• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [1]邂逅

     店の照明、明滅する看板、街灯の光が、夜空から降りる闇を押し返す。
     不夜城。
     そう呼ばれる繁華街にも、陰はある。
     完全な暗闇ではないが、明るくもない。
     誰ぞ、彼は。
     歓楽に浪費される人工の光。その裏で続く黄昏の薄明。
     逢魔が時が続く異界。
     奇跡も特別な儀式も必要無く、ただ歩いて行けばたどり着く異世界。
     法が支配する世界とは異なる、無法の空間。
     暴力というルールが支配する大都会の陰を、今夜もそれに相応しい獣が闊歩する。

    ◇ ◇ ◇

    「Nuts to you!」
     薄暗い裏路地に倒れた青年を見下ろして、少女が嘲るような口調で短い英語のセンテンスを浴びせる。
     普通「馬鹿を言え」とか「ふざけるな」と訳されるフレーズだが、古い用法で「くたばっちまえ」という意味もある。
     まあ「Go to hell」の方がこういう場合は適切だと思われるが、少女は「Nuts to you!」を一種の決めゼリフとしていた。
     流暢とは言い難いカタカナ発音。
     しかし少女の英語力はともかくとして、倒れた青年はその言葉のとおり明らかな致命傷を負っていた。
     切り裂かれた青年の喉から、大量の血液があふれ出している。
     少女の手には、血が滴るナイフ。
     しかし、もしこの場面だけを目撃した者がいたならば、きっとこう思っただろう。
     ――本当にこの少女が殺したのか?
     死体になった青年の身長は、確実に百八十センチを超えている。筋肉の量も、それに相応しいだけはついているように見える。
     一方、少女の背丈はせいぜい百五十センチ前後。ジーンズに包まれた脚は細い。革ジャンに隠れた腕も、狭い肩幅から判断してきっと華奢だろう。凶器を持っているとはいえ、自分より遥かに大柄な青年を害することができるようには思われない。
     しかし、この場に立っているのは少女一人。
     彼女は気の強さをうかがわせる瞳を死体に向けたまま、ナイフを軽く一振りする。
     特殊な加工が為された刀身なのか、血はあっさり落ちた。
     少女はナイフを折り畳んでジーンズの右ポケットにねじ込み、死体に背を向けた。
     彼女はそのまま、足早に歩き出した。

     車止めで塞いである歩行者専用の路地から、二車線道路へ。
     ここも交通管制システムの有効範囲内なのだが、違法改造で管制システムをオフにした四輪車が路肩にずらりと駐停車している。
     夜のこの街は一種の無法地帯だ。駐車違反程度では、警察も勤労意欲を発揮しない。その代わり警官が気紛れを発揮しても、レッカー移動に文句を言う無謀な若者もいない。お互いにやり過ぎないことで、大都会の光と陰は共存していた。
     少女は車の列を一度見渡しただけで、迷わずグレーのボックスワゴンに歩み寄り、そのまま助手席のドアを開けて車内に乗り込んだ。
    「お疲れ様でした、ナッツ。首尾はどうです?」
     ドアが閉まると同時に、運転席に座る、外見から判断して三十代と思われる男が少女に話し掛ける。
    「メインディッシュが出てこなかったぞ」
     ナッツと呼ばれた少女が、その愛らしい外見に反する柄が悪い少年のような口調で文句を付けた。
    「リーダーの少年は店に入りました」
     運転席の男はそう前置きして、あるクラブの店名を告げる。
    「少年って歳かよ」
     少女の返事は噛み合っていないものだったが、男からもたらされた情報はきちんと耳に入れていた。
    「店に金属探知機、あるんだろ?」
     そう言いながら少女は、折り畳んだナイフを男に差し出す。
    「ええ」
     男は折り畳みナイフを受け取り、代わりにバレッタとセットになったかんざしを少女に差し出した。
     かんざしの端には扇形の飾りがついていて、そこから更に小さな扇を連ねた飾り紐がぶら下がっている。
    「金属探知機に反応しない樹脂製のかんざしです。飾りの紐を引き抜くと、外の樹脂ががれて刃渡り十センチのブレードが露出します」
    「たった十センチ?」
    「プッシュダガーと考えれば良いのでは?」
    身幅みはばが足らねえだろ」
    「ナッツなら使いこなせますよ。あっ、紐を抜いてから十分で分解が始まりますのでお気を付けて」
     男の無責任な言葉に、ナッツと呼ばれた少女は顔をしかめた。
     しかし、かんざしを男に突き返しはしない。
    「……使い物にならなきゃ、素手でやるだけか」
     しかめ面のままヘアバンドを外し、一本に編まれた髪をいったん解いてから器用に纏め、バレッタで押さえてかんざしす。
     運転席からすかさず差し出された手鏡をのぞき込み、何度か鏡の角度を変えて、少女は「似合ってねえ……」とため息を吐いた。
    「どうぞ」
     男が今回差し出したのは、ポーチに入ったメイク道具だ。
    「あのチュニックなんか、雰囲気的にちょうど良いと思いますよ」
     そうしてワゴンの後部座席を指さす。
     後ろのシートはフラットに倒され、天井から十着以上の服がぶら下がっていた。全てが女性物、少女の為の衣装に違いない。
    「柄じゃないっての……」
     少女が気乗りのしない様子でぼやく。
     それでも、潜入の為には外見を整える必要があると理解しているのだろう。
     彼女はシートを回転させて後ろを向き、革ジャンを脱いで花柄のチュニックを手に取った。

    ◇ ◇ ◇

     良くある若者向けのナイトクラブ。
     その通用口から人気の無い細い路地へ、二人の男女が出てきた。
     一人は逆三角形のシルエットを持つ長身の若者。
     もう一人はかんざしを挿した小柄な少女――ナッツだ。
     若者は足元がふらついている。酔っ払っているのか、あるいは薬物が効いているのか。
     それでも、あるいは、だからこそ獣欲に突き動かされた手は少女を強く拘束して離さない。
     少女の背中に回されていた右腕が、小柄な肢体を強く引き寄せる。
     向かい合わせに抱き合った状態で腰から下に手を伸ばすが、身長差がありすぎる所為で届かない。青年は苛立たしげに右手を這い上らせて少女の胸を掴んだ。
    「痛っ……。乱暴にしないで……」
     少女の口から漏れる、甘やかな懇願。
     加虐心を刺激された青年が、左手で少女の頭を抱え込むようにして強引に引き寄せる。
    「待って……! お願い、待って!」
    「何だよ」
     強引に唇を奪おうとしていた青年が、不機嫌を丸出しにした声で少女を責めた。
    「髪が……」
     眉間にしわを寄せて、少女が痛みを訴える。
     青年は舌打ちして少女の頭から手を離した。
     少女が両手を挙げて後ろに回し、かんざしとバレッタを外す。
     真っ直ぐな長い髪が黒い滝となって流れ落ちた。
     青年が好色そうに眼を細める。髪を下ろしたことで外見年齢が二、三歳下がった感じだが、その方が青年の好みであるようだ。
     解かれた髪から花の香りが広がった。
     青年の酔いが、ますます深いものになる。
     今度は少女が、青年の首に両腕を回した。
     だが背伸びしてもまだ、頭一つ分以上の差がある。
     青年が少女の腰に回した右腕で抱え上げるようにして、強引に顔を近づけた。
     少女がじらすように顔を逸らして唇を逃がす。
     青年は少女の顎を左手で掴んで強引に正面を向かせた。
     少女が艶然と微笑む。
     青年の首に巻き付けていた右腕を解き、
     かんざしの飾り紐を引き抜いて、
     露出したブレードを、一気に青年の首に突き込んだ!
     腕の力しか使えない不安定な体勢だ。
     余程エッジが鋭いのか、それとも少女の腕力が破格なのか。
     ブレードは深々と青年の首に埋まった。
     青年が悲鳴を上げて少女の身体を突き飛ばす。
     それは、反射的な行動だったに違いない。
     だがその勢いで、少女の握る細いブレードが首の動脈を切り裂いた。
     少女が後ろ向きにステップを踏んで青年から離れる。
     かんざしに仕込まれていたブレードが青年の首から抜け、噴き出す血の勢いが増す。
     少女はチュニックの左袖で自分の唇をごしごしと拭った。
     キスは寸前で逃れていたが、気分的なものだろう。
     意外にすれていないのかもしれない。
     ――純情な殺し屋というものが、存在するとするならば。
     青年が前のめりに倒れる。
    「Nuts to you!(くたばっちまえ)」
     憎々しげに吐き捨てる言葉は、少女にとって、仕事の完了を告げる自分への合図なのか。
     少女はかんざしを投げ捨て、この場を去るべく踵を返す。
     しかし少女は、足を踏み出しかけて硬直した。
     路地の入り口に立つ少年と目が合って。
    (見られた!?)
     少年は随分と大人びた顔立ちをしていたが、体付きから見て高校生、もしかしたら中学生かもしれないと少女は判断した。
     しかし、それにしては。
     殺人の現場に向ける少年の目が、冷静すぎた。
     落ち着いているというより、冷たい。
     驚きや恐怖だけでなく、一切の感情が窺われない、ガラス玉のような、否、鋼のような瞳。
     少年が視線を外した。
     惨状から顔を背けたのではなく、単に興味を失って通り過ぎる、そんな仕草だ。
     その印象どおりに、少年は歩き始めた。
     その姿が建物の陰に消える。
     ここに至りようやく、少女の硬直が解けた。
    「ま、待て!」
     目撃者を放置できない。
     そんな当たり前の焦りに駆り立てられて、少女が走り出す。
     こんなシチュエーションで、待てと言われて待つ奴はいない。
     むしろ追いかけられていると察して、逃げ足を速めるに違いない。
     その思いが、少女をますます焦らせる。
     少年が通り過ぎた道は、まだ人通りが少ない裏道だ。
     だが表通りまで大して距離があるわけではない。
     焦慮が少女を加速する。
     路地を出て、少年が歩いて行った方に顔を向ける。
     少女の予想に反して、少年はすぐに見つかった。
     裏道を普通の足取りで歩いている。
     走ってはいないし、それなりのスピードだが急ぎ足という感じでもない。
     その態度に少女は違和感を覚えたが、少年の素性を詮索しようという気は起きなかった。
     どうせすぐに別れる相手だ。――永遠に。
     得物の持ち合わせはない。だが少女に、武器を調達する為に少年から目を離すという選択肢は無かった。
     少女は女性としても小柄で、服の上から判断する限り手足も細い。
     それに対して相手の少年は、まだ大人の体型にはなりきっていないとはいえ、少女よりも背が高く、体重も明らかに勝っている。身のこなしにも鈍重さは全く無い。
     それでも少女には、少年を素手で仕留める自信があった。――彼女は、見た目どおりの非力な少女ではないからだ。
     少女は少年との距離を一定に保ちながら、自分の内側に意識を向けた。
     心象世界の水底に沈む扉。
     水の中に手を伸ばし、ノブを掴んで捻り、引っ張る。
     それなりの抵抗を示して、扉が開く。
     扉の向こう側から湧き出した水が、少女の心象世界を満たした。
     無意識領域から流れ出す情報が少女の能力値を書き換え、身体を力で満たした。
     ――この二十一世紀は、魔法が迷信から科学へ発展を遂げた世紀だった。
     魔法の科学的研究は、超能力と呼ばれた異能の分析に始まる。
     魔法が技術として確立する過程で、超能力のシステムは解明された。
     物理世界の全ての事象は情報を残す。
     記録媒体は、想子と名付けられた非実体粒子。
     想子は、物質を構成する粒子、物理的エネルギーを媒介する粒子、如何なる素粒子とも複合粒子ともそれ単体では相互作用を見せない。だが想子が組織的な構造を形成すると、組織化された人のニューロン細胞体に規則的な電位変化を生じさせる。
     それは生きた人間の大脳皮質ばかりに見られる現象ではなく、化学的に合成した神経細胞体、さらには結晶化加工を施した神経細胞体の集合によっても観測された。
     この観測結果により、物理現象と想子構造体の間には厳密な対応関係があると判明した。
     類似した物質には、類似した構造体を。
     類似した現象には、類似した構造体を。
     物質や現象の類似性が高ければ高い程、想子構造体の類似性も高い。
     物質やエネルギーそのもの、その作用によって引き起こされる現象の種類、その変化――事象に応じて形成される想子の構造体は、『想子情報体』と名付けられた。
     通常は、事象の変化に伴って、想子情報体が形成される。
     想子情報体は変化するのではなく、瞬間瞬間で新規に構築され、時間流の中に積み上がっていく。
     しかし異能――超能力が超常現象を起こす際には、想子情報体の形成が先行して観測された。
     非実体粒子の構造体が、物理現象をねじ曲げた。
     即ち、情報が事象を書き換えたのだ。
     現代の魔法は、この発見を基礎としている。
     それは魔法の基礎原理であり、超能力の基礎原理でもある。
     少女は自分の意識の奥底、更にその向こう側、無意識からもたらされた情報により、自分自身の肉体を、体組織構造はそのままに機能だけを強化した。
     身体強化の異能。フィジカルブーストの超能力。
     少女はこの異能の持ち主、超能力者サイキツクだ。彼女の身体強化は身体の強度を上げるのではなく、運動能力を引き上げるもの。銃弾を跳ね返すとか高層ビルの屋上から飛び降りても死なないとか、その手の超人に化ける能力ではなく、運動能力と知覚能力を引き上げる超常能力。それも、銃弾よりも速く動いたり鉄骨をへし曲げたりといった、派手なレベルには達していない。
     それでも、熊やゴリラを力比べでねじ伏せ、虎やライオンを銃火器・弓矢・その他飛び道具無しで仕留めるくらいのパワーとスピードはある。――実際にやってみたことはないが。
     この能力が、得物無しでもれると判断した根拠だった。
     彼女は単なる力自慢、スピード自慢ではない。引き上げられた身体能力に振り回されない技術を身につけている。
     それは、自惚れではないはずだった。
    「ッ! なん……だと!?」
     だが背後から少年に襲い掛かった少女は、次の瞬間、舗装された道路に叩き付けられていた。
     冷たい瞳で少年が少女を見下ろす。
     鋼のような、その眼差し。少女には、そこから一切の感情を読み取ることができなかった。
     痛みをこらえて、少女が立ち上がる。彼女は苦痛に慣れていた。痛いからといって寝転んでいては、二度と痛みを感じることができなくなる。神経が麻痺するのではなく、死ぬという意味だ。彼女は「抗わなければ命を落とす」世界に生きている。
     少女が中腰で後退しながら立ち上がる様を、少年は無表情に見ていた。
     少年に、攻撃の意思はないようだ。
     少女は「駄目だ……」と心の中で呟いた。自分の誤算を、認めざるを得なかった。
     無造作に立っている少年に、付け入る隙を見出せない。
     何をされたか分からない。
     何をされるか分からない。
     ただ攻撃を仕掛けた自分が、路上に這いつくばるイメージだけが思い描かれる。
     少女にはパワーやスピードはあっても、鋭い牙も爪も無い。コンクリートブロックを砕く拳も無い。
     ――素手で勝てる相手じゃなかった。
     逃げるべきだ、と少女の生存本能はわめいている。
     目撃者の口は封じなければならないと、少女の保身意識が抵抗する。
     少女は自縄自縛に陥った。
     せめてさっきのかんざしがあれば。そう後悔しても、既に投げ捨ててしまった後だ。そうでなくても相棒の言葉が正しければ――間違っていたことなど無いが――そろそろ分解が始まっている。得物としては、使い物にならない。
     引くに引けず、攻めるに攻められず、少女は口惜しげに少年を睨む。
     膠着は、長く続かなかった。
     少年の意識も、少女を放置できないという方向に傾いたようだ。少年が少女へ、無造作に足を踏み出す。
     その時、状況が急激に動いた。
     小さなモーター音と共に、グレーのボックスワゴンが突っ込んでくる。
     自分をひき殺そうとするワゴン車を、少年は軽やかに跳んでかわした。足に力を込めたようには見えなかったのに、少年の身体は十メートル近くを跳躍し――少女から離れていた。
     ボックスワゴンが、タイヤをきしらせて急停車する。
    「ナッツ! 乗ってください!」
     少女は返事をするいとまも惜しんで、自動でドアが開いた助手席に飛び込んだ。
     少女を乗せたワゴン車が急発進する。
     少年は、遠ざかるグレーの車体に手出ししなかった。

    ◇ ◇ ◇

     ワゴン車の助手席で、少女は大きく息を吐き出した。シートに預けた背中には、じっとりと冷や汗が浮かんでいる。
     少女が少年と睨み合っていた時間は、一分にも満たない。
     少年に仕事の現場を見られたと気が付いてから勘定しても、五分は経っていないだろう。
     その短い時間で、少女はそれに先立つ三時間――少女がナイトクラブでターゲットに接触してから仕留めるまでに掛かった時間――に倍する疲労を覚えていた。
    「ナッツ、さっきの少年は何です?」
     運転席の男が自動ではなく自らワゴン車を運転しながら少女に問い掛ける。
    「現場を見られた」
    「仕留め損なったんですか!?」
     男の声は、純粋な驚愕に満ちていた。彼は少女の技術も異能も良く知っている。
     コンビを組んで四年目。その間に少女が手に掛けた獲物は五十人を超える。その中には、殺し屋同士の命の遣り取りも含まれていた。そして失敗は、片手の指に収まっている。それだって仕掛ける機会が得られなかったというだけで、殺しそのものを失敗したわけでも証拠を残したわけでもない。実績から言っても能力から言っても、少女は組織有数の凄腕だ。
     その彼女が口封じに失敗したという。しかも精々高校生、下手をすれば中学生の少年相手に。男にしてみれば、驚かずにはいられない話だった。
    「……もしかして、魔法師だったんですか?」
     一つの可能性を思いついて、男が問いを重ねる。
     この世界には、魔法がある。今世紀、魔法の存在は明らかなものとなった。誰でも使える日常的な技術になったとは言えないが、軍や警察、それに男たちが属する裏社会では貴重な武器として使用されている。
     銃を持てば小学生でも屈強な大男を撃ち殺せるように、魔法を使える者――魔法師であれば、中学生がプロの殺し屋を撃退してもおかしくない。
    「分からん」
     少女が不機嫌そうに吐き捨てた。彼女も最初の反撃を受けた時から、その可能性を考えていた。だが彼女には、少年が魔法師かどうか、あるいは自分と同じサイキックかどうかさえ見極められなかったのだ。
     少女はそんな自分が情けなく、また、腹立たしかった。
    「クロコ。ヤツの素性を調べられるか?」
     少女が男に問う。「クロコ」というのは男のコードネームだ。男の本名は「鰐塚わにづか」。鰐=クロコダイルを略して「クロコ」。これに歌舞伎の介添かいぞえ役から転じて裏方を意味するようになっ
    た「黒子くろこ」(正しくは黒衣くろご)を引っ掛けている。
    「顔はドライブレコーダーに記録されているはずですから、表面的なことなら……」
     プライバシー保護の為、ドライブレコーダーの映像には自動的にマスクが掛かるよう法律で定められている。だがレコーダーをネットワークから遮断すれば、マスクを外す違法改造はそれ程難しくない。
    「何処の誰かだけで良い。調べてくれ」
    「殺すのですか?」
    「口封じしないわけにはいかないだろ。社長だってそう言うはずだ」
    「……分かりました」
     男にも、少年を放っておくことはできないと分かっている。それでも躊躇してしまったのは一般人を犠牲にする罪悪感に襲われたのではなく、少年に不気味な印象を覚えたからだ。
     本当に、目撃者を消すという単純な行動原理で仕掛けて良い相手なのか。
     少女は組織の殺し屋で、男はその支援要員。せめて組織のトップである「社長」の判断を仰ぐべきではないのか。
     しかしそれは同時に、仕事上の重大な失態を自白することにもなる。
     殺し屋の組織に身分保障は無い。身分どころか、命すら保障されていない。仕事を目撃されたという理由で、トカゲの尻尾切りに遭うかもしれないのだ。その場合、自分と少女は一蓮托生。
     その可能性は決して小さくない。
     まずは少年の素性を調べてからだ。危険な背景が分かれば、その時、組織に相談すれば良い。
     男は逃避気味にそう考えた。

    ◇ ◇ ◇

     少年はボックスワゴンが見えなくなってすぐに、少女に対する興味を失った。
     彼は都内の私立中学校に通う身だが、ただの中学生ではない。ある意味で、殺し屋の少女の同類だった。
     足早に、歩みを再開する。先程よりもペースが上がっているのは、少女に絡まれて無駄にした時間を取り戻す為か。
     少年は足を緩めることなく、入り組んだ道を何度も曲がり進む。その足取りに迷いは見られない。
     やがて彼は、古ぼけたビルの裏口の前で足を止めた。
     鉄製らしき扉は灰色一色に塗装されているだけで、何の情報も表示されていない。扉だけでなく、少年が立っている側からは何のビルかさえ分からない。ただ、人が出入りしている痕跡はある。本当にビルの関係者だけが使う通用口なのだろう。
     扉の鍵は自動ロック式の電子錠だった。ただ扉自体は昔ながらの手で開閉するタイプで、錠
    前もドア枠にデッドボルト(かんぬき)を差し込んで前後に動かなくする構造だ。
     扉に近づいた少年が、ここで奇妙な動作を見せた。
     右手の人差し指を伸ばし、扉とドア枠の境目に沿って動かしたのだ。
     ちょうど、錠前の辺り。
     扉にもドア枠にも触れてはいないし、右手に何の道具も持っていない。黒い手袋に包まれた指先から何かが飛び出しているというわけでもない。
     何の意味も無いように見える行為。
     だが少年がノブを引くと、自動的にロックされているはずの扉はあっさり開いた。
     裏口の奥は薄暗い階段。
     少年は躊躇うことなく地下に向かった。

     少年は五分足らずで、再び通用口に姿を見せた。
     少年の外見は、地下室に降りる前と変わっていない。傷一つ無いし、服装にも乱れはない。
     彼は落ち着いた足取りで裏通りを通り抜け「表」に出た。
     夜を知らない繁華街、不夜城。
     無法が支配する異界ではなく、猥雑でありながらも法秩序が支配するこちら側の世界。
     人の流れに潜り込んで表通りの歩道を行く少年の横に、コンパクトな白いセダンが停まる。
     ありふれた色、ありふれたデザインの、闇に紛れない代わりに街に紛れる小型車に、少年は慌てず、もたつかず乗り込んだ。
    「特尉、いえ、今日は達也くんと呼ぶべきだったわね。首尾はどう?」
    「スパイは全員。新ソ連エージェントのデータは破棄されていましたが、ストレージは回収してあります。ちょうど良いので復元をお願いできますか?」
    「了解よ」
     運転席から伸びた手に、少年がカセットに収まった内蔵式の電子データ記憶装置を渡す。
    「しかし、何故藤林ふじばやし少尉が?」
     少年が運転席の若い女性に問い掛ける。今日の仕事は本家の指図によるものだ。軍の非合法任務ではない。軍人である彼女が迎えに来るのは、予定外だった。
    真田さなだ大尉に言われて。本当は自分で来たかったのでしょうけど、あいにくと手が空かなかったみたい」
     セダンを発進させながら、私服の女性士官が答える。彼女は「仕方がない人よね」と言わんばかりの微苦笑を浮かべていた。
     この女性士官の名は、少年が呼んでいたとおり『藤林ふじばやし』という。階級は少尉。所属は国防陸軍第一〇一旅団独立魔装大隊。彼女が会話の中で口にした『真田さなだ大尉』は同じ独立魔装大隊の技術士官だ。
     藤林ふじばやしの言葉に、少年は「なる程」と納得の表情を浮かべた。
    「トライデントは問題無く機能しました」
    「それは、CADも起動式自体も設計どおりに働いたという理解で良いのかしら?」
    「はい」
     少年が頷く。
     CAD――術式補助演算機(Casting Assistant Device)。魔法の発動を補助するハードウェア。
     起動式は魔法を電子的に記録したソフトウェア。
     CADは起動式を魔法師が利用できる形態に変換して出力する。魔法師は変換された起動式を読み込んで、それを基に魔法式――魔法の本体を組立てる。
     少年は魔法を行使する技能の持ち主=魔法技能師、「魔法師」だった。
     トライデントは民間企業が開発した最新のCADを、独立魔装大隊の技術士官である真田さなだ大尉が更に改造した少年専用のCADの名称であり、このCADを使って彼だけが行使できる魔法の名称でもある。
    「そう。大尉、喜ぶでしょうね」
     そう口にした女性士官も、満更ではなさそうだった。
     白のセダンが交通管制システムに従い、車の流れの一部になる。少年を乗せた小型車は、そのまま夜の渋谷から走り去った。

     西暦二〇九四年四月七日、水曜日の夜。
     渋谷の繁華街で連続殺人事件が勃発した。
     被害者の青年は渋谷一帯で活動しているストリートギャングの一員で、暴力団の手先となって違法薬物の売買に手を染めていたと見られている。
     事件の目撃情報はない。被害者の一人が、事件の直前と一緒だったという証言はあったが、中学生や高校生はストリートギャングにとって麻薬売買の顧客だ。殺人との関連性は薄いと無視された。
     警察は事件をストリートギャング同士の抗争、あるいは敵対する暴力団組織による見せしめと判断し、専任の捜査チームを設置した。若者同士の暴力沙汰は日常茶飯事の繁華街でも、連続殺人となれば無視できないという判断だ。
     同じ夜、大亜連合からの亡命者の内、渋谷界隈で活動していた十人近くが纏めて姿を消した。彼らは最近、新ソ連のエージェントと接触していた容疑で公安からマークを受けていたグループだったが、失踪を届け出る者がいなかった為、警察の扱う事件にはならなかった。