• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [4]初仕事

     司波達也しばたつや一行が自宅に帰り着いたのを見届けて、有希は自分のマンションに戻った。
     時刻はもうすぐ二十一時。
    (何か食える物はあったかな……?)
     そう考えながら玄関のドアを開けた有希ゆきは、
    「お帰りなさい」
     という明るい声に、一瞬、固まってしまった。
     奈穂なおの存在を、ど忘れしていたのだ。
    「あ、ああ……」
    「お夕食、すぐにできますよ。それともお風呂にしますか?」
     奈穂が、定番なようでいて今世紀初頭には既に一般家庭でほとんど使われなくなったセリフのアレンジ版で、有希を出迎える。――フィクションでお約束の「それとも、あたし?」は、採用されていなかったが。
    「……メシを頼めるか?」
    「はい、もちろんです。ダイニングで待っていてください」
     奈穂が有希の手から肩掛けの鞄を受け取って部屋の奥に消える。
     有希は言われたとおり、ダイニングに向かった。
     奈穂が言ったとおり、余り待つ必要は無かった。
     出てきたのはクリームシチューをメインにしたメニュー。最後に温めるだけの状態になっていたのだろう。自動調理機のデフォルト設定では、こうはいかない。自分で設定を細かく弄って、初めて可能になる芸当だ。
     有希はスプーンを手に取って、シチューのお皿に突っ込もうとした。その直前で手を止め、向かい側に座った奈穂に目を向けた。
    「奈穂はもう食ったのか?」
     途端に奈穂が、申し訳なさそうな顔になる。
    「……すみません。お帰りが何時になるか分からなかったので、先に頂戴してしまいました」
    「いや、それは構わないんだけど」
     奈穂の顔に浮かぶ罪悪感に、有希はやや慌て気味のフォローを口にした。
    「ただ気になっただけだ。確かにあたしも連絡しなかったからな。今度から気をつける」
     そして、出来もしない約束をしてしまう。
    「はい」
     それを額面どおりに信じたのか、それとも騙されているふりなのか――有希自身には騙しているつもりは無い――奈穂は暗い表情を消し、笑顔で頷いた。
     有希は何となく気恥ずかしくなり、顔を料理の皿に向けて食事を開始した。
     そのまま顔を上げずに食を進める。
     目を向けてはいないが、奈穂がニコニコと自分を見ているのが有希には分かった。
     実際に空腹だったのもある。
    「――ご馳走さん」
     有希は一度も手を止めずに、出された料理を完食した。
     そこでふと、自分が買った覚えの無い食材が含まれていたことに気付く。
    「奈穂」
    「はい?」
    「買い物、しただろ」
    「はい、あの、冷蔵庫の中に余りストックが……」
    「いやいや、責めてるわけじゃない。ただ、買い物の代金をどうしたのかなって」
     有希は裏社会の住人だが、亜貿社の従業員という社会的な地位はある。――平社員だが。だから銀行口座も持っているし、クレジットカードも所有している。現代生活に不可欠なオンラインショッピングに支障は無い。
     だが有希は、自分の決済情報を奈穂に教えた覚えが無い。鰐塚わにづかが有希に黙って奈穂に教えるというのも考えられない。奈穂が支払いをどうしたのか、有希は気になったのだ。
    「立て替えてるんだったら、すぐに払うぞ」
    「いえ、有希さんとあたしの生活費はこれで」
     そう言って奈穂は、エプロンの下からクレジットカードを取り出した。法人会員のゴールドカードだ。
    文弥ふみやさまからこれを使うよう預かっています。……実際に渡されたのは、本家の葉山はやまさんからですけど」
     有希には「本家の葉山さん」が誰なのか分からなかったが、多分、四葉よつば家の使用人だろうと考えておくことにした。
    「……あたしの報酬から天引きとか?」
     恐る恐る訊ねた有希に、
    「違いますよ」
     奈穂が大きく破顔する。
    「甘い物ばかりじゃなく栄養のバランスが良い食事を食べさせてあげてくれ、だそうです」
     何とか声を抑えようとして、くぐもった笑い声を漏らす奈穂。
    「何だよ、文弥のおごりか。心配して損したぜ」
     ほぼ確実に照れ隠しだろう。有希がそっぽを向いて偽悪的な口調で毒突く。
     その時不意に、有希は帰宅してからずっと言葉にできなかった違和感の正体に気付いた。
     奈穂が屈託なく笑っている。午前中の、模擬戦の敗北を引きずっていない。昨日の愛想笑いから微かに感じた白々しさもない。
     本心から笑っているのか、それとも――昨日よりも完成された愛想笑いなのか。
     有希は危うく「何故そんな風に笑えるんだ?」と訊ねそうになった。
     正直な答えが返ってくるはずもないのに、だ。
     昔の人間は、「涙は女の武器」と言った。今でも通用するかどうかは、分からないが。
     対して笑顔は、男女を問わず、今でも通用する武器だ。
    (タフな根性だけは、認めても良いか)
    「あの、何か?」
     有希の視線が気になったのか、大きく瞬きしながら奈穂が訊ねる。
    「何でもねえよ」
     有希はぶっきらぼうに、そう答えた。

     夕食のお皿を下げた奈穂は、代わりに自家製のチョコレートムースを持ってきた。「手作り」と言わないのは調理機に作業のほとんどを任せたからだが、食べる方にはどうでも良いことだ。
     有希がとろけた表情で――本人はそんな顔をしていることに気付いていない――ムースにスプーンを入れたちょうどその時、電話が鳴った。
     有希がスプーンを止めるより先に、奈穂が立ち上がって壁の電話機に向かう。プライベートモードの小さな画面で二、三、言葉を交わした後、奈穂は電話を切ってテーブルに戻ってきた。
    「鰐塚さんでした。五分後にかけ直すそうです」
     有希は良いとも悪いとも言わず、スプーンを口に運んだ。

     ちょうど五分後、再び電話のベルが鳴る。有希はリモートコンソールでそれを受けた。
     動画電話ヴィジホンのモニターも兼ねる壁面ディスプレイに鰐塚の顔が映る。彼が口を開くより早く、有希が「どうした」と声を掛けた。
    『いえ、あの後どうなったかと思いまして』
     模擬戦が終わって有希と奈穂をマンションに送り届けた後、鰐塚は亜貿社に向かった。専務から呼び出しを受けていたそうだ。亜貿社では実働部隊、つまり殺し屋は社長の直属だが、サポート要員は幾つかの部署に分かれていて管理職が置かれている。専務は鰐塚にとって直属の上司ではないが、暗殺要員に口出しするのでなければ社長は黙認している。
    「クロコも疲れてんだろ? 明日で良かったんじゃないか?」
     鰐塚を呼び出した専務は亜貿社で一番のうるさ型だ。何の用事だったのか有希には分からないが、その相手をして疲れていないはずはなかった。
    『案件が案件ですから、気になりましてね』
    「まあ、その気持ちは分かるが……」
     黒羽文弥くろばふみやは、決して横暴な雇い主ではない。確かに仕事内容に対する要求水準は高いが、その分、気前も良い。いや、彼はまだ高校一年生だ。実際に気前が良いのは黒羽家当主である彼の父親なのだろうが、有希や鰐塚にとって良い雇い主なのは確かだった。
     ただ、司波達也が絡むと人が変わる。本人が嫌がるから絶対にそんな素振りは見せないが、実のところ有希は、文弥が達也に道ならぬ想いを懐いているのではないかと疑っていた。
     それに加えて、司波達也に対しても有希は思うところがある。こんなことを考えるのは筋違いかもしれないが、もう少し自重して欲しいのだ。
     彼女が知っているだけでも、去年の冬の、「教条的平和主義」を掲げる過激派の殲滅。
     去年の春の、反魔法主義国際政治結社『ブランシュ』日本支部壊滅。
     去年の夏の、国際犯罪シンジケート『無頭竜No Head Dragon』東日本支部の幹部鏖殺おうさつ
     去年の秋の、横浜国際会議場における武装ゲリラ相手の大立ち回り。
     そしてこれは確実な情報ではないが、今年の冬の吸血鬼事件にも一枚噛んでいたらしい。
     幸いこれらの事件は規模が大きすぎて、有希の出番はなかった。だが考えただけでもゾッとする。あんな大事件に駆り出されたら、命が幾つあっても足りない。そして文弥の性格を考えると、その可能性はゼロではなかった。
     高校生なら高校生らしく、何故学校内部で収まる小さな事件で満足できないのか。せめて学校同士、学生同士の抗争に留められないのか。いや、頭が良いのだから「お勉強」だけやっていれば十分ではないのか。
     本人の責任ではないのかもしれないが、やたらとスケールの大きな事件に関わるのは、いい加減にして欲しい。それは有希の、紛れもない本音だった。
    (……あんな大魔王みたいなやつが高校生をやってるってのが、そもそもの間違いなんだろうけどな)
     有希はそう考えることで、埒も無い愚痴を意識から追い出した。
    『本当はマンションにお邪魔したかったんですが、もう夜も遅いですし』
     鰐塚がそう付け加えたことも、有希の意識を引き戻す切っ掛けになった。
    「……結論から言うとだな。やっぱあの人に護衛なんて必要ねえよ」
     有希のセリフを聞いて、ディスプレイの中で鰐塚が半笑いの表情を浮かべた。
    『そうですか』
    「ああ。ありゃ、ダメだ。何がダメって、あの人を殺すどころか、かすり傷一つ負わせるヴィジョンが浮かばないところがダメダメだ。あたしレベルの殺し屋が何人束になってもダメだろうし、あの人に怪我をさせられるような殺し屋相手じゃ、あたしが犬死にする未来しか浮かばねえ」
    『はぁ……』
     有希の発言は殺し屋側と護衛側の視点が入り乱れていたが、言いたいことは何となく分かった。だからといって、何と応えれば良いのかまでは、鰐塚にも分からない。
    「ということで、守るのは止めだ。攻めるぞ」
     幸い、長時間悩む必要は無かった。答えは有希の方から示された。
    「クロコ、小西教団の情報をもっと詳細に集めてくれ。特にやつらの行動パターンだ」
    『行動パターン、ですか?』
    「あいつら、表向きの活動もしているんだろ? 真っ当な……とは言えないかもしれんけど、一応、犯罪じゃない活動も」
     そういう意味か、という表情で、ディスプレイの中の鰐塚が有希の言葉に頷く。
    『ええ、まあ。デモとかビラ配りとかアジ演説とかばかりですけど』
    「できれば今後の予定を知りたい」
    『……潜り込むつもりですか?』
    「いきなり『仲間にしてください』って本丸に押し掛けるより怪しまれないはずだ」
    『それは、そうでしょうけど……』
     カメラの向こう側で、鰐塚はわざとらしくため息を吐いた。
    『分かりました。調べてみます』
    「頼むぞ」
     鰐塚にそう言って、有希はテーブルの向かい側、奈穂に目を向けた。
    「奈穂は依頼人の方だ」
    「依頼人って……依頼人は有希さんが始末したんじゃないんですか?」
    「依頼人がいなくなったのなら、仕事が続いているのはおかしいだろうが」
    「前金で依頼を受けていたのでは?」
    「殺しの依頼に契約書なんてないんだ。全額前金で払うなんて馬鹿な真似をする奴はいないし、手付けを受け取っていても依頼人がいなくなれば手を引くに決まっている」
    「……つまり、岩切っていう人以外にも依頼人がいるということですか?」
     奈穂の問いに答えず、有希は画面の中の鰐塚に目を向けた。
    『岩切は同業七社で一種の同盟を組んでいたようですね』
    「犯罪同盟か」
    『良くある話です』
    「と、いうわけだ」
     有希は一旦奈穂に顔を向け、
    「クロコ、岩切の仲間のリストを送ってくれ」
     すぐにディスプレイへ視線を戻した。
    『明日、お持ちしましょうか?』
    「いや、メールで構わねえよ。それより教団の調査だ」
    『分かりました。リストは適当に細工して送ります』
    「頼んだぜ」
     ディスプレイがブラックアウトする。
     その後、一分もしない内に六人分の氏名と会社名、役職名に加えて、電力料金の闇カルテル疑惑を適当にでっち上げた記事が添えられたニュースレターが送られてきた。言うまでもなく、傍受されても良いように鰐塚が細工した依頼人リストだった。

    ◇ ◇ ◇

     黒羽文弥は魔法大学付属第四高校の一年生だ。彼は三月まで豊橋市の親元で暮らしていたが、四月から第四高校がある浜松市で双子の姉と二人暮らしをしている。
     高校生ともなれば、異性の兄妹が疎ましく思えてくる年頃だ。それが同じ学年ともなれば尚更その傾向が強いに違いない。
     とはいえ、何事にも例外は付きものであって、同じ高校、同じ学年でも非常に仲睦まじい兄妹もいる。それこそ、他人から見れば恋人同士としか思えない程に。
     文弥と彼の姉の亜夜子あやこも、恋人同士に見える程ではないが、姉弟仲は良好。時々喧嘩もするが――たいていの場合は姉が弟をからかいすぎるのが原因だ――、この二人は互いに一目置き合っているからか、相手に自分の気持ちや都合を押し付けようとはしない。まだ十五歳という年齢を考えれば、随分と大人びた姉弟関係と言えよう。
    「どうしたの、文弥。難しい顔をして」
     五月十五日、火曜日。日付が変わるまで、一時間を切った真夜中。
     自分の部屋に閉じこもるのではなくリビングで考え事をしていた文弥に、入浴を済ませたばかりの亜夜子が声を掛けた。
    「姉さん……またそんな格好で」
     タオルで髪を包みノースリーブのバスローブを着ただけで、腕も足もうなじもむき出しにした亜夜子の姿に、文弥は赤面するでもなく、ただ顔を顰めた。
    「うるさいことを言わないの。文弥しか見ていないんだから良いじゃない」
    「僕も男なんだけどね……」
     亜夜子は「はいはい」という表情でソファではなく籐椅子とういすに座り、髪を乾かし始めた。
    「それで、何を考えていたの?」
     タオルで押さえて髪の水気を吸い取りながら、亜夜子が改めて訊ねる。
     文弥は反射的に亜夜子へと目を向け、すぐに顔を背けた。籐椅子の高さの関係で、バスローブの奥が見えそうだった所為だ。
    「達也兄さんの件で東京から報告が来て」
     文弥の答えは、少しばかり早口だった。実の姉が相手といえど、さすがに動揺は免れなかったと見える。
     なお亜夜子の方もさり気なく、真っ直ぐに立てて揃えていた両脚を斜めに流し、籐椅子の上で身体の向きを少しずらした。
    「……ちゃんといているわよ?」
    「何をだよ!?」
     亜夜子の一言に、文弥が背けたままの顔を真っ赤にして叫ぶ。
    「何をって、それはもちろん……」
    「言わなくて良い!」
     文弥の剣幕に、亜夜子は言い掛けたセリフを中断する。
    「えっと……東京からって、有希さん?」
     さすがにばつが悪そうな顔で、亜夜子は露骨に話題を変えた。いや、この場合は「戻した」と言うべきかもしれない。
    「あっ、うん、そう」
     文弥の方も、無理に呼吸を落ち着かせながら、話題転換に付き合う。……顔はまだ、ベランダ方向に固定されている。
    「達也兄さんが襲撃者を蹴散らして、そのついでに自爆テロを防いだって」
     それを聞いた亜夜子の反応は、「ふーん……」という淡泊なものだった。
    「当然の結果ね。自爆テロというのが少し気になるけど」
     そしてついでのように付け加える。
    「僕もそこが引っ掛かったんだ」
     文弥が亜夜子に顔を向ける。ようやく気持ちが落ち着いたということもあるが、それ以上に問題意識が勝ったのだろう。
     亜夜子は髪の水気を吸った大判のタオルを膝の上に広げていた。
    「魔法師相手に自爆テロというのは分かるんだ。達也兄さんが相手じゃなくても、非魔法師が戦闘魔法師を殺そうとするのであれば、遠距離からの狙撃か、爆弾による無差別殺人を選ぶと思う。素人の一般人なら爆弾というのは一番妥当な手段だろう」
    「でも、素人が入手できる爆弾は種類が限られているわ。今回、使われた爆発物は何?」
    「可塑性爆薬の一種で、民間での所有が禁じられている物だ」
    「文弥が何を悩んでいたのか分かったわ」
     文弥の答えに、亜夜子がウンウンと頷く。
    「達也さんを狙っている『教団』は、禁止爆発物を大量に調達する能力を持っている。ただのチンピラ組織じゃないということね」
    「有希は亜貿社の同僚に爆弾魔がいた所為で、爆薬を調達する難しさに麻痺しているんだろうけど。本来、爆発物はそう簡単に入手できる物じゃない」
    「戦後は取り締まりがますます厳しくなったからね」
     第三次世界大戦、またの名を二十年世界群発戦争の時代は、世界中で比較的小規模な戦争が多発したのと同時に、敵国に支援された内乱やテロも続発した。それは日本も例外ではなく、各地が銃撃戦や爆弾テロに見舞われている。
     その影響で、亜夜子が言うように爆発物の管理は戦前よりも遥かに厳しくなった。戦前は取り扱いの資格さえあれば身元確認で爆発物を仕入れられた工事業者も、爆薬を必要とする場面では行政から監督官込みでその都度提供を受けなければならなくなっている。
     ただ役所の管理も決して絶対ではない。犯罪組織でなくても、民間業者が手間を省く為に監督官を買収して爆薬を余分に所持する不祥事は、マスコミが報じている以上の頻度で起こっていた。
    「役人を買収したのか他の犯罪組織から買い取ったのか、それとも親組織が存在するのか分からないけど、あの教団は『人間主義』とやらに影響された単純な過激派集団じゃない。素人のテロごっこじゃなくて、プロの犯罪組織だよ」
    「有希さんには任せておけない?」
     亜夜子の問い掛け。文弥はそれに、躊躇いがちに頷いた。
    「でも、有希さんを使うのは御当主様からのご命令なのでしょう?」
    「有希を使うよう命じられただけだ。僕が関わることを禁じられているわけじゃない」
    「それは屁理屈じゃないかしら……?」
     亜夜子が呆れ気味に呟く。
     しかし彼女の口から、文弥を止めるセリフは出てこなかった。

    ◇ ◇ ◇

     五月十六日。
     有希は心地好いメロディーに導かれて強制的に目覚めさせられた。
    「……何だ、一体?」
     アップテンポなインストルメンタルだが、うるさくはない。普通なら眠りを妨げるような曲ではないように思われる。
     それなのに有希は、無理矢理起こされた。
    「……奈穂のやつ、『スウェーカー』を使ったな」
     スウェーカーとは「スピーカー」と「アウェイカー」の合成語で、音楽の中に覚醒を促す音波を紛れ込ませる新世代の目覚まし。このマンションに備わっているのは知っていたが、有希はこれまで利用したことがなかった。
     有希が時計に目を向ける。
    「まだ九時じゃないか。まったく……」
     二度寝しようとしても、何故か眠気は消えてしまっている。
     有希は奈穂に文句を言うべく、パジャマのままダイニングに向かった。
     3DKのマンションは、廊下など申し訳程度のような物。ダイニングまでほんの数歩だ。
    「おい、奈穂!」
     声を荒げてはいないがそれなりのボリュームで有希が奈穂を呼ぶ。
     だが、応えは無い。
     不審を覚えて有希が目を左右に動かす。
     彼女はテーブルの上に、今時珍しい紙のメモが置いてあるのを発見した。
    『お仕事に出掛けてきます。朝食はレンジの中に用意してありますので、暖めて召し上がってください』
    「仕事……?」
     メモに書かれている伝言を読んで、有希は首を傾げた。

    ◇ ◇ ◇

     赤石あかいしジュールはカナダ系日本人だがカナダ人の母親が極東アジアからの移民である為、名前以外にハーフであることを示す特徴は無い。学生の頃はいっそ名前も日本の伝統的なものにして欲しかったと思っていた彼だが、もうすぐ五十歳となる今ではそんなコンプレックスも消え去っていた。
     赤石は中堅電力会社に勤めている。仕事内容は大きな声では言えないような種類のものだ。高校、大学時代にをしていた関係で、の者とつながりができた。それを買われて入社当時から裏街道一筋で来ている。
     そうしたキャリアに相応しいタフな人物だが、ここ数日、その度胸に刃毀れが生じていた。
     原因は一緒に仕事をしていた仲間の死だ。
     仕事仲間と言っても会社の同僚では無い。
     で付き合いがあった男性が、殺されたのである。
     男の名は岩切来人いわきりらいと。彼と同じく「裏の仕事」の専門家だ。
     勤務先の業種が同じだから対立することもあったが、手掛けている仕事の種類が種類だ。赤石と岩切は、概ね協力関係にあった。
     その岩切が殺された。偶発的な――例えば酒場でのトラブルが原因といった殺人ではない。計画的な暗殺だ。
     赤石は岩切と同じく犯罪行為すれすれ、ではなく犯罪行為そのものを重ねてきた。
     殺される覚悟ができているとは言わないが、その可能性は常に、意識の片隅に居座っている。
     その不安が先週末以来、急激に存在感を増していた。
     岩切が殺されたのは高級官僚の闇接待の現場だ。理由も多分、それ絡みだろう。
     あの高級官僚は、役人としての能力は一流だったかもしれないが、人間的には下衆ゲスだった。女好きだが玄人には興味を示さず、しかも嫌がっている相手を無理矢理犯すのが趣味だった。また本人は「ロリコンではない」と言っていたが、あれは間違いなく隠れロリコンだったと赤石は確信している。
     恨みを懐いていた人間も大勢いるに違いない。関わり続けるのは危ないと感じて赤石はここ最近、距離を置いていたが、業界としては無視できない役人だった。岩切は貧乏くじを引いた格好だ。
     あの官僚の件で、赤石が狙われる心配は無いと言って良い。接待に関わっていた時期も、本当の素人をあてがったことは一度もない。昔取った杵柄で、彼にはその手の女性に太いパイプがある。嫌がるふりが得意な「合法ロリ」を調達するくらい、わけもなかった。
     赤石が不安を覚えているのは、岩切を暗殺した者の目的が本当は別にある可能性だ。
     岩切が死ぬ直前、と言っても先月のことになるが、彼と赤石と他の同業者五人、仕事上協力し合うことが多い謂わば「裏工作カルテル」の七人は、一つの案件で合意していた。
     将来、会社に――業界にとって大きな障碍になるかもしれない少年の暗殺。適切な殺し屋が中々見つからず前に進まなかった案件だが、岩切は暗殺される一週間前、暗殺を請け負う組織を見付けてきた。
     今、彼らのカルテルでその組織の窓口になっているのは赤石だ。
     ――あの少年の暗殺を依頼したことが岩切の死に関係しているとしたら、次に狙われるのは自分かもしれない。
     それが赤石を蝕む恐怖の正体だった。

     いくら大きな不安を抱えていても、仕事は待ってくれない。社内に換えの人材がいなければ尚更だ。
     赤石の仕事はその性質上、関わる人数をそう簡単に増やせない。彼が一人で墓の中まで持って行かなければならない秘密も、一つや二つではない。そして、中断することも許されない。
     裏工作の専門家も人間だ。会社の同僚は官憲に捕まる心配もヤクザに刺される心配もせず給料をもらい出世していくというのに、自分は正真正銘の命懸けで危ない橋を渡らなければならないとなれば、ストレスは倍増どころではないだろう。偶には羽目を外さないと気が変になるに違いない。
     若い頃ならば、赤石はナンパでストレスを解消していた。彼の外見は異人種的な特徴こそ無いもののそれなりに「イケメン」で、「危険な香り」に軽薄な憧れを持つ少女を簡単に引っ掛けていた。
     今は前世紀末から今世紀前半に掛けて続いたフリーセックスの風潮が廃れ、女性が結婚まで性交に応じないのが普通という時代だ。しかし「何事にも例外はある」という法則はここでも有効で、繁華街には現代のモラルに照らして少女がを求めて集まる場所がある。そういう場所を選んでナンパをする知識も、赤石にはあった。
     だが中年と呼ばれる年齢になれば、ナンパどころか酒場の女を口説くのも憚られる。ただの中年ならば「あり」かもしれないが、赤石は職業柄、悪目立ちはタブーだ。
     だから四十歳を過ぎた頃から、彼は「そういうプレー」ができる店を愛用していた。
     店内では一見素人の女性が大勢(実際は素人と玄人の比率が半々くらい)、声を掛けられるのを待っている。客は店員の仲介で気に入った女性の隣に座る。「あちらのお客様からです」を合図にするのが一般的だ。その際、客は女性におごる飲み物に一般的な相場の十倍以上の代金を払うのだが、これはではなくあくまでもだ。――という体裁になっている。
     赤石が行きつけの店に入ると、午前中にも拘わらず店内には十人以上の女性がたむろしていた。こんな時間から利用客がいるのか、と呆れるのは不適当だ。犯罪者に限らなくても、夜の方が忙しい人間は世の中に少なくない。な大人が宵の口から遊ぶように、朝方から遊ぶ人々だっているということだ。
     グルリと店内を見回した赤石は、少し毛色の変わった少女に目を留めた。
     着ている物は所々にフリルがあしらわれた、丈が長いゆったり目のワンピース。焦げ茶色の髪を臙脂えんじ色のベルベットのリボンを使って両サイド、耳の少し上で纏めている。あの髪型は「ツインテール」と言ったはずだ。
     髪型と服装だけでなく、顔立ち、身体付きも子供っぽい。第二次性徴は迎えているようだが、年齢は十二、三歳といったところだろう。
     家出少女だろうか? 玄人くろうとと言うことはないだろう。この時間帯に十代の少女がいるのは珍しい。小遣い稼ぎの女子中高生は補導を避けて、午後遅くから宵の口の時間帯に集中する傾向にある。
     赤石の好みからすると幼すぎるが、時にはいつもと違うタイプも面白い、と彼は思った。
     彼はその少女が座っているカウンターの端に腰を下ろし、適当なジュースを注文して仲介を依頼した。

     隣の席に移動してきた赤石をあどけない笑顔で迎えながら、奈穂は内心慌てていた。
     この店が赤石の行きつけだとは知っていた。だが彼女は今日、赤石に接触するつもりはなかったのだ。
     岩切の後に達也暗殺の依頼者側窓口になっているのは赤石だと昨晩のメールで知って、奈穂は最初の標的を彼に定めた。今朝早く鰐塚の部屋に直接押し掛け、赤石に関する詳しい情報を入手してこの店で網を張った。
     だが彼女の予定では、他の女性とデートに出掛けた赤石の後を、こっそりついて行くつもりだった。
     奈穂の得意なレンジは百メートル以内の中距離だ。
     赤石の行動パターンを尾行により直接調べて、最適な狙撃ポイントを探る。その上で後日仕留めるのが、奈穂の計画だったのである。
     鰐塚の情報によれば、赤石のストライクゾーンは二十代後半から三十代前半だったはずだ。だから興味を持たれないように、敢えて幼い服装と髪型をチョイスした。
     赤石に声を掛けられたのは、完全に計算違いだ。
    「やあ、こんにちは」
    「こんにちは。おじさん、ジュースありがと」
     おどおどした世慣れない少女を装うか、世間知らずの子供路線で行くか。奈穂は一瞬迷ったが、後者を選んだ。その方がと思ったのだ。
    「どういたしまして。少し話し相手になってもらえるなら、お安いご用だ」
     だがあいにく、奈穂はロックオンされてしまっているらしい。
     こうなっては、開き直るしかない。奈穂はそう考えた。
    「あたしも退屈してたから大歓迎かな」
     そう言って今度は、計算高そうで、かつ幼稚な笑みを赤石に向ける。
     護衛から暗殺者へ訓練課程を移されてから、奈穂は笑顔の作り方を徹底的に仕込まれた。
     魔法師も肉体的には、通常の人間と変わらない。特に奈穂のような小柄な女性は、肉体的な暴力に抗うのが難しい。
     身体能力を部分的に引き上げる魔法もあるが、魔法を発動する前に襲われれば屈服するしかない。暴力にも兵器にも屈しない、人を超越した力を有する魔法師は、世界でもほんの一握りなのである。
     その「一握り」に含まれない奈穂は、まず相手を油断させる術を叩き込まれた。
     人は見た目に騙される。
     敵に止めを刺す魔法以前に、人を騙すことのできる笑顔が、奈穂にはまず要求された。
    「そう? 嫌がられなくて良かったよ」
     その成果が赤石の、警戒が緩んだ表情だ。
    「嫌がったりしないよぉ。おじさん、かっこいいもん」
    「そうかな?」
     お世辞だと分かっていても、赤石は満更でも無さそうだ。いや、半分くらいは本気に取っているのかもしれない。
    「おじさんはアカシっていうんだ。お嬢ちゃんは?」
     奈穂はまたしても、ポーカーフェイスのレベルを試されることになった。本名・赤石あかいしで偽名がアカシ。少し芸が無さ過ぎではなかろうか。
    「チホ」
     千穂ちほというのは彼女の年の離れた姉の名である。漢字で書けば「奈穂」と「千穂」で一字違いだが、音にすれば「ナオ」と「チホ」で結構印象が違う。出来の良い姉に対する嫌がらせの意味も込めて、奈穂は姉の名をこういう場合の偽名に使うと決めていた。――実際に使ったのはこれが初めてだ。
    「チホちゃんか。可愛い名前だね」
     当たり前だが、赤石に偽名を疑っている素振りは無い。いや、もしかしたら最初から本名を名乗るはずがないと決め付けていたのか。
     その後も、赤石が積極的に話し掛けて、それを奈穂が子供っぽく受ける。
     赤石は「アカシ」として、奈穂は「チホ」として、「会話が弾む」ではなく会話を
     奈穂が拍子抜けする呆気なさで、彼女と赤石は街に繰り出すこととなった。

     最初の内、赤石は意外に紳士だった。肩や腰に手を回そうともしない。気を遣って奈穂の方から腕を絡めていったくらいだ。
     メンズの扱いもあるがレディース主体のブランドショップを回った。
     宝飾品も置いてある雑貨屋を回った。
     少女向けのブティックを回った。
     どの店でも赤石は奈穂に「好きな物を買ってあげよう」と言い、奈穂は最後のブティックで「じゃあこれ」と高すぎない物をねだった。
     正午を少し過ぎて、赤石は奈穂を高級ホテルのレストランに連れて行った。
     奈穂が着ている物は、ブティックで買ったお洒落なワンピースだ。髪とメイクも、それに合わせて大人っぽく直してある。……それでも、高校生以上には見えなかった。
     ランチ用のコース料理に奈穂が目を輝かせる。そこだけは、演技ではなかった。
     そしてお決まりの如く、奈穂のドリンクには気付かぬように酒精が紛れ込んでいた。
     どう見ても十八歳未満にしか見えない、ふらついて一人では歩けない少女を、四十代後半、五十前の男がホテルの一室に連れ込む。ホテルぐるみの共犯とまでは行かなくても、従業員の協力がなければできないことだ。げんに二人を案内してきた客室係は、何も言わずに部屋の外からドアを閉めた。
     赤石が奈穂をベッドに寝かせ、うつぶせにして買ってやったばかりのワンピースのファスナーを下ろす。
     奈穂が俯せのまま首を捻って、片目で赤石を見る。
     まだ意識があるのか、と赤石は危うく舌打ちを漏らしそうになった。
    「……おじさぁん。シャワー、浴びさせて……」
     だが奈穂――赤石にとっては「チホ」――の口から零れたセリフは、に同意していると解釈できる言葉。
     赤石は犯罪者だが、無理矢理というのは余り好みではなかった。犯罪者が皆レイプ魔というわけではない。年を取ったからかもしれないが、彼は女性が自分の下で快楽に呑まれるのを見るのが好きだ。自分から身体を開くのであれば、その方が好ましい。
    「良いとも。立てるかい?」
    「……何だかフラフラするぅ……。おじさん、先にどぉ~ぞ~」
     赤石は唇の両端を吊り上げながら立ち上がった。これは、彼好みの展開だ。
     この部屋の構造は少々特殊で、鍵を使わなければ中からも出られない。浴室に鍵を持ち込めば、「チホ」に逃げられる心配も無い。
    「分かったよ。少し休んでいなさい」
     ――後でたっぷりかせてやろう。
     その場に服を脱ぎ捨て、赤石は浴室に向かった。

    (……あーっ、気持ち悪い!)
     奈穂の素性を知る者にとって予想は容易たやすいだろうが、彼女は酔っていなかった。
     男が女に服を買い与えるのは、後で脱がせる為だ。――という言葉を鵜呑みにしているわけではないが、赤石のケースでは狙いが分かり易かった。レストランに誘われた時点で、酒、薬物、どちらに対しても対策を打った。
     気持ち悪かったのは酔いではなく、肌に触れた赤石の手。
     不安だったのは、酔っ払いの演技がばれないか、という点だった。何と言っても実地は今日が初めてだ。それに酔っているふりは、訓練課程で愛想笑い程には高い評価を得られなかった。
    (それにしても、こんなことなら得物を持ってくるんだった……)
     奈穂の計画では、今日はあくまでも下見だったのだ。彼女のは、有希のマンションに置いてきたままだ。
    (仕方がない。シチュエーションは悪くないし、何とかなるでしょう)
     だが、無い物ねだりは意味が無い。このまま中年男に抱かれるのも嫌だし、少々行き当たりばったりの感は否めないが、奈穂は暗殺を決行することにした。
     シャワーの音が聞こえる。
     奈穂はベッドの上に身体を起こした。
     足音を立てないように、浴室に向かう。
    「――五月雨さみだれは 露か涙か 不如帰ほととぎす
     奈穂が口ずさんだのは室町幕府むろまちばくふ第十三代、「剣豪将軍」足利義輝あしかがよしてるの辞世の句。
     奈穂の記憶に刻まれた起動式が、あらかじめ設定したキーワードによって呼び出される。
    「我が名をあげよ 雲の上まで」
     呼び出した起動式が無意識領域の魔法演算領域に読み込まれ、魔法式が出力される。
     奈穂が浴室の扉を開けた。
     赤石が好色な笑みを浮かべて振り向く。
     魔法が発動する。
     シャワーヘッドから注がれる、お湯の中の一滴が、
     鋼の硬度を持つ弾丸となって、
     赤石の左耳を突き破った。
     水滴の表面を覆っていた魔法は大脳に深く食い込んだ段階で解除され、運動エネルギーが破裂という形態で解放される。
     大脳を破壊された赤石の身体が、浴室の床に崩れ落ちた。
     一滴の雫を覆う対物シールドと、一滴の雫を加速するだけの魔法。
     その事象改変は余りにも規模が小さくて、ホテルに設置された魔法用のセンサーには感知されなかった。

     奈穂はレストラン階のトイレで髪型、メイク、ファッションを元に戻して、素知らぬ顔でホテルを後にした。