• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [2]同居人

     小西蘭の社会的な肩書きは任意団体(人格の無い社団)の代表者である。団体の名称は『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』。宗教法人どころか宗教団体ですらない――という建前になっている。
     だがこの団体のことを少しでも知っている者は、彼らが魔法師排斥を掲げる『人間主義』の過激な運動員であり、その活動は狂信的宗教団体と何も違わないということを知っている。
     しかし、小西蘭が西小蘭シーシヤオランの別名を持つ香港系国際犯罪シンジケート『無頭竜』の元現地協力員で、現在は米国在住の無国籍華僑、顧傑の手先となって反魔法主義工作に従事しているという裏の事情を知る者はごくわずかだった。
    「……岩切様がお亡くなりになっても、お引き受けした仕事は続けます。当然でしょう? お支払いは岩切様のお仲間が引き受けてくださっているのです。手を引く理由はありません」
    『それを聞いて安心しました』
     動画電話ヴィジホンのモニターの中で微笑む周公瑾は、小西蘭の裏の顔を知っている。
     しかし小西蘭は、周公瑾が自分のスポンサーである顧傑の弟子であることを知らされていなかった。
    「周先生には仲介の労を取っていただきましたので、気に掛けられるのも無理からぬことと存じますが……ご心配には及びませんよ。魔法師とは言え所詮は何の後ろ盾もない高校生、私どもで確実に処理致しますので」
    『お節介が過ぎたようですね。では、吉報をお待ち申し上げております』
     周公瑾は小西が予想していたよりも随分とあっさり引き下がった。
    「――全く、お節介なのよ。本当に」
     暗くなった動画電話ヴィジホンのモニターに向かって小西が毒突く。彼女が周公瑾に向かって言ったセリフは、虚勢ではなかった。
     国立魔法大学付属第一高校二年生の司波達也を暗殺する。
     それは、大して難しくないだと小西は本心から考えていた。
     無論、何の根拠も無く楽観視しているわけではない。
     岩切から依頼を受けて、小西はターゲットについて自分の配下、外部の情報屋、利用できる全てのチャネルを使って徹底的に調べた。その結果、司波達也には何の後ろ盾も無いと確信したのである。
     ターゲットが高名な忍術使い、九重八雲の許に出入りしている事実が、懸念材料と言えば懸念材料だ。だが九重八雲と司波達也の間に師弟関係は無い。これは信頼の置ける情報だ。
     そして九重八雲は、「世捨て人」という建前に拘っている面がある。その雷名に対して、忍術の技を振るったエピソードは不釣り合いに少ない。
     弟子でもない高校生の為に九重八雲が寺から出てくることはない。小西はそう判断した。彼女が懇意にしている情報屋も同意見だった。
     他に、障碍となる材料は見当たらない。
     魔法核融合炉の実験で世間からもてはやされているのを見ると、頭は良いのだろうと思う。
     だが調査結果によれば、魔法実技の成績は悪い。何故か去年の九校戦では活躍したようだが、昨年度までは実技の成績が悪い生徒が放り込まれる二科生クラスだったと分かっている。
     魔法師と言っても、戦闘力は大したことがないはずだ。
     小西は自分の組織に、この仕事を完遂する実力があることを疑っていなかった。

    ◇ ◇ ◇

     五月十三日、日曜日の夜。
     奈穂は夕食の食器を自動洗浄機に預けて、ダイニングテーブルの前に再び腰を下ろした。
     向かいの席では有希がアイスカフェラテを飲んでいる。苦みが少ないキャラメルシロップを大量に混ぜた極甘の代物だ。自分も大概甘党だと奈穂は思っているが、あれを飲む自信は無い。途中で口をゆすぎたくなる未来が容易に想像できる。
     しかし有希は平気な顔だ。それどころか「ちょっと苦いな……」と呟く始末。さっきの料理はあの味付けで良かったのか、奈穂は不安に駆られた。
    「……あの、有希さん」
    「んっ?」
    「さっきの料理……、いえ、料理すべきターゲットのことですが」
     さっきの料理はお口に合いましたか? と訊ねようとして、奈穂は途中で話題を変えた。
     味付けについては食事中に何度も訊いている。それで文句は出なかったのだ。蒸し返すのは、しつこいような気がしたのである。
    「ああ……、そういや、話が途中だったな」
     切り替えがスムーズだったからか、有希は途中で話題が変わったことに気付かなかった。
    「誰が達也さまの暗殺を請け負ったのか、まだ分かっていないんですよね?」
     奈穂の態度にわざとらしさ、白々しさが無かったのも、有希が不自然さを感じなかった理由だろう。奈穂が有希の許に派遣されたのは殺し屋の仕事の手伝いがメインだ。奈穂はそれをきちんと意識していた。――家政婦の仕事を疎かにするつもりも皆無だったが。
    「録音に『小西』って名前が出てたからな。見当はついている」
    「そうなんですか?」
    「魔法師を目の敵にしている団体でアタマが『小西』って名前なら、こいつだけだ。『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』。ハッ! 余計なお世話だよな」
     有希が悪態をついたのは小西の団体名が鼻についたからだった。
     それは奈穂も同感だったが、有希の決め付けに百パーセント納得しているわけでもなかった。
    「魔法反対の看板を掲げている団体で該当するものは一つかもしれませんけど、魔法師に対する敵対姿勢を隠している団体も少なくないのでは? 黒羽家の傘下に入る前の亜貿社も、アンチ魔法師だったとうかがってますけど」
     有希が小さく顔を顰めた。過去の亜貿社は確かにそう思われても仕方のない面があった。だが今は四葉分家・黒羽家という魔法師の下で活動する組織である。そういう誤解を受けるのはまずいと感じたのだ。
     愛社精神からではなく、有希自身の保身の為に。
     世の中、どんな些細なことから泥沼に引きずり込まれないとも限らない。
    「社長が個人的に、忍術使いに対抗心を燃やしていただけだ。会社として魔法師に敵対していたわけじゃない」
    「はぁ、そうなんですか」
    「とにかく。小西の教団で間違いがないか、裏を取っている最中だ。根拠も無く決め付けたりはしねえよ」
    「では、裏が取れたら動き出すんですね?」
     奈穂も今度は、特に異存がないようだった。
    「まあ、そういうことだ。少なくとも今夜すぐに、ってことにはならない」
    「了解です」
     コクンと子供っぽい仕草で頷き、奈穂は「そういえば……」と呟いた。
    「何だ? 気になることがあるなら言ってみろよ」
     奈穂の声に遠慮を感じた有希は、彼女に発言を促した。これから――不本意ながら――同じ家で暮らすのだ。気に懸かっていることがあれば、早めに解消しておく方が良い。有希はそう考える質だった。
     だからといって答えられない、いや、答えたくない問い掛けに回答するつもりはさらさら無いのだが。
    「はい。ええと、有希さんのことは、は『ナッツ』さんと呼んだ方が良いですよね?」
    「そうだ。いや、『さん』は要らん。『ナッツ』と呼べ」
    「了解です」
     了解でーす、に近いイントネーションで、奈穂がさっきと同じ応えを返す。
    「それでですね」
     だが、彼女の質問はそれで終わりではなかった。
    「あたしは何にしましょう?」
    「あっ?」
    「だから、あたしのコードネームですよ」
    「ああ……。今まで使ってたもので良いんじゃないか?」
     心底「どうでも良い」と思っているのだろう。有希は「面倒くさい」という表情を隠そうともしなかった。
    「では『なーちゃん』で。……ウソウソ、ジョーダンです」
     有希が拳を固めたのを見て、奈穂は慌てて首と両手を横に振った。
    「仮免未満の訓練生にコードネームなんかありませんよ」
    「そりゃそうか」
     有希は握り締めていた右手から力を抜いて、納得顔で頷いた。
    「確かに仕事中、本名ってのは都合が悪いな……。そういや、『桜崎奈穂』ってのは本名か?」
    「本名ですよ。戸籍もそれでし、やっぱりまずいですよねぇ」
     有希と奈穂が、揃ってウンウンと首を縦に振る。はたから見ればほのぼのとした光景だ。この二人、結構上手くやっていけるのではないだろうか。
    「……まあ、何でもいいんじゃないか? 要は身元がばれず、あたしたちの間で通じれば良いんだろ」
    「そうですね。ウーン……」
     人差し指を顎に当てて考え込んでいた奈穂が、ポンッと手を打った。所作が一々あざといと言うか、マンガチックな少女だ。
    「そうだ! 『シェル』なんてどうでしょう? 可愛いと思いません?」
    「何でも良いが、どういう意味なんだ? 殻?」
     本当に「何でも良い」と思っているのだろう。有希の問い掛けは、投げ遣りだった。
     しかし、奈穂の答えを聞いて無関心が好奇心に転じる。
    「殻という意味もありますけど、この場合は『炸裂弾』ですね」
    「ほぉ……」
     子供に見えても、奈穂は黒羽家から派遣された魔法師だ。『炸裂弾』というのは、彼女が得意とする魔法の性質を表しているに違いない。
     一体どんな技を使うのか、有希は興味深げな目を奈穂に向けた。

    ◇ ◇ ◇

     五月十四日、月曜日。
     小西蘭は早速、自分が率いるの構成員から「鉄砲玉」を募った。
     彼女は原理主義宗教の皮を被ったテロ組織と違って、天国の暮らしを約束しない。
     魂の救済も、来世の幸福も約束しない。
     そういう意味では、確かに彼女のは宗教組織ではないのだろう。
     だからといって、組織を暴力で締め上げているのではない。
     小西蘭がに与えるものは、迷わず惑わぬ境地。複雑化した社会の複雑化した価値観に悩まされることなく、シンプルに思考しシンプルに行動すること。宗教家でなければ集団向けカウンセラーと言えるかもしれない。
     彼女は言うなれば、単純な「正義」を提供する。
     自らが正義であるという認識は、人に快感をもたらす。
     人は、正義である自分に陶酔する。
     民主主義的な手続きで様々な妥協の上に成立した合法の概念より、不寛容で独善的な「社会正義」が支持されるのも、人が単純な正義を好むからだ。複雑な思想・信条・権利・得失のすり合わせを行うのは面倒で、苦痛ですらあるからだ。単純な正義を信じていれば、利害が対立する多数派の意見に従う屈辱も、少数派の意思を蹂躙する後ろめたさも、覚える必要が無いからだ。
     小西に帰依する者たちは、彼女が示す善を命懸けで守り、彼女がやり玉に挙げる悪を命に代えて取り除こうとする。
     の極端すぎる振る舞いに当局は洗脳を疑っているが、今のところ証拠は挙がっていない。
     小西は警察の捜査を全く恐れていなかった。が彼女を裏切ることはあり得ないし、痕跡が残る薬物は一切使用していない。
     自分が疑われることはあっても、逮捕されることはない。彼女にはその自信がある。
     今回も彼女は、人集めに苦労することなく、官憲に怯えることもなく、に司波達也という悪の魔法師を退治しようと名乗りを上げたを確保した。

    ◇ ◇ ◇

     今日、有希は珍しく十時前に起きた。仕事上の必要性がある場合を除いて、彼女がこんなに常識的な時間――とも言い切れないが――にベッドを離れるのは珍しいことだった。
     ただ、自主的に起床したのではない。同居人に起こされたのである。
    「有希さん、もう少し早く起きてくださいよ。朝食が何時までも片付かないじゃないですか」
     意識に霞が掛かった状態でダイニングテーブルの前に座る有希を相手に、奈穂が何度目になるか分からない愚痴をこぼす。つまりはそういう理由で、有希はベッドから引きずり出されたのだった。
     それまで有希は、奈穂の非難を無言で聞いていた。だがそれは、奈穂の言い分に納得しているからではなかった。
    「……明日からあたしの分の朝食はいらない。だから起こさなくて良い」
     反撃を言葉にできるほど、頭が覚醒していなかっただけだった。
    「ダメですよ」
     もっとも、それで奈穂が恐れ入ったりはしなかった。
    「規則正しい食生活は健康の基礎です。お仕事で生活時間を夜中にずらさなければならない場合はともかく、そうでないならちゃんと朝起きてご飯を食べるべきです」
     腰に両手を当てて、奈穂がお説教口調で主張する。「ぷんすか」という擬態語が似合いそうな表情だ。
    「昼前に起きて真夜中過ぎに寝る。夜の仕事が多いあたしにとっては、それが規則正しい生活リズムだ」
    「何を言ってるんですか。きれいな夜のお姉さんじゃあるまいし」
    「おいっ!」
    「はい? ……あっ、いえ、有希さんがきれいじゃないって言ってるんじゃないんですよ」
     有希が思わず声を荒げた理由を、奈穂はワンテンポ遅れて理解した。しかし一応の謝罪はしたものの、彼女には全く悪びれた様子が無かった。
    「ただああいう職種のお姉さんたちと違って、有希さんの場合は夜のお仕事と決まっているわけじゃないですよね。特に今回の案件は、達也様の生活時間帯に合わせることも必要になってくるのではないでしょうか?」
     奈穂の主張には一理ある。有希もそれは、認めざるを得ない。
    「あたしの仕事は、あの人のガードじゃない」
     有希がこう言い返したのは、意地と言うより意固地になった結果だろう。
    「カウンターで捕らえた下っ端から黒幕の尻尾を掴むことも考えておくべきなのでは?」
     だが所詮は苦し紛れ。簡単に反論を許してしまう。
    「……良く勉強してるな」
     逆に有希は、皮肉っぽい口調で嫌味にもなっていない一言を返すのが精一杯だった。
    「ありがとうございます! 一応、仮免に合格したばかりですから」
     案の定、奈穂は全く皮肉と感じていない笑顔だ。
     四葉の殺し屋には免許証があるのかよ? と有希は思ったが、とんでもない答えが返ってきそうな予感が質問を思い止まらせた。

    ◇ ◇ ◇

     有希がダイニングテーブルの前でダラダラとケーブルテレビを見ているところに、鰐塚が訪ねてきた。なお「リビングで」でないのは、この部屋が3DKだからである。
    「ナッツ……。まだ十一時前ですよ? もう朝食を済ませているなんて……いえ、朝食を摂るなんて、一体どんな心境の変化なんですか?」
     奈穂に案内されてダイニングに姿を見せた鰐塚の第一声がこれである。
    「あたしの心境は何も変わってねえよ」
    「変わったのは環境――同居人ですか。あの少女、何者です?」
    「文弥が寄越した家政婦だ」
     真剣味の薄い口調で有希が答える。
    「ただの家政婦ではないでしょう?」
     だがもし有希が真面目な態度を取り繕っていたとしても、鰐塚は誤魔化されなかっただろう。
    「何故分かった? 殺気が漏れてるとか足音を立てないとか、そういう玄人っぽいところは無かったと思うけどな」
     有希が本人から「殺し屋見習い」と打ち明けられるまで正体に気付けなかったのは、動作と気配が素人と区別のつかないものだったからだ。鰐塚が何を見て奈穂がただの家政婦ではないと見抜いたのか、有希は本気で興味をそそられた。
    「黒羽家がただの家政婦を寄越すはずがありませんから」
     だが種を明かせば、単純な話だった。
     肩透かしにあった感を覚えた有希だが、すぐに「それもそうか」と思い直した。
     言われてみればそのとおりだ。文弥がただのホームヘルパーを、有希の為にわざわざ派遣するはずがない。万が一、本気で有希の生活能力を心配したのであれば、もっと年上の、如何にもそれらしいプロを選ぶに違いない。
    「家政婦兼殺し屋見習い、だそうだ」
    「見習い、ですか?」
    「ああ。今度のヤマをあいつのテストに使うらしい」
     鰐塚が「なる程……」と呟きを漏らす。のことは、有希よりも彼の方が詳しい。彼らの世界では、珍しい話ではなかった。
     そこへ奈穂が冷たい紅茶を持ってくる。溶けて薄くなる氷入りではなく、グラスごと急速冷却したストレートティだ。味の加減が分からないので、シロップとミルクは別の容器に用意してあった。
     紅茶のグラスを鰐塚と有希の前に置き、シロップとミルクが入った二つのピッチャーをその間に置く。そうして自分のグラスをテーブルに置いて、奈穂が「鰐塚さんですね?」と話し掛ける。
    「桜崎奈穂と申します。よろしくお願い致します」
     深々と、丁寧なお辞儀。なお「鰐塚」と呼ばなかったのは、有希に「さま」付けを禁じられているのでバランスを取ったのである。
     鰐塚が人当たりの良い、無難な笑顔で挨拶を返し、有希が横から奈穂に「座れ」と命じる。
     素直に腰を下ろした奈穂が見ている前で、有希がシロップのピッチャーを手に取って、空にした。
     角砂糖に換算して六、七個分のシロップが有希の紅茶に注がれたのだ。
     奈穂は呆れ顔を見せない為に、少なくない労力を費やした。
     しかし鰐塚にとってはいつものことだ。彼は構わず、ストレートティに口を付ける。
     追加のシロップを取ってくるべく、慌てて奈穂が腰を浮かせる。だが微笑みを浮かべて首を横に振る鰐塚のジェスチャーを理解して、お尻を椅子の座面に戻した。
    「それで?」
     鰐塚と奈穂の間で繰り広げられた無言の会話。それを無視して、有希が一言、鰐塚に訊ねる。
     長い付き合いだからか、それで鰐塚には通じた。
    「昨日の件です」
    「もう分かったのか。さすがだな」
     有希の讃辞はあっさりしたものだ。奈穂に至っては無反応。
     だが心の中は、対照的だった。
     有希は、鰐塚の能力からすればできて当然と思っている。
     一方の奈穂は、驚きすぎて声も出ない、表情にも反映しないのが実情だった。
    「向こうが何時動き出すか、分かりませんからね」
     鰐塚はいつもどおりの口調だ。二人の反応を気にした様子は無い。
    「依頼を受けたのは『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』で間違いありません」
    「やっぱり、あの団体か」
     有希は言葉どおり、「やはり」という顔。
    「あの……、『今よりも人間的な暮らしと社会を実現する会』ってどんな組織なんですか? 宗教団体ですか?」
     だが奈穂は、その団体のことを詳しく知らない。有希と鰐塚が二人で納得していても、奈穂は置いてきぼりだ。
     有希が鰐塚の顔をチラリと見た。
     アイコンタクトで説明を丸投げされた鰐塚は、不服そうな表情一つ見せず奈穂へ身体ごと向き直った。
    「建前上は宗教団体ではありません。ですがある程度実情を知る我々の間では、『小西教団』と呼ばれています」
     こう前置きして、鰐塚は奈穂にのことを詳しく説明した。
     人間主義を信奉する反魔法主義団体であること。
     メンバーがたびたび暴力事件を起こし、警察沙汰になっていること。
     三件もの殺人事件への関与が疑われているにも拘わらず、任意の取り調べしか受けていないこと。
     構成員は代表である小西蘭に絶対服従の状態であること。
    「……余りの盲従振りに、小西による洗脳も疑われています。ただ、その手口は判明していません」
    「洗脳か。クスリの痕跡は出ていないのか?」
     ここで有希が口を挿んだ。
    「それは警察も真っ先に疑ったのですが、逮捕した構成員・元構成員の身体から薬物は検出されませんでした」
     鰐塚が有希に向き直ってかぶりを振る。
    「短時間で消えてしまうヤクもあるだろ」
    「薬の成分自体は消えても、洗脳が永続するほど常用していれば肉体に何らかの痕跡が残るものです。それすら存在しない、未知の技術で合成された薬物でない限り」
    「そんなに大物か、あの女?」
     有希が疑問を示し、鰐塚が微かな躊躇いを見せる。
    「……まだ何かあるのか?」
     有希の質問が、鰐塚の背中を押した。
    「小西蘭の背景については、不確実ですが無視できない噂があります」
    「噂?」
    「彼女がチャイニーズマフィアの手引きをしていたという噂です。以前は香港の組織に協力していたようですが、そこが当局に潰された為、スポンサーを在米華僑マフィアに替えたとか」
    「随分詳細な噂だな?」
     そこまで分かっていて噂なのか? という意味で有希が訊ねる。
    「裏が取れませんからね。商品にはなりません」
     鰐塚は有希のサポート、亜貿社の社員の仕事以外に、フリーの情報屋も兼務している。その彼にとって、客に売れるレベルの情報ではないということだ。
    「じゃあ仮に、噂が事実として」
     鰐塚の副業を、有希は当然知っている。彼の職業意識からすれば、根拠の無い情報はただの噂なのだろう。そこは一旦棚上げにして、有希は話を戻した。
    「警察が買収されている可能性はあるのか?」
    「それは無いようです」
    「薬物を使わない洗脳の可能性は?」
    「何処までを洗脳と定義するかによりますが……。魔法師に対して反感を懐いている一般人を狂信的な反魔法主義者に仕立て上げる程度であれば、薬物は必要無いでしょうね」
     鰐塚の言葉を聞いて、有希と奈穂が二人とも目を丸くしている。
    「……狂信的? 洗脳って、そんなに簡単にできるもんなのか?」
     疑わしげな声音で有希が問う。
    「人は自分が信じたいことを信じる生き物ですから」
     鰐塚はやや虚無的な苦笑いを浮かべながらそれに答えた。
    「後、罪悪感を刺激してやるのも効果的ですね。断食や徹夜で弱らせた後、被害者を連れてきたりその写真を見せたりして罪の意識を刺激した上で、罪を償う方法を教えてやる、と囁くわけです。心が弱った人間は、それだけで結構簡単に転びますよ」
     虚無感は、簡単に心を操られてしまう人の弱さに対する諦念の表れだ。
    「……悪辣だな」
     苦い顔で有希が呟く。
    「悪党でなければ、洗脳なんてしようとしないでしょうね」
    「そりゃそうか」
     そして彼女は、皮肉げに唇を歪めた。
    「それが小西蘭の手口か」
     したり顔で決め付ける有希。
    「いえ……」
     だが、鰐塚の反応は否定的なものだった。
    だけでは、狂信者は作り出せても、殺しをやらせるのは無理だと思います」
    「何故だ?」
     ばつの悪さを隠す為か、有希が乱暴な口調で問いを返す。
    「私たちは忘れがちですけど、人殺しは一般人にとってそれだけ大きなタブーなんですよ」
     鰐塚の答えは、有希の虚を衝いた。確かに彼女は、は殺人を忌避するという事実を忘れていた。
    「無秩序に暴れさせることは簡単でも、特定のターゲットを定めて殺人を行わせるのは難しいはずです。本人は人を殺す決意を固めたつもりでも、いざ実行の段になれば躊躇してしまう。それが普通ではないでしょうか」
     そう言って、鰐塚はチラリと奈穂を見た。
     それは、「普通」の範疇に奈穂も含まれるのではないかと危ぶむ、無意識の眼差しだ。
     鰐塚は自分の視線の意味を意識していなかったが、それを向けられた奈穂は、彼が言葉にしなかった疑念を敏感に感じ取っていた。当然彼女は不満を覚えたが、それを腹の底に隠して神妙な表情で質問する。
    「つまり、薬物以外の普通ではない手段が使われている。それが鰐塚さんの結論なんですね?」
    「そう、ですね」
     歯切れの悪い口調ながらも、鰐塚は奈穂の問い掛けを肯定した。
    「具体的には、何かお心当たりがお有りですか?」
     奈穂が問いを重ねる。
    「いえ、まだ見当がつきません」
     鰐塚は強がらず、正直に答えた。
    「奈穂、余り無理を言うな」
     有希が、奈穂の態度から何となく不穏な気配を感じ取って口を挿む。
    「昨日、調べ始めたばかりだ。幾らクロコでも、何から何まで分かりゃしねえよ」
    「えっ? いえ、そんなつもりは」
     奈穂は「心外だ」というより「意外なことを言われた」という驚きの表情で有希の顔を見返した。
    「調べ始めたのが昨日からとは存じませんでしたが、どんな凄腕の探偵でも分からないことがあるのは当然だと思います」
     鰐塚は探偵ではない。だが有希も鰐塚本人も、脱線につながるツッコミは入れなかった。
    「何が言いたいんだ?」
     取り敢えず、奈穂が何を言いたいのか吐き出させることにした。
    「難しいのは理解できますが、相手の手の内は知っておくべきではないでしょうか? それも、できるだけ早い内に」
    「そんなことは言われなくても分かってる。だが具体的に、どうするんだ?」
    「外からでは調べられないことでも、中に入ってしまえば意外と簡単に分かったりするものです」
     有希に問われて、奈穂は「待ってました」とばかり自分のアイデアを訴えた。
    「あたしがその教団に信者として潜入してみるというのはどうでしょう? 自分で言うのも何ですが、あたしはこういう外見ですので警戒されにくいと思います」
     奈穂は自分で、ナイスなプランだと思っていたのだろう。
    「ダメだ」
     だから一刀両断に却下されて、不満を隠せなかった。
    「えーっ、何故ですか?」
    「いきなり潜入ミッションなんて無謀だ。第一、お前は魔法師じゃねえか。魔法師が反魔法カルト教団に潜入するなんて無茶過ぎる」
    「魔法師だってばれるような真似はしませんよ。そのくらい、ちゃんと心得てます」
     奈穂がこんなことを言い出したのは、鰐塚から「使い物になるのか」という疑惑の目を向けられたからだ。彼女はまだ十五歳の子供だが、能無し扱いされるのは我慢がならなかった。自分が戦力になると、すぐにでも認めさせたい。それが奈穂の本音だ。
     子供だから余計に、自分を認めさせたいという欲求を抑えられないのかもしれない。それに奈穂は四葉家で一度、失格判定を受けている。「次は無い」と彼女は思い込んでいるのかもしれない。
    「ダメだ」
     しかし有希もまだ十九歳。奈穂の事情を斟酌して上手に彼女を説得するには、人生経験が不足していた。
    「魔法を使えば魔法師だってばれる。魔法を使わなきゃ、お前はひ弱な小娘だ。潜入なんて危ない真似はさせられねえよ」
     にべもない却下は、奈穂の反発を呼んだ。
    「……有希さんだって小娘じゃないですか」
    「小娘じゃねえよ。来年で二十歳だ」
     奈穂の反論は負け惜しみでしかなかったが、有希のセリフも少々大人げないと言えよう。
    「年だけじゃねえ。あたしには実績がある。技もある」
    「白兵戦術なら、あたしだって叩き込まれてます!」
     有希と奈穂が睨み合う。そもそも発端は奈穂が鰐塚に過剰な対抗心を燃やしたことだ。だが今や奈穂の意地は、その矛先が有希に向いていた。
    「面白い」
     有希が肉食獣の笑みを奈穂に向ける。
    「だったらその腕を見てやるよ」
    「望むところです。あたしが魔法抜きでも戦えるとご覧に入れます」
     ターゲットを確定させる為の報告会は、何時の間にか味方同士の腕試しに発展していた。