• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [11]屈服

     四月半ばの金曜日。
     この日は夜明け前から雨が降っていた。それ程強い雨ではないが、傘が要らないというレベルでもない。
     その小雨こさめの中を、泥だらけのトレーナーを着た司波しば達也たつやが走っている。舗装された道で転んでもこうはならない。また泥と言っても粘土質の物ではなく、れた砂が繊維の隙間に食い込んでいる感じだ。
     彼は毎朝の鍛錬を終えて帰宅する途中だった。全身を雨にさらしながら、猛スピードで走っている。その速度は自走車の通常走行に匹敵するものだ。足の回転が速いのも無論だが、それよりも異様に長いストライドが自走車並みのスピードをたたきだしている。その一歩は、八メートルにも及んでいた。
     早朝で人影はほとんど無い。いや、現在のところ達也たつや以外は皆無だ。時間が早いというのもあるが、それよりこの天気でジョギングする物数寄ものずきも雨をでながら散歩する粋人すいじんもいないということに違いなかった。
     家路の三分の二を消化したところで、達也たつやは久々に自分以外の人間に出会った。修行の場、九重寺きゅうちょうじを出て以来初めてだ。
     その人影は小柄な少女だった。中学三年生の彼の妹よりも背が低い。大体、百五十センチ前後と思われた。ハイネックのボタン無し長袖シャツに前開きベスト、ミニスカートにレギンス、ハイカットのスニーカー。身体付からだつきはほっそりしているが、見た目を裏切る強靱きょうじんさを備えていると達也たつやは一目で見抜いた。
     何より、長い髪をアップにしてヘアバンドを鉢巻きのように巻いたその顔に、達也たつやは見覚えがあった。
     先週水曜の夜、渋谷で見掛けた少女暗殺者アサシンだ。
     達也たつやが足を止める。距離は五メートル。話をするには少し遠いが、達也たつやなら一度の踏み込みで間合いに捉える距離だ。――それはおそらく、少女も同じ。
    司波しば達也たつや
     殺し屋の少女が、口を開く。
    「あたしの名前は、はしばみ有希ゆき
     達也たつやの名を呼び、自分の名を告げる。
    「はしばみゆき?」
     達也たつやは彼女の名前を、口の中でいぶかしげに繰り返した。イントネーションを変えて、一続きに。
    「そうだ」
     有希ゆきはそれを、相手が自分の存在を意識したあかしと捉えた。
    「けりを付けに来た!」
     高揚した声で宣言すると共に、有希ゆきは左手で腰の後ろに隠していたナイフを抜いた。
    「今日は逃がさない。お前のやさは割れてるからな!」
     達也たつやの両目が、わずかに細められる。彼の身体から、冷たい闘気がみ出し始めた。

     少年の雰囲気が、急に変わった。その身震いするような闘気に、有希ゆきは思わずたじろいでしまう。
     彼女はそんな自分を叱咤しったした。ここで尻込みするのは余りにもみっともない。
    (あたしは道化を演じに来たんじゃない。そうだろう!?)
     この少年、司波しば達也たつやがただ者ではないことくらい、最初から分かっている。多少すごみを見せられたくらいで、尻尾を巻いたりはしない。
     有希ゆきは自分にそう言い聞かせて、無理矢理、闘志を奮い立たせた。
     彼女は意識の水底に沈む異能の扉に手を掛け、力尽くで引き開けた。
     有希ゆきの四肢に、全身に、力が満ちる。
     彼女は自分の「力」を信じて、達也たつやに正面から挑み掛かった。
     鰐塚わにづかはこのやり方に反対した。せめて不意を打つべきだと有希ゆきを止めた。
     しかし彼女には確信があった。
     ――司波しば達也たつやには、不意打ちなど通用しない。
    根拠は無い。だが、分かる。正面から勝負を挑むのが、最善の策だ、と彼女の直感が告げていた。
     有希ゆきが突進する。
     強化した彼女の脚力は、五メートルの距離を一歩で詰めた。
     ナイフを突き出す。単純に、スピード頼みの一撃。
     有希ゆきの左手に鋭い痛みが走る。
     ナイフを落とした、という認識の後に、手首を手刀で打たれたと気付いた。
     身体強化フィジカルブーストによる、プロボクサーも遠く及ばない速度の刺突だったにもかかわらず、達也たつやは正確に「小手」を決めていた。
     まるで、鋼の刃が食い込んだような痛み。
     有希ゆきがそれに耐えられたのは、この結果を予測していたからだった。
     強がりではない。その証拠に、彼女は何時の間にか右手に構えていたポケットピストルの銃口を達也たつやの脇腹に押しつけていた。
     有希ゆきが引き金を引く。
    「なにっ!?」
     有希ゆきが本気の驚愕きょうがくを漏らす。
     銃弾は民家の壁に当たって跳ね返った。
     達也たつやには、かすり傷一つ残さずに。
     彼の左手が有希ゆきの右手を払って、ポケットピストルの銃口をらしていた。

     司波しば達也たつやに、不意打ちは通用しない。

     彼女自身が思ったことだ。だがこんな形で証明されるのは、まるで予期していなかった。
     思わずすくんでしまった有希ゆきの身体が、空に突き上げられる。
     達也たつや有希ゆきの腹へ、容赦の無い膝蹴りを打ち込んだのだ。
     有希ゆきが濡れた路面に、背中から落ちる。
     激しい衝撃に息が止まる。無の中へ逃げ出そうとする意識を必死につなぎ止め、有希ゆきは痛みを無視して身体を起こした。
     司波しば達也たつやは、彼女を蹴り飛ばした場所に立っていた。
     有希ゆきは遮二無二右手を挙げて、二発目の引き金を引いた。
     達也たつやの左手が何時いつ射線に割り込んだのか、有希ゆきには見えなかった。
     銃声と同時に、その左手が閉じられる。
     握り締めたのは、一瞬。緩められた指の隙間から、何かの粉がこぼれ落ちた。
    「嘘……だろ」
     有希ゆきが立ち上がることも忘れて呆然とつぶやく。
     自分は夢を見ているのか、と有希ゆきは疑った。
     これが夢なら、とびきりの悪夢だ。
     銃弾は確かに発射された。有希ゆきの右手に、その反動が残っている。
     司波しば達也たつやは依然として立ち位置を変えていない。身体を振ったり反らしたりしたわけでもない。ただ、左手を射線上にかざしただけ。
    「弾を……、つかんだ……?」
     有希ゆきは不意に、笑いの発作に襲われた。
     まるで漫画だ。いや、今時こんなネタは漫画でもやらない。まるで前世紀のアメコミだ。
     彼女は理不尽の直中ただなかにいた。
     魔法が現実の技術だということは、有希ゆきも知っている。一般市民より詳しいだろう。仕事柄、魔法師を相手にしたこともある。魔法を間近に見たこともある。
     だが、こんなに理不尽な思いをしたことは無かった。
     こんなものは魔法ではない。魔法ではないと有希ゆきは思った。
     漫画でなければ、御伽噺おとぎばなしだ。
     現実に存在する魔法は、人間が使う技術だ。彼女は魔法師も人間に過ぎないと理解していた。
     人間の持つ肉体的な限界。それがあるからこそ、彼女は敵対した魔法師を出し抜くこともできたのだ。
     だが、いくら低速弾とはいえ銃弾をつかむことなど人間にはできない。身体強化フィジカルブーストを全開にした有希ゆきでも不可能だ。
    「銃口から射線を読めば、それ程難しくない」
     有希ゆきの疑問に、達也たつやが答える。
     思考を読まれたというショックよりも、その内容に対する反論――反感が有希ゆきの中で上回った。
    寝惚ねぼけてんのか! 銃弾は銃口からぐに放たれるわけじゃねえぞ。どんな銃にも独自の癖がある。それに銃弾は重力に引かれて落ち、自転の気流で曲がるんだ。銃口の向きからは、大雑把な軌道しか分かりゃしねえ!」
    「この距離なら、多少のブレは無視できる」
    「テメエは手袋もしてないじゃねえか! 素手で銃弾を止めるとかおかしいだろ!」
     有希ゆきの抗議に、達也たつやは冷笑で応えた。
     その笑みに心臓を鷲掴わしづかみにされるような怖気おぞけを覚えて、有希ゆきは慌てて立ち上がる。
     立ち上がってしまえば、尻餅をついた体勢で悠長に会話をしていた自分が信じられなかった。
     有希ゆきはポケットピストルを投げ捨てた。予備の弾丸はある。だが役に立つとは思えなかった。
     有希ゆきは太ももに巻いたベルトから、ナイフを抜いた。ミニスカートをわざと大きくめくり上げてみたが、達也たつやに隙は生じない。そんなそく真似まねをした自分が間抜けに思える落ち着き振りだ。
     もっとも、有希ゆきの方も既に羞恥心を覚える精神状態ではなくなっている。
     有希ゆきは無言で達也たつやに襲い掛かった。
     達也たつやに接触する寸前で直角にステップし、さらに片足で跳んで空中からナイフを投げつける。
     横向きになって塀に着地。同時に新たなナイフを取り出し跳躍。
     達也たつやの頭上を飛び越えながら、時間差で二本のナイフを投擲する。
     有希ゆきが投げたナイフを、達也たつやは全て、軽々とかわした。
     着地すると同時に、直前の軌道を逆戻りする。慣性中和によるものではない。強化した筋力で強引に身体を止め、跳んだのだ。
     有希ゆきは空中で身体をひねって、右回し蹴りを繰り出した。
     普通の蹴りには、遠すぎる間合い。
     彼女が履いているスニーカーの爪先からは、鋭い切っ先がのぞいていた。
     達也たつや有希ゆきの右足首を、左手でつかみ取った。
     有希ゆきの身体が急停止する。しかし、彼女はその反動を感じなかった。
     慣性制御によるものと、有希ゆきが理解したかどうか。
     達也たつやが右足を跳ね上げる。
     彼は自分の頭よりも高い位置にある有希ゆきの胴体を蹴り上げた。
     有希ゆきの身体が、「く」の字に折れる。
     衝撃で、意識が飛びそうになる。
     彼女は空中で体勢を整える余裕も無く、路面に落下した。
     しかしそのまま落ちることはなかった。
     墜落の途中で、彼女は再び達也たつやの蹴りを受けた。
     軌道が、下向きから横に変わる。彼女は弧を描いて路面に叩き付けられ、転がった。
     苦しげに咳をしながら、有希ゆきが手をついて身体を起こす。
     今の蹴りが「打つ」というより「押す」ものであったことに、彼女は気付いていた。
     あのまま落ちていれば頭を酷く打っていた。それが、二段目の蹴りで腰から落ちるように調節された。
    「どういう……つもり、だ……」
     有希ゆきが受けたダメージは、まともに声を出すのも難しい程に大きい。
     だが彼女はみながら、その問いを絞り出した。
    「もう立てまい」
     答えは、感情のわずかな揺らぎすら感じられない声で返ってきた。
     有希ゆきが奥歯をめる。
     確かに、頭から落下することは免れた。しかしその代わりに、腰を強打している。異能で強化された身体でも、しばらく立てる状態ではなかった。
    「は、か……」
     達也たつや有希ゆきの名前を呼ぶ。
     意味が分からず、有希ゆきは目をしばたたかせた。
    「二度と、俺の前に姿を見せるな」
     いきなり襲い掛かってきた重圧に、まばたきが止まる。
     まばたきだけではない。顔中、身体中の筋肉が停止した。心臓の筋肉までもが、一瞬、確かに止まっていた。
    「次は、
     殺す、ではなく、消す。
     それが文字通りの意味だと、有希ゆきは理屈抜きに理解した。
     達也たつやがランニングを再開する。
     有希ゆきはその後ろ姿を見送りながら、今更のように達也たつやが一歩も動いていなかったことに気付いた。
     やがて、達也たつやの姿が有希ゆきの視界から消える。この場に残っているのは、彼女が投げ捨てた拳銃と叩き落とされたナイフ、そして、まだ立ち上がることができない有希ゆき自身だけだ。
    「……化け物め……」
     震える声でつぶやき、有希ゆきは腕の力を抜いた。
     彼女の頭が、道路に落ちる。
     濡れた路面のひんやりした感触が、頬に心地好ここちよかった。

    ◇ ◇ ◇

    「間に合いましたか……」
     達也たつやが走り去った、およそ五分後。
     路面に倒れた有希ゆきを見て、文弥ふみやがホッと胸をろした。
    「ヤミか……」
     有希ゆきがうつ伏せの状態から仰向けに身体を回して、文弥ふみやに目を向けた。
    「いえ、間に合ったという状態ではありませんね」
     文弥ふみやが自分の発言を、苦笑しながら訂正する。
    「まあな」
     有希ゆきも寝転んだまま、苦笑で応じた。
    「ナッツ、怪我けがをしているんですか!?」
     女装した文弥ふみやの後ろから、両腕を左右からつかまれて拘束された鰐塚わにづかが声を上げる。
    「クロコ……何だ、お前も捕まっちまったのか」
    「そんなことより、怪我けがは!?」
    「そんなに心配そうな顔をすんな。打ち身だけだよ。上手うまいこと加減してくれた御蔭おかげでな……」
     有希ゆきの顔に、不思議と口惜くやしそうな表情は無かった。代わりに、諦めのようなものが浮かんでいた。
    「……どうやらあたしらは、触れちゃいけないものに手を出しちまったようだな」
    「それを理解して貰えるとは思いませんでした」
     有希ゆきの嘆息に応えたのは文弥ふみやだった。
    「ですが、もう手遅れです」
     そう言って文弥ふみやが振り返る。
     彼の合図を受けて、黒服が二人、有希ゆきもとへ歩み寄った。
     彼女を両脇から抱えて立ち上がらせる。
     二人の黒服にぶら下がるような格好で、有希ゆきは弱々しく、だが不敵に笑った。
    「助かるよ。まだ自分じゃ立ち上がれなかったんだ」
     彼女は特に皮肉な口調でもなく、文弥ふみやに向かってそう言った。
    「歩けますか?」
    「このまま連れて行ってくれよ」
     文弥ふみやの問い掛けにも、有希ゆきは人を食った答えを返す。
    「では、そうしましょう」
     文弥ふみやがそれで感情を荒立てることはなかった。
     黒服が有希ゆきをボックスワゴンに引っ立てる。鰐塚わにづかの物ではない。別のワゴン車だ。
     有希ゆきは、抵抗しなかった。

    ◇ ◇ ◇

     気付いた時には、有希ゆきは窓のない部屋で椅子に縛られていた。
     車の中で眠ってしまったのか、と有希ゆきは思った。それ程疲れていたのか。あるいは――眠らせられたのか。
     彼女が目を開けてからおよそ一分後、一つだけある扉が開いて二人の男女が入ってきた。
     一人はブラックスーツを着た三十前の男性。
     もう一人はボブカットの少女、「ヤミ」だ。
    はしばみ有希ゆき。気分はどうです?」
    「悪くない」
     文弥ふみやの問い掛けに、有希ゆきは嫌みを言うでもなく、悪態を吐くでもなく答えた。彼女の態度に、反抗的なところは見られなかった。
    「世間話をする間柄でもありませんから、さっさと話を進めます」
    「そうしてくれ。その方があたしもありがたい。ついでにこの縄を解いてくれれば、もっとありがたいんだが」
    「話が終われば解きますよ。貴女あなたも抵抗する気が無くなっているでしょうから」
     思わせぶりなセリフだったが、有希ゆきは性急に答えを求めることはしなかった。
     ヤミは――文弥ふみやは話をすると言っているのだ。彼女がかなくても、答えはすぐに得られる。
    「まず、亜貿社あぼうしゃは私たちの傘下さんかに入りました」
    「……社長が降伏したのか」
    「ええ。私たちの素性を明かせば、すぐに従ってくれましたよ」
    「……オマエら、何者だ……?」
     有希ゆきの脳裏で、警鐘が鳴り響いている。それをいてはいけないと、彼女の直感が騒ぎ立てている。
     だが今更無駄なことだ。彼女がかなくても、文弥ふみやの方から話すに違いないのだから。
    「私たちは黒羽家くろばけ。十師族・四葉家よつばけの分家です」
    四葉よつば、だと……」
     有希ゆきの声は、かすれていた。その名を、有希ゆきは知っていた。
     表向きは日本を代表する魔法師一族、十師族の一角。
     有希ゆきたち裏社会の人間にとっては「アンタッチャブル」。触れてはならない禁域。触れれば破滅の災いが返ってくる悪魔。その正体も、持っている力も分からぬまま、迷信的なまでに恐れられている存在だ。
    「知っているようで、何よりです。さて、亜貿社あぼうしゃ黒羽家くろばけ傘下さんかに収まりました。はしばみ有希ゆき、私たちは貴女あなたにも臣従を要求します」
    「……あたしに選択肢は無いんだろ」
    「そんなことはありませんよ」
     文弥ふみやは、可憐な少女の顔でにっこり笑った。
    貴女あなたには私たちに従わないという選択肢があります。ただし、そちらを選んだ場合には記憶を失っていただきますが」
     有希ゆき文弥ふみやの顔をまじまじと見詰めた。
     文弥ふみやは笑みを浮かべている。だがその笑顔は、冗談を言っているものではなかった。
    「そんなことができるのか……?」
    「できます。もちろん、気が狂ったりはしませんよ。ただ、全て忘れてしまうだけです」
    「全て、だと?」
    「はい。生まれてからこれまでの記憶、全てです。残念ながら、記憶の一部だけを消してしまえる術者が今の四葉家よつばけにはいませんので」
    「…………」
    「言葉とか食器の使い方とか住宅機器の使用方法とか、日常生活に必要な知識は残りますのでご心配なく。消えるのは記憶だけです」
    「自分の名前もか」
    「残念ながら」
    「親の名前もか!? 子供の頃の思い出とかも、全部か!?」
    「残念ながら」
     有希ゆき文弥ふみやにらみ付けていた目を伏せた。
    「……それは、選択肢があるとは言わねえよ」
    「そうですか? よくある話なのですけど」
     笑みを崩さずそういう文弥ふみやに、有希ゆきは寒気を覚えた。
     同時に、「こいつらにはかなわわない」と強く思った。
     司波しば達也たつやだけでない。この「ヤミ」も化け物だ。
     あの夜。殺しの現場を見られた時から、自分は化け物の一味に魅入られていたのだ……。
    「……分かった。お前に従う」
    「ありがとうございます。決断が早くて助かります」
    「ただし」
    「何でしょう?」
     この状況で条件を付けようとする有希ゆきに、文弥ふみやは興味深そうな目を向けた。
    「あたしが従うのはお前だ、ヤミ。四葉よつばでも黒羽くろばでもない。あたしは、お前に従う」
    何故なぜそういう結論に至ったのか理解できませんが……」
     当惑した声で文弥ふみやつぶやく。
     実を言えば、有希ゆき自身にも自分が何故なぜこんな条件を付けたのか分かっていなかった。
     敢えて言うならば――何もかも言いなりになるのが嫌だった、というところか。
    「少し待ってください」
     文弥ふみやはそう言って部屋の隅で情報端末を取りだし、音声通信で誰かと話し始めた。所々漏れ聞こえてくる単語から推測するに、は父親と話しているようだと有希ゆきは思った。
     通話を終えて、文弥ふみや有希ゆきの目の前に戻ってくる。
    「承認が取れました。有希ゆき貴女あなた黒羽家くろばけ所属の戦闘要員になりますが、貴女あなたに命令するのは私だけです」
    「それで良い」
     いきなり呼び捨てにされたことを、有希ゆきは気にしなかった。年下のでも、これからは彼女が自分のボスだ。呼び捨てだろうとあだ名呼びだろうと、どうでも良かった。
     有希ゆきはふと、確認しなければならないことがあるのに気付いた。
    「ところでクロコはどうなるんだ?」
    「クロコ? ああ、鰐塚わにづかさんですね。彼は貴女あなたの判断に従うと言っていましたよ」
    「じゃあ……」
    「ええ。貴女あなた鰐塚わにづかさんは、今後もパートナーです」
     文弥ふみやはそう言い残して、一言もしゃべらなかった青年と共に部屋を出て行った。
     入れ替わりに四人の黒服が入ってくる。
     有希ゆきは彼らに、縄を解いてもらった。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆき文弥ふみやの部下になる誓いを立てた後、彼女は自宅のアパートに帰された。
     目隠しをされることもなく、あっさりと。
     アパートの部屋は引き続き亜貿社あぼうしゃの社宅という扱いになっている。組織がまるごと黒羽家くろばけまれたため有希ゆきの生活は表面的に見る限り、何も変わっていない。
     変わっていないと言えば、組織――亜貿社あぼうしゃの業務も変わらなかった。黒羽家くろばけに拉致された両角もろずみ社長は一晩で解放され、翌日から今までどおりのいそしんでいる。
     亜貿社あぼうしゃは政治的暗殺結社だ。政治には積極的に関わらない方針の四葉家よつばけとは、スタンスが正反対と言って良い程に違う。
     第四研を乗っ取って自分たちを解放して以来、四葉家よつばけは権力者同士の潰し合いから距離を置いてきた。
     四葉家よつばけにも、特に親しくしている政治家や軍人はいる。政府や黒幕と呼ばれている人々の依頼を請け負うこともあるし、非公式ではあるが、継続的に政府から委託を受けている仕事も持っている。それが非合法活動であっても、四葉家よつばけは厭わない。
     ただ、非合法な権力闘争にはどれだけ金を積まれても、四葉家よつばけは手を貸さない。自分たちは権力者などというは相手にしない――四葉家よつばけにはそういう傲慢で、ある意味潔癖症な面がある。
     だが諜報ちょうほう・工作活動をになう分家である黒羽家くろばけは、仕事柄裏社会に近い所為せいか、この面では本家よりも大らかだ。現実的、と言い換えても良いかもしれない。
     亜貿社あぼうしゃはもう十数年も政治家同士の暗闘に関与し続けており、今では権力の非合法分野において無視できないプレイヤーに成長している。亜貿社あぼうしゃが急に退場してしまえば、その空席を巡って裏社会に混乱が生じてしまう可能性が高い。それは避けるべきだ、と判断する程度には、黒羽家くろばけ四葉家よつばけよりも浮世の濁り湯に身を浸していた。
     黒羽家くろばけは「取り敢えず放置」という格好で、亜貿社あぼうしゃが今までどおり暗殺業務を営むことを認めた。無論、組織の犯罪を官憲に通報したりは、しない。司波しば達也たつやが目撃したあの夜の殺人事件について、達也たつや本人を含めた四葉家よつばけ関係者が警察に話す心配は、多分、最初からしなくて良かったのだろう。
     あのドタバタは何だったのかと、有希ゆきは本気で悩んだ。

     有希ゆき達也たつや文弥ふみやに膝を屈した翌週の、土曜日の夕方。彼女は鰐塚わにづかを経由して、黒羽家くろばけから呼び出しを受けた。
    「……で、この黒羽くろば文弥ふみやってのは?」
     鰐塚わにづかが運転するワゴン車の助手席で、有希ゆきはスティック羊羹ようかんかじる合間に自分を呼び出した人物についての情報を求めた。
    黒羽家くろばけの御総領です」
    「総領? ああ、跡取りのことか」
    「はい。現在中学二年生で、豊橋に住んでいるとか。有希ゆきに会うために上京したそうですよ」
    「愛知からわざわざか? ご苦労なこった」
     有希ゆきは、今にも逃げ出しそうな口振りだ。
     相手は仮にも、雇い主の後継者。鰐塚わにづかくぎを刺す必要性を覚えた。
    有希ゆき。相手はボスの御子息ですよ。態度には気をつけてくださいね」
    「あたしのボスはヤミだろ。そういう約束だったはずだ」
    「それは命令系統の話です。今我々を雇っているのは、黒羽家くろばけですよ」
     有希ゆきの生活は、表面的には変わっていない。しかし、収入源は変わった。彼女の家賃は亜貿社あぼうしゃ持ちだが、他の生活費は黒羽家くろばけの財布から出ている。
    「分かった分かった」
     本当に理解しているのか疑わしい口調で、有希ゆきは窓の外へ顔を向けて個別包装された細長い羊羹ようかん咀嚼そしゃくを再開した。

     有希ゆきが呼び出された先は、先日の「窓が無い部屋」のあるビルだ。あの建物は高級賃貸マンションで、有希ゆきが連れ込まれた部屋は実を言えば、某国大使が公邸として借りている物の一室だった。
     小国とは言え大使公邸を我が物顔で使う黒羽家くろばけ、そしてその本家である四葉家よつばけの実力には、改めて不気味さを禁じ得ない。魔法師と外国勢力との接触は厳しく制限されているはずなのに、四葉家よつばけは外国大使と対等以上の関係を結んでいるのだ。
     もしかしたらその本国政府も、四葉家よつばけの実質支配下にあるのかもしれない。そんな妄想すら、有希ゆきの脳裏をよぎった。
     通されたのは今回も、窓の無い部屋だった。ただしあの時には無かった、高級な応接セットが調っている。あの時は運び出されていたのか、あの後に買ったのか。
     有希ゆきは特に詮索もせず、クッションの効いたソファに腰を沈めた。
     部屋がノックされる。
     有希ゆきとは対照的に浅く腰掛けていた鰐塚わにづかが、慌てて立ち上がりドアに向かった。
     彼が開けた扉から、先日の黒服青年とブレザーを着た少年が入ってくる。
     この少年が「黒羽くろば文弥ふみや」だろう。有希ゆきはそう推測した。
    有希ゆき
     立ってください、という懇願を込めて、鰐塚わにづか有希ゆきの名を呼ぶ。
     しかし、有希ゆきは知らん顔だ。
     あせ鰐塚わにづかを、「構わないよ」と少年が宥めた。
    「彼女がなのは知っているから」
    「ご挨拶だな」
     有希ゆきが、正面に座った少年をにらみ付ける。
    「今更気にする間柄でも無いだろう? 一度は殺し合いまでした仲じゃないか」
    「殺し合い……?」
     文弥ふみやにら有希ゆきの視線が、訝しげなものに変わる。
     彼女の記憶に、このの顔は無い。
     そもそも彼女は、子供相手の殺しを請け負ったことが無いのだ。
     この年頃の相手と殺し合いをしたのは、司波しば達也たつやを除けば、先週の、あのとが初めてで……。
    「――お前っ! まさか、ヤミ!」
     文弥ふみやがひっそりと笑った。その笑みが、命の遣り取りをしたボブカットの少女のものと一致する。
    黒羽くろば文弥ふみやだ。『ヤミ』はあのをしている際のコードネームだから、それ以外の時は呼ばないように」
     有希ゆきは口を開け閉めするだけで、言葉を失っている。
    (あいつが男!? あの外見で!? あたしより可愛かわいかったぞ!?)
     信じられないのか、信じたくないのか。
     有希ゆきは葛藤の末、
    「なあ、いて良いか?」
     一つの質問を絞り出した。
    「何だい?」
    「……お前、ヤミが男装しているんじゃないよな?」
     文弥ふみやの顔色が変わる。
     閉め切った室内に、声変わりしているのかしていないのか定かでない高いトーンの、少年のわめき声がとどろいた。
     有希ゆきはこうして、文弥ふみやに一矢報いることに成功した。

    (司波達也暗殺計画① 完)