• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [10]決戦

     文弥ふみや有希ゆきビルは五階建ての、元はアパレル関係のテナントが入居していた物のようだった。一階の商品や電子看板は全て撤去されているが、アナログな内装はまだそのままにしてある。
     思ったより、視界が悪い。
     文弥ふみやは精神干渉系魔法に高い適性を持つからか、先天的に霊子プシオン想子サイオンに対する感受性が高い。だがそれらを厳密に見分ける技術はまだまだ未熟だ。
     現代の魔法は事象を改変することに重きを置いており、知覚能力の向上は後回しにされる傾向がある。黒羽家くろばけ諜報ちょうほうになっている関係で一般的な魔法師に比べれば知覚力の向上にも時間を割いているが、そもそも技術体系も訓練体系も、能動的に事象を改変する魔法に比べれば知覚系は進歩が滞っていた。
     ビルの中は、照明も取り外されている。そして一階は、窓がほとんど無い。エントランスから少し奥へ進んだだけで真っ暗になった。
     文弥ふみやはゴーグルの暗視機能をオンにした。目の前にモノトーンの景色が浮かび上がる。単純に光を増幅しているのではなく、カメラが捉えた映像をARシステムで視界に重ねたものだ。文弥ふみやには現実の闇も、ちゃんと見えている。
     彼はAR映像で障害物を避けながら、想子光サイオンこうに目を凝らした。隠形術で誤魔化しにくいのは想子光サイオンこうより霊子光プシオンこうの方だ。だが、霊子光プシオンこう想子光サイオンこう程はっきり見えない。霊子プシオンに対する感受性が強いといっても、魔法師である文弥ふみやにはやはり、想子サイオンの方が馴染なじみ深い。
     文弥ふみやは一階の一番奥まで進み、階段の前で立ち止まった。地下へ続く下りはチェーンで封鎖されている一方、二階へ上る方には何も無い。
     階段に、ほこりも積もっていない。
     あからさまに怪しかった。
     しかし、ここで立ち止まるという選択肢は無かった。いや、本当はここで引き返すことも考えるべきなのだが、その案は文弥ふみやの意識に浮かばなかった。
     二階へ上がる手段は、この階段か、動いていないエスカレーターか。
     機械的な細工が容易なエスカレーターは論外だ。
     足跡が残らないよう、きれいに掃除された階段。
     十中八九、わなだろう。
     そうと知りながら足を踏み出したのは、若さ故か、それとも、文弥ふみやも男の子だということか。
     ただ階段を上りながら、警戒は怠らなかった。わなの臭いがするのだから、当然だ。
     頭上からの奇襲に気付いたのは、その可能性が頭にあったからだ。
     何の気配もなかった。
     想子サイオン波動すらも、完全に隠蔽されていた。
     ただ、空気が動いた。風の無い室内で。
     横に跳んだ文弥ふみやの左腕を、鋭利な感触が走り抜ける。耐刃繊維を編み込んだセーターに細い線ができていた。かろうじて切れていないが、もう一度同じ場所を切りつけられれば耐えられないだろう。
     文弥ふみやは壁の手前で踏みとどまり、自分が立っていた場所へ武装デバイスの銃口を向けた。
     だがそこには、誰もいない。
     彼がしゃがみ込んだのは、全くの直感によるものだった。
     文弥ふみやの首があったところを、黒く塗った刃が貫く。
     文弥ふみやは自ら階段を転げ落ちた。
     回転しながら、武装デバイスの撃鉄を起こす。
     このデバイスは、撃鉄が起動式展開のスイッチになっており、引き金はダミーだ。
     文弥ふみやは、撃鉄型のスイッチを元のポジションに戻す機能しか無い引き金を、自分に対する魔法発動の合図に使っていた。
     彼は階段の約半分を転がって立ち上がり、武装デバイスの引き金を引いた。
     魔法で撃ち出された短い針は、重力も空気抵抗も無視してぐ飛ぶ。だがこの魔法に、追尾機能は無い。
     全身黒尽くめ、顔も頭からすっぽり被る黒マスクで隠した男が、消えたかと錯覚する程素早い動きで針をかわす。相手が有希ゆきではなく、背の高い細身の男性であることを、文弥ふみやはこの段階でようやく認識した。
     しかし視認したと思った次の瞬間、男の姿が闇に溶ける。
     文弥ふみやのゴーグルに表示されるアラート。
     その矢印に従って、彼は左手のナイフをかざした。
     ナイフの刀身ではなく、手袋の甲に仕込んだ防弾プレートを衝撃が襲う。
     相手の得物はナイフではなく、刃渡り三十センチ程の小太刀だった。
     ナックルガード付きでなければ、文弥ふみやはその衝撃でナイフを落としていただろう。
     階段を駆け下りて放たれた斬撃の勢いで、文弥ふみやはよろめいてしまう。
     壁にぶつかり、両膝をつく。
     文弥ふみやの右手から、武装デバイスが滑り落ちる。
     彼は武装デバイスを拾う代わりに、ジャンパースカートの飾りボタンを引き千切った。
     膝をついたままの体勢でボタンを投げる。
     激しい光が闇を引き裂いた。
     飾りボタンは、偽装された超小型の閃光弾せんこうだんだった。
     黒尽くめの男がひるむ。
     文弥ふみやの意識から隠されていた男の姿が、彼の視界に浮かび上がった。
     文弥ふみやは素早く立ち上がり、ナイフを握ったまま左手の親指で、手袋の人差し指に仕込まれたスイッチを押す。
     ダイレクト・ペインの起動式が出力され、
     一瞬のタイムラグで魔法式が構築される。
     文弥ふみやがジャブを打つように、左手を突き出す。
     今度は、タイミングが一致した。
     男の口から悲鳴が漏れる。
     男は傷ついた獣のような叫びを上げて階段を転げ落ちた。足の付け根を襲った激痛に立っていられなくなったのだ。
     文弥ふみやが再度、左手を突き出す。
     男の咆吼ほうこうが途切れた。
     許容限度を超えた激痛に、肉体が意識を遮断したのである。
     文弥ふみやはホッと息を吐いて、スカートの裾を整えた。
     その拍子に、飾りボタンを千切った跡が目に入る。
     文弥ふみやは無言で苦笑いを浮かべた。
     あの飾りボタンは、古い小説をヒントに文弥ふみやの父親が作らせたギミックだ。
     ジュブナイルの読み過ぎだ、と文弥ふみやは父親にあきれていたのだが、これからは考えを改めようと、思った。
     文弥ふみやは武装デバイスを拾い上げ、上の階へ向かう歩みを再開した。

    ◇ ◇ ◇

     空になったテナントビルの二階に隠れていた有希ゆきは、同僚が「ヤミ」と交戦状態に入ったのを感知した。
     有希ゆきがそっと脱出路に向かう。
     今夜のところは、彼女の出番は終わりだ。後は手の内を知られていない他の社員が「ヤミ」を仕留める手はずになっている。
     有希ゆきの足取りが重いのは、同僚に仕事を押しつける申し訳なさばかりが理由ではなかった。
    「ヤミ」は素人しろうとではない。彼女たちと同じ裏社会の住人だろう。
     だが「ヤミ」も司波しば達也たつやも、「法で裁けない悪人」ではない。
     本来は、有希ゆきが殺すべき相手ではなかった。
     彼女と刃を交えることになった原因は、有希ゆき司波しば達也たつやに殺しの現場を見られたからだ。
     偶然、いや、とばっちりによって司波しば達也たつやと「ヤミ」は殺される。
     有希ゆきの保身のために、組織はあの二人の命を奪う。
     ――だったらせめて、自分の手で。
     それが、有希ゆきの抱えているわだかまりだ。
     人殺しは罪だ。
     法律でそう決まっているからではなく、理屈抜きで、人を殺すことは罪だと有希ゆきは思っている。――いや、
     罪を犯すことに、背徳的な喜びを感じているわけでもない。
     ただ、彼女は人殺しを覚えてしまった。余りにも多くの人命を奪ってしまった。
     今更人殺しは嫌だとのは、虫が良すぎるのではないか。有希ゆきは、そうも感じている。
     ――ならばせめて、自己満足であっても、納得できる理由で。
     ――自分が納得できなければ、尚更なおさら他人に押しつけたりせずに。
     そんな風に考える有希ゆきは多分、彼女自身が思っているよりもピュアで、自分が気付いていないところで罪悪感に悩んでいるのだろう。
     有希ゆきは理解し、納得している。「ヤミ」は殺さなければならない。
     だがそれならば、自分の手で殺したい。
     それが有希ゆきの本音だった。
     しかし、「ヤミ」の始末は同僚の手に委ねられた。
     これは社長の決定だ。
     有希ゆきは、社長の意思に逆らえない。
     罪人ではない少女を、殺せないことに心残りを覚えながら、有希ゆきはテナントビルを去った。

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみやは自分の侵入が気付かれていないとは、最早もはや欠片かけらも考えていなかった。
     あれだけ派手に暴れたのだ。閃光弾せんこうだんの光は上の階段からも見えただろうし、あの男が上げた悲鳴はこの閑散としたビル中に響いただろう。早々に有希ゆきを発見できなければ、いったん外に出て黒羽くろばの手勢と合流することを検討しなければならない。
     二階のフロアを探索しながら、文弥ふみやはそう考えていた。
     ただその判断は、いささか遅きに失した。
     違和感を覚えて、文弥ふみやは思わず足を止める。
     このビルはアパレルショップのテナントビルだ。それを考慮すれば、ここにあってもおかしな物ではない。
     しかし他の店舗が全て撤退している状況では、この光景はおかしすぎた。
     二階には一階と違って、フロアの奥に大きな窓を持つ喫茶スペースがある。
     そこから差し込む光が、正常なようで奇妙な光景を浮かび上がらせていた。
     紳士服の店舗だったことが容易に想像できる売り場に、スーツとジャケットがぶら下がっている。ハンガーに掛かって、三列にずらりと。
     彼が立ち止まったことが、敵にきっかけを与えた。
     ヒュッ、とかすかに息を吐くような音がした。
     文弥ふみやがそれに気付いた時には、彼の首に小さな針が刺さっていた。文弥ふみやの武装デバイスに使用されている物よりさらに短く、円錐形えんすいけいの風受けが付いている。
     吹き矢だ。
     文弥ふみやはしゃがみ込むと同時に左手のナイフを手放し、右手のCADを操作した。
     対物シールドが彼の身体に沿って形成される。
     続けて左手で、セーターのネック部分に刺さった吹き矢を抜く。
     吹き矢の先に、血は付いていない。彼はハイネックセーターの下に、ベルト状で幅が広いチョーカーを巻いていた。急所である首を保護するための物だ。敵の吹き矢は、偶々たまたまチョーカーで食い止められていた。
     敵の狙いが正確だったからこその偶然だ。
     文弥ふみやは敵の腕に感謝しながら、その居場所を探っていた。
    「熱源探知」
     文弥ふみやが、この静寂の中でも自分にしか聞こえない程度の小声で囁く。
     ゴーグルの視界に、熱分布が重なった。
     体熱を遮断するステルススーツを着ていても、吹き矢を使った以上、口が露出している。
     吐く息を体内で冷却することはできない。
     その推測どおりに、敵の所在が浮かび上がった。ハンガーに掛かったジャケットの陰に隠れている。
     文弥ふみやは武装デバイスを起動して銃口を向け、引き金を引いた。
     移動魔法で飛ぶ針は、ジャケットの生地程度では防げない。それがどれだけ厚手でも、たとえ防弾繊維で織られていても。
     しかし、武装デバイスの針はジャケットを貫通しただけで、フロアの奥に消えた。
     別の角度から、今度は手裏剣が飛んでくる。スローイング・ダガーではなく、伝統的な棒手裏剣だ。
     手裏剣は防刃繊維のジャンパースカートで防ぐまでもなく、対物シールドに捕まって落ちた。跳ね返ったのではない。運動エネルギーを失って文弥ふみやの足下に落ちたのだ。
     振り返った先に、敵の姿が見えている。今度は熱源のAR映像だけでなく、敵の全身が露わになっている。
     文弥ふみやが再び武装デバイスを向け、針を撃ち出した。
     かわせる距離ではない。
     針は間違いなく、敵に突き刺さった。――というのは、錯覚だった。
     そこに敵の姿はなく、ただ針を絡め取ったスーツの上着が落ちていた。
    空蝉うつせみか!)
     文弥ふみやはこの現象に惑わなかった。彼はこの忍術を知っていた。
     空蝉の術。
     忍術ではあるが、は古式魔法ではない。奇術だ。
     瞬間移動の魔法が存在しないのと同じで、二つの物体を入れ替える魔法も存在していない。
     空蝉の術には二種類ある。
     一つは幻術。身に着けていた服に自分の幻影を被せて、タイミング良く移動する技。
     もう一つは純粋に手技と体さばきで素早く服を脱ぎ、あるいは用意してあった服を広げ、瞬時に移動する技だ。
     黒羽家くろばけには、どちらの術の使い手も存在している。実は黒川くろかわも、奇術の方の空蝉の名人だ。
     文弥ふみやは遮蔽物を求め、パーティションの陰に飛び込んだ。
     しゃがんだ体勢で自分のスカートをめくり、太ももに巻いたウェポンベルトに武装デバイスを戻す。
     この状況、そして相手の練度。
     最早もはや手の内を隠すなどと悠長なことは、言っていられなくなった。
     セーターの右袖を捲り、CADを露出させる。操作をよりスピーディーにするためだ。
     対物シールドを張り直し、攻撃用の魔法の起動式を呼び出す。
     文弥ふみやはパーティションの陰から飛び出した。
     途端に、今度は短い矢が飛んでくる。携帯式のクロスボウだろう。文弥ふみやは回避動作をせず、構築済みの魔法を放った。
     対物シールドが、矢を止め、落とす。
     透明な空気の刃『飛空刃ひくうじん』が乱舞し、フロアのハンガーにつるされているスーツとジャケットを切り裂いた。
     文弥ふみやが使った『飛空刃ひくうじん』は圧縮空気弾のバリエーションだ。薄く圧縮した空気の塊を高速で飛ばす。
     同じように空気の刃を飛ばす術式に『熱風刃ねっぷうじん』という魔法があるが、こちらは圧縮により高温化した刃をそのまま飛ばすのに対して、『飛空刃ひくうじん』は温度を上げずに、その分のエネルギーを飛ばすスピードに変換するという違いがある。
     この場で文弥ふみやが『熱風刃ねっぷうじん』ではなく『飛空刃ひくうじん』を使ったのは、火事になるのを防ぐためだ。その代わり高速で散撒ばらまかれた極薄の空気塊は、視界を遮っていたスーツやジャケットを切り落とし、クロスボウを構えた敵の胴体を深く裂いていた。
     大量の血を流しながら、男が床に倒れる。
     おそらく致命傷だが、文弥ふみやは後悔に囚われて立ち竦んだりはしなかった。
     無論、出血と内臓の露出に嘔吐おうともしない。
     彼は殺人に対する倫理的な歯止めは持っていたが、生理的な忌避感は無い。
     その御蔭おかげで、今度は不意を突かれなかった。
     倒れた男の身体が、爆発した。
     自爆だ。
     爆発自体の威力は小さい。死んだかどうか確かめに寄ってきた敵に、最後の反撃を加えるためのものだろう。
     ただ、それだけではなかった。
     爆発によって、室内に火の粉がらされる。熱源探知に対するジャミングだ。暗視システムを阻害する効果もある。
     次の敵は、間髪を入れず襲ってきた。それも、一人ではない。七人の暗殺者が連携を組んで攻撃を仕掛けてきたのだ。
     背後から首をぐ斬撃が迫る。対物シールドはまだ有効だが、文弥ふみやはわざと受けたりはしなかった。
     床に身を投げながら、スカートの下から左手で予備のナイフを抜く。タイツに包まれた太ももが半分以上あらわになったが、戦闘中に恥ずかしがったりはしない。
     一回転し、右手に持ち替えたナイフで別の敵の攻撃を受ける。
     刀ではなく、手甲鉤てっこうかぎ。長く鋭い鉄の爪だ。その表面には毒が塗られていたのか、打ち合った拍子に飛沫が文弥ふみやの顔に飛んだ。薬物から肌を守るドーランが少し溶ける。だが、素肌にまでは至らない。
     ナイフと手甲鉤てっこうかぎいを解かぬまま、文弥ふみやは左手のCADを起動した。
     ダイレクト・ペインの発動。
     武器同士であっても接触している状態にあれば、狙いを外すことはない。
     文弥ふみやの前にいた敵が、悲鳴を上げ腹を押さえて床に転がった。
     残る敵の間に、動揺が走る。
     それはさらなる攻撃の激化をもたらした。
     手裏剣や投げ苦無が飛び交い、分銅付きの鎖が文弥ふみやの自由を奪おうとする。小型の刀やナイフだけでなく、スタン機能付きのブレードで斬りかかる敵もいた。銃を使う敵がいないのは、暗い室内で同士討ち、跳弾を恐れているのか。
     連携の取れたヒットアンドアウェイの波状攻撃に、文弥ふみやは防御魔法に手を取られてダイレクト・ペインを放つ機会を得られない。
     手数に圧倒され、文弥ふみやは徐々にフロアの奥へと追い込まれていく。
     しかし、彼は何の勝算もなく孤軍奮闘しているのではなかった。
     突如、敵の一人がすくんだ。彼は不思議そうに自分の腕を見て、その直後、臓腑ぞうふを絞り出すような苦鳴を上げ、崩れ落ちた。
     残る六人の敵の内、半数の三人が階段へ目を向けた。
     そこにいたのは、同数の黒服。
     黒服と暗殺者がにらう。
     文弥ふみやの敵が、三人に減る。
     このチャンスを、文弥ふみやは逃さなかった。
     攻撃の密度が落ちた隙に、椅子もテーブルも運び出された元喫茶スペースまで後退する。
     殺し屋全員を、一度に視認できるポジションへ。
     文弥ふみやはそこで、シャドーボクシングを披露した。
     三連続のジャブ。それは文弥ふみやに駆け寄る三人の殺し屋に、一切の物理的なダメージを与えず、正気を奪う激痛だけを与えた。
     黒服三人が一斉に投げ矢を投擲とうてきする。
     彼らとにらっていた殺し屋は、それを苦も無くかわした。
     かわしたその先で、彼らは一斉にった。
     一人一本、合計三本。
     殺し屋の背中に、ナイフが突き刺さっている。ナイフは三本とも、急所を捉えていた。
     六人の殺し屋は、しくも、同時に倒れた。

     文弥ふみやが大きく息を吐いて、戦闘の構えを解いた。何時いつにか殺し屋の背後に回り込んでいた黒川くろかわと、彼の横に立つ二人の黒服に目を向ける。
     階段の前にいた三人は上の階に向かって進んだ。伏兵が残っていないか偵察に行ったのだ。
    「ありがとう。助かりました」
     文弥ふみや微笑ほほえみながら、黒川くろかわたち三人に声を掛ける。
    「恐縮です、お嬢様」
     黒川くろかわの右隣にいた黒服が顔を綻ばせながら――文弥ふみやの性別が見掛けどおりなら「デレデレした顔で」と表現すべきだっただろう――その謝辞に応える。
    黒川くろかわ
     文弥ふみやが真顔になって、黒川くろかわに話し掛けた。
    「はい」
     黒川くろかわは何を言われるのか、予測できているような表情だ。
    はしばみ有希ゆき何処どこへ?」
    「申し訳ございません。見失いました」
     文弥ふみやがため息を吐く。
    「……仕方ありませんね。逃がしたのは、私も同罪ですから」
     しかし文弥ふみやは、黒川くろかわを責めようとはしなかった。
    「これ以上の伏兵がいなければ、亜貿社あぼうしゃに向かいます」
     その代わり文弥ふみやは、予定を繰り上げる命令を下した。
    「お嬢様、それは……」
     当然、黒川くろかわは難色を示す。
    亜貿社あぼうしゃの実働部隊は三十六名。その内、九人を無力化しました。昨日までに無力化済みの人数を加えれば十一人。実働部隊の中には直接戦闘向きではない暗殺者もいるでしょうし、彼らの全員が事務所ビルに詰めているわけでもないでしょう。黒川くろかわ、これはチャンスだと思いませんか?」
    「……おっしゃるとおりかと」
     だが黒川くろかわは、文弥ふみやの判断に合理性があると認めざるを得なかった。

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみやが誘い込まれたビルの、およそ二百メートル先の中層アパート。その屋上に、一人の女が潜んでいた。
     彼女のコードネームは『ジェーン』。亜貿社あぼうしゃの殺し屋だ。彼女は有希ゆきと並ぶ、荒事用の女性暗殺者だった。
     もっとも、得意とする技は対照的だ。有希ゆきがナイフを使った白兵戦スタイルであるのに対して、『ジェーン』はスナイパー。消音ライフルを使った狙撃が彼女のスタイルだった。
     女が陣取っている場所からは、テナントビルの喫茶スペースが正面に見える。『ジェーン』がのぞくスコープには、小柄な人型の熱源が浮かび上がっている。窓ガラス越しに熱源探知ができる特製のスコープだ。
     既に弾薬は薬室に装填済み。後は引き金を引くだけだ。
    (……一発で決める)
     仲間の暗殺者九人をおとりに使った狙撃ミッション。ターゲットは『ヤミ』というコードネームを持つ
     標的が完全に警戒を解いているのが『ジェーン』には分かる。たとえ相手が最強の魔法師・十師族でも、このシチュエーションなら彼女の銃弾で仕留められる――。
     それは『ジェーン』が、まさに引き金を引き絞ろうとした瞬間に起こった。
     彼女がのぞいていたスコープが、いきなりライフルから外れて落ちた。
     スコープだけではない。
     薬室を閉鎖していたボルトがすっぽ抜ける。
     脱着式の弾倉が抜け落ちる。
     銃身バレルが跳ね飛ぶ。
     一瞬で、狙撃銃がバラバラになった。
    「な、なにが?」
    『ジェーン』はショックを受けるより先に、呆気あっけにとられた。
     意味が分からない。
     彼女の意識を占めていたのは、このフレーズだった。
     彼女は何が起こったのか理解できないまま、次の瞬間、形を失う。

     輪郭が曖昧になり、

     霧となって、

     この世界から、消滅した。

     アパートの屋上に残された物は、分解した狙撃銃の部品。
     そして屋上へと続く階段室の、閉まったままの扉の向こうには、司波しば達也たつやが立っていた。

    ◇ ◇ ◇

     会社には顔を出さずそのまま自宅に戻った有希ゆきは、日付が変わる直前に相棒の鰐塚わにづかから電話を受けた。
    「……はっ?」
     そして彼女は、自分の耳を疑うことになる。
    「何だって?」
     有希ゆきは思わずそうき返した。電話の音声が聞き取り辛かったわけではない。鰐塚わにづかの言葉を彼女の意識が拒絶したのである。
    『会社が襲われました。専務、常務は重傷、社長は拉致された模様です』
     二度聞いて、有希ゆきはようやく、鰐塚わにづかのセリフを理解した。
    「マジか?」
    『はい』
    「一体何処どこのどいつだっ!?」
     有希ゆき激昂げきこうしたのは、愛社精神の故ではない。
     限度を超えた理不尽に出会うと、人は怒るか、絶望するものだ。
    『黒いスーツを着た、十人前後の集団です』
    「たった十人!? 夢でも見たのか!?」
     有希ゆきがそう言いたくなった気持ちは、鰐塚わにづかにも理解できる。だから彼を疑う有希ゆきの言葉はスルーできた。
     どうせ彼女は、もっと大きな声で叫ぶことになる。
    『その中にはゴーグルで顔を隠した、ボブカットの少女がいたそうです』
    「あいつかっ!」
     鰐塚わにづかの予想どおり、有希ゆきは絶叫した。
    「ヤミが社長をさらったってのかっ!」
    『状況から見て、そうでしょうね』
     有希ゆきの疑問に、鰐塚わにづかは淡々とした口調で答える。彼は、ショックを受けていないのではない。衝撃が許容限度をオーバーして、一時的に感情が希薄化しているのである。
    「キッドたちはどうした!? ジェーンはしくじったのか!?」
    『キッド』というのは、『ヤミ』を階段で襲った隠形の名手。『ジェーン』は作戦の最終段階を任せられていたスナイパーだ。
    『ジェーンを含め、今夜の作戦メンバーとは連絡が取れなくなっている模様です』
    「失敗したってのか……」
    『おそらく』
     有希ゆきが受話器を握ったまま言葉を失う。
     沈黙が十秒を数えて、
    『ナッツ。これからどうします?』
     鰐塚わにづかが逆に、有希ゆきたずねた。
    「どうするって……」
    『政治家に顔がくのは社長だけです。社長を奪われては、仕事が続けられません』
    「…………」
    亜貿社あぼうしゃは事実上の壊滅です』
    「……そうだな」
    『ではナッツ。明日からどうしますか?』
     これは相棒として、今後の身の振り方をたずねる質問だ。
     確かに社長がいなくなってしまえば、亜貿社あぼうしゃ所属の殺し屋は続けられない。多少は蓄えもあるからすぐに飢えることはないが、経済的な懸念けねん以上に身の安全の確保が課題となる。
     今までは亜貿社あぼうしゃという組織の看板と、社長の両角もろずみが持っていた政治家とのコネが自分たちの身柄をある程度保証していた。
     組織に属していれば窮屈なことも多いが、多くの仲間が控えているというだけで他の犯罪者、犯罪組織に対する牽制けんせいになる。またそれ以上に、犯罪者にとって最大の脅威である警察に対しては、政治家とのつながりが強力な盾になるのだ。
    「社長の奪還は……無理だな」
    『そう思います』
    「お前の言うとおり、社長抜きで亜貿社あぼうしゃはやっていけないだろう」
    『はい』
    「……高飛びするか」
    『国外に脱出するとしても、扶持ぶちを稼がなければなりませんよ』
    「あたしにできる仕事は一つだけだろ」
    『良いんですか?』
     有希ゆきは、自分にできる仕事は殺し屋だけだ、と言った。
     鰐塚わにづかはそんな彼女に対して、これからも殺し屋を続けて良いのかとたずねた。
     彼は有希ゆきが、本当は人殺しを嫌っていると、知っていた。
    「――ああ」
     しかし有希ゆきは、暗殺者を続けると――金のために人を殺し続けると答えた。
    『分かりました。新しい雇い主には心当たりがあります』
    「また組織かよ」
    『フリーで受けても良いですよ』
    「いや……お抱えでいよ」
     有希ゆきの葛藤を察したのか、鰐塚わにづかはコメントを返さなかった。
    『一週間後には、出航できると思います』
    「任せる。だが……」
    『ナッツ?』
     訝しげな、鰐塚わにづかの声。
     それに有希ゆきは、太々ふてぶてしい声で答えた。
    「けじめは付けなきゃな」
     有希ゆきの言うけじめが何か、鰐塚わにづかはすぐ思い至った。
     しかし彼は、有希ゆきに何も言わなかった。彼女を止めない代わりに、後押しする言葉も返さなかった。