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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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少女アサシン
[11]屈服
四月半ばの金曜日。
この日は夜明け前から雨が降っていた。それ程強い雨ではないが、傘が要らないというレベルでもない。
その小雨 の中を、泥だらけのトレーナーを着た司波 達也 が走っている。舗装された道で転んでもこうはならない。また泥と言っても粘土質の物ではなく、濡 れた砂が繊維の隙間に食い込んでいる感じだ。
彼は毎朝の鍛錬を終えて帰宅する途中だった。全身を雨に曝 しながら、猛スピードで走っている。その速度は自走車の通常走行に匹敵するものだ。足の回転が速いのも無論だが、それよりも異様に長いストライドが自走車並みのスピードを叩 きだしている。その一歩は、八メートルにも及んでいた。
早朝で人影はほとんど無い。いや、現在のところ達也 以外は皆無だ。時間が早いというのもあるが、それよりこの天気でジョギングする物数寄 も雨を愛 でながら散歩する粋人 もいないということに違いなかった。
家路の三分の二を消化したところで、達也 は久々に自分以外の人間に出会った。修行の場、九重寺 を出て以来初めてだ。
その人影は小柄な少女だった。中学三年生の彼の妹よりも背が低い。大体、百五十センチ前後と思われた。ハイネックのボタン無し長袖シャツに前開きベスト、ミニスカートにレギンス、ハイカットのスニーカー。身体付 きはほっそりしているが、見た目を裏切る強靱 さを備えていると達也 は一目で見抜いた。
何より、長い髪をアップにしてヘアバンドを鉢巻きのように巻いたその顔に、達也 は見覚えがあった。
先週水曜の夜、渋谷で見掛けた少女暗殺者 だ。
達也 が足を止める。距離は五メートル。話をするには少し遠いが、達也 なら一度の踏み込みで間合いに捉える距離だ。――それはおそらく、少女も同じ。
「司波 達也 」
殺し屋の少女が、口を開く。
「あたしの名前は、榛 有希 」
達也 の名を呼び、自分の名を告げる。
「はしばみゆき?」
達也 は彼女の名前を、口の中で訝 しげに繰り返した。イントネーションを変えて、一続きに。
「そうだ」
有希 はそれを、相手が自分の存在を意識した証 と捉えた。
「けりを付けに来た!」
高揚した声で宣言すると共に、有希 は左手で腰の後ろに隠していたナイフを抜いた。
「今日は逃がさない。お前の家 は割れてるからな!」
達也 の両目が、わずかに細められる。彼の身体から、冷たい闘気が滲 み出し始めた。少年の雰囲気が、急に変わった。その身震いするような闘気に、
有希 は思わずたじろいでしまう。
彼女はそんな自分を叱咤 した。ここで尻込みするのは余りにもみっともない。
(あたしは道化を演じに来たんじゃない。そうだろう!?)
この少年、司波 達也 がただ者ではないことくらい、最初から分かっている。多少凄 みを見せられたくらいで、尻尾を巻いたりはしない。
有希 は自分にそう言い聞かせて、無理矢理、闘志を奮い立たせた。
彼女は意識の水底に沈む異能の扉に手を掛け、力尽くで引き開けた。
有希 の四肢に、全身に、力が満ちる。
彼女は自分の「力」を信じて、達也 に正面から挑み掛かった。
鰐塚 はこのやり方に反対した。せめて不意を打つべきだと有希 を止めた。
しかし彼女には確信があった。
――司波 達也 には、不意打ちなど通用しない。
根拠は無い。だが、分かる。正面から勝負を挑むのが、生 き 残 る 為 の 最善の策だ、と彼女の直感が告げていた。
有希 が突進する。
強化した彼女の脚力は、五メートルの距離を一歩で詰めた。
ナイフを突き出す。単純に、スピード頼みの一撃。
有希 の左手に鋭い痛みが走る。
ナイフを落とした、という認識の後に、手首を手刀で打たれたと気付いた。
身体強化 による、プロボクサーも遠く及ばない速度の刺突だったにも拘 わらず、達也 は正確に「小手」を決めていた。
まるで、鋼の刃が食い込んだような痛み。
有希 がそれに耐えられたのは、この結果を予測していたからだった。
強がりではない。その証拠に、彼女は何時の間にか右手に構えていたポケットピストルの銃口を達也 の脇腹に押しつけていた。
有希 が引き金を引く。
「なにっ!?」
有希 が本気の驚愕 を漏らす。
銃弾は民家の壁に当たって跳ね返った。
達也 には、かすり傷一つ残さずに。
彼の左手が有希 の右手を払って、ポケットピストルの銃口を逸 らしていた。司波 達也 に、不意打ちは通用しない。彼女自身が思ったことだ。だがこんな形で証明されるのは、まるで予期していなかった。
思わず竦 んでしまった有希 の身体が、空に突き上げられる。
達也 が有希 の腹へ、容赦の無い膝蹴りを打ち込んだのだ。
有希 が濡れた路面に、背中から落ちる。
激しい衝撃に息が止まる。無の中へ逃げ出そうとする意識を必死につなぎ止め、有希 は痛みを無視して身体を起こした。
司波 達也 は、彼女を蹴り飛ばした場所に立っていた。
有希 は遮二無二右手を挙げて、二発目の引き金を引いた。
達也 の左手が何時 射線に割り込んだのか、有希 には見えなかった。
銃声と同時に、その左手が閉じられる。
握り締めたのは、一瞬。緩められた指の隙間から、何かの粉がこぼれ落ちた。
「嘘……だろ」
有希 が立ち上がることも忘れて呆然と呟 く。
自分は夢を見ているのか、と有希 は疑った。
これが夢なら、とびきりの悪夢だ。
銃弾は確かに発射された。有希 の右手に、その反動が残っている。
司波 達也 は依然として立ち位置を変えていない。身体を振ったり反らしたりしたわけでもない。ただ、左手を射線上に翳 しただけ。
「弾を……、掴 んだ……?」
有希 は不意に、笑いの発作に襲われた。
まるで漫画だ。いや、今時こんなネタは漫画でもやらない。まるで前世紀のアメコミだ。
彼女は理不尽の直中 にいた。
魔法が現実の技術だということは、有希 も知っている。一般市民より詳しいだろう。仕事柄、魔法師を相手にしたこともある。魔法を間近に見たこともある。
だが、こんなに理不尽な思いをしたことは無かった。
こんなものは魔法ではない。現 実 に 存 在 す る 魔法ではないと有希 は思った。
漫画でなければ、御伽噺 だ。
現実に存在する魔法は、人間が使う技術だ。彼女は魔法師も人間に過ぎないと理解していた。
人間の持つ肉体的な限界。それがあるからこそ、彼女は敵対した魔法師を出し抜くこともできたのだ。
だが、いくら低速弾とはいえ銃弾を掴 むことなど人間にはできない。身体強化 を全開にした有希 でも不可能だ。
「銃口から射線を読めば、それ程難しくない」
有希 の疑問に、達也 が答える。
思考を読まれたというショックよりも、その内容に対する反論――反感が有希 の中で上回った。
「寝惚 けてんのか! 銃弾は銃口から真 っ直 ぐに放たれるわけじゃねえぞ。どんな銃にも独自の癖がある。それに銃弾は重力に引かれて落ち、自転の気流で曲がるんだ。銃口の向きからは、大雑把な軌道しか分かりゃしねえ!」
「この距離なら、多少のブレは無視できる」
「テメエは手袋もしてないじゃねえか! 素手で銃弾を止めるとかおかしいだろ!」
有希 の抗議に、達也 は冷笑で応えた。
その笑みに心臓を鷲掴 みにされるような怖気 を覚えて、有希 は慌てて立ち上がる。
立ち上がってしまえば、尻餅をついた体勢で悠長に会話をしていた自分が信じられなかった。
有希 はポケットピストルを投げ捨てた。予備の弾丸はある。だが役に立つとは思えなかった。
有希 は太ももに巻いたベルトから、ナイフを抜いた。ミニスカートをわざと大きくめくり上げてみたが、達也 に隙は生じない。そんな姑 息 な真似 をした自分が間抜けに思える落ち着き振りだ。
もっとも、有希 の方も既に羞恥心を覚える精神状態ではなくなっている。
有希 は無言で達也 に襲い掛かった。
達也 に接触する寸前で直角にステップし、さらに片足で跳んで空中からナイフを投げつける。
横向きになって塀に着地。同時に新たなナイフを取り出し跳躍。
達也 の頭上を飛び越えながら、時間差で二本のナイフを投擲する。
有希 が投げたナイフを、達也 は全て、軽々と躱 した。
着地すると同時に、直前の軌道を逆戻りする。慣性中和によるものではない。強化した筋力で強引に身体を止め、跳んだのだ。
有希 は空中で身体を捻 って、右回し蹴りを繰り出した。
普通の蹴りには、遠すぎる間合い。
彼女が履いているスニーカーの爪先からは、鋭い切っ先がのぞいていた。
達也 は有希 の右足首を、左手で掴 み取った。
有希 の身体が急停止する。しかし、彼女はその反動を感じなかった。
慣性制御によるものと、有希 が理解したかどうか。
達也 が右足を跳ね上げる。
彼は自分の頭よりも高い位置にある有希 の胴体を蹴り上げた。
有希 の身体が、「く」の字に折れる。
衝撃で、意識が飛びそうになる。
彼女は空中で体勢を整える余裕も無く、路面に落下した。
しかしそのまま落ちることはなかった。
墜落の途中で、彼女は再び達也 の蹴りを受けた。
軌道が、下向きから横に変わる。彼女は弧を描いて路面に叩き付けられ、転がった。
苦しげに咳をしながら、有希 が手をついて身体を起こす。
今の蹴りが「打つ」というより「押す」ものであったことに、彼女は気付いていた。
あのまま落ちていれば頭を酷く打っていた。それが、二段目の蹴りで腰から落ちるように調節された。
「どういう……つもり、だ……」
有希 が受けたダメージは、まともに声を出すのも難しい程に大きい。
だが彼女は咳 き込 みながら、その問いを絞り出した。
「もう立てまい」
答えは、感情のわずかな揺らぎすら感じられない声で返ってきた。
有希 が奥歯を噛 み締 める。
確かに、頭から落下することは免れた。しかしその代わりに、腰を強打している。異能で強化された身体でも、しばらく立てる状態ではなかった。
「はし ば み ゆ き 、か……」
達也 が有希 の名前を呼ぶ。
意味が分からず、有希 は目を瞬 かせた。
「二度と、俺の前に姿を見せるな」
いきなり襲い掛かってきた重圧に、瞬 きが止まる。
瞬 きだけではない。顔中、身体中の筋肉が停止した。心臓の筋肉までもが、一瞬、確かに止まっていた。
「次は、消 す 」
殺す、ではなく、消す。
それが文字通りの意味だと、有希 は理屈抜きに理解した。
達也 がランニングを再開する。
有希 はその後ろ姿を見送りながら、今更のように達也 が一歩も動いていなかったことに気付いた。
やがて、達也 の姿が有希 の視界から消える。この場に残っているのは、彼女が投げ捨てた拳銃と叩き落とされたナイフ、そして、まだ立ち上がることができない有希 自身だけだ。
「……化け物め……」
震える声で呟 き、有希 は腕の力を抜いた。
彼女の頭が、道路に落ちる。
濡れた路面のひんやりした感触が、頬に心地好 かった。◇ ◇ ◇
「間に合いましたか……」
達也 が走り去った、およそ五分後。
路面に倒れた有希 を見て、文弥 がホッと胸を撫 で下 ろした。
「ヤミか……」
有希 がうつ伏せの状態から仰向けに身体を回して、文弥 に目を向けた。
「いえ、間に合ったという状態ではありませんね」
文弥 が自分の発言を、苦笑しながら訂正する。
「まあな」
有希 も寝転んだまま、苦笑で応じた。
「ナッツ、怪我 をしているんですか!?」
女装した文弥 の後ろから、両腕を左右から掴 まれて拘束された鰐塚 が声を上げる。
「クロコ……何だ、お前も捕まっちまったのか」
「そんなことより、怪我 は!?」
「そんなに心配そうな顔をすんな。打ち身だけだよ。上手 いこと加減してくれた御蔭 でな……」
有希 の顔に、不思議と口惜 しそうな表情は無かった。代わりに、諦めのようなものが浮かんでいた。
「……どうやらあたしらは、触れちゃいけないものに手を出しちまったようだな」
「それを理解して貰えるとは思いませんでした」
有希 の嘆息に応えたのは文弥 だった。
「ですが、もう手遅れです」
そう言って文弥 が振り返る。
彼の合図を受けて、黒服が二人、有希 の許 へ歩み寄った。
彼女を両脇から抱えて立ち上がらせる。
二人の黒服にぶら下がるような格好で、有希 は弱々しく、だが不敵に笑った。
「助かるよ。まだ自分じゃ立ち上がれなかったんだ」
彼女は特に皮肉な口調でもなく、文弥 に向かってそう言った。
「歩けますか?」
「このまま連れて行ってくれよ」
文弥 の問い掛けにも、有希 は人を食った答えを返す。
「では、そうしましょう」
文弥 がそれで感情を荒立てることはなかった。
黒服が有希 をボックスワゴンに引っ立てる。鰐塚 の物ではない。別のワゴン車だ。
有希 は、抵抗しなかった。◇ ◇ ◇
気付いた時には、
有希 は窓のない部屋で椅子に縛られていた。
車の中で眠ってしまったのか、と有希 は思った。それ程疲れていたのか。あるいは――眠らせられたのか。
彼女が目を開けてからおよそ一分後、一つだけある扉が開いて二人の男女が入ってきた。
一人はブラックスーツを着た三十前の男性。
もう一人はボブカットの少女、「ヤミ」だ。
「榛 有希 。気分はどうです?」
「悪くない」
文弥 の問い掛けに、有希 は嫌みを言うでもなく、悪態を吐くでもなく答えた。彼女の態度に、反抗的なところは見られなかった。
「世間話をする間柄でもありませんから、さっさと話を進めます」
「そうしてくれ。その方があたしもありがたい。ついでにこの縄を解いてくれれば、もっとありがたいんだが」
「話が終われば解きますよ。貴女 も抵抗する気が無くなっているでしょうから」
思わせぶりなセリフだったが、有希 は性急に答えを求めることはしなかった。
ヤミは――文弥 は話をすると言っているのだ。彼女が訊 かなくても、答えはすぐに得られる。
「まず、亜貿社 は私たちの傘下 に入りました」
「……社長が降伏したのか」
「ええ。私たちの素性を明かせば、すぐに従ってくれましたよ」
「……オマエら、何者だ……?」
有希 の脳裏で、警鐘が鳴り響いている。それを訊 いてはいけないと、彼女の直感が騒ぎ立てている。
だが今更無駄なことだ。彼女が訊 かなくても、文弥 の方から話すに違いないのだから。
「私たちは黒羽家 。十師族・四葉家 の分家です」
「四葉 、だと……」
有希 の声は、かすれていた。その名を、有希 は知っていた。
表向きは日本を代表する魔法師一族、十師族の一角。
有希 たち裏社会の人間にとっては「アンタッチャブル」。触れてはならない禁域。触れれば破滅の災いが返ってくる悪魔。その正体も、持っている力も分からぬまま、迷信的なまでに恐れられている存在だ。
「知っているようで、何よりです。さて、亜貿社 は黒羽家 の傘下 に収まりました。榛 有希 、私たちは貴女 にも臣従を要求します」
「……あたしに選択肢は無いんだろ」
「そんなことはありませんよ」
文弥 は、可憐な少女の顔でにっこり笑った。
「貴女 には私たちに従わないという選択肢があります。ただし、そちらを選んだ場合には記憶を失っていただきますが」
有希 は文弥 の顔をまじまじと見詰めた。
文弥 は笑みを浮かべている。だがその笑顔は、冗談を言っているものではなかった。
「そんなことができるのか……?」
「できます。もちろん、気が狂ったりはしませんよ。ただ、全て忘れてしまうだけです」
「全て、だと?」
「はい。生まれてからこれまでの記憶、全てです。残念ながら、記憶の一部だけを消してしまえる術者が今の四葉家 にはいませんので」
「…………」
「言葉とか食器の使い方とか住宅機器の使用方法とか、日常生活に必要な知識は残りますのでご心配なく。消えるのは記憶だけです」
「自分の名前もか」
「残念ながら」
「親の名前もか!? 子供の頃の思い出とかも、全部か!?」
「残念ながら」
有希 は文弥 を睨 み付けていた目を伏せた。
「……それは、選択肢があるとは言わねえよ」
「そうですか? よくある話なのですけど」
笑みを崩さずそういう文弥 に、有希 は寒気を覚えた。
同時に、「こいつらには敵 わない」と強く思った。
司波 達也 だけでない。この「ヤミ」も化け物だ。
あの夜。殺しの現場を見られた時から、自分は化け物の一味に魅入られていたのだ……。
「……分かった。お前に従う」
「ありがとうございます。決断が早くて助かります」
「ただし」
「何でしょう?」
この状況で条件を付けようとする有希 に、文弥 は興味深そうな目を向けた。
「あたしが従うのはお前だ、ヤミ。四葉 でも黒羽 でもない。あたしは、お前に従う」
「何故 そういう結論に至ったのか理解できませんが……」
当惑した声で文弥 が呟 く。
実を言えば、有希 自身にも自分が何故 こんな条件を付けたのか分かっていなかった。
敢えて言うならば――何もかも言いなりになるのが嫌だった、というところか。
「少し待ってください」
文弥 はそう言って部屋の隅で情報端末を取りだし、音声通信で誰かと話し始めた。所々漏れ聞こえてくる単語から推測するに、彼 女 は父親と話しているようだと有希 は思った。
通話を終えて、文弥 が有希 の目の前に戻ってくる。
「承認が取れました。有希 、貴女 は黒羽家 所属の戦闘要員になりますが、貴女 に命令するのは私だけです」
「それで良い」
いきなり呼び捨てにされたことを、有希 は気にしなかった。年下の少 女 でも、これからは彼女が自分のボスだ。呼び捨てだろうとあだ名呼びだろうと、どうでも良かった。
有希 はふと、確認しなければならないことがあるのに気付いた。
「ところでクロコはどうなるんだ?」
「クロコ? ああ、鰐塚 さんですね。彼は貴女 の判断に従うと言っていましたよ」
「じゃあ……」
「ええ。貴女 と鰐塚 さんは、今後もパートナーです」
文弥 はそう言い残して、一言も喋 らなかった青年と共に部屋を出て行った。
入れ替わりに四人の黒服が入ってくる。
有希 は彼らに、縄を解いてもらった。◇ ◇ ◇
有希 が文弥 の部下になる誓いを立てた後、彼女は自宅のアパートに帰された。
目隠しをされることもなく、あっさりと。
アパートの部屋は引き続き亜貿社 の社宅という扱いになっている。組織がまるごと黒羽家 に呑 み込 まれた為 、有希 の生活は表面的に見る限り、何も変わっていない。
変わっていないと言えば、組織――亜貿社 の業務も変わらなかった。黒羽家 に拉致された両角 社長は一晩で解放され、翌日から今までどおりの営 業 活 動 に勤 しんでいる。
亜貿社 は政治的暗殺結社だ。政治には積極的に関わらない方針の四葉家 とは、スタンスが正反対と言って良い程に違う。
第四研を乗っ取って自分たちを解放して以来、四葉家 は権力者同士の潰し合いから距離を置いてきた。
四葉家 にも、特に親しくしている政治家や軍人はいる。政府や黒幕と呼ばれている人々の依頼を請け負うこともあるし、非公式ではあるが、継続的に政府から委託を受けている仕事も持っている。それが非合法活動であっても、四葉家 は厭わない。
ただ、非合法な権力闘争にはどれだけ金を積まれても、四葉家 は手を貸さない。自分たちは権力者などという凡 人 は相手にしない――四葉家 にはそういう傲慢で、ある意味潔癖症な面がある。
だが諜報 ・工作活動を担 う分家である黒羽家 は、仕事柄裏社会に近い所為 か、この面では本家よりも大らかだ。現実的、と言い換えても良いかもしれない。
亜貿社 はもう十数年も政治家同士の暗闘に関与し続けており、今では権力の非合法分野において無視できないプレイヤーに成長している。亜貿社 が急に退場してしまえば、その空席を巡って裏社会に混乱が生じてしまう可能性が高い。それは避けるべきだ、と判断する程度には、黒羽家 は四葉家 よりも浮世の濁り湯に身を浸していた。
黒羽家 は「取り敢えず放置」という格好で、亜貿社 が今までどおり暗殺業務を営むことを認めた。無論、組織の犯罪を官憲に通報したりは、しない。司波 達也 が目撃したあの夜の殺人事件について、達也 本人を含めた四葉家 関係者が警察に話す心配は、多分、最初からしなくて良かったのだろう。
あのドタバタは何だったのかと、有希 は本気で悩んだ。有希 が達也 と文弥 に膝を屈した翌週の、土曜日の夕方。彼女は鰐塚 を経由して、黒羽家 から呼び出しを受けた。
「……で、この黒羽 文弥 ってのは?」
鰐塚 が運転するワゴン車の助手席で、有希 はスティック羊羹 を囓 る合間に自分を呼び出した人物についての情報を求めた。
「黒羽家 の御総領です」
「総領? ああ、跡取りのことか」
「はい。現在中学二年生で、豊橋に住んでいるとか。有希 に会う為 に上京したそうですよ」
「愛知からわざわざか? ご苦労なこった」
有希 は、今にも逃げ出しそうな口振りだ。
相手は仮にも、雇い主の後継者。鰐塚 は釘 を刺す必要性を覚えた。
「有希 。相手はボスの御子息ですよ。態度には気をつけてくださいね」
「あたしのボスはヤミだろ。そういう約束だったはずだ」
「それは命令系統の話です。今我々を雇っているのは、黒羽家 ですよ」
有希 の生活は、表面的には変わっていない。しかし、収入源は変わった。彼女の家賃は亜貿社 持ちだが、他の生活費は黒羽家 の財布から出ている。
「分かった分かった」
本当に理解しているのか疑わしい口調で、有希 は窓の外へ顔を向けて個別包装された細長い羊羹 の咀嚼 を再開した。有希 が呼び出された先は、先日の「窓が無い部屋」のあるビルだ。あの建物は高級賃貸マンションで、有希 が連れ込まれた部屋は実を言えば、某国大使が公邸として借りている物の一室だった。
小国とは言え大使公邸を我が物顔で使う黒羽家 、そしてその本家である四葉家 の実力には、改めて不気味さを禁じ得ない。魔法師と外国勢力との接触は厳しく制限されているはずなのに、四葉家 は外国大使と対等以上の関係を結んでいるのだ。
もしかしたらその本国政府も、四葉家 の実質支配下にあるのかもしれない。そんなあ り 得 な い 妄想すら、有希 の脳裏を過 った。
通されたのは今回も、窓の無い部屋だった。ただしあの時には無かった、高級な応接セットが調っている。あの時は運び出されていたのか、あの後に買ったのか。
有希 は特に詮索もせず、クッションの効いたソファに腰を沈めた。
部屋がノックされる。
有希 とは対照的に浅く腰掛けていた鰐塚 が、慌てて立ち上がりドアに向かった。
彼が開けた扉から、先日の黒服青年とブレザーを着た少年が入ってくる。
この少年が「黒羽 文弥 」だろう。有希 はそう推測した。
「有希 」
立ってください、という懇願を込めて、鰐塚 が有希 の名を呼ぶ。
しかし、有希 は知らん顔だ。
焦 る鰐塚 を、「構わないよ」と少年が宥めた。
「彼女がが さ つ なのは知っているから」
「ご挨拶だな」
有希 が、正面に座った少年を睨 み付ける。
「今更気にする間柄でも無いだろう? 一度は殺し合いまでした仲じゃないか」
「殺し合い……?」
文弥 を睨 む有希 の視線が、訝しげなものに変わる。
彼女の記憶に、この少 年 の顔は無い。
そもそも彼女は、子供相手の殺しを請け負ったことが無いのだ。
この年頃の相手と殺し合いをしたのは、司波 達也 を除けば、先週の、あの少 女 とが初めてで……。
「――お前っ! まさか、ヤミ!」
文弥 がひっそりと笑った。その笑みが、命の遣り取りをしたボブカットの少女のものと一致する。
「黒羽 文弥 だ。『ヤミ』はあの変 装 をしている際のコードネームだから、それ以外の時は呼ばないように」
有希 は口を開け閉めするだけで、言葉を失っている。
(あいつが男!? あの外見で!? あたしより可愛 かったぞ!?)
信じられないのか、信じたくないのか。
有希 は葛藤の末、
「なあ、訊 いて良いか?」
一つの質問を絞り出した。
「何だい?」
「……お前、ヤミが男装しているんじゃないよな?」
文弥 の顔色が変わる。
閉め切った室内に、声変わりしているのかしていないのか定かでない高いトーンの、少年の喚 き声が轟 いた。
有希 はこうして、文弥 に一矢報いることに成功した。(司波達也暗殺計画① 完)