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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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少女アサシン
[9]計略
政治的暗殺結社、
亜貿社 。結社のトップである両角 来馬 の肩書きは社長で、実働部隊の一員である有希 は無役、つまり「平 」だが、二人は直属の上司・部下である。
専務、常務の肩書きを持つ部下はいるが、彼らの仕事はサポート部門の統括と社長の補佐。専務や常務が実働部隊の仕事振りに口を出すことはあるが、殺し屋に対する指揮権はあくまでも両角 が握っている。両角 は実働部隊の殺し屋を直接支配することに拘っていた。
社内にはチームで活動している殺し屋もいる。そういう社員に対してはチームリーダーを通して指示を出したり報告を上げさせたりするが、有希 のようにソロの殺し屋の場合は報告書を必ず自分で読むし、必要な場合は直接話をする。
とはいえ、亜貿社 が抱える殺し屋は三十人を超える。正確には三十六人。今日、一人脱落しているから三十五人か。
社長の仕事は部下を叱ることだけではない。営 業 活 動 も大切だ。サポート部門も、任せきりというわけにはいかない。だから結果報告は大抵、書面で済ませる。両角 が平 の殺し屋を呼び出すのは、実は滅多に無いことだった。
にも拘 わらず、有希 が司波 達也 の件で社長に呼び出されたのは、これが四度目だ。一週間以内に四回。自分の失敗が如何 に問題視されているのか、有希 は危機感を覚えずにいられない。
不安に耐えて今日の顛末 を報告し終えた有希 を、両角 はデスクの奥からジッと見上げた。
両角 は有希 をじらして不安を煽 るような、姑 息 なテクニックは弄しなかった。
「榛 君、私は君の能力を高く評価している。経験不足は否 めないものの、身体強化 の異能に加えて刀術、無手術、隠形術、いずれも申し分ない。だから私は今まで、君の仕事のやり方に口を出さなかった」
両角 がデスクに両肘を突き、軽く身を乗り出す。
有希 は目が近づいた分、視線の圧力が増したような錯覚に襲われた。
身体が勝手に仰 け反 ろうとする。有希 は腹の底に力を入れてそれを堪 えた。
「しかしこれ以上不手際 が続くようなら、君には愉 快 で な い 仕事もしてもらわなければならない。例えば、君の容姿を活 かす仕事だ。私の言っている意味が分かるな?」
「……はい」
残 念 な が ら 、有希 は両角 の言いたいことが理解できていた。
自分の容姿を活 かす。実年齢より幼い、それなりに見栄 えがする、女の容姿。
有希 は色 仕掛 けを使ったことが無いわけではない。ターゲットに近づく為 、ターゲットを油断させる為 、無力で世間知らずな少女を演じるのは、むしろ有希 が多用する手口だ。
だが両角 が示唆したのは、もっと本 格 的 な 色 仕掛 けだ。
ベッドの上で男を殺す。――文字通りの意味で。
しかも自分は、一糸まとわぬ姿で。ターゲットの趣味によっては、望まぬ物を身に着けさせられて。それが服とは限らない。
そ う い う 仕 事 をしている殺し屋も亜貿社 は抱えている。実働部門にいる女 性 社 員 は、むしろそ っ ち の 仕 事 をしている者の方が多い。
社内には、有希 にもその方面の仕事をさせようという声があった。有希 の容姿と能力はそちら向きだ。強化した腕力で、大の男の首を素手で折れる。着の身着のままでビルからビルへ飛び移って脱出することもできる。小柄でスレンダーな肢体には、普通の色 仕掛 けでは難しい男性の間に一定の需要がある……。
有希 がそういう「くノ一」でイメージされるような仕事を免れてきたのは、彼女は力 尽 く の 仕 事 の方が向いていると思われていたからだ。しかし社長に命じられれば、嫌とは言えない。命令拒絶は、粛清に直結する。不足しているそちら方面の技術は、喜 ん で 指 導 し て く れ る 同僚が大勢いるに違いない。
少し想像しただけで、有希 の全身に鳥肌が立った。
――狩られる覚悟で、抜けるか。
そんな思いすら、脳裏を過 った。
「不測の事態が生じているのは、私も理解している。司波 達也 の背景はまだ解明できていない。そのヤミという少女も放置できない」
「――はい」
「榛 君。私は、その全てを君一人で片付けろと言っているのではないのだ」
有希 の瞳に疑問が浮かぶ。それが言葉になる前に、両角 のセリフが続いた。
「次の出動は、私が指示する。多分、明後日 のことになるだろう。ヤミという少女は、別のチームに対処させる。君は司波 達也 に集中するのだ」
有希 の意識を「信じられない」という思念が横切る。有希 の失態を、会社全体でフォローしてくれるというのだ。
社長に特別扱いされる覚えは、有希 には無い。何か裏があるに違いないが、有希 には見当がつかなかった。
「……分かりました」
取り敢えず、首がつながったのは確かだ。有希 は疑念を呑 み込 んでおくことにした。有希 を退出させて、両角 は背もたれに深く背中を預けた。
そのまま顔を上に向ける。天井に何かぶら下がっているわけではない。彼は手が空いている殺し屋の中から誰を使うか、該当する社員の顔を思い浮かべていたのである。
「……出し惜しみをしている場合ではないな」
両角 はそう呟 いて、現在仕事が入っていない者を全員投入することにした。
亜貿社 が抱える「忍術使いでない忍者」は、今日の失敗で一人減って三十五人。
その内、現在の仕事から手を離せない者、直接戦闘向きではない者を除くと、使える殺し屋は有希 を除いてちょうど十人。暗殺部隊以外で、偵察要員の中にも腕の立つ者はいるが、今回は普段から殺しの仕事に携わっている者から選ぶことにした。
「……十人いれば十分だ。ただの小娘ではないだろうが、相手は一人。たとえ手練 れの魔法師だろうと、逃しはしない」
暗い執念を感じさせる声で、両角 が呟 く。
「九重 八雲 ……。忍 術 を、魔法を使えない忍者の意地を、見るが良い」
これが、有希 が理解できなかった両角 の心底 だった。
両角 は司波 達也 と「ヤミ」の二人が九重 八雲 の身内であると、完全に思い込んでいた。◇ ◇ ◇
彼の知らないところで誤解を受けていた
文弥 は、仮住まいの週契約アパートで深く落ち込んでいた。
「若、そんなに落ち込まないでくださいよ」
「……何でお前がここにいるんだ」
頭を抱えたままどんよりとした声音で訊ねる文弥 に、
「今日の当番ですから」
黒川 は対照的な、けろりとした口調で答えた。
「心配しなくても、お休み前には出て行きますよ」
「……そんな心配はしていない」
変装を解いた今の文弥 は、外見も完全な男だ。同性の部下が隣の部屋に泊まったからといって気にはしないし、それは相手も同じだと考えていた。だから素っ気ない対応になったのだが、黒川 のセリフが文弥 を女の子扱いしてのものだと理解していたなら、こんなに平気な態度は取らなかったに違いない。
「あっ、そうですか」
黒川 は当てが外れた、という顔で呟 いた。黒川 は文弥 を「お嬢様扱い」することでわざと怒らせて、自己嫌悪を忘れさせようとしたのだ。想定以上に文弥 が冷静だった為 、黒川 の作戦は失敗に終わった。
「……若、何をそんなに気に掛けていらっしゃるんですか? 確かに榛 有希 は逃がしてしまいましたが、より危険な爆弾使いは始末できたんですし、中々の首尾だったと思いますが」
「そんなことは気にしていない……」
相変わらず文弥 は頭を抱えたままだ。
変装を解き、風呂から上がってデスクで今日の報告書を書き始めたかと思ったら、いきなりこうなった。タイミングから見て仕事絡みに間違いないのだが、具体的に何を嘆いているのか分からない。
黒川 は処置無しとばかり肩をすくめた。
しかし、放っておくわけにもいかない。無駄かもしれないがもう一度、と黒川 は再び文弥 に話し掛けようとした。
「僕の油断で負った傷なのに、達也 兄さんに押しつけるなんて……」
だが幸い、自責の念に堪 えられなくなったのか、文弥 の方から告白を始めてくれた。
「達也 様が魔法で治してくださったんでしょう? お手間を掛けたのが心苦しいのは分かりますが、そこは持ちつ持たれつということで素直に甘えて良いと思いますが……」
だからといって、黒川 が文弥 の自己嫌悪を理解できたかというと、そんなことはなかった。
「そういう次元の話じゃないんだ!」
「はぁ……」
達也 が他人の負傷を治す、その魔法の仕組みは、四葉家 内部でも余り知られていない。どんな重傷だろうと一瞬で完全に回復させる彼の『再成』を知っている者でも、通常の治癒魔法とは本質的に異なるものだという程度の認識しかないケースがほとんどだ。
「他人の怪我を治す為 に、達也 様は何か代償を支払っているんですか?」
何かを得る為 には、何かを失わなければならない。結果には代償が必要、というのはこの世界において大体成立する原則だが、魔法の利用においては余り意識されることがない。
魔法を過剰に行使すると魔法師本人が命を縮める、あるいは魔法技能を損なうといった重大なデメリットが生じることはある。しかし普通に使っている分には、そういった目に見える代償は無い。
現在使われている魔法は、質量保存則こそ無視できないが、エネルギー保存則には縛られていないよ う に 見 え る 技術だ。もし達也 の「治癒魔法」に明確な代償が必要だとすれば、現代魔法理論を見直す契機になるかもしれない。黒川 が好奇心を隠せなかったのも、無理からぬことだった。
「……代償は、ある」
文弥 は「しまった」という表情を見せた後、渋々頷 いた。
「でも、それが何かは、僕の口からは言えない」
「分かりました。訊きません」
空気を読んだ黒川 は、それ以上詮索しないことを明言する。
少し向きになっていた文弥 は、落ち着きを取り戻した。いや、再び頭を抱えたわけではないから「冷静になった」と言うべきか。
「問題は、達也 兄さんが支払っている代償じゃない」
「問題はその原因……ですか?」
黒川 の言葉に、文弥 が頷 く。
「これ以上、達也 兄さんにご迷惑は掛けられない。御当主様が切った期限には、まだ余裕があるけど……相手は爆弾まで使おうとしたんだ。騒ぎが大きくなるのは、四葉家 にとっても好ましくない。この件にはもう、けりを付けよう」
「と仰いますと、達也 様を狙う殺し屋にこちらから仕掛けますか? それとも、組織の方を?」
「殺し屋個人を無力化しても終わりにはならない」
「では、亜貿社 を?」
「そうだ。厄介事は、元から絶つ」
強気に言い切った文弥 へ、黒川 は危ういものを見る目を向けた。
「応援は頼まないんですか? 民間の職業暗殺結社とはいえ、構成員は手練 れの忍者です」
「忍術使いではないんだろう?」
文弥 は意識していなかったが、彼の発言は自然に非魔法師の戦闘力を魔法師より一段低く見るものだった。
「人を殺すのに魔法は必要ありません。魔法が使えなくても手強 い相手は幾らでもいます。まして亜貿社 の殺し屋には、普通の意味での魔法師はいなくてもBS魔法師は十人以上所属していることが確認されていますよ」
黒川 の警告を、文弥 は無視しなかった。
「先天的特異能力者か……」
BS魔法師、先天的特異能力者、または先天的特異魔法技能者。あるいは単に『異能者』と呼ばれることも多い。彼らを、あるいは自分たちを魔法師のカテゴリーに入れたくない者は、異能者という呼称を好む。
B S 魔法師の厳密な定義は、魔法としての技術化が困難な異能に特化した超能力者。だが、魔法で再現できる能力であっても、それが特別に高いレベルである場合は、BS魔法師にカテゴライズされる傾向にある。
実を言えば榛 有希 の身体強化 も、「魔法としての技術化が困難な異能」に含まれる。筋力の増幅、反応速度の上昇、肉体の耐久度と柔軟性の向上、五感の鋭敏化、これら全てを一度に実現する魔法は、現段階で実現していない。
自己加速魔法は動 作 を 加速するのみ、肉体硬化魔法は外部から加えられた衝撃や摩擦に対してその影響を無効化するものであり、どちらも身体強化 の異能程、便利なものではない。身体強化 は魔法よりも薬物と、脳、神経に電気的刺激を与える電子機器のインプラントによって実現されている能力だ。――なお遺伝子操作による身体能力強化人間は、薬物による強化に比べて低いレベルに留まっている。
「我々魔法師も、肉体的に見れば魔法師でない人々と何も変わりません」
「分かっている」
文弥 は気を引き締め直した顔で応えた。
「相手が忍術使いでないから、というのは僕が軽率だった。しかし応援と言っても、誰に頼むんだ? 頼んでも本家は援軍を出さないぞ。これは僕に命じられた仕事なんだから」
「貢様 に依頼すれば良いのでは? 前言と矛盾するようですが、我々が本気になれば本家の助けがなくても大抵のことは何とかなりますよ?」
黒川 が言う「我々」とは黒羽家 のことだ。彼のセリフは第三者、例えば四葉家 以外の十師族の魔法師が聞けば、大言壮語と感じて不快になるに違いない。
しかし、多少は大 袈裟 かもしれないが、法螺 でもなかった。
約三十年前に起こった事件で、当時の四葉家 は実戦レベルの魔法師の約半数を失った。今もその痛手から回復していない。――四 葉 の 魔法師は精鋭だが、少数だ。
しかしそれは、四葉家 が動員し得る魔法師の数が少ないという意味ではなかった。
四葉家 には七つの分家がある。椎 葉 、真 柴 、新発田 、黒 羽 、武 倉 、津久葉 、静 の七家。四葉家 は本家と七つの分家から成っている。
この内「四葉 の魔法師」と呼ばれるのは、本家の血縁、本家直属、そして分家の血縁の魔法師のみだ。分家が抱える魔法師は、子飼いの者であっても「四葉 の魔法師」とは呼ばれない。「四葉 の魔法師は少数精鋭」と言う場合の「少数」に彼らは含まれない。
四葉家 の戦力は、第四研にルーツを持つことに拘らなければ、決して少数ではない。それに質の面でも、分家が外部から取り込んだ魔法師、独自に育成した魔法師、どちらも他の十師族にそれ程劣るものではない。百家数字付き を比較の対象にすれば、全く遜色がないどころか、凌駕する水準にあると言えよう。
四葉家 の各分家は、単独で十師族並の戦闘力を秘めている。その分家の一つが総力を挙げれば、どれ程の手練 れを集めた忍者の集団であろうと、それこそ九重 八雲 並みの使い手が率いているのでない限り敵ではないだろう。
「無理だ」
しかし、文弥 の回答は悲観的なものだった。
「父さんは僕を達也 兄さんに関わらせたがらない。弱音を吐けば、手を引けと言うに決まっている」
黒羽家 の実力に対してではなく、援軍を得られる可能性について。
「勝利を確実なものとする為 の増援依頼ですから、弱音とは違うと思いますが」
「僕だってそう思う。でも父さんは、そう思わない」
黒川 はここで、反論を止めた。
「……取り敢えず、準備に二日ください」
「……分かった。こちらから仕掛けるのは三日後にする」
すぐに、と言いたい気持ちをグッと抑えて文弥 は頷 いた。
今回、文弥 のサポートとして働いている黒羽 の魔法師は十一人。合計十二人で構成員百人を超える暗殺結社を潰そうというのだ。構成員の全員が戦闘要員ではないだろうが、どう少なく見積もっても倍以上の人数を相手にすることになる。武器の調達を含め、万全の準備が必要だということは、改めて説明されるまでもなく文弥 にも分かっていた。
「……あっ。だったら一つ、頼みたいことがある」
装備を調えるという思考から連想して、文弥 は自分のCADに関し試してみたいことがあったのを思い出した。
「何でしょう?」
「特化型CADを少し改造してくれないか? ダイレクト・ペイン用のショートカットボタンを、手袋に仕込んで欲しいんだ」
「その程度でしたらすぐにできますが……手袋の何処 に仕込めばよろしいんですか?」
「拳を握った状態でスイッチを入れやすいように頼めるか?」
「……でしたら、人差し指の第一関節と第二関節の間にボタンを付けましょう」
「そうだな。それで頼む」
「はい。……しかし、何故 そんなことを?」
「ヒントをもらったんだ。ボクシングのようにやれば良いんじゃないかって」
「はぁ……」
文弥 の言葉足らずな説明を、黒川 は理解できなかった。
だがCADを少し改造するだけなら、詳しく問い詰める必要は無い。
「承知しました。明後日 の朝には仕上げておきます」
文弥 には何か思惑があるのだろうと、黒川 は考えておくことにした。◇ ◇ ◇
木曜日。ターゲットの少年が通う中学校に潜入した翌々日の夜。
有希 と鰐塚 のコンビは、司波 達也 を乗せたロボットカーを尾行していた。
彼は妹をマナースクールに送り届けたところだ。先週の土曜日は、この後、近くのカフェレストランに向かった。今週も同じ店に行くとは限らないが、近くの店で時間を潰すのは同じだろう。有希 は、というより組織はそう予測した。
「ターゲットは喫茶店に入りました」
司波 達也 が先日とは別の店に入ったのを確認して、鰐塚 が通信機に話し掛けた。会社宛の報告だ。今日はいつもと違い、社長が立案した作戦に従って動くことになっている。勝手に突っ走ることは許されない。
『予定どおり、車を駐車場に駐めてクロコは店に入れ。ナッツは車内で待機』
「了解です」
指示に従い、鰐塚 がワゴン車を駐車場に入れる。
「クロコ、気をつけろよ」
有希 が後部座席から、ドアの開閉レバーに手を掛けた鰐塚 に声を掛けた。
「私の顔は割れているでしょうから、気をつけようもないんですがね」
鰐塚 は苦い諦め混じりの口調で応えて、ボックスワゴンを降りた。◇ ◇ ◇
亜貿社 に対する逆襲予定日は明日だが、準備を調えている間にも敵は待ってくれない。
昨日も今日も、文弥 は達也 を狙う暗殺者の動向を見張っていた。――決して、達也 をストーキングしているのではない。
幸いと言って良いのか、それは無駄ではなかった。
「お嬢様、例の少女が達也 様の近くに現れました」
今回のミッションで文弥 の「御側 付き」になっている黒川 が、運転席から後部座席の文弥 にバックミラーで目を合わせながら暗殺者の動向を報せた。
「榛 有希 ですか?」
「はい。駐車場に潜んでいるようです」
「前回と同じですか……」
ヤミに変装している文弥 のコメントには、言外に「芸が無い」というニュアンスが滲み出ていた。
「状況の再現にこちらが付き合う必要はありません」
文弥 はそれ程思考に時間を割くことなく、黒川 に方針を伝える。
「こちらから仕掛けて、捕らえましょう」
「応援はどうしますか?」
「すぐに呼べますか?」
文弥 に反論されて、黒川 は渋い表情を浮かべた。
「五分程、いただければ……」
「良いでしょう」
文弥 の返答は、黒川 の意表を突いた。
「二人、私に付けてください。他の者は逃走ルートの遮断。黒川 はいざという時の追跡を」
「了解しました」
待てない、という返事を予測していた黒川 は、文弥 が命じた役割分担に異を唱え損ねた。◇ ◇ ◇
『ナッツ、聞こえますか』
車載の物とは別の、携帯用の通信機に話し掛けてきたのは鰐塚 でなく、本社の女性スタッフだった。
「聞いている、どうぞ」
通信機の向こう側で失笑が漏れる気配がしたのは、有希 の「どうぞ」がツボにはまったからか。組織内の通信に「どうぞ」を付ける必要は無いと、有希 はこれまで何度も注意されているのだが、そんなつもりもないのについつい口にしてしまう。
有希 も直そうとしているのだが、意識していないと言ってしまう、一種の癖だった。
直そうと自分でも意識しているから、思わず言ってしまった後に他人から指摘されると恥ずかしさを覚える。今も平気な風を装っているが、唇の端が細かく痙攣 していた。
『敵が動き出しました』
しかし、次に通信機から聞こえてきた一言で、そんなことを気にしている余裕は無くなった。
「敵っ? 『ヤミ』の一味か!?」
『まだ確認は取れていませんが、その可能性大です。貴女 がいる駐車場を包囲しています』
文弥 が有希 の動向を監視していたように、亜貿社 も黒羽 の動向に、正体を知らぬまま注意を払っていた。囮を兼ねて有希 を先行させ、彼女を妨害しようとする集団の出現に離れた所から目を光らせていたのである。
『作戦を第二案に移行します』
「了解した。クロコにもそう伝えておいてくれ」
『はい。ナッツ、グッドラック』
通信が切れるのと同時に、有希 はワゴン車を降りた。先週の土曜日に有希 が仕掛け損なった駐車場とは違い、ここは屋根の無い平面駐車場だ。道路から有希 の姿が見える代わりに、有希 にも駐車場の外の様子が分かる。
有希 が車外に出た数秒後、大型セダンが駐車場の横で急停車した。
後ろの座席から、ゴーグルで顔の半分を隠したボブカットの少女が出てきた。
(出やがったな、ヤミ!)
今夜のヤミは、セーラー服ではない。藍色のハイネックセーターと同色のジャンパースカートだ。
こんな時でもスカートか、と有希 が心の中でツッコミを入れる。彼女自身はジーンズに見せかけた防刃布のパンツと同じ生地で作ったジージャンだ。動きやすさを重視した有希 の服装に比べて、「ヤミ」の衣装は確かに戦闘向きではない。
もっとも有希 は、敵である「ヤミ」のことを心配したわけではなく、自分よりも可愛い格好をした彼女への嫉妬が反感という形で結晶しただけなのだが。
そんな、ある意味呑気な、時と場合を弁 えぬ雑念を懐いていても、有希 の身体は淀 みなく動いた。
駐車場を、出入り口の反対側へ向かって走る。
正体不明の危機感に襲われ、有希 はスピードを落とさず直角に曲がった。
駐車してある車の隙間を縫って、跳躍。
コンクリートの塀を駆け上がり、その上に立つ。
有希 は塀の上を駐車場の端まで走り、民家の屋根に飛び移った。◇ ◇ ◇
有希 が動き出したのは、文弥 たちの包囲網がもう少しで完成するという時だった。
「気付かれた!?」
「まさか!?」
文弥 の声に黒川 が反射的な答えを返す。
だが黒川 にも、榛 有希 が車から出てきたのは達也 を襲う為 ではなく、包囲から逃れる為 だと直感的に分かっていた。
「車を駐車場の横に着けて!」
「了解です」
文弥 を乗せたセダンは、喫茶店のあるブロックをぐるぐる回っていた。ちょうど店の前に続く通りに出たところで、有希 が車から降りたのを目撃したのだった。
車の停止と同時に、文弥 が後部座席から飛び出す。彼が付けている大きめのゴーグルは変 装 している顔をさらに隠す為 の物であると同時に、センサーの反応やデータリンクで送られてくる情報を表示する為 のARディスプレイにもなっている。しかし機械的な補助がなくても、疎らな照明の光だけで文弥 は有希 の姿をはっきり捉えていた。
駐めてある車が邪魔になって、武装デバイスは使えない。
文弥 は改造したばかりのCADを使ってダイレクト・ペインを放とうとした。
だが――、
(クッ、タイミングがずれた!)
狙いを定めたところで、有希 がいきなり直角に曲がった。
彼女は魔法師ではないはずだが、直感で急迫する危機を嗅ぎつけたのだろうか。
照明の切れ目という悪条件もあって、文弥 の目は有希 の姿を見失っていた。
だが彼の意識は、彼女の行方を把握していた。
CADのスイッチを押す。
しかし起動式の展開から魔法の発動までの、コンマ一秒のタイムラグが、文弥 に照準を見失わせた。
(ぶっつけ本番で上手くいく程、甘くはなかったか!)
彼が改造済みのCADを受け取ったのは、夕方になってからだった。予定より半日遅れだ。
その所為 で、改造後のCADを使った慣熟訓練ができなかった。
彼は今、頭を振ってパンチを避けようとする相手にジャブを打ち込む感覚で、ダイレクト・ペインを放とうとした。
パンチを打ち込むタイミングで、CADのスイッチを押した。
だが起動式の展開、読み込み、魔法式の構築、魔法の発動のプロセスに要する時間は、ジャブを一発放つより少しだけ長かった。
文弥 はこれまで、魔法の発動速度に悩んだことは無い。発動に要するタイムラグが原因で、魔法を失敗したことが無かった。
ボクシングの感覚を利用するという発想は正しかったかもしれない。しかしそれをミッションの途中、いきなり本番で試すのは、本人が思ったとおり、考えが甘かったのだろう。
「お嬢様!」
黒川 が助手席の窓を開けて叫んだ。
「お前は車で追いなさい! 他の者は私の信号をトレースするよう伝えて!」
こんな時でも変 装 に相応 しい演技を忘れず、文弥 が黒川 に指示を出す。――もしかしたら、無意識の内になりきっているのかもしれない。
そうして文弥 自身は、路面を蹴って夜空に舞い上がった。
彼は『跳躍』と『自己加速』の魔法を組み合わせて、一人で有希 の追跡を始めた。◇ ◇ ◇
予定では、追い掛けてくる相手にペースを合わせて、
有希 は逃げるつもりだった。社長から与えられた作戦第二案では、「ヤミ」を振り切って逃亡してはならなかったからだ。
目論見どおり、有希 を追い掛けてくる相手はあの少女だ。だが有希 は、逃げ足を加減してはいなかった。
彼女は身体強化 を全開にして、最速で駆けている。
そうしなければ、追いつかれてしまう。
最初は断続的に姿を見せながら逃げるつもりだったが、すぐに止めた。姿を見せた瞬間、絶望的なまでの危機感に襲われたからだ。
彼女はずっと、ヤミの視線を避けて動いている。見られていない自信がある。もし数秒の短い時間でも視認されていれば、自分は既に倒されていただろうという予感がある。
それなのに、ヤミは迷わず自分の後をついてくる。
少しずつではあるが、距離を詰めている。
不気味なプレッシャーに耐えながら、有希 は作戦で指示されたビルへ向かって懸命に駆けた。◇ ◇ ◇
文弥 は最初、追い掛けながらダイレクト・ペインで有希 を狙撃するつもりだった。
だが有希 は街中に散らばっている障碍物 を巧みに利用して、文弥 に自分の姿を視認させない。
追跡は彼女の残留想子 ――おそらく、身体強化 に伴うもの――をたどれば良いので、行方を見失うことはない。だが文字通りの意味で言うなら、文弥 は最初から有希 を見失っていた。
視界を広げる為 、ゴーグルを外すというアイデアがチラリと意識を過 る。しかし文弥 が付けているゴーグルは、顔を隠すと共にウィッグを押さえる役目も果たしていた。ゴーグルのストラップがあるからという理由で、今夜はウィッグの留め具を減らしている。ゴーグルを外すと、激しく動いた際にウィッグが脱げてしまう危険性がある。
文弥 はまず、有希 の捕捉に専念することにした。攻撃は後回しにして、とにかく肉眼で捉えられる距離まで近づく。無力化はそれからと決めた。
単純なスピードでは、『跳躍』と『自己加速』を併用している文弥 より、『身体強化 』を使って駆ける有希 の方が速い。それ程、有希 の身体強化 のレベルは高い。
だが有希 は姿を隠しながら逃げている。
真っ直ぐ進めない。
その所為 で、文弥 は有希 の背中に、確実に接近していた。
そして遂に、文弥 は有希 を人気の無い商業ビルに追い詰めた。
敷地を取り囲むフェンスには、工事予定の看板が掛かっていた。テナントが入っている様子がないのは、立て替えの為 に退去済みなのだろう。
ビルに踏み込もうとして、文弥 は足を止めた。応援が来るのを待つべきかと迷ったのである。
しかしビルの中に逃げ込んでから、有希 の気配を追えなくなっていた。残留想子 も、ビルのエントランスで途切れている。身体強化 を解き、隠形の技を使っているのだと思われる。
彼女は行き当たりばったりで、ここに駆け込んだのではないだろう。このビルを目指して、逃げていたに違いない。であるなら、逃げ果 せる為 の手段がここに用意されていると考えるべきだ。
文弥 はそう推理して、躊躇 を踏み越えた。
スカートの下に巻いたウェポンベルトからポケットピストルの武装デバイスを取り出して右手に握り、左手にはナックルガード付きのナイフを構えて、文弥 はまだほとんど痛んでいない廃ビルに侵入した。