の実施を承認する立場ではあったようです。『判を押した』と言っていましたから」
     鰐塚わにづかの疑問に奈穂なおが答える。鰐塚わにづかはその説明に満足したようだ。それ以上の疑問は口にしなかった。
    「……そういう事情なら、社長も納得してくれるかもしれませんね。正当な復讐の邪魔は社長のポリシーに反しますから」
     自分に言い聞かせるような鰐塚わにづかの呟きに、
    「そうあって欲しいぜ……」
     有希ゆきは心からの相槌を打った。