• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

     西暦二〇九六年四月二十五日。日本の魔法大学付属第一高等学校で歴史的な実験が行われた。後世において「回天の曙光しょこう」とも「破局の火種」とも呼ばれる常駐型重力制御魔法式熱核融合炉、通称『恒星炉』の実験を成功させたのは、まだ十代の高校生だった。

    [1]契約

     横浜市山下町、通称『中華街』と呼ばれている街の一角にその店はあった。
     店構えといい大きさといい、高級店と呼んで差し支えないだろう。
     表には滅多に出てこないオーナーの氏名はしゅう公瑾こうきん。三国志の英雄を連想させる芸名のような名前だが、本人によれば本名だ。
     西暦二〇九六年五月初旬の、とある夜。
     周公瑾は表に出ないという慣例を破って、一組の客をもてなしていた。
     相手は初老のビジネスマンと、その護衛。
    「如何でしょう? 岩切いわきり様にとっても、メリットのあるお話しだと思いますが」
     周公瑾が老酒ラオチュウを勧めながら、岩切という名のビジネスマンに笑顔を向ける。
    「その小西こにしという女性が率いている反魔法主義団体には、色々ときな臭い噂が付き纏っているようですが。構成員がたびたび暴力事件を引き起こしているのみならず、教祖自らそれを命じているとか」
     岩切は口調を荒立てることこそしなかったが、その舌鋒は中々鋭いものだった。
    「噂ですよ」
     しかし周公瑾の表情にも声にも態度にも、動揺は見られない。
    「構成員が警察に捕まることはあっても、団体との関係が報道されたことはありません」
     むしろ周公瑾の笑みは、余裕を増しているようでさえあった。
    「今後、構成員の誰かが人を一人殺したとしても、それを小西様と結びつけて報道するマスコミは決して現れないでしょう。ましてや、小西様の交友関係が詮索されることはあり得ません」
     周公瑾が岩切のグラスに老酒を注ぎ足すべく、テーブルに身を乗り出す。
     近くなった距離から、周公瑾が岩切に囁きかける。
    「そのような駒を、お探しだったのではありませんか?」
     岩切の眉が微かに震えた。
     老酒を注ぎ終わった周公瑾が、元の姿勢に戻る。
    「何より、岩切様と小西様は同じ相手を排除したいとお考えです」
     初老のビジネスマンが、開き直ったように鼻を鳴らして笑った。
    「否定はしませんよ」
     小馬鹿にしようとして、忌々しさを隠し切れない。岩切の口調は、彼の複雑な心情を反映していた。
     その感情を向ける相手は、周公瑾ではない。
    「核融合発電が実現すれば、我々の業界が打撃を被るのは隠しようのない事実です。魔法を使ったからといって、核融合炉がそう簡単に実用化するとは思いませんがね」
    「仰るとおり、魔法は決して万能ではありません。今回の実験も、実用的な核融合炉には程遠いものでした」
     周公瑾は一旦言葉を切って、神妙な表情を作った。
    「しかし、これまでに実施されたどの実験よりも、今回、魔法大学付属第一高等学校の生徒によって行われた『恒星炉』実験は核融合炉の実用化に近づいたものと言えます」
    「……一高の司波達也しばたつやか」
    「岩切様のお立場では、座視できないのではございませんか」
     岩切は中堅電力会社の部長の肩書きを持っている。現代の電力供給は太陽光をエネルギー源とする発電が主流となっているが、その形態は太陽光パネルによる直接発電、太陽熱を利用した蒸気タービン、太陽熱利用のスターリングエンジン、光触媒水素生成装置による水素を用いた燃料電池、同じく太陽光由来の水素を使った水素ガスタービン発電など様々だ。
     同じ太陽光パネル発電所で見ても、メガフロートにパネルを敷き詰める洋上型と空き地にパネルを設置する陸上型、民家やビルの屋根に設置されたパネルから電気を仕入れる卸売り型の三業態に分かれている。
     岩切の会社は太陽光パネルの陸上型だ。パネルの性能向上が頭打ちとなっている現在、発電量はどれだけ広く、日当たりの良い土地を確保できるかに掛かっている。
     陸地の面積は有限だ。増設可能な土地が限られているだけではない。今現在使用している土地も、利益率が低下すればより収益性の高い用途に転用されてしまう。電力需給が大幅に緩和すれば、土地有効活用や治水、環境改善の名目で行政の介入を受ける可能性もある。
     魔法による核融合発電がどの程度の収益性を有しているのか、現段階では不明。だが、楽観視はできない。第一高校の生徒が言うところの『恒星炉』が計画どおりに実用化すれば、昼夜を問わず、天候に左右されず、大量の電力が供給されるようになる。
     魔法核融合炉は岩切の会社とその同業者にとって、無視し得ない潜在的脅威だ。司波達也が開発した技術によって、岩切の会社は将来、倒産に追い込まれるかもしれない。そして会社の存続を危うくする芽を、手段を選ばず摘み取るのが岩切の仕事だ。
     同業他社にも岩切と同じ仕事を担当する社員がいて、彼らは基本的に協力し合っている。会社同士は競争関係にあるが、業界共通の敵に対しては手を結びその排除に当たる。所属する組織は違っても、彼らは仲間同士と言って良い。
     魔法核融合炉技術が脅威であるという認識は、岩切だけでなく彼らに共通のものだった。その実用化を阻止する為にあらゆる手段を講じることで、既に彼らは合意に達していた。
     その手段の中には、魔法核融合炉実現のキーパーソンである司波達也の暗殺も含まれている。いや、最も効果的な対策として実行が検討されていた。だが、仕事柄暴力組織との付き合いが浅くない岩切たちでも、殺人の手配となれば容易には行かない。殺し屋の調達だけならほど苦労しないが、自分たちが疑われては会社がダメージを受ける。それでは意味が無い。実行犯は、岩切たちに関係無く司波達也を殺す動機を持っていることが条件になる。
     だが、そんな都合の良い殺し屋が簡単に見つかるはずもない。依頼先の選定がネックになって、岩切たちの間には焦りが広がりつつあった。そこに周公瑾がコンタクトしてきたのである。
     とはいうものの、岩切は業界を代表してこの場に出てきているわけではない。形式上は会社の代表ですらない。
    「……そうですね。私はあの少年の存在を無視できない。良いでしょう。周さん、貴方のお勧めどおり、その方に会ってみることにします」
     あくまでも岩切個人として、彼はここにいる。だから誰に相談することもなく、思い切った決断ができるのだった。
    「承知致しました。それでは早速先方と予定のすり合わせをしたいと存じますので、岩切様のご都合をうかがってもよろしいでしょうか」
    「明後日の夜では如何でしょう」
     岩切の答えは、無理難題とは言わないまでも相手に対して不親切なものだった。
     夜ももう遅い。周公瑾が相手に連絡するのは明日になるだろう。そして、その翌日の予定をいきなり空けろと言っているのだから。
    「場所はこちらでよろしいでしょうか」
     しかし、周公瑾は微かに眉を顰めることすらしなかった。
    「構いません」
    「では、お席を支度しておきます」
     周公瑾はただ、いんぎんに一礼した。

    ◇ ◇ ◇

     岩切を店から送り出したのは、日付が変わる一時間前のことだった。周公瑾は普段の仕事場である書斎に移動し、ドアに鍵を掛けて動画電話ヴィジホンに手を伸ばした。
     真夜中であるにも拘わらず、発信ボタンを押す彼の指に躊躇いは無い。
     呼び出しのコールは、三回を数えなかった。
    『周先生、お電話をお待ちしておりました』
     動画電話ヴィジホンのモニターに登場したのは、ミドルエイジの女性だった。まあまあ美人と言えなくもないが、客観的に見て男の周公瑾の方が顔立ちは整っている。
    「夜分遅くに申し訳ありません。岩切様がようやくお帰りになったところでして」
    『時間についてはお気になさらず。では、お話し合いは上手く行ったのですね』
     周公瑾の答えに画面の女性、小西はその目に獲物を見付けた猛禽のような光を宿した。
    「岩切様は明後日の夜に小西様とお会いになりたいと……」
    『承知致しました』
     周公瑾が首尾を言い終える前に、小西は被せ気味にそう答えた。
    『七時にお邪魔しますわ』
    「午後七時ですね。岩切様にはそのようにお伝え致します」
    『では明後日』
     小西は満足げな笑みを浮かべていた。
     それは目論見どおり「お客様」を獲得できたことに対する俗物的な笑みだった。

    ◇ ◇ ◇

     二〇九六年五月十一日、金曜日の夜。
     グレーのボックスワゴンが都市高速道路から夜更けの都心に降りる。
     高級歓楽街の入り口で路肩に停まったワゴンの助手席で、道中、ムスッとした表情と沈黙で不機嫌を主張していた少女が分かり易くため息をこぼした。
    「ナッツ、体調が悪いんですか?」
     運転席の男性が、少女に声を掛ける。そのセリフに反して、口調は余り心配そうではない。
    「……なあ、クロコ。最近のあたしは、働き過ぎだと思うんだよ」
     実年齢十九歳にも拘わらず十五歳以下にしか見えない少女、『ナッツ』こと榛有希はしばみゆきは、再度これ見よがしにため息を吐き、セリフと口調と表情で不満を表現した。
     しかし運転席の男性、『クロコ』こと鰐塚わにづかの態度は変わらなかった。
    「そうですか? 今夜の案件は、今週まだ二件目ですよ?」
     だから働き過ぎには当たらないというわけだ。鰐塚の指摘は、有希が普通のOLであれば妥当なものだったに違いない。
    「週一でも多すぎるくらいだろ! 殺し屋だぞ、あたしは!」
     しかし、この場合は有希の主張に軍配が上がるだろう。彼女の職種は、普通ではないのだ。一人の殺し屋が一週間に三件も四件も仕事を受注するような社会は、内戦に片足を突っ込んでいるに違いない。
    「この前の仕事はあちら絡みの急な案件でしたから……」
    「会社の仕事とは別勘定ってか? 直属になんざ、なるんじゃなかったぜ」
     有希は『亜貿社』という組織に所属する殺し屋だ。だが彼女にはもう一人の雇い主がいて、そちらの仕事はどんなに忙しくても断れない。今週終えた仕事というのは、会社からの命令ではない、彼女のスケジュールを無視した飛び込みの事案だった。
    「そんなの、今更じゃないですか。それに今夜の仕事は、いつもナッツが言っている『女の魅力』の見せ所ですよ」
    「……殴るぞ」
    「くわばらくわばら」
     有希が拳を握ったのを見て、鰐塚がわざとらしく震えてみせる。彼女が本気ではないと分かっているからできる真似だ。有希は身体強化の異能力者で、彼女がその気になれば鰐塚を簡単に素手で撲殺できる。
     有希が握り締めていた右手の力を抜いて、自分の身体を見下ろした。思わず自嘲の笑みが漏れそうになるのを寸前で堪える。自分から似合っていないと認めたら、負けだと思ったのだ。
    「こんな格好で仕事ができるのかね……」
     有希の装いは、一言で表現すればリトル・ブラック・ドレスだった。膝上丈、黒一色のシンプルな、Aラインのパーティドレス。靴はヒール五センチのパンプス。ミニマムサイズの女性を好み、かつロリコンではないというターゲットの趣味に合わせた格好だ。
    「強度は問題無いはずですが」
     もちろん、見た目どおりのドレスではない。ワンピース自体の生地も防刃仕様だが、長手袋とストッキングは肌の色が透ける薄手の物に見えて、実は厚みのある防弾防刃布でできている。手袋はファイティングナイフのブレードを受け止められる代物だし、ストッキングは靴を脱いでガラスの破片の上を走り回っても怪我をする心配が無い優れものだった。
    「会場にはドレスアップした女性しか入れない上に、徹底的なボディチェックを受けますから、どっちにしても武器は持ち込めませんよ」
    「セクハラし放題か。腐ってやがんな」
    「だから私たちの出番があるんですけどね」
     有希が所属する亜貿社は、「腐った」相手しかターゲットにしないという建前がある。
    「仕事だからな。愚痴っていても仕方ないか」
     有希は観念した顔で、ドアの開閉レバーに手を掛けた。
    「行ってくる」
    「お気を付けて」
     有希は鰐塚に背中を向けたままヒラヒラと片手を振って、歩行者専用の脇道を奥に進んだ。

     二〇九六年五月十二日土曜日の朝刊は、東京の繁華街で起こった一件の殺人事件をそれなりのスペースを使って報じた。
     殺された被害者は四人。扱いが大きくなったのは、被害者の一人がエネルギー行政に携わる高級官僚で、他の三人が電力会社の社員だった所為だ。殺された場所が売春接待目的と噂のある会員制クラブの一室だった為、マスコミの食いつきが良かったのである。
     マスコミの関心は、高級官僚の行状に集まった。
     彼はそこで、何をしていたのか。
     彼はそれまで、何をしていたのか。
     彼は何を支払い、何を受け取ったのか。
     殺された電力会社の社員は、余り注目されなかった。報道陣が群がった対象は、口が利けなくなった死者ではなく彼らの質問に答えてくれる会社の幹部だった。
     被害者の遺族にマイクを向けられることは少なかった。
     ましてや身寄りの無い被害者は、『岩切いわきり来人らいと』という氏名が報じられただけで、会社における役職すら言及されることは無かった。

    ◇ ◇ ◇

     二年前、有希はワンルームのアパートで一人暮らしをしていた。だが昨年末、彼女は3DKのマンションに引っ越した。
     有希の希望による転居ではない。雇い主の命令だ。
     彼女は亜貿社に所属する殺し屋だが、本当のボスは別にいる。
     二年前の春、亜貿社は十師族・四葉よつば家の分家である黒羽家の傘下に組み入れられた。
     その際有希は会社を通じて黒羽家の支配を受けるのではなく、黒羽家長男・黒羽文弥くろばふみやの直属の部下に収まった。
     普段亜貿社の仕事をしているのは、関連会社に派遣されているようなものだ。会社は有希に対する命令権を持っているが、彼女が本当に従わなければならないのは文弥個人だった。
     日曜日の昼前、亜貿社の社宅よりセキュリティが徹底しているマンションに鰐塚が訪ねてきた。彼は有希が亜貿社に所属する前から彼女のパートナーで、雇い主が替わってもその関係に変化は無かった。
    「おはようございます。今日は起きていたんですね」
    「あたしだって毎日毎日昼過ぎまで寝てるわけじゃねえよ」
     リモートで解錠されたドアから一人でダイニングにまで入ってきた鰐塚を、有希はテーブルの前に座ったままで迎えた。なお彼女の顔には化粧気が無く(すっぴんということだ)、髪には直しきれていない寝癖が残っていた。そして有希本人にも鰐塚にも、それを気にしている様子は無かった。
    「それで、朝っぱらから何の用だ」
    「もう十一時過ぎなんですけど……」
    「まだ午前中じゃないか。だったら朝でも間違いじゃないだろ」
    「いや、まあ……それはともかくとして。一昨日、ナッツが回収してきた情報端末の中身を洗い終わったんですが」
    「何が出てきた?」
     一度首を左右に振り、気を取り直して本題を切り出した鰐塚に、有希も眠気が完全に消えた眼差しを向ける。
    「予想どおり、売春顧客リストが隠れていました。売春させられている方のデータも。女の子だけじゃありませんでしたよ」
    「そりゃ、女の政治家や官僚だっているし、女にも性欲はあるからな」
    「買う方は男性が圧倒的多数でしたけどね。それで、ストレージの深い階層に別のデータもありまして……」
     鰐塚の口調が歯切れの悪いものになる。
    「……悪い予感がしてきたぞ」
     有希も言葉だけでなく、逃げ腰だ。
     だが聞かずに済ませるわけにはいかないと思ったのだろう。視線で続きを促した。
    「あの人の暗殺を目的とする会合の録音データが。多分、隠しりだと思いますが」
    「あの人って……、あの人か?」
    「あの人で間違いないかと」
     有希と鰐塚が、青くなった顔を見合わせた。
    「……その録音とやらを聞かせてくれ」
     有希のリクエストに応えて、鰐塚が自分の端末にコピーした音声データを再生する。
    「ナッツ……。どうします?」
     再生された音声を聞き終えて渋い顔をしている有希に、鰐塚が訊ねる。
    「どうしますって……、知らん顔はできないだろ」
     口にしたセリフとは裏腹に、有希の顔には「関わりたくない」と書かれていた。

    ◇ ◇ ◇

     有希からの情報提供によって中堅電力会社による司波達也暗殺計画の存在を知った黒羽文弥は、すぐに本家・四葉家当主である四葉真夜よつばまやに電話を掛けた。
    「あらあら。達也さんも大変ね」
     動画電話ヴィジホンのモニターの中で文弥の報告を聞き終えた真夜は、笑い出すのを堪えている表情でそう呟いた。
     真剣味が感じられない彼女の態度に、モニターの中の文弥が無言で不満を表明する。
     彼の可愛い抗議に真夜は気分を害さなかった。むしろ、彼女の表情はますます楽しそうなものになる。
    「そんなに心配しなくても良いのでは? たかがローカル企業の犯罪部門が手を組んだくらいで、達也さんが後れを取ると思いますか?」
    『達也兄さんが後れを取ることなどあり得ません』
     真夜の言葉をそのまま使って、文弥が断言する。その信頼と言うより信仰に近い物言いに、真夜はとうとう失笑を漏らした。
    「……ごめんなさい。でも、そうね。今の達也さんはこの前の実験で注目されているから、たとえ正当防衛でも暴力沙汰が明るみに出るのは好ましくないわね」
    『そう思います』
     介入を匂わせる真夜の言葉に、文弥は再度の心変わりを恐れたのか、すかさず相槌を打った。
     真夜が隣に立つ葉山はやま執事に目を向ける。
    「文弥様にお任せしてよろしいかと」
     主の視線に応えて、葉山が恭しく頷いた。
     真夜がモニターの中の文弥と目を合わせる。
     文弥の顔が少し強張ったのは、緊張が上積みされた故か。
    「文弥さん。対処は貴方に任せます。ただ分かっているとは思うけど、貴方が表に出るのも避けなければなりません」
    『心得ております』
     文弥は素性を隠して第四高校に通っている。四葉一族であることも、諜報に携わっていることも秘密だ。それは本人も良く理解していることだった。
    「あの子、何と言ったかしら……。そうそう、榛有希さん。彼女を使いなさい。東京にいるのだからちょうど良いでしょう?」
     ターゲットになっている達也は東京在住。一方、文弥は第四高校の地元である浜松に住んでいる。護衛ではなく暗殺団の殲滅を目的とするにしても、確かに少々不便だった。
    「それと、一人見習いを引き受けてもらいたいのだけど」
    『訓練中の戦闘員ですか?』
     四葉家は三十年余り前、ある事件で戦力となる魔法師の約半数を失った。それ以来、戦力の拡充は彼らの重要課題になった。当時を上回る戦力を確保した今も、四葉家は戦闘魔法師の育成をハイペースで続けている。
     訓練の最終過程で実戦任務をあてがうのは、四葉家に限ったことではない。諜報要員や暗殺要員として育てているなら、黒羽家に預けるのは妥当と言える。
    「ええ。桜シリーズの女の子なのだけど、魔法特性が護衛には余り向いていなくて」
    『珍しいですね』
     魔法師の育成には初期段階から遺伝子操作技術が投入されていた。国家が開発した魔法師は多かれ少なかれ遺伝子操作を受けている。本人が遺伝子操作されていなくても両親以上の世代で改造された遺伝子を受け継いでいる。
     しかし彼らに施された遺伝子操作は、統計的に得られた魔法師の製造に適する卵子と精子の組み合わせで得られた受精卵から、遺伝病の原因になる遺伝子異常を取り除くというもの。類似した卵子と精子の組み合わせから作り出される個体同士が子供を作った場合、近親婚と同じリスクが予測されたが故の措置だ。
     それに対して、受精前の段階から遺伝子を設計されて生み出された魔法師は特殊な例として『調整体』と呼ばれ、そうでない魔法師とは区別されている。
     同じ遺伝子設計に基づく調整体は「●●シリーズ」という名称でグルーピングされ、一卵性双生児のように全く同じ遺伝子を持つのではないにしても、普通は同じ体質、同じ魔法特性を有している。だが「希に」というほどではないにしても、低い確率で同じシリーズの調整体と異なる魔法特性を持つ個体が誕生することがある。
    『桜シリーズ』は対物・耐熱魔法障壁の構築に優れた特性を持つ調整体だ。その魔法特性から普通は個人や集団の護衛、建造物の防衛を得意としている。文弥が「珍しい」と発言したのは、そういう理由からだった。
    「魔法力に問題は無いから、盾ではなく刃として使おうと思って。この子よ」
     そう言って真夜が手元のリモートコンソールを操作する。
    桜崎奈穂おうざきなお、今年十五歳の女の子ですか……』
     文弥が手許に届いたデータを見て困惑気味に呟く。思っていたよりも年齢が低い為だ。
    「家事の腕前は合格点ですよ」
    『……分かりました。有希の部屋に、住み込みの家政婦として派遣します』
     一見、何の関係も無さそうな発言をした真夜の意図を、文弥は取りこぼさなかった。

    ◇ ◇ ◇

    「というわけで、今日からこちらにお世話になります、桜崎奈穂です! よろしくお願いします!」
     有希があてがわれている賃貸マンションのダイニング。
     目の前でピョコンとお辞儀してニコニコ笑う自分より小柄な少女を、有希は椅子に座ったまま胡散臭そうな目付きで睨んだ。
    「……何が『というわけ』なんだよ」
    「あれっ? 説明の仕方が悪かったのでしょうか? ではもう一回、最初から行きますね。あたしの名前は」
    「桜崎奈穂、だろ。聞こえてたよ」
    「あっ、そうですか」
     有希の不機嫌な声にも、奈穂と名乗った少女はまるで動じた様子が無い。
    「じゃあかいつまんで要点だけご説明しますと、黒羽文弥さまのご命令で住み込みの家政婦をさせていただくことになりました」
    「ああ、そう言ってたな……」
     有希はうんざりした表情を奈穂に向けて、足の爪先から頭の天辺へ、頭から右腕、右手の指先、右手から右腕に返って左腕・左手の指先へとゆっくり視線を動かした。
     不躾な観察を受けても、奈穂の笑みは変わらない。それはある意味、理想的な愛想笑いだった。見る者を白々しいと苛立たせることもない、ただ相手の緊張を弛緩させる笑顔だ。
     それも含めて、有希はこの少女が何から何まで気に入らなかった。
     華奢な手足、薄い胸、細い腰。
     有希がコンプレックスを懐いている「女らしさ」の欠如を戯画的に強調したような体型でありながら、少女のものにしか見えない柔らかな輪郭の身体付き。
     少し垂れ目の、庇護欲を刺激する容貌。焦げ茶色の長い髪を三つ編み、二つ結びにしたおさげのヘアスタイルも幼気いたいけで人畜無害な雰囲気を強めている。
     だが、有希には分かる。
     これは擬態だ。
     あの草食小動物のような見た目の下には、肉食獣の鋭い爪と牙が隠れている。いや、隠しているのはサソリの毒針か。
     有希自身が、自分の子供っぽい外見を利用し獲物に近づくから分かる。有希は自分の未成熟な外見と、それを利用する仕事の手口を本音では嫌っている。桜崎奈穂という少女は、そんな「嫌いな自分」を極端化したような存在だと、有希は同族嫌悪の直感で見抜いたのだった。
    「……それで、置いていただいてもよろしいでしょうか」
     笑みを消し、神妙な表情で奈穂が問う。
     有希は座っていて、奈穂は立っている。目線は奈穂の方が高い。
     にも拘わらず、上目遣いに見上げるような奈穂の眼差しに、有希は舌打ちを漏らした。
    「文弥の命令なんだろ。だったらあたしに拒否権は無ぇよ」
     嫌がっているのが、あからさまな回答。
    「ありがとうございます!」
     それなのに、奈穂は花のような笑みを浮かべた。

    ◇ ◇ ◇

     奈穂は一応、現在の住人である有希の意思を尊重する姿勢を見せた。具体的には、有希の承諾を得る前から自分の荷物をマンションに運び込んだりはしなかった。
     だが、有希が渋々同意を表明した一時間後に家具を含めた奈穂の荷物が運び込まれた手際の良さは、断られることを想定していなかったとしか思えない。明らかに、拒否できない有希の立場を見透かしたものだった。
     有希は当然、面白くない。彼女は奈穂の荷ほどきを、苦虫を噛みつぶしながら眺めていた。
     一方の奈穂は最初から手伝いを当てにしていなかったのか、傍観するだけの有希を気にせずテキパキと自分の荷物を片付けて、たちまち生活可能な状態を作り上げた。そしてすぐにエプロンを身に着け、掃除機のコントローラーを手に取った。
     有希が住んでいるマンションには現代の平均的なホームオートメーションが備わっていて、セットさえ忘れなければデフォルトの設定でも清潔な住環境が保たれる。だがオートメーションであっても、使い方次第、使う者次第で仕上がりは随分変わってくる。
     その事実を有希はこの後、まざまざと見せつけられることになる。
     奈穂がコントローラーを手に取ってから一時間も経たない内に、有希の住まいは全室見違えるほどきれいになった。塵や埃を取る機能は誰が使っても同じはずだが、掃除をした後の印象がまるで違うのだ。それに、デフォルトの設定で全室清掃を行うのと比べて、所要時間が半分近く節約されていた。
    「…………」
     口を「へ」の字に結んでいる有希に、奈穂はあざとい笑顔で話し掛ける。
    「遅くなりましたけど、すぐにお夕食の支度をしますね」
     既に時刻は午後八時を過ぎている。確かに夕食の時間としてはやや遅い。
     だが、有希が中堅電力会社の非合法活動部門による司波達也暗殺計画を知ったのが今日の昼前。それを文弥に報せたのが正午過ぎ。文弥が四葉家当主に報告したのは午後一時で、奈穂がこのマンションに着いたのは午後五時前だ。それを考えれば、事態は急速に進展していると言える。
    「ああ」
     無愛想に答える有希。しかし彼女の機嫌が悪いのは、夕食が遅くなった所為ではなかった。十一時に起床した彼女が昼食をとったのは午後三時前後だ。まだ空腹という状態ではない。
     もっとも、有希が腹を空かせて気が立っているのだとしても、奈穂は気にしなかったに違いないが。
    「何か、お嫌いな食材はありますか?」
    「好き嫌いは無い」
     嘘である。有希に食べられない料理は無いが、苦い物が全般的に苦手だ。
    「それは素敵です」
     有希の張った見栄に気付かなかったのか、それとも気付かないふりをしたのか、奈穂は弾むような口調のお世辞を残してキッチンに消えた。

     有希にすれば口惜しいことだが、奈穂があり合わせの材料で手早く作った夕食は美味しかった。
    「……お前も食べろよ」
    「はい、いただきますね」
     テーブルの向かい側でニコニコ笑いながら有希の食事する姿を見ていた奈穂が、有希に声を掛けられて箸を取る。
     どうやら許可を待っていたようだ。
    (時代錯誤かよ!)
     有希は心の中で毒突きながら箸を動かす。
     ついていけない。
     もう、こいつの相手をするのは止めよう。
     そう考えて、有希は食事に専念しようとした。
    「ところで、誰を殺せば良いんですか?」
     その所為で、奈穂の一言は不意打ちになった。
    「ぐっ、ごほっ、げほっ……」
     口の中の物を噴き出し掛けて慌てて呑み込み、その所為で派手にむせてしまう。
    「あらあら、大丈夫ですか?」
     奈穂が差し出すコップを、有希はひったくるように受け取って一気に飲み干した。
     コップが空になった直後、有希の背筋を悪寒が走る。自分が何の警戒もせずに今日初対面の人間が用意した物を呑み込んでしまったことに、今更ながら危うさを覚えたのだ。
     奈穂の身元については、彼女の荷物が届く前に照会している。電話越しではあるが、文弥本人の口から確かに彼が派遣した少女であると確証を得ている。しかし、だからといって警戒をしなくても良いということにはならない。文弥が自分を用済みとして処分しようとする可能性も、奈穂が文弥を裏切っている可能性もゼロではないのだ。
     ……まあ、今回有希が飲んだのは単なる水だったのだが。
     毒の自覚症状が無いのを確認し、胸を落ち着かせて、有希は改めて奈穂の顔を見詰めた。
    「お前……家政婦じゃなかったのか?」
    「やだなぁ。いい加減、お前じゃなくて、奈穂って呼んでくださいよ」
     有希の問いには答えず、奈穂は少し拗ねた口調で言う。
    「あっ、『奈穂ちゃん』でも『なーちゃん』でも『なおっち』でも良いですよ」
     そして甘えた口調でこう付け加えた。
    「奈穂、あたしの質問に答えろ」
    「家政婦ですよ」
     有希は奈穂の悪ふざけを相手にしなかったが、奈穂がそれで気分を害した様子は無い。
    「家政婦兼、暗殺者見習いです」
     有希の詰問に答える声は、明るく、屈託がなかった。
    「暗殺者見習い……?」
     むしろ、何とも掴み所のない反応で有希の方が戸惑いを覚えたくらいだ。
    「はい」
     誤解を恐れず分類すれば、奈穂はひたすらマイペースだった。
    「あたし、いえ、私は元々要人警護の戦闘魔法師として育成されていたのですが、護衛に不向きと落第しちゃいまして。本来なら処分されるところを暗殺要員として再利用が決まったんです」
    「…………」
     処分が何を意味するのか、改めて説明されるまでもない。有希から見ればかなり重い打ち明け話だが、奈穂の口調も表情も明るいままだ。有希の直感は奈穂が事実を述べていると告げているが、奈穂の態度を見ていると悪質な冗談に思えてしまう。
     有希は、どう応えれば良いのか反応に窮した。
    「暗殺者の訓練を受け直して、何とか及第点をいただきまして。お嬢さまのお仕事のお手伝いが卒業試験代わりなのです」
     奈穂の説明は、有希にもある程度納得できるものだった。亜貿社の殺し屋は全員スカウトされて入社しているので採用試験のようなものは無いが、業界の情報として、新人に仕事を与え、その出来映えで組織に入れるかどうか決めるという話は耳にしている。
    「……お嬢さま?」
     有希が引っ掛かったのは、奈穂が説明した事情についてではなかった。
    「そりゃ、あたしのことか?」
    「そうですけど?」
     しかし奈穂にしてみれば、何故そんなことを訊ねられるのかすぐには分からなかった。
    「……あっ、もしかして、ご主人さまの方が良かったですか?」
    「……ヤメロ」
    「じゃあ、ボスとか?」
    「却下だ!」
    「むぅ~、ではなんとお呼びすれば……」
    「……有希で良い」
    「有希さま?」
    「様はいらねぇ! むしろ付けるな!」
    「はぁ……では有希さん、では?」
    「……それで良い」
    「では改めて。有希さん、よろしくお願いします」
     奈穂が揃えた膝の上に両手を置いて頭を下げる。
    「あたしに選択の余地は無いんだろ」
     有希は憮然とした表情の顔を背けながら、それに応えた。