• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [10]素顔

     小西こにしは「セミナー」と称する洗脳を終えて、代表室隣の隠し部屋で一息吐いていた。
     ここは見込みのある手駒を特別念入りに洗脳する為の舞台だが、小西にとってはリラックスできる部屋でもあった。
     彼女は今日首輪を付けた榛有希はしばみゆきという名の猟犬を、明日からどう仕上げていくかについて思案を巡らせていた。
     有希に関して、小西は「しくじった」と思っていることがある。暗示を植え付けるのに力を入れすぎて、有希の口から自分がどんな人間なのか詳しく聞き出すのを失念していたのだ。
     プロの殺し屋だということは聞いた。だが、何という組織の、誰の下で仕事をしていたのか訊いていなかった。ナイフを使った接近戦を得意としていることは聞いているが、他にどんな特技を持っているのか確かめるのを忘れていた。
     明日はまず、彼女自身に関する詳細な情報を喋らせる。
     その上で、ターゲットに仕掛ける作戦を練る。
     小西は待望の「プロフェッショナル」を手に入れたことで、少なからず舞い上がっていたのだった。
     しかし彼女の高揚した気分は、代表室に掛かってきた電話で水を掛けられた。
    「何ですって!?」
     大声を出さない分別はあったが、怒気が滲み出すのは抑えられなかった。
     電話は、非合法な仕事に使う武器の保管を任せた配下からだった。
     約三時間前、教団最大の武器庫が襲撃されて銃器爆薬を大量に持ち去られた上、残っていた武器は保管庫ごと炎上したというのだ。
     昨日金庫を襲われたばかりで、警戒のレベルは上げていた。必要な手はきちんと打っていたはずだ。
     保管係がサボタージュしていた?
     そんな疑いすら、小西は拭い去れない。
    「他の倉庫の状況は?」
     小西は自制心を最大限に発揮して落ち着かせた声で、保管係に訊ねた。
     幸い、被害に遭ったのは一箇所だけだという。
     しかし、安心はできない。押し入られていないだけなのかもしれないのだ。
     小西は電話を切って、本部詰めの警備員を必要最低限の人数だけ残して倉庫に回すよう、警備責任者に命じた。
     同時に彼女は、警備員の代わりに今日集めた五人を代表室の前に集めるよう指示する。司波達也しばたつやの暗殺要員に選んだ彼女たちは、元々操り人形にする下地を作ってあった。今から、命を懸けて自分を守る「人間の盾」になるはずだ。
     小西は、それで十分だと考えた。その程度では対処できないリスクを、彼女は想定していなかった。

    ◇ ◇ ◇

     ヤミの姿をした文弥ふみやは、監視に残していた部下から警備員が多数出て行ったと聞いて、驚きを禁じ得なかった。
    「小西は本部に残っているのですよね?」
    「小西本人が外出・帰宅した形跡はありません」
    「犯罪組織のトップは普通、自分のことだけは何が何でも守ろうとするものだと思うのですけど……」
    「そうとも限らないんじゃないか?」
     文弥が思わず漏らした疑問の独り言に応えを返したのは、有希だった。
    「策士を気取っている悪党に限って、『自分だけは大丈夫』なんていう根拠の無い自信にあふれてたりするもんだ。それで自滅したやつを何人か知ってるぜ」
    「小西もそういうタイプだと?」
    「あたしはそう感じた。ヤツの策にはまったあたしが言えることじゃないかもしれんけど」
     なる程、と文弥は思った。有希の意見は案外、的を射ているような気がする。
     仮に的外れでも、文弥たちがやることは既に決まっている。
    「――予定どおり突入します。警備員が減ったからといって、油断しないように」
     洗脳装置対策のサングラスを掛けた黒服集団が、一斉に頭を下げた。
     暗闇に黒は案外目立つ。せめて紺色か濃い灰色のスーツにしてくれないか、と文弥は黒川くろかわに掛け合ったのだが、返ってきた答えは「自分にはどうにもなりません」だった。
     ここで今更、文句を言っても始まらない。こんな不審人物が副都心という都会で集団を作っているのに、全く人目を引いていないのだ。彼らが腕利きの諜報魔法師であることは、否定できない事実。こんな手練れを部下に与えられて不平を鳴らすのは罰当たりだ。
     文弥は自分に、そう言い聞かせた。
    「作戦開始!」
     小声ながら力のこもった文弥の号令が耳栓に内蔵されたスピーカーから伝わり、黒服集団が一斉に動き出した。

     小西教団襲撃作戦に参加している黒羽家の魔法師は、文弥を含めて十二人。有希を加えて十三人。彼らは同じ入り口から一斉に侵入するのではなく、三人ずつに分かれて四箇所から時間差で建物内へ潜入する作戦だ。
     文弥と行動を共にしているのは黒川と有希。三人ずつで組を作ると一人余るから、文弥の組を四人にしようと黒服たちは考えていた。正確には、十二人を三人ずつに分けて、文弥のチームに有希を加えるのが黒川を含めた部下のプランだった。
     それを却下したのは文弥だ。彼は電源室を制圧するチームに余分な一人を割り振り、小西を狙う自分たちの組は三人で十分と主張した。
     今、ここにいる十三人の中で最も強いのは、文弥。それは有希も含めて、全員が認めている。自分に護衛を付けるのは人員の無駄遣い。そう主張する文弥に反論し続けることができた者はいなかったのである。
     最初に潜入した四人のチームが、電源室の制圧に成功する。それは建物の照明が落ちたことで分かった。
     文弥たちを除く二チームが、建物の中にいる人間を無力化していく。警備員と事務員が全て抵抗できない状態になったという合図と共に、文弥は有希と黒川を連れて正面玄関から突入した。
    「鍵は掛かっていないようです」
    「そうですか」
     黒川の言葉に文弥が頷き、
    「ナッツ、お願いします」
     電源がカットされたことで動かなくなった自動ドアを開けるよう、有希をコードネームで呼んで、依頼という形の命令を下す。
    「もしかしてあたしは、この為に連れてこられたのか……?」
     有希は半ば本気でそう呟きながら、止まったモーターが抵抗となっているドアに手を掛けた。
     襲撃メンバーの中で最も強いのは文弥だが、腕力、パワーという意味では、身体強化を発動した有希が最強だ。重い扉をこじ開ける要員、という彼女の自嘲のセリフは、あながち間違いではないかもしれない。
     自動でなくなった電動ドアが、ゆっくりと、ただし何の抵抗も見せずに開いていく。
     文弥と黒川は、それを出入り口の脇、有希とは反対のサイドから見ていた。
     この中は、代表の部屋に続く秘書室。
     文弥と無言で頷き合った黒川が、一人分の隙間から室内に飛び込んだ。
     直後に鳴る、弓弦の音。使用された武器は、小型のボウガン。
     武器としてはやはり、銃に劣る。だが殺傷力は侮れない。人の命を奪うには十分な威力を備えている。
     だが、室内から「やった!?」という声が聞こえてきても、文弥は焦らなかった。
     黒川は殺気を読むことに掛けて、黒羽家の魔法師中随一。また彼は甲賀流の忍術使いであり、敵の攻撃を避ける様々な術を会得している。黒羽家の中で、待ち伏せや奇襲に対して最もやられにくい戦闘要員、それが黒川白羽くろかわしらはの特徴だった。
    「えっ? 上着だけ!?」
     部屋の中で上がる声だけで、何が起こっているのか分かる。仕留めた相手が倒れているはずの所に、ジャケットだけが落ちていたのだろう。黒川の『空蝉の術』だ。
     それより文弥の注意を引いたのは、中から聞こえてきた声が女性のものだけだという点だった。
     小西の身近で警備に当たっているのが女性だけでも、特に不思議ではない。女性の代表に、女性の護衛。普通にありそうな組み合わせだ。
     だがそこに、洗脳に関する情報が加わったらどうか。
    (――暗示で「盾」に仕立て上げられた女たちか!?)
     相手が女性であれば、攻撃するのを躊躇するに違いない。そう考える犯罪者やテロリストは多い。「武器を持っていれば男も女も脅威度は変わらない」と理解していても、実際には女性相手の発砲を躊躇う兵士や警官は少なくない。相手が女性で子供――少女であれば尚更だ。自分たちが優位に立っている時ほど、この類いの躊躇が見られる傾向がある。
     文弥の部下には、男女を区別する「甘ちゃん」はいなかった。だが残念ながら文弥は、を切り捨てられるレベルに達していなかった。
     自分の意志で戦っている女性兵士なら撃てる。
     だが洗脳され、傀儡くぐつとなって戦わされている女性をのは忍びない。
     文弥は彼専用に作られたナックルダスター形態のCADを右手に、落下防止のストラップを通した携帯端末形状の汎用型CADを左手に握って、部屋の中に飛び込んだ。
     一歩踏み込む最中に汎用型CADを操作して魔法障壁を展開する。
     入ってすぐの所に一人の女性の死体が横たわっていた。
     文弥は死体から視線を剥がして黒川の姿を探した。
     身体に沿って張り巡らした対物シールドに、短い矢が当たって床に落ちる。
     黒川はまさに、二人目を仕留めようとしていた。
     文弥が専用CADのスイッチを押す。
     精神干渉系魔法『ダイレクト・ペイン』。肉体を傷つけることなく、精神に直接痛みを与える魔法。
     黒川の、目の前にいる女性が白目を剥いて崩れ落ちる。
     ターゲットを失った黒川が、呆れ顔で振り返った。
     再び文弥に、矢が射掛けられる。
     今度は文弥の顔の、三十センチ以上横を通り抜けた。
     文弥がナックルダスターの親指側に突き出たボタンを押す。
     ボウガンを抱えた若い女が、短い悲鳴を上げて、糸が切れたマリオネットのように倒れた。
     部屋にはまだ二人の女性がいたが、文弥のダイレクト・ペインで次々に意識を失う。
     文弥が室内を見回す。
     死者、一。失神者、四。負傷者、ゼロ。
     黒川が苦笑い未満の表情で文弥を見ていたが、とがめる言葉、いさめる言葉は無い。
     文弥には、操られていた女性たちを殺せなかった。
     殺す必要が無かった。
     殺さずに敵を制圧できる。彼は、それをなし得る強者だった。
     慈悲は強者の特権。文弥はその権利を行使しただけだ。 
    「ナッツ」
     文弥は有希をコードネームで呼んだ。
     有希がやや不満げな顔で室内に入ってくる。出番を取り上げられたのが面白くなかったのだろう。
    「彼女たちを見張っていてください」
    「おいっ」
     有希が抗議の声を上げ掛ける。
    「まだ、暗示が残っているかもしれません。念の為です」
     しかしそう言われてしまえば、有希も大人しく命令に従うしかなかった。
     代表室の扉を音も無く吹き飛ばして中に踏み込む文弥と黒川の背中を、有希は指をくわえて見送った。

    ◇ ◇ ◇

     代表室の扉は自動のスライドドアではなく、ノブを回して手で開ける内開きの物だった。
     文弥は振動系魔法で音を遮断し、続けて発動した移動系魔法でドアを内側に吹き飛ばした。粗雑に見えるが、扉にトラップが仕掛けてあった可能性を考えてのことだ。
     黒川が先に代表室へ踏み込み、文弥がその背中に続く。
     窓の無い、圧迫感をもたらす室内には誰もいなかった。
     しかし文弥と黒川は、有希から隠し部屋のことを聞いている。そうでなくても、壁の向こう側に潜む人の気配が、二人には手に取るように、いや、目で見ているように分かった。
     文弥と黒川が顔を見合わせる。
     黒川が文弥に向かって頷く。
     文弥は隠し部屋の気配に向けて、手加減したダイレクト・ペインを放った。
     壁の向こう側からは、何も聞こえない。
     だが二年前と違って、文弥は肉眼に頼らなくても魔法を照準できるようになっている。
     自分が放った魔法の手応えを、感じ取れる。
     彼の魔法は、確実に痛みを与えている。
     文弥は再度、気絶しない程度に少し強めたダイレクト・ペインを放った。
     が、代表室の空気を震わせた。隠し部屋の防音は、完全と言える水準ではなかったようだ。
    「そこから出てくるまで、攻撃を続けます」
     文弥が壁に向かって話し掛ける。カメラとマイクの場所は分からないが、隠し部屋の定番として、こちら側の様子は見えているし聞こえているはずだ。
     彼の推測が正しいことは、すぐに分かった。
     文弥が脅しを掛けた直後、目の前の壁がスライドする。有希に聞いた通り、見事な偽装だ。
     ミドルエイジの女性が隠し部屋から出てきた。覚束無い足取りで文弥の前まで歩いて、力尽きたようにへたり込む。
    「小西蘭、またの名を西小蘭ですね?」
     文弥が小西の頭上から、冷たい声を浴びせた。
     小西が驚愕に染まった顔を上げる。文弥を見上げる彼女の目は「何故それを」と問い掛けていた。
    「去年の夏に壊滅した香港マフィア・無頭竜No Head Dragonの日本における現地協力員」
    「どうして……」
     小西が苦しげな声を絞り出す。ダイレクト・ペインがもたらすダメージは、そう簡単に消えるものではない。今も存在しない傷口が声高に痛みを主張しているはずだ。一言喋るのも、今の小西にとっては苦行だろう。それでも、彼女はその呟きを閉じ込めておけなかった。
     だからといって、文弥がそれに応える義理は無い。
    「貴女には訊きたいことがあります」
     彼は小西に、一方的にそう告げた。
    「黙秘するなら、再び痛みを与えます」
     小西の顔が、恐怖一色に染まった。

    ◇ ◇ ◇

     扉は文弥が壊したので、中の話はこちら側にも筒抜けだ。小西を脅す文弥のセリフは特に聞き耳を立てなくても、有希にも聞こえていた。
    「可愛い顔して冷酷なヤツだぜ……」
     の可憐な容姿を思い浮かべながら、有希は呆れたように呟く。は相変わらず、有希よりも美少女だ。最近は男を狂わせる色気のようなものさえ漂い始めている。
    「ああいう冷たいセリフも似合っているけどな」
     ヤミは「きれい」よりも「可愛い」タイプの美少女だが、「甘い」美少女ではなく中性的な印象がある。そのべとつかない、さっぱりした雰囲気が、素っ気ない言行にマッチしているとも言える。
    「その手の男には……」
     そこまで呟いて、有希はいきなり口を閉ざした。独り言だ。幾らドアが無くなっているとはいえ、隣の部屋まで聞こえるボリュームではない。
     だが万一、文弥に聞こえたら。きっと、陰険な仕返しが待っているに違いない。間違っても「マゾ趣味の男には堪らないだろう」などと口にしてはならない……。
     有希はから意識を逸らす為、仕事に集中することにした。
     気絶している女たちを見張る。今、彼女に与えられた役割はこれだ。
    (そろそろ意識を取り戻しても良さそうなものだが)
     そう考えながら、有希は倒れている女の顔を一人一人のぞき込んでいく。長時間、気を失っているのは肉体にとって好ましいことではない。意識の喪失が長時間続くのは、脳に何らかの損傷が生じている可能性がある。その場合は、早期に治療しなければならない。
     近い順に見て回り、四人目で、有希は見覚えのある顔を発見した。
    (ハナ……。お前もかよ……)
     ほんの数時間前、有希をここへ連れてきた女子大学生。魔法師に対する過剰な反感以外は、普通の若い娘に見えた。有希にとっては潜入に利用させてもらっただけの他人だが、顔見知りというだけで、無関心にはなれない。
    (堅気を利用したという点では、あたしも小西も同じなのかもな)
     有希は教団に潜入する為に、ハナを騙した。
     小西は暗殺の手駒にする為に、ハナに暗示を掛けた。
     程度は違っても、本質は違わない。有希はそう思って、陰鬱な気分になった。
     ハナの顔を見詰めている最中、不意に、悲鳴が聞こえた。
     抜けていく命をつなぎ止めようとして虚しく足掻あがく、そんな悲哀と絶望を乗せた、か細い悲鳴だ。
     有希は何事かと、隣の部屋へ振り向いた。
     そして直感に従い、横っ飛びに床を転がった。
     すぐに体勢を立て直し顔を上げる。有希は、自分が立っていた空間をナイフが貫いているのを目撃した。
     ナイフは、ハナの手に握られていた。
    「ハナ、テメエ!」
    「あはっ。ナッちゃん、それが貴女の素顔?」
     ハナがゆっくり立ち上がる。
     首筋をチリチリと炙る危機の感覚に駆られて、有希は腰の後ろからナイフを抜いた。
     有希とハナが、ナイフを向け合う。
     ハナの構えは洗練されたものではないが、刃物を人に向けるのに慣れている感じだった。
    「……三味線を弾いてやがったのか?」
    「三味線を弾く? ええと、適当に調子を合わせるって意味だっけ。ナッちゃん、古い言い回しを知ってるんだね。でもこの場合は『猫を被る』の方が適切だと思うよ」
     にたり、とハナが笑う。その笑みは、昼間とは別人のものだった。
    「そんなことはどうでも良い! テメエ、素人じゃねえな?」
    「猫を被っていたのも素人じゃないのも、ナッちゃんの方じゃないかなぁ。あたしは普通だよ。少なくともプロじゃない」
    「素人は躊躇なく他人ひとにナイフを突き出したりしねえ!」
    「普通だよ。あたしが育ったスラムじゃあね」
    「スラムだと?」
     思わぬ言葉に、有希の構えが一瞬揺らぐ。
     ハナはその隙を逃さなかった。
     有希の首を目掛けてナイフを振るう。喉を突くのではなく、横から刃を擦り付けるような、引き切ることを目的としたナイフの用法だ。
     有希は左手を跳ね上げて、ナイフを持つハナの右手を払った。そしてブレードではなく、ナックルガードをハナの腹に叩き込もうとする。
     身体強化は切ってあったが、素の身体能力も有希は平均的な成人男性を上回る。硬質樹脂のナックルガードを装着したパンチで殴られれば、大の男でも悶絶は免れない。
     ハナはその一撃を左腕で受けた。
     そのまま後ろにひっくり返り、後転で距離を取って立ち上がる。
    いったぁ……。効いた効いた」
     ハナが顔を顰める。彼女の左腕は、明らかに折れていた。
    「そうそう、スラムの話だったね」
     それなのにハナは、何事も無かったように、有希の疑問に答えた。
    「あたし、フィリピンとのハーフだって言ったじゃん? でも日本人とは言わなかったでしょう?」
    「日本人じゃないってのか?」
    「あたしはフィリピン人だよ。ミンダナオ島の出身。マラウィって知ってる? そこのスラムが、あたしの育った所」
    「お前、ムスリムの過激派か?」
     フィリピン、ミンダナオ島のマラウィは昔、イスラム教徒の武装組織の拠点があったとされている都市であり、その残党がテロリストとして日本にも出稼ぎに来ている。有希はそう、亜貿社の研修で教わったことを思い出した。
    「おっ、良く知ってるね。でもあたしは、イスラム教徒じゃないよ」
     ハナの口調は変わらない。だが彼女の瞳に、憎悪の炎が点った。
    「パパが何故マラウィに来たのか、あたしは知らない。あたしが知っているのはパパが日本人で、スラムのやばい連中相手に取引していて、ある日、殺されちゃったってこと」
     ハナがナイフで斬り掛かる。
     左手が折れている彼女は、バランスを崩している。ハナのナイフを、有希は造作もなく躱した。
     有希が舌打ちを漏らす。相手に付け込まれる隙を作っていた自分に、彼女は苛立っていた。
    「スラムって言っても、そんなに酷い生活じゃなかったよ。犯罪が異常に多いだけで、衣食住には困らなかったかな。贅沢もできなかったけど」
     隣の部屋でバタバタと動き回っていた気配が消えた。
    「でも、四年くらい前からますます物騒になってね」
     四年前。有希はピンと来なかったが、沖縄が大亜連合の侵攻を受け、佐渡島が新ソ連の襲撃を受けた年だ。
    「近所のみんなと、密航してきたの。幸い、難民と認めてもらえて送り返されなかった。パパが日本円で残してくれたお金があるから、生活にも不自由してない。でもね」
     ハナが憎々しげに有希を睨む。その憎悪の強さは、有希の息を呑ませる程のものだった。
     こちらの異常事態をようやく察知したのだろう。扉を壊した出入り口から文弥が姿を見せる。
     有希とハナが、同時に文弥へ目を向けた。
     介入しようとする文弥を、有希が視線で押し止める。
     有希がハナに目を戻し、ハナも有希に目を向け直した。
    「でも、何だ?」
     有希が続きを促す。
     ハナは一瞬の躊躇いの後、閉ざしていた口を開いた。
    「帰化は、できなかった」
     ハナの声は、憎しみよりも怒りに満ちていた。
    「パパの死体は遺髪も残っていなくて、あたしが日本人の血を引いていると証明できる物が無いから、って! あたしが私生児で、法的な記録も無いからって! あたしは半分日本人なのに!」
    「それが許せないのか?」
    「違う! あたしは何が何でも日本人になりたいわけじゃないし、フィリピン人でいることが嫌になったわけでもない。正直言って、国籍なんかどうでも良い」
    「じゃあ、何だよ」
    「あたしは証拠が無いからって、すぐに帰化することは認められなかった。でもアンナは、一緒に密航してきた友達は、友達だった子は」
     ハナの声が震える。彼女は深呼吸して、自分の気持ちを少しだけ落ち着かせた。
     ハナは今や隙だらけだ。これ以上の怪我をさせずに取り押さえるのも、有希には難しくないだろう。
     だが、有希は動こうとしなかった。
    「あの子は、使になる素質があるって理由だけで、簡単に日本の国籍を取れた」
    「……それが理由か? ハナが、魔法師を憎む」
    「そうよ! ふざけんなっての! 何で半分日本人のあたしより、百年以上前の先祖に日本人がいたというだけのあの子が優先されなきゃならないの!? 魔法の才能があるってだけで!」
     ハナが荒く、息を吐く。少しずつ呼吸が落ち着くにつれて、彼女の表情も憑き物が落ちたように穏やかさを取り戻していく。
     しかし、瞳の中で燃える憎悪の炎は、消えていなかった。
    「あたし一人が怒っても、どうにもならないってことは分かっている。あたしが騒いでも喚いても、この国は、世界は、何も変わらない。この団体に入ったのだって、本気で魔法使いがいない国に変えられるなんて思ったからじゃない。ただ何もしていないより、気が晴れるから。同じように魔法を嫌っている人と一緒にいると、安心できるから」
     ハナが右手に握るナイフを見て、自嘲気味に笑う。
    「あたしは今の日常に、満足してたんだよ? スラムの生活は、忘れようと思った。ナイフの使い方なんて、二年以上、思い出しもしなかったよ」
     でも、と付け加えたハナの声には、口惜しさが滲み出していた。
    「ここにも使がいたなんて。魔法で操り人形になって、言われるがままに人を殺そうとして」
     ハナの顔が、くしゃりと歪んだ。それは、泣き出すのを堪えるような表情だった。
    「魔法が解けたら、ことを、思い出しちゃった」
     ハナが有希に目を向ける。憎みながら、すがるような眼差しで。
    「ねえ、ナッちゃん。ナッちゃんの本当の名前は何?」
    「……ナッツ」
    「ナッツ、ね。それが貴女の、本当の名前?」
    「そうだ」
    「貴女も使でしょ?」
     有希は「違う」と答えられなかった。彼女は、自分を魔法師だと思ったことは一度も無い。だがハナが言う「魔法使い」は、魔法師だけを指しているのではないと、何となく理解していた。
     普通の人間が持っていない異能の遣い手、有希のような異能者も指していると、この瞬間に理解した。
    「あたし、使がいない世界に行きたい。でもこの世界から使の存在を無くせないなら、あたしがしかない」
     ハナが持つナイフの切っ先が、有希の喉に真っ直ぐ向いた。
    「ナッツ。あたしを殺して!」
     ハナの刺突は、彼女が繰り出した攻撃の中で、最も鋭く、洗練されていた。
     一直線に、有希の喉へ迫る切っ先。
     有希は異能で強化された左手でハナの右手首を掴み止め、
     右手のナイフを、ハナの心臓にスルッと突き刺した。
     ハナの右手から凶器が落ちる。
     有希はハナの右腕をはね上げてその下をくぐり、彼女の右横に移動した。
     ナイフを抜く。
     血が勢いよく噴き出した。
     有希はハナの背後に回り、彼女を横向きに床へ寝かせた。
    「……あはっ。一番きれいな死に方を、させてくれるんだね……」
     心臓を圧迫せずに切り裂けば、目や鼻や耳から血が流れ出すことはない。急激な出血は速やかに意識を奪い、死斑をほとんど残さない。横向きの姿勢は血溜まりに全身を浸すことがない。ハナが残したとおり、これはを残す為の殺し方だった。
    「……Nuts to you」
     くたばっちまえ、という有希の決めセリフ。だが二人の決着を見守っていた文弥には、彼女が「安らかに逝け」と告げたように聞こえた。

    ◇ ◇ ◇

    「気が済みましたか?」
    「小西のヤツはどうなった」
     有希は文弥の問い掛けに答えず、逆にそう訊ねた。
     有希は文弥の顔を見ていない。彼に横顔を向けている。
     文弥は、有希から答えを得ることに拘らなかった。
    「呪殺されました」
    「呪殺!?」
     しかしこれには反応せずにいられなかったようで、有希は勢いよく文弥の方へ振り向いた。
    「呪い殺されたって意味か? 一体誰が……」
    「達也兄さんの暗殺依頼を誰が仲介したのか、白状させようとした途端でした。苦しげに胸をかきむしり、前のめりに倒れた時にはもう心臓が止まっていました」
    「……単なる心臓麻痺じゃねえのか?」
    「倒れた小西の背中、ちょうど心臓の裏側辺りから、黒い影でできた全長三十センチ程の芋虫が這い出してきても?」
     有希が目を見開き、息を止める。
    「その芋虫は見る間に空気の中へ溶けてしまいました。あれは明らかに、古式魔法で作られた使い魔の一種ですね。多分、大陸の方術系だと思います」
    「……使い魔?」
     その問いを口にすることで、有希は呼吸を取り戻す。
    「そんな物が実在するのか?」
    「日本では流行っていませんけど。……ナッツ、どうしたんですか? 顔色が悪いですよ」
     電源室からの電気供給が止まり、部屋を照らすのは内蔵電池の電力を使った非常灯だけだ。薄暗い所為で分かり難かったが、よく見れば有希の顔は青ざめていた。
    「何でもねえよ」
     有希はすぐに答えを返した。少々、即答過ぎる感がある反応だった。
    「ははぁ、なる程……」
     文弥が訳知り顔で頷く。
    「何だよ」
     有希は苛立った声を返したが、顔は青いままだ。
    「芋虫が怖いんですね?」
    「怖くない! 気色悪いだけだ」
    「ナッツも女の子だったということですか」
    「女のって年じゃねえよ!」
     文弥の生温なまぬるい視線に、自分がど壺にはまりつつあることを自覚した有希は、「そんなことより」と強引に話題転換を図った。
    「これからどうするんだ」
    「引き上げます。横取りされたのは残念ですが、ターゲットが死んでしまっては、もうどうしようもありません」
    「それもそうだな」
     有希は廊下へ続く出口へ身体を向けて、首を捻り、チラリと背後を見た。
    「後悔しているんですか?」
     すかさず文弥が問う。
     タイミングが良すぎたのだろう。有希は話を逸らせなかった。
    「ハナが殺して欲しいと願ったのは、一時的な感情の高ぶりによるものだ。生かしておけば、気も変わっただろうさ」
    「殺さずに済ませられたと?」
    「いや……。一時の気の迷いだろうと、ハナはあたしを殺そうと刃を向けた。だったらあたしが手加減する理由は無い。あたしは殺し屋で、正義の味方じゃないからな」
    「正義の味方になる必要はありません。貴女は、私の部下であれば良いんです」
     有希が大きく瞬きをする。
     文弥はヤミの顔で、人の悪い笑みを浮かべていた。
    「へいへい。あたしはお前の手駒、いや、道具だよ」
    「道具だなんて思っていませんよ。せいぜい奴隷ですね」
    「……おい。今、ちょっぴり本気が混じっていただろ」
    「冗談に決まっているじゃないですか。黒川、死体を片付けさせてください。気絶している女性も連れて帰ります」
     黒川の「了解しました、ヤミお嬢様」という声を背中で聞きながら、文弥は有希を追い越して、死体と、気絶しているだけの肉体が転がる部屋を後にした。
     有希の「いいや、絶対に本気だったね」という声に追い掛けられながら。

    ◇ ◇ ◇

     横浜市山下町、通称『中華街』と呼ばれている街の一角にある高級酒楼しゆろう。その店の奥、客が入ってこないオーナー用の部屋で、見目麗しい青年がため息を吐いた。
     彼の名は、周公瑾。三国志の英雄を連想させる芸名のような名前だが、本人によれば本名である。
    「彼らは、手を引くことに決めましたか」
     彼らとは岩切の仕事仲間のことだ。
     生き残ったメンバーが会合を開き、司波達也暗殺を断念すると決めたのは、つい一時間ほど前。その情報を周公瑾は、早くもキャッチしていた。
    「始末する必要は、無いでしょうね。別の機会に利用できるかもしれませんし」
     今回しゅう公瑾こうきんは、小西を紹介しただけだ。彼自身は何も損害を被っていない。
     彼のことを喋りそうになった小西蘭を使い魔で処分する手間は掛けさせられたが、それは岩切の仲間たちの責任ではない。
    「しかし司波達也の背後には、一体何者が付いているのでしょうね?」
     小西の教団を襲撃した手際は、周公瑾の目から見ても見事なものだった。国防軍の情報部でも、ああは行かないだろう。
    「厄介な少年です……」
     司波達也は周公瑾にとって、邪魔ではあるが、何が何でも排除しなければならない相手ではない。
     少なくとも、今のところは。
     少なくとも、分かっている限りは。
     だが周公瑾の直感は、司波達也を今すぐ抹殺しなければならないと告げている。
     然もなくば何時か、自分たちに、自分に破滅をもたらすのではないか。
     そんな気がするのだ。
    「ですが今、最優先すべきは正体が判明していない『摩醯首羅まけいしゆら』。そして、
     周公瑾は、自分たちにとって最大の障碍になっている一人の魔法師と一つの魔法師勢力に思考を向けた。
     彼は意識の中で、司波達也への対応を棚上げにした。