• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [6]暗躍

     浜松から東京まで、リニア特急を利用せず個型電車キヤビネット都市間列車トレーラーで移動しても一時間と少し。一時間半は掛からない。日帰り圏内どころか、夕方に出発して、適当に遊んで、その日の内に帰ってこれる「夜遊び圏内」だ。
     今日は土曜日で、魔法科高校も半日授業。第四高校の生徒である亜夜子あやこ文弥ふみやの姉弟が日没前の東京を歩いていても、何の不思議も無い。
     既に述べたように、この時間からでも三、四時間浜松のマンションに戻るのは十分に可能だ。だが二人がまず向かった先はホテルだった。
    「お待ちしておりました」
     二人はホテルのロビーで三十歳前後の男性に声を掛けられる。今の文弥はをしておらず、男女の二人連れだったので、おかしな絵面にはならなかった。だがもし文弥が変装をしていたら、もうすぐ日が沈んでしまうという時間帯もあって、通報案件になっていたかもしれない。
     そうなっても、最終的には誤解で済むはずだが。
    黒川くろかわ
    「ご苦労様」
     文弥が彼の名を呼び、亜夜子が労う。このスーツ姿の――と一応言っておく――は、文弥たちの知り合いだった。名は黒川白羽くろかわしらは。黒羽家の部下としては中堅どころだが、文弥が任務で独自に動く時は彼の側近を務める、将来の黒羽家幹部候補だ。
     今日は黒服ではなく、細いストライプの入った濃いグレーのスーツを着ている。高級とは呼べないが、まあまあのグレードと言えるホテルのロビーに、違和感なく溶け込んでいた。
    「既にチェックインは済ませてあります。亜夜子様、お荷物をお預かりしましょうか?」
    「あら、ありがとう」
    「どうぞ、こちらへ」
     亜夜子からキャスター付きの旅行バッグを受け取り、黒川は二人を先導してのエレベーターへ進んだ。

     二人の為に用意された部屋は、最上階のスイートルームだ。高校生が二人で泊まるには少々贅沢すぎる部屋だが、亜夜子にも文弥にも気後れはない。二人はな高校生ではなかったし、それにここの実質的なオーナーは黒羽家だった。
     このスイートルームは一般客に公開されていない。当ホテルには、スイートは無いことになっている。これは最初から黒羽家の為に確保されている部屋なのである。
    「私は隣に控えておりますので、ごゆっくりお寛ぎください」
     そう言ってスイートから出て行こうとする黒川を、文弥が呼び止めた。
    「頼んでおいた資料は何処だ?」
    「ビデオチャンネル九十八番でご覧いただけます」
     黒川の姿は、丁寧に閉められたドアの向こうに消えた。
     文弥はリモコンを手に取り、教えられたチャンネルを表示する。
     映し出されたのは『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』の、詳細なスライド資料だった。
     画面が大きいから、字を読み取るのにも苦労しない。亜夜子と文弥はソファに肩を並べて、次々と切り替わるテレビ画面をじっと見詰めた。
    「……姉さん、これからどうする?」
     スライドを見終わって、文弥が亜夜子に今夜の方針を訊ねた。
    「そうね。まずは着替えとメイクアップかしら」
     文弥がため息を吐く。
     ため息を吐いただけで、反抗の言葉は無かった。
    「あら、今日は素直なのね?」
     亜夜子が意外そうな表情で文弥に声を掛ける。――もっとも、彼女の目は笑っていた。
    「必要なことだから仕方がないよ」
     文弥は諦めの口調で、応えを返した。

     二人は念入りに変装して、地下駐車場に駐めてあった自走車に乗り込んだ。
     亜夜子はヘアカラースプレーで髪と眉を金色に染め、ゴールドのラメ入りマスカラを使って睫毛の色を変えている。顔を含めて露出している肌には白いファンデーションを濃く塗り、両目には暗いブルーのカラーコンタクトが入っていた。元々の目鼻立ちがハッキリしていることもあって、白人種、またはそのハーフに見える。
     文弥の方はいつものとおり、ボブカットのウィッグにルージュ、チーク、アイライン、マスカラ、アイブロウ(眉墨)。
     二人の服装はオーバーブラウスに丈の短いジャケット、ペティコートでボリュームを持たせたスカート、素肌が透けない柄物のタイツ、ハイカットスニーカー。このコーディネートは亜夜子と文弥、お揃いだ。
     もっとも、文弥のスカートが膝上丈に対して、亜夜子のスカートは膝上十センチという違いがある。また文弥は、首にスカーフを巻いていた。
     日本に遊びに来た外国の友達と夜の街に繰り出す女子高校生、といったところか。東京では珍しくもない組み合わせだった。
    「黒川さん、お待たせ」
     だからといって言葉まで外国人を装うつもりは、少なくとも亜夜子には無かった。
    「ヨルお嬢様、ヤミお嬢様、どちらに向かいましょうか?」
     運転席に座る黒川は、有人タクシーの運転手のような格好に着替えていた。自走車も送迎専門のハイヤーのような外見だ。
     公共無人タクシーが普及している都市部を走っている有人のタクシーは、大体観光案内を兼ねている。通行人は道端に運転手だけ乗せて停車している自走車を見ても「客が戻ってくるのを待っているんだろう」と、勝手に考えてくれる傾向にあった。
    「手っ取り早く、小西教団の本部を急襲しますか?」
     そう言いながら、黒川は笑っている。
    「まずは教団の武器調達ルートを叩きます」
     もしここで黒川の誘いに乗っていたら、部屋に戻されて説教を喰らっていただろう。文弥はその手に乗らなかった。
    「教祖の小西こにしには不可解な点があります。信者をどうやって洗脳しているのか、それを突き止めるまでは手を出さない方が良いでしょう」
     文弥のセリフに亜夜子が続く。
    「かしこまりました」
     その補足は、黒川的に満点だった。彼は満足げに頷いて、自走車を発進させた。

     黒川が自走車を停めたのは池袋の繁華街の、かなり外れの方だった。この時間でも人通りは少なくないが、何処となく素人には近づきかたい雰囲気に覆われている。行き交う人影も「遊び人」という風体ふうていの者が多い。
    「ここは……?」
     対向車線の向こう側に立ち並ぶ中層ビルを見上げながら、亜夜子が訝しげな声で黒川に訊ねる。さっき見たばかりのスライド資料には、この近辺に関する記述は無かった。
     確かに、危険な臭いのする区画だ。だがスリリングな夜遊びを求める若い娘が足を踏み入れることができる程度の危うさでしかない。
     銃器や爆弾の闇取引が行われているような所なら、もっと本格的な犯罪臭が漂っているか、あるいはアウトローの気配を表向き微塵も感じさせないか、どちらかのはずだ。少なくとも亜夜子と文弥がこれまで仕事に出向いた先は、そういう場所ばかりだった。
    「小西教団の武器調達ルートを潰すのが今夜の目的でしたね」
    「今夜だけで潰し切れるとは考えていません」
     試すような黒川の反問に、文弥が面白く無さそうな声音ながら、外見に背かない口調で答える。
    「その為には何をすれば良いでしょう?」
     黒川の試問は続く。
     彼は文弥の補佐役、側近であると同時に、教育係の役目も与えられているのだった。
    「保管庫を襲撃して、武器を全て奪い取ってしまうというのはどうでしょう」
    「間違いではありませんが、それは組織内部の調達ルートを遮断する方法ですね。ヨルお嬢様のご意見は?」
    「取引相手を制圧すれば良いのでは? 商売ができなくなる程の打撃を与えるか、脅して教団との取引を切らせれば、マシンガンや爆弾のような取り締まりの厳しい武器は入手できなくなるでしょう」
    「仰るとおりですが、それはかなり手間が掛かりますね。武器を密輸している業者は一社や二社ではありませんから」
     隣り合わせの亜夜子と文弥が、揃って考え込む。
    「お二人とも、難しく考えすぎだと思いますよ」
     黒川の助言に閃きを得たのは、亜夜子だった。
    「教団側が、武器を購入できなくすれば良い? 取引に使う現金を奪う、が正解ですか? そしてこの近くに教団の金庫があるのですね?」
    「ヨルお嬢様、お見事です」
     亜夜子が嬉しそうな笑みを浮かべ、
    「しかし手持ちの現金を奪っても、それで資金を失ってしまったことにはならないのでは?」
     文弥が少しむきになって反論する。
    「預金だって持っているでしょうし、預けている有価証券や、いざという時の為のきん、宝石だってあると思いますが」
    「闇取引の武器は、記名式の電子マネーや小切手では購入できませんよ。銀行振り込みや信用取引は論外です」
     しかし黒川の切り返しに、文弥は言葉を詰まらせてしまう。
    「闇取引に使えるのは現金、または無記名式のマネーカード。あるいは金貨、しくは金のインゴッド。そしてこれらは、手許に現物を用意しておかなければなりません」
     黙り込んでしまった文弥の代わりに、亜夜子が黒川の言葉に応じた。
    「つまり、金庫を空にしてしまえば取引を妨害できると? 無くなった資金を補填する為に多額の預金を引き出したり有価証券を大量に売却すれば、金融当局や税務当局に目を付けられる。それはそれで、教団の動きを牽制できる。……ということですか?」
    「そのとおりです、ヨルお嬢様」
    「分かりました。では、早速。行くわよ、ヤミちゃん」
    「……黒川、教団の金庫があるのはどのビルですか?」
     口惜しさをねじ伏せて、文弥が黒川に訊ねる。
     黒川は教育係ではなく、部下の顔でその問いに答えた。

    ◇ ◇ ◇

     反魔法主義団体の代表である小西は、日曜日だからといってオフにはならない。団体構成員(信者)には月曜日から金曜日までが勤務日の会社従業員も少なくないから、日曜日の方がむしろ忙しい。――なお土日以外が休みの業種の会社員もいるから、結局彼女に決まったオフは無い。
     もっとも今日、五月二十の日曜日は、たとえオフ日であっても小西は団体本部に呼び出されていただろう。
     ――池袋の事務所が襲撃を受け、隠し金庫の中身が全て奪われた。
     彼女は朝から舞い込んできたこの凶報に、代表室で頭を抱えていた。
     被害に遭った隠し金庫には、非合法業務に必要な武器や装備を買い揃える為の現金と無記名式マネーカードを保管してあった。現金は日本円よりも、USNAのドルと大亜連合のビィが多かった。密輸業者が自分の国で使える小額紙幣を好むからだ。
     通貨供給量に対する現金の比率低下は日本だけの傾向ではない。いや、日本は現金を補完する無記名式マネーカードが普及している分、それを加味した現金比率は主要国の中で高い方だと言える。
     USNAドルや大亜連合ビィを大量に調達するのは、簡単なことではない。小額紙幣となれば尚更だ。
     自己宛小切手(銀行が自分自身を支払人として振り出す小切手)の発展形である裏書き不要、無記名、無期限のマネーカードは比較的手に入りやすいが、外国のバイヤーには受けが悪い上に、匿名性の点ではやはり、現金に一歩譲る。
     盗まれた現金を補填するまで、武器の調達が難しくなるのは避けられない。
    (一体、誰が……)
     襲撃犯の正体が分からないのも頭痛の種だった。
     池袋の事務所には多額の現金を隠していることもあって、厳重な警備態勢を敷いてあった。夜中まで大勢の人間がいると不審がられるから常駐の警備員こそ二人に抑えていたが、防犯カメラを始めとした警備機器は「これでもか」と言う程、幾重にも仕掛けられていた。
     セキュリティ設備が壊れていたわけではない。無力化もされていない。だが結果的に、まるで役に立たなかった。
     見張りをしていた警備員も駆けつけた警備員も正体不明の攻撃を受けて何もできずに気を失い、監視カメラはノイズだらけの映像しか記録していなかった。映像の解析ソフトを使ってみても、事務所に侵入した人数すら分からなかったのだ。
     犯人の目的が分からないことも、彼女の不安を煽った。
     あの事務所は元々、無頭竜No Head Dragonが隠し拠点として使っていた物だ。本国組織が壊滅した後も、その秘密は曝露されなかった。金庫も無頭竜No Head Dragon東日本支部の物を中身ごと引き継いだ。
    『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』と池袋の事務所の関係は、警察にも知られていない。そのことに小西は自信があった。昨日の襲撃が教団の敵対勢力によるものという可能性は、極めて低いはずだ。
     単なる物盗りが、たまたま隠し金庫の存在を知ったのだろうか?
     だがあの遣り口は到底、ただの強盗のものとは思われない。
     鮮やかな手口とは言えない。むしろ力任せの強引な盗みだ。
     ただその「力」が、普通ではなかった。
     通常の機械技術では説明がつかないという側面を見れば、魔法だった可能性が高い。
     だが魔法を検知するセンサーに反応は無かった。オンラインの警報は発せられなかったし、内蔵ストレージにも記録は残っていなかった。
     無頭竜No Head Dragonは魔法を武器にする犯罪結社だった。魔法師をとする『ブースター』は無頭竜No Head Dragonの重要なだったし、魔法師をとする『ジェネレーター』は組織の切り札だった。
     小西自身は魔法師ではないので、魔法を使う為の知識は無い、だが取り扱っていた商品に関する知識として、魔法にもできる事とできない事がある、ということは知っていた。
     例えば今回のターゲットである爆弾を解体した魔法。あれは、起爆装置の部品同士の摩擦を消したのだろう。リード線を留めているネジは、ネジ穴との摩擦で固定されている。摩擦力を中和すれば、ネジ止めされている部品は重力や振動で自然に分解する。爆弾が解体された現場を見ていない――報告で聞いただけの小西はそう考えていた。
     防犯カメラのノイズも、魔法で光を乱反射させたと考えれば一応の説明はつく。しかし、コンピュータで元の映像を復元できない程まで光の反射を狂わせるとなると、かなり強力なものだ。魔法を検知する想子センサーを誤魔化せるとは考えにくい。
     強い魔法程、それが使われたことを隠せない。この点は物理現象と同じだ。エネルギーを「仕事」に変換する際に「仕事」とは関係のない余分な熱が発生するように、魔法を行使する際には余分な想子波が発生する。その効力が強ければ強い程、副次的に発生する想子波も強くなる。想子センサーは、この想子波をキャッチすることで、魔法の行使を検出する。
     魔法師でなくても、然るべき機械技術を使えば魔法が使用されたと知ることができる。だからこそ魔法は、この社会で存在が許されているとも言える。
     魔法を使った痕跡が何も残らず、魔法師以外の者は魔法が使われたことを一切検知できないのであれば、魔法師は魔法師以外のに対して完全犯罪をし放題だ。
     にも魔法が使われたことを知る手段があるからこそ、社会は完全犯罪による秩序の崩壊を恐れることなく、魔法を許容できている。
     魔法を使っても、完全犯罪は実現できない。それは魔法が持つ限界の一つだ。
     もし昨晩の強盗がセンサーに感知されずに、姿を撮影させない魔法を使ったのだとしたら。
     魔法に関する常識を一つ、覆したことになる。
     そしてもし、その襲撃犯が司波達也の暗殺を阻止しようとする一味の魔法師だったとしたら。 ――そこまで考えて、小西はデスクの前で「そんなはずはない」とかぶりを振った。現代の伝説、四葉一族でもあるまいし、何の痕跡も残さずに魔法を使える魔法師などいるはずがないと思ったのだ。
     防犯カメラに映っていなかったのは、何らかの奇術的なトリックを使ったに違いない。警備システムは機械。ならば、機械技術でだませない道理は無い。人知を超えた魔法が使われたと考えるより余程合理的だ……。
     小西は強盗の素性よりも先に、目の前の問題を片付けることにした。
     当面、非合法業務は手持ちの武器でりするしかない。司波達也の暗殺も、外部のプロを雇うことは諦めなければならないだろう。
     また今日は、反魔法主義団体『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』としての大きな仕事が待っている。小西の団体が主催する、国会前デモ行進だ。デモで警察とめた後は、マスコミのインタビューも予定されている。
     嘆いている暇は無い。
     小西はもう一度首を左右に振って、気持ちを切り替えた。

    ◇ ◇ ◇

     五月二十日、午前十一時半。
     有希ゆきは国会議事堂に続く通りの歩道に立っていた。
     もうすぐ小西教団が音頭を取るデモ行進が、この前の道路を通過することになっている。道の左右には、マスコミの中継車が既にスタンバイしていた。日曜日のお昼時、生中継のニュースは多くの人々が視聴することだろう。市民団体にとっては、名を売る格好の機会と言える。
     少し向こう側、国会前には機動隊が待機していた。過剰な警備とは言えない。つい先々週も、デモ隊が国会に侵入しようとして警察と乱闘を起こしている。本気で議事堂を占拠しようとしたのではなく、マスコミにアピールする為のパフォーマンスと見られてるが、警察としては阻止しないわけにはいかない。
     有希は、それ程待つ必要は無かった。デモ隊は、予定どおりの時間に姿を見せた。全国ネットのニュースの時間枠に合わせた登場だ。
     昔ながらのプラカードと横断幕を掲げ、魔法の危険性を糾弾するスローガンを叫びながら行進している。唱和する声は、きれいに揃っているとは言えない。そこが逆に「草の根」的な雰囲気を演出していた。
     有希が予想していたより、参加者も見物人も多い。シュプレヒコールに声を合わせて歩道からデモの列に加わる人影は、ヤラセだろうか、それとも自発的なものだろうか。
     デモ行進がガチガチに統制が取れたものでないのは、有希がやろうとしていることにとって都合が良かった。彼女はデモに合わせて進みながら、中に潜り込むタイミングを計った。
     機会は、デモ隊が国会議事堂前に到達した直後に訪れた。
     行進の先頭に立っていた若者たちが、奇声を上げて警官の列に突っ込んでいったのだ。青年たちは体格も呼吸もバラバラ。到底訓練されているようには見えない。これが演技なら、ハリウッドでエキストラが務まるだろう。
     警官隊はライオットシールドを掲げてデモ隊の突撃に対抗した。暴走する若者たちはバラバラに突っ込んでくるだけだ。陣形を崩さずに隙間なく盾を構えているだけで、突進してくる若者を受け止めるのは簡単だった。
     警官隊に突っ掛かっていった若者は、男性だけではなかった。三割前後は若い女性だった。地味で動きやすい格好はしているが、顔を隠していないし五月後半の昼に相応しい薄着は性別を隠せないものだった。
     言論の自由には、男も女もない。それが「言論」の範疇から多少逸脱することも、好ましいことではないが、性別に拘わらず起こってしまう。
     しかしそこに、弊害が生じないわけではない。
     ここでも、逸脱による悲劇が起こった。
     それが偶発的なものなのか、仕組まれたものなのかは、傍目には分からない。もしかしたら、当事者にも分からないかもしれない。被害者の側であれば特に。
     興奮した二十歳前後の女性が、透明なライオットシールドに体当たりする。
     そのすぐ後ろから、体格の良い青年が突っ込んで来た。
     青年は女性の背中に乗り上げるようにして、シールドの向こう側の警官につかみかかろうとする。
     女性はシールドに押し付けられて苦しそうに顔をゆがめた。
     透明な素材のライオットシールドは、その苦悶を警官の目に見せつける。
     しかし警官は、シールドを支える手の力を緩めなかった。彼がここで力を抜けば横列陣を突破され、デモ隊の過激分子と乱戦になってしまう。
     青年とシールドに挟まれていた女性が、気を失ったように崩れ落ちた。
     さらに後方から殺到した青年が、女性の身体に躓き、彼女の胴体を踏みつける。
     有希がデモ隊に突入したのは、この時だった。
     彼女は小柄な身体をねじ込むようにして警官と小競り合いをしているデモ隊の最前列に進み、路上に倒れた女性の横にしゃがみ込んだ。
     熱気に取り憑かれたインテリ風の青年が、有希を踏み台にして警官に飛び掛かろうとする。
     有希は咄嗟に身体強化の異能を発動すると、自分を踏もうとしている男の身体をショルダースルーの要領で跳ね上げた。
     警官の頭上に落ちた青年には見向きもせず、有希は女性の身体を後方に引きずっていく。
     小競り合いの中から抜け出すと、他の女性が駆け寄ってきた。有希が両脇を抱えている女性の足を二人で一本ずつ持ち、抱え上げる。この体勢だと有希の負担は他の二人の二倍だが、彼女は何も言わず足を持つ女性たちと協力して怪我人を歩道へと運んだ。
     女性を歩道に下ろす。彼女は苦しげにうめき声を上げた。完全に気を失っているわけではないようだ。
     ニュースキャスターがカメラを引き連れて寄ってくる。有希は被っていた野球帽のつばを引き下げた。素顔を隠すような仕草がかえって注意を引いたのか、カメラマンは有希をレンズで追い掛けようとする。だがキャスターに呼ばれて、負傷者にカメラを向けた。
     怪我人には同じデモ隊の女性が介抱に群がっている。有希は彼女たちの邪魔にならないように三メートル程距離を取った。
    「……ねえ、貴女。……ねえってば」
     遠慮がちに呼び掛ける声が有希の耳に届く。
     どうやら自分に話し掛けているようだと判断して、有希は身体ごと振り向いた。
    「何でしょう」
     有希が棘の無い口調を意識して応えると、彼女の視線の先で二十歳前後の大学生と思われる女性がホッと緊張を緩めた。
    「ありがとう、莉子りこを助けてくれて」
    「莉子さん、というのは、あちらの?」
     有希が報道陣に囲まれながら介抱を受けている怪我人に目を向けると、彼女に話し掛けてきた女性は「うん、そう」と頷いた。
    「お友達ですか?」
    「友達、かな。一応、顔見知り」
     それ程親しい間柄ではないのは、そばに群がっていない事実で何となく分かっていた。
     それなのに一人で、有希に礼を言いに来る。お人好しだな、と有希は思った。
    「あたし、ハナ。貴女、会の人じゃないよね。良かったら名前を教えてくれない?」
    「ナツ」
     名前を問われて、有希はコードネームの『ナッツ』を縮めた偽名を名乗った。
    「見てられなかったから」
     そしてこう付け加える。ハナの言葉から「会の仲間でもないのに何故助けてくれたのか」という訝しさをくみ取ったからからだった。
    「そう。ありがとう」
    「いえ、二度も御礼を言われる程のことでは」
     有希はターゲットに接近する必要から、丁寧な言葉遣いも無難な言葉遣いも使い分けられる。今は十代の勤労少女をイメージした話し方を心掛けていた。
    「ううん、そんなことないよ」
     多分大学生と思われるハナは、そんな有希に気安さこそ覚えていないものの、警戒は解いているよう様子だった。喋りがラフなのは、有希のことをかなり年下だと考えているからに違いない。
    「莉子が酷い目に遭っているのを見ても、あたしたちは動けなかった。助けなきゃ、って思うだけで、身体は動いてくれなかった。ナツは凄いと思う。尊敬しちゃうよ」
    「いえ……」
     有希が照れているのは、演技ではない。ここまであけすけな称賛に、彼女は慣れていなかった。
    「あたしも、心情的には皆さんと同じですので」
     それでもちゃんと、予定していたセリフは忘れない。多少手順は変わったが、有希の目的は小西教団に潜り込むことだ。同志アピールは欠かせなかった。
    「やっぱり!?」
     ハナという女性の反応は有希の期待以上、予想を超えた食い付きぶりだった。満面の笑みで、今にも抱き付いてきそうな勢いだ。
    「あたしたち、仲間ね!」
     教団の人間全てがここまで友好的ではあるまい。有希は自分にそう言い聞かせて、楽観に傾きそうになる気持ちを戒めた。
     ハナの能天気とも思われる警戒心欠如は、彼女の個性に違いない。有希の周りにはいないタイプだが、こういう性格の人間が世の中に一定数存在するということは読書を通じて知っていた。――ターゲットに効率良く近づく為には経験だけでなく知識も欠かせないのだ。
    「ナッちゃん。少し、お話ししない?」
    「な、ナッちゃん?」
     だが心構えがあっても、この馴れ馴れしさは予想を超えていた。有希は思わず声を上げてしまう。
    「……ダメだった?」
    「い、いえ。ナッちゃんで良いです」
    「良かった」
     御蔭で慌ててフォローする羽目になったが、どうやら仕込みをやり直さずに済むようだ。
    「それで、どうかな?」
    「あたしは構いませんけど、抜け出して良いんですか?」
     教団の人間と親密になれるのは有希の狙いどおりだったが、余りがっついているように見えるのは不自然かと思った。躊躇って見せたのは、この懸念があったからだ。
    「デモ? 大丈夫大丈夫。警察とやり合っちゃったからね。莉子以外にも怪我人が出ているみたいだし、今日はもう解散だよ」
    「そういうことでしたら……」
    「決まり! 行こ?」
     有希はハナに手を引かれて個型電車キャビネットの地下駅に向かった。

    ◇ ◇ ◇

     ハナが有希を連れていった先は青山の喫茶店だった。夜はバーになるのだろう。カウンター奥の壁にはウイスキーやブランデーの瓶とビアカップやブランデーグラス、ショットグラスが並んでいる。
     教団の本部でなかったのは残念だが、「最初からそう上手くはいかねえか」と有希は心の中で呟いて自分を慰めた。
     ハナはこの店の常連であるようで、今や珍しくなりつつある若い女の子のウエイトレスと親しげに挨拶を交わしている。もしかしたら彼女もアルバイトの一人なのかもしれない。
    (教団の隠し拠点……ってことはないだろうなぁ)
     焦りすぎだ、と有希は心の中で自嘲した。
    「どうしたの?」
    「あんまり、こういうお店に来たことがないもので……」
     有希は咄嗟にアドリブで誤魔化しながら、自分に「気を抜くな」と言い聞かせた。
    「あはっ。確かにちょっぴりレトロかもねぇ」
     ハナはそう言って、ちょうど注文を取りに来たウエイトレスと笑い合った。
     ハナがジュースを注文したので、有希もそれに便乗する。有希は苦い物が苦手だが、酸っぱい物は平気だった。
    「じゃあ、改めて」
     ハナが少しだけ姿勢を正したので、有希も堅苦しくならない程度に背筋を伸ばした。
    「あたしの名前は山野ハナ。山野ファナ、の方が発音としては正確なんだけど、面倒臭いからハナって名乗ってる」
     有希の少し意外そうな表情を見て、
    「フィリピンとのハーフだよ。今時珍しくもないでしょ?」
     ハナは笑いながら付け加える。
     有希は恥ずかしそうに目を伏せた。
     ハーフに対する特別視が顔に出たから、ではない。素人に表情を読まれたのが情けなかったのだ。
     だが何時までも俯いたままでは気まずくなってしまう。有希は大急ぎで気持ちを立て直して目を上げた。
    「あたしは……」
    「あっ、良いよ良いよ」
     自己紹介を返そうとする有希の言葉を、ハナが手を振りながら遮った。
    「フルネームを名乗ったのは、あたしの話を聞いてもらいたいからだからさ。知らない人に自分の個人情報をペラペラ喋るのは、お姉さん、感心しないぞ」
    「お姉さんって……ハナさん、あたしとあんまり変わらないんじゃ?」
     有希の目にハナは二十歳前後に見える。年上風を吹かせられる程、年長者ではないはずだ。
    「えっ? あたし、今年で二十一歳だよ」
     ハナの年齢は、有希の推測どおりだった。
    「ナッちゃんは十五歳くらいでしょ?」
     だから、思い違いはハナの方にある。
    「あたしは、十九歳ですけど」
    「ええっ!?」
     自分が実年齢より幼く見られる外見だと有希は自覚している。今は気の強さが表に出ないようなメイクをしているので余計、年下に見られるだろうということも分かっている。
     ――だが、それにしても驚きすぎだろう。
     有希は思わず、そう言いたくなった。
    「ご、ごめん!」
     またしても本音が顔に出ていたのか、有希に向かってハナが慌てて頭を下げた。伏せた顔の前で両手を合わせるおまけ付きだ。
    「いえ……気にしていません」
     本当は、とても気にしている。
     だが教団潜入の目的を果たす為には、そう言わざるを得ない。
     有希は心の中でため息を吐いた。