• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [8]激突

     逃げる殺し屋二人に追いつくことは、文弥ふみやにとって造作も無かった。
     片方が(非致死性)毒ガスの影響で自由に動けない状態であり、もう片方がその手助けをしながら逃走しているのだから、文弥ふみやでなくても追跡は難しくなかっただろう。
     文弥ふみやは階段を降りる途中で、思い出したようにCADを操作した。
     選んだ魔法は音を対象にした『拡散』。魔法が及ぶ範囲は彼がいる階段と、その上下の階の廊下。「遮断されていない空間」で定義される領域だ。彼が音と、彼に阻まれず通過している音を平均化して、区別がつかないようにする魔法。
     これも疑似瞬間移動と同じく双子の姉の亜夜子あやこが得意とする術式だ。姉程の完成度は出せないが、彼女の魔法を日頃から隣で見ている文弥ふみやは、一般的な魔法師のレベルを大きく上回る『拡散』の使い手だった。
     魔法が発動し、文弥ふみやを音で識別することが不可能になる。持続時間は三十秒に指定しておいた。それだけあれば先行する暗殺者を捕捉できる。必要以上に持続時間を長く設定しても、自分自身に余計な負担を掛けることにしかならない。戦闘を控えているのだから、力の無駄遣いは避けるべきだった。
     CADを操作し魔法が完成するまでの短い間も、文弥ふみやは足を止めていない。彼は軽快に階段を駆け下り、二階から一階に続く階段の中間、折り返しの踊り場で中年の男性を肩に担いだ少女の背中を視界に収めた。少女の方ははしばみ有希ゆきという名の暗殺者。男性の方の素性は分からないが、達也たつやの椅子をすり替えていた作業服の男だ。
     有希ゆきはあと数段で一階の廊下に到着する。廊下に出られても文弥ふみやに不都合はなかったが、逆にそれを待つ理由も無い。彼は右手に持ったままの武装デバイスを作業服の男に向けた。
     ポケットピストルを模したデバイスの銃口から二インチ(五・〇八センチ)の針が撃ち出され、作業服の男の腰に刺さった。
     男が悲鳴を上げて有希ゆきの肩の上で暴れる。
     有希ゆきたまらず、男を肩から落とした。
     文弥ふみやはそれをポーカーフェイスで見下ろしていたが、心の中では「しくじった」と顔をしかめていた。男があれほど激しく身体を反らせたのは、文弥ふみやにとって予想外だった。それが痛みによるものか、電流によって筋肉が収縮したのかは分からない。どちらにしても、文弥ふみやの計算違いだ。
     階段を転がり落ちる途中で、男の首が不自然に曲がったのを文弥ふみやの目は認めていた。改めて確認しなくても分かる。あれは致命傷だ。
     動揺は無かったが、後悔が文弥ふみやを襲う。殺さなければならない状況ではなかったし、死なせるつもりもなかった。彼はまだ、人を殺して何も感じないという域には至っていない。
     文弥ふみやは後悔から意識をらすため、殊更冷たい態度を演じた。
     階段の下から、有希ゆきが怒りと憎悪を燃え立たせて文弥ふみやにらんでいる。
     文弥ふみやは「冷静に」と自分に言い聞かせながら、その目を正面から見返した。
     武装デバイスを有希ゆきに向けているのは、文弥ふみやが意識してのことではなかった。訓練ですり込まれた戦闘の体勢を、自然に取っているだけだ。条件反射のようなものだった。
    「テメエ……何者だ?」
     有希ゆきにしてみれば当然のセリフだろうが、文弥ふみやはこの場面で話し掛けられることを予想していなかった。
     ――答えるべきだろうか?
     文弥ふみやは声変わりを迎えても、声の高さが余り変わらなかった。喉仏は全く目立たない。むしろ「無い」と言った方が良いくらいだ。声を出しても性別がばれる可能性はほとんど無い。
     それより問題は「何と答えるべきか」だ。あるいは「何も答えるべきではない」のか。
     必要か不要かで判断するなら、有希ゆきの問い掛けに答える必要は無い。文弥ふみやの正体を明かすのは論外だ。
     だが――コードネームくらいは、教えても良いのではないだろうか? 完全に正体不明のままでいるより、呼び名くらいはあった方が、相手にプレッシャーを与えられるかもしれない。
    「口が利けないわけじゃねえだろっ! 名前くらい教えろ!」
    「ヤミ」
     文弥ふみやは「名前くらい」という要求に、二文字の答えで応じた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきはポケットピストルサイズの「短針銃」を自分に向ける少女とにらいながら、激しい動揺と戦っていた。
     彼女が肩から落としてしまったボビーの状態は気掛かりだが、今は確かめている余裕が無い。銃口を向けられている状況なのだ。視線をらすのは自殺行為、という認識以前に、そんなことは怖くてできない。
     あの「少女」の「短針銃」は必ずしも致命傷を与える物でない。針が細く鋭いため、組織を広範囲に破壊しないからだ。電撃によって火傷やけどは負うが、かえって出血を抑える効果もある。昨日撃たれたジャックの傷でそれは分かっている。
     だが当たり所次第で、どんなに小さな傷でも人は死ぬ。それに銃撃で死ななくても、捕らえられれば後は分からない。ジャックは昨日、撃たれたまま放置されたが、今日も同じであるとは限らない。
    「少女」はまるで人形のように、無表情で一言も発しない。
     それが有希ゆきの恐怖をあおる。
     恐怖している自分に腹が立って、有希ゆきは黙っていられなくなった。
     有希ゆきが「少女」に名前を問う。
    「少女」は「ヤミ」とだけ、答えた。
    (「ヤミ」? 「弥美」「弥実」「矢美」……、いや、「闇」か……?)
     それは「少女」のにマッチしている名ではないように思われた。
     しかし同時に、年に似合わぬ静かなたたずまいは「闇」の名に相応ふさわしいとも思われた。
     声は顔に似合わず低めだが、大人びているという程ではない。しかしその短い言葉の内に、力みや緊張はまるで感じられなかった。
     戦う準備が、単に装備だけではなく、精神的に整っている。有希ゆきはそう感じた。
    「……あたしをどうするつもりだ」
     言ってしまってから、有希ゆきは無駄な質問をしたと思った。最終的にどうしたいのかは分からないが、なのかは分かりきっている。
     有希ゆきは直感に従って、横に跳んだ。
     彼女の残像を、鈍色の針が貫通する。
     有希ゆきは壁に両手両足をついてし、壁をって階段の端まで一気に降りた。
     ヤミが壁の有希ゆきに銃口を向ける。
     有希ゆきはまず手を、次に足を伸ばして反対側の壁にジャンプした。
     壁の角を片手でつかんで跳躍の勢いを殺し、有希ゆきは一階の廊下に降り立つ。
     階段から、有希ゆきの姿が見えなくなった。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきを見失った文弥ふみやが、階段を駆け下りる。
     ここで逃がすと、この学校の生徒を巻き込むことになるかもしれない。有希ゆきは無闇に犠牲者を増やすタイプには見えなかったが、所詮は職業犯罪者だ。追い詰められた状況で、他人の生命を尊重する保証は無い。
     有希ゆき文弥ふみやから見て階段の左側に消えた。
     文弥ふみやは左の壁に沿って階段を降りている。
     階段の右側には作業服の男の死体が転がっているという事情もあったが、左側の敵に対しては左の壁に沿って動いた方が見つかりにくいというマニュアルに、無意識に従った結果だった。 しかしそれは同時に、隠れている相手を見つけにくいのと同義。
     最後の一段で立ち止まり、壁の端からそっと廊下をうかが文弥ふみやに向かって、
     壁の向こうにしゃがんでいた有希ゆきが、ナイフを突き上げた。
     胸を狙った切っ先を、文弥ふみやってかわす。
    (逃げていなかったのか!)
     完全に裏をかかれた文弥ふみやが、体勢を崩して階段に尻餅をつく。
     ナイフを逆手に持ち直した有希ゆきが、文弥ふみやに襲い掛かろうと階段に足を掛けた。
     文弥ふみや有希ゆきの動きを目でしっかり捉えていた。
     文弥ふみやが武装デバイスの銃口を上げる。ポケットピストルサイズだが、針は銃弾よりずっと細い。魔法で飛ばしているから、発射薬も必要無い。
     針の装弾数は六本。まだ四本残っている。文弥ふみや躊躇ちゅうちょせず二度、引き金を引いた。
     狙いは両肩。左右どちらにかわしても、一方は当たる計算だ。
     しかしここでも、有希ゆきの動きは文弥ふみやの予想を超えた。
     彼女は階段に掛けた足一本で、文弥ふみやの身体を跳び越えたのだ。
     針は二本とも、有希ゆきのスカートを掠めるだけに終わる。
     彼女は飛び込み前転のような体勢で上の階段に左手をつき、その腕一本で自分の体重を受け止めた。器用に足を畳み、それを伸ばす勢いで上の段に着地する。
     その際、有希ゆきのスカートは派手に捲れたが、残念ながら階段に座り込んだ体勢の文弥ふみやの目は追いつかなかった。――彼女のスカートの下に何が隠れているのか、見えなかった。
     有希ゆきが踊り場に駆け上がる。
     その背中に銃口を向けた文弥ふみやだが、まるで狙われたのが見えているように、有希ゆきは踊り場の右に飛び込んだ。階段は右に折れている。一階から踊り場までは両側とも壁になっているが、踊り場から二階は胸の高さの手すりだ。しかし手すりはコンクリート製で、ブラインドになっていることに変わりはない。
     文弥ふみやが階段の左側を駆け上がる。さっきの奇襲を教訓として、陰になっている所をいち早く視認できるように外回りのコースを取っているのだ。
     階段を上りきっても、奇襲は無かった。
     文弥ふみやが踊り場を折り返し、二階へと顔を上げる。
     有希ゆきは、そこに待ち構えていた。
     右手に、ポケットピストルを構えて。
     有希ゆきが銃を持っていたのは、文弥ふみやにとって想定外だった。ここまで使わなかったのだから、銃は持っていないと決め付けていた。
     彼は反射的に右へサイドステップして、射線から身を隠した。

    ◇ ◇ ◇

     踊り場から二階へ、有希ゆきは階段を三段とばしで一気に駆け上がった。
     三階へ向かう階段の一段目で、手すりを遮蔽物にしてしゃがみ込む。
     そこで彼女はセーラー服のスカートをまくり上げ、太ももに巻いた小さなホルスターからポケットピストルを抜いた。
     上下二連式ダブルアクション、ハンマー内蔵式。ポケットピストルを模したデバイスではなく、本物の実弾銃だ。
     このまま逃げるというのも一つの手だったが、有希ゆきは交戦を選んだ。
     彼女には、遠距離の攻撃手段がない。彼女のメインウェポンはナイフだ。右手に持つポケットピストルも、このカテゴリーの代名詞となったデリンジャー程ではないが、有効射程距離が極端に短い。
     逃げ続けて見通しの利く場所に出てしまうと、一方的に攻撃されるという事態も予想される。それよりも接近戦でダメージを与えてから逃走する方が、逃げ切れる可能性は高そうだ。
     それに、一撃も喰らわせずに逃げるだけというのは、何だかしゃくさわる。有希ゆきの中には、そういう思いも確かにあった。
     有希ゆきは一瞬だけ躊躇ちゅうちょして、隠れていた手すりから飛び出した。
     幸い、ヤミはまだ階段を上りきっていない。
     有希ゆきがポケットピストルを掲げる。
     ちょうどその時、ヤミが踊り場に姿を見せた。
     ベストのタイミングだ。
     こちらの姿を認めたヤミが、反射的に来た方向へ逆戻りする。
     このピストルで階段の上から下では、命中は期待できない。有効射程距離自体が短い上に、有希ゆきは控えめに言っても銃が上手くない。
     しかし、有希ゆきの銃の腕をヤミは知らないだろうし、命中率が悪いということは偶然命中することもあるという意味に等しい。風が無い室内では、まぐれ当たりの可能性は無視できない。
     ヤミの回避行動は、反射的なものであっても合理的だった。
     ヤミは合理的な戦闘行動を取ると、有希ゆきは計算していた。
     その予測が的中した。ならば、こちらも予定どおりの行動を取る。
     有希ゆきはポケットピストルを口にくわえ、頭から階段の下へ勢いよくダイブした。
     途中で二度手をつき、手すりより低い高度を維持しながら踊り場へ跳ぶ。
     踊り場に右手をつき、足を振って身体をひねり左側を向く。
     左手は、くわえていたピストルを握っている。
     有希ゆきは踊り場の床を転がりながら、回転する視界の中でヤミに銃口を向け引き金を引いた。
     命中は期待していない。
     勢いよく回った有希ゆきは、立ち上がる勢いをそのままに床を蹴った。
     身体のあちこちが痛んだが、今は無視だ。
     彼女の身体強化フィジカルブーストは、無敵の肉体こそ与えてくれないが、強化された筋力に負けない程度の強度は生み出してくれる。
     有希ゆきは落下の勢いに強化された脚力をプラスして、踊り場の壁を駆け上がった。
     ヤミは銃撃を避けて、下の階段で身を低くしている。
     あの一瞬でしゃがみ込むだけでなく一歩だけでも移動した身体能力は大したものだが、有希ゆきの姿は明らかに見えていない。
     壁を横向きになって走り、有希ゆきは天井近くからヤミに飛び掛かった。
     ヤミがハッと上を向いたのは、セーラーカラーとスカートの裾がはためく音に反応したのか。
     ヤミの目の前に着地するのと同時。
     有希ゆきが空中で逆手に構えたナイフを、右手で振り下ろす。
     ヤミは有希ゆきの右手首を左前腕部で受けることにより、ナイフをブロックした。
     有希ゆきの左手が、ポケットピストルの引き金を引いた。
     ヤミの右手が、「短針銃」の引き金を引いた。
     ポケットピストルから撃ち出された銃弾が、ヤミのスカートを貫通して右足に食い込む。
     一瞬遅れて発射された針が、有希ゆきの左腕に刺さる。
     電気ショックが有希ゆきの左腕を走った。
     火傷やけどの痛みがやって来る前に、有希ゆきは左腕の感覚をカットした。身体強化フィジカルブーストの応用だ。
     ポケットピストルが有希ゆきの左手から滑り落ちたが、どうせ二連発式だ。二発とも撃った後だし、弾を込めている余裕は無い。
     有希ゆきはヤミに背を向けて、階段を駆け下りる。
     途中、強烈な危機感に襲われ、
     有希ゆきは反射的に跳び上がった。
     右手を傾斜した天井に突き、右足で壁を蹴って左に跳ぶ。
     左の壁を左足で蹴って、今度は前に跳ぶ。
     一番下の段に着地した有希ゆきは、勢いに逆らわず前転して、
     勢いを活かして立ち上がり、今度こそ一目散に駆け出した。

    ◇ ◇ ◇

     銃撃を受けた右足が激しい痛みを訴える。文弥ふみやは額に脂汗を浮かべながら、声を出さずそれに耐えた。
     魔法で痛みを誤魔化すことはできる。だが今はそれより、優先すべきことがあった。
     文弥ふみやは右手の武装デバイスを手放した。針はまだ一本残っていたが、左腕にはめたCADを操作するためには右手を自由にしなければならない。
     文弥ふみやは壁に寄り掛かりって、袖の下に隠したCADを操作した。
     ブレスレット形態でありながら特化型のCADには、彼の切り札である魔法の起動式が格納されている。
     魔法の名は『ダイレクト・ペイン』。
     相手の精神に直接、痛みを与える魔法。
     苦痛の種類は、文弥ふみやが知る限り。
     強さは、自由自在。
     文弥ふみやは感電の痛みを、意識を失うレベルで与える魔法を、逃げる有希ゆきに撃ち込もうとした。
     だが魔法を発動する直前、有希ゆきが消えた。
     有希ゆきの姿を、見失った。
     今の文弥ふみやは、何処どこに存在するのか特定できないものを対象に魔法を発動することができない。
     直接目視していなくても、何処どこに位置するのかが分かっていれば、それに対して魔法で干渉できる。だが何処どこに行ったのか見失ってしまっては、魔法を掛けられない。
     彼にはまだ、事象に付随する情報だけで魔法の照準を合わせる技術が無い。そのコツをつかんでいない。
     壁を蹴る音に、目を向ける。
     だが有希ゆきの姿は既に、そこに無かった。
     アクロバティックな彼女の動きに、目がついていかない。
     文弥ふみやが最後に有希ゆきの影を捉えたのは、階段の端から廊下に消えていく足だった。
     文弥ふみやは壁に背中を預けたまま、ずるずると座り込んだ。
     足が痛む。
     だがそれよりも、階段に転がっている作業服の男の死体を何とかしなければならない。
     こんなものを見られては大騒ぎだ。
     文弥ふみやは苦痛を我慢して、右腕のCADを左手で操作した。
     まず踊り場の窓を開け、
     次に疑似瞬間移動で男の死体を空に放り上げる。
     打ち合わせる連絡はしていないが、飛行船の黒川くろかわたちが何とかしてくれるはずだ。
     壁に弾痕が残っているが、その程度なら単なる「事件」で済むだろう。
     足下の武装デバイスをスカートのポケットに戻し、有希ゆきのポケットピストルを反対側にねじ込んで、後始末はいったんお仕舞いだ。
     文弥ふみやは力を抜いて、壁にもたれかかった。

     彼が放心していたのは数十秒程度。
     我に返ったのは迂闊うかつにも、近づいてくる人の気配に気付いてからだった。
     文弥ふみやは慌てて立ち上がろうとして、激しい痛みに再び蹲った。
     銃弾は防弾・防塵繊維ぼうじんせんいの制服とタイツを突き破って太ももの外側に食い込んでいる。
     衝撃はそれ程でも無かったから、発射薬のパワーで貫かれたのではないだろう。
     銃弾の形状で貫通力を高めたメタルジャケットの尖頭弾せんとうだんか。防弾繊維でなければ、おそらく足を貫通していた。この当たり所では、そちらの方が良かったかもしれない。
     とにかくこの場を離れなければ。そうあせった文弥ふみやは、
    「どうしたんだ?」
     階段の下から掛けられた声に硬直した。
     聞き覚えのある声。聞き間違えるはずはない。
    「……司波しば君。あの子、具合が悪いんじゃあ……」
    「先に行ってくれ。俺が保健室に連れて行く」
    「一人で大丈夫か?」
    「大丈夫だ」
     達也たつやの言葉に、クラスメイトらしき男子三人は大人しく従う。
     この学校では、達也たつやは一目も二目も置かれているらしい。そう思うと、文弥ふみやは何だか嬉しくなった。彼の唇に浮かんだ笑みは、足の痛みですぐに消えてしまったが。
     文弥ふみやが顔を上げる。
     体操服姿の達也たつやが、すぐ側に片膝をつく体勢でしゃがみ込んでいた。
    「やはりヤミか」
    達也たつや兄さん……。は、その」
     文弥ふみやの言い訳を、達也たつやが目で制する。
     達也たつや文弥ふみやの銃創に、左手をかざした。
     乾いた音を立てて、小さな銃弾が階段に落ちる。
     文弥ふみやの傷は、一瞬で消えていた。
     達也たつやが壁の弾痕にも左手を向ける。
     壁が元に戻り、銃弾が落ちてきた。
    「これはお前が持って行け」
     達也たつやが銃弾を二つとも拾い上げ、文弥ふみやに手渡す。
    「ありがとうございます。……面目ありません。逃がしてしまいました」
    「ダイレクト・ペインが通用しなかったというわけではなさそうだ」
    「……はい」
     誤魔化そうという思考さえ脳裏に浮かばず、文弥ふみやうなずいた。
     ダイレクト・ペインが撃てていれば、あの少女暗殺者を逃すことはなかった。武装デバイスで手の内を隠そうなどと考えず、最初からダイレクト・ペインを使っていれば、このような醜態をさらさずに済んだかもしれない。
     文弥ふみやはそう考えて、唇をんだ。
    「素早い回避動作で、照準をつけられなかったか」
     壁に残った小さな足跡を見ながら達也たつやつぶやく。
     正確な推理に、文弥ふみやが何も言えずうつむく。
    「ボクシングのようなわけにはいかないんだな」
     だが達也たつやの何気ない一言に、文弥ふみやはハッと顔を上げた。
    達也たつや兄さん、それはどういう意味ですか……?」
    「むっ? どういうと言われても、そのままの意味だが。ボクシングでは、相手の回避を予測してパンチを繰り出すだろう?」
     身体が小さな文弥ふみやは、バスケットボールやバレーボールのように身長が有利不利を大きく左右する競技を得意としていない。苦手と言うより、嫌っている。
     その反面、体重別階級制を採用している近代以降の格闘技は得意としている。特にアマチュアボクシングは、ジュニア大会に出れば高い確率で優勝できる程の腕前だ。
    「そう……ですね」
    「まあ、格闘技は肉体的な感覚にるところも大きいからな」
     達也たつやが自分の言葉にあきれているような苦笑いを浮かべる。
    「いえ、参考になりました!」
     それに対して文弥ふみやは、晴れ晴れとした笑みで応えた。
    「そうか」
     その勢いに、達也たつやはやや気圧けおされ気味だった。
    「それより、一時限目が終わる前に立ち去った方が良い」
     思わず引いてしまったことを誤魔化すためか、達也たつやが話題を変える。
    「そういえば、まだ授業中ですよね……?」
     そのセリフに、文弥ふみやは忘れていた疑問を思い出した。
     授業時間はまだ半分近く残っているはず。達也たつやと彼のクラスメイトは、なぜここを通り掛かったのだろうか。
    「ああ。まあ、サボりだ」
    「サボり……ですか?」
    「試合が終わったからな。喉も渇いたし、抜けてきた」
    「はぁ……」
     見学していなくて怒られないのか、と文弥ふみやは少し心配になった。
     同時に「ワイルドな達也たつや兄さんも魅力的だ」と、まるで恋する少女のようなことも考えた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは校舎裏の壁に背中を預けて、ようやく一息ついた。ここは一種の死角になっていて、ほとんど人が近づかない。一時的なセーフティゾーンとして使えると、有希ゆき鰐塚わにづかから聞いていた。
     有希ゆきはセーラー服の左袖をまくり上げた。肘より少し上の肌から、鈍色の針が五ミリ程頭を出している。
     有希ゆきはそれを右手の親指と人差し指でつまみ、一気に引き抜いた。
     同時に、左腕の痛覚遮断が解除される。漏れそうになる声を、喉の奥でむ。
     苦痛が通り過ぎ、彼女は押し殺していた息を吐き出した。
    「まずったな、色々と……」
     呼吸を整えながら、自嘲的に愚痴を漏らす。
     仕事は今日も失敗。中学生の真似まねまでして、リスクを冒して潜入したのに、ターゲットに接触すらできなかった。
     同僚を助けることができなかった。倒された仲間を、連れ帰ることさえできなかった。
     拳銃を、証拠品を現場に残してきてしまった。指紋を採られるような不用心な真似まねはしていないが、ただでさえ銃が手に入りにくい日本だ。入手ルートを探られるのは疑いない。
    「首になっても、文句は言えねえぞ……」
     亜貿社あぼうしゃ。それは堅気の会社を解雇される場合のように、単に職を失うというだけではない。
     そんなもので済むはずがない。
    「もちろん、大人しくつもりは無いけどな」
     会社を首になるのは仕方が無い。
     だが、つもりは無い。有希ゆきは自分にそう言い聞かせて、自身に活を入れた。

    ◇ ◇ ◇

     達也たつやと別れた文弥ふみやは、屋上に上がった。『しょう陰鏡いんきょう』を使って殺気を探ってみたが、ヒットするものはない。取り敢えずあの二人以外の殺し屋は潜入していないと判断して、達也たつやの忠告どおり撤退することにしたのである。
     撃たれた傷の痛みは無い。達也たつやが消し去ってくれたからだ。彼が痛みを肩代わりしてくれたと別れた後に気付いて、文弥ふみやはとても申し訳ない気持ちに襲われたが、後の祭りである。今はありがたく、達也たつやの好意を借りておくことにした。
    「こちら、ヤミ」
     耳にはめたままの通信機をオンにして話し掛ける。
    黒川くろかわです。感度良好、どうぞ』
     突然だったにもかかわらず、返事にタイムラグは無かった。
    「いったん戻ります」
    『了解です。サポートは必要ですか?』
     黒川くろかわの質問は、空中で文弥ふみやをゴンドラの中から引き寄せましょうか、という意味だ。
    「ドアだけ開けておいてくれれば結構です」
     無論文弥ふみやは、そんな荷物扱いに甘んじるつもりは無かった。
     飛行船は見えている。ゴンドラの細部まで見えているわけではないが、文弥ふみやは自分の記憶に従って、ドアがあるはずの場所に疑似瞬間移動のゴールを設定した。
     魔法が発動する。
     次の瞬間、文弥ふみやは開け放たれたドアの前にいた。
     重力に捕まる前にもう一度魔法を発動し、文弥ふみやはゴンドラに乗船した。
    「お帰りなさいませ、
     黒川くろかわではない黒服が、少しおお袈裟げさな言葉遣いで文弥ふみやを出迎える。
     過剰なお嬢様扱いに反発することもある文弥ふみやだが、今はそのセリフをスルーした。
    「死体を送りましたが、回収できていますか?」
    「はい。しかし、次からは事前におっしゃってください」
     文弥ふみやの問い掛けに、黒川くろかわが答える。
     彼の苦情を無視して、文弥ふみやは作業服の殺し屋の死体が床に転がっているのを確認した。
    「首の骨が折れています。これが直接の死因でしょう」
     文弥ふみやの視線を質問だと解釈した黒川くろかわが、先回りした答えを追加した。
    「所持品は?」
    「ウエストバッグに可塑性爆薬を約一キロと工具、ツナギのポケットに小型の起爆装置を各種。どうやら爆殺専門の暗殺者だったようですね」
    「爆弾魔ですか。そうすると、先に送った椅子も?」
    「はい。爆薬が仕込まれていました。座面に掛かった圧力がスイッチになって爆発する仕組みです」
    「座ればドカン、というわけですね……」
     まさに、「尻に火がつく」わけだ。文弥ふみやは衣装とメイクに似合わぬ、品が無い表現を思い浮かべた。
    「爆発していれば、半径十メートル以上に被害が及んだでしょう。お手柄でしたね、
     黒川くろかわが口にした最後の言葉に文弥ふみやは内心ムッとしたが、まだ変装を解いていないことを考慮して文句はつけなかった。
    「いえ、手柄を立てたとは言えません。もう一人は逃がしてしまいました」
    はしばみ有希ゆきという少女ですか?」
    「そうです」
     そう答える口調は落ち着いたものだが、文弥ふみやの顔には一瞬、口惜くやしそうな表情がよぎった。
     黒川くろかわはそれに、気付かなかったふりをした。
    「やはりその異能者、相当手強てごわいようですね」
     黒川くろかわのセリフは、おそらく慰めだ。
    「次は仕留めます」
     それに対して、文弥ふみやは強気な答えを返した。

    ◇ ◇ ◇

     息を潜め、気配を殺して隠れていた有希ゆきは、二時限目の授業が始まった後に塀を学校を脱出した。これは予定どおりの行動だ。
     飛び降りた先には、グレーのボックスワゴンが停まっていた。有希ゆきはその後部座席に素早く乗り込んだ。
    「失敗だ」
     鰐塚わにづか有希ゆきの一言に何も問い返さず、すぐにワゴン車を発進させた。
     有希ゆき鰐塚わにづかの目を気にせず、制服を脱ぎ始める。セーラー服を着た少女が平日にうろうろしていては無用な注目を集めてしまう。車を運転している鰐塚わにづかが職務質問を受ける恐れもある。
     彼女はデニムのショートパンツに足を通し、作業員風のジャンパーを羽織った。髪をゴムで纏め、ヘアバンドを前髪の下に巻く。ラフな勤労少女の出来上がりだ。
    「ところでナッツ。ボビーがいたはずですが……」
     着替えが終わったのを音で判断して、鰐塚わにづか躊躇ためらいがちな口調で有希ゆきに話し掛ける。
    「知っていたのか?」
     有希ゆきは険のある声で応じた。
     そこに「何故なぜ事前に教えなかった」という非難を嗅ぎ取り、鰐塚わにづかは慌てて否定を返した。
    「いえ! ボビーの出動を知ったのは、ナッツのお迎えに出発する直前です。会社からボビーも一緒に回収しろという指示が入ったので」
     そこで鰐塚わにづかは、不安げに眉をひそめた。
    「それで……ボビーには会わなかったんですか?」
    「あいつはやられた」
     有希ゆき仏頂面ぶっちょうづらで微妙に的を外した答えを返す。それが意図的なものかどうかは、本人にも分かっていないだろう。
    「やられた!?」
    「例の針で撃たれた。捕まったかどうかは分からん」
    「今回も少女が出てきたんですか!?」
    「ああ。ヤミという名前らしい。どうせコードネームだろうけど」
     皮肉げな声でそう言った後、有希ゆきは言い訳がましく付け加えた。
    「あたしも左腕に喰らった。だが向こうにも一発、お見舞いしてやったぜ」
    「そうですか……。今回は痛み分けということですね」
    「あたし一人の勘定で良ければ」
     短い沈黙がワゴン車の中を通り過ぎる。
    「……会社に戻るのが憂鬱ですね」
    「報告しないわけにはいかんだろうよ。とんずらを決め込むなら話は別だけどな」
    「抜け忍には死あるのみ、ですよ」
    「ハッ……!」
     鰐塚わにづかの冗談めかしたセリフを、有希ゆきが鼻先で笑い飛ばす。
     しかし彼女は、この使い古されたフレーズが冗談では済まないことを、本当は知っていた。