• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [7]潜入

     殺人結社『亜貿社あぼうしゃ』。その社長、両角もろずみ来馬くるまは、ぶつけ所の無い苛立ちに苦しんでいた。
     先日、実働部門の社員――要するに彼が従える殺し屋の一人が、仕事の現場を目撃されるというへまをやらかした。
     それ自体は、そんなに珍しいことではない。無論、誰にも見つかることなく仕事を終えるのが原則だ。だが万全の準備を整え慎重に行動しても、偶然が入り込む余地は無くせない。狩り場を封鎖して事に当たれば偶発的な目撃者の発生を防止できるかもしれないが、残念ながら両角もろずみの会社には、それだけの大仕掛けを可能にする力は無い。
     偶然第三者に見られる可能性は、常に一定量存在する。だから重要なのは、その後の対処だ。
     具体的には、目撃者の口封じ。
     ベストは、見られたその場で始末する。それができなければ、可能な限り早急に、今度こそ誰にも見つからないように、殺す。
     ところがその下手を打った社員、はしばみ有希ゆきは、もう五日も目撃者を生かしたままにしている。そろそろ警察が生き証人に接触してもおかしくない頃合いだ。
     はしばみ有希ゆきの、殺し屋としての腕は決して悪くない。年こそ若いが、戦闘能力自体は亜貿社あぼうしゃでもトップクラスだ。
     暗殺者にとっては、直截的な戦闘力より潜入能力と逃走能力の方が重要だと両角もろずみは考えている。そちらの方も、有希ゆきの技術は高い水準にある。
     要するにはしばみ有希ゆきは、会社にとって簡単に切り捨てたくない社員だった。
     目撃者の始末に手こずっている有希ゆきに助っ人を出したのも、その判断があったからだ。
     また、始末すべき相手が忍術使い・九重ここのえ八雲やくもの関係者、つまりただ者ではないという事情も考慮した。
     ところが、彼が加勢に選んだ暗殺者が今日、返り討ちに遭った。
     両角もろずみにとっては、思いも寄らない計算違いだ。
     しかもコードネーム『ジャック』を戦闘不能に追い込んだのは、ターゲットの男子中学生ではなく正体不明の少女だというではないか。
     その「少女」は、ジャックを殺さなかった。不意打ちとはいえ、殺さずに無力化する能力があるということだ。「少女」はジャックだけでなく、有希ゆきも撃退している。
     その「少女」も、九重ここのえ八雲やくもの関係者なのか。
     しかし「少女」は、針を撃ち出す銃を使ったという。
     九重ここのえ八雲やくもは、銃を嫌っている。これは有名な話だ。
     それとも、「銃を嫌って使わない」という噂自体が九重ここのえ八雲やくもの手口なのか。
     あるいは、「少女」の得物が銃に似て銃ではないのか。
     気絶したジャックは、通行人に見つかる前に会社が回収した。彼の右肩と両足から出てきた五・〇八センチの針は、単なる鉄の塊だった。電源も回路も何も仕込まれていない、ただの針だ。ワイヤレス・スタンガンの機能は持っていない。
     しかし針が埋まっていた周囲の組織には、電撃によるものと推測される火傷が見られた。
     実は、電流を送り込むワイヤーがつながっていたのか。あるいは、無線送電で電撃を加える新技術なのか。
     それとも――魔法によるものなのか。
     ジャックも有希ゆきも、その「少女」は突然現れたと言った。
    「少女」と交戦した有希ゆきによれば、彼女と戦っている最中、「少女」は魔法らしきものを使わなかったらしい。
     もしかして、電撃を操る異能を持つ忍者なのだろうか。
     分からないことが多すぎる。
     唯一確実なのは、今日も目撃者を仕留め損なったということだ。
     両角もろずみには飲酒の習慣が無い。だが今夜は無性に、酒が欲しくなっていた。

    ◇ ◇ ◇

     想定外の飛び入りにより、またしても司波しば達也たつやの暗殺に失敗した翌日。
     有希ゆきは再び、中学校の制服に身を包んでいた。
     ターゲットとその妹が通う私立中学校のセーラー服だ。
     ただ先日と違うのは、司波しば達也たつやよりも早く登校している点だった。
    「おはようございます」
     愛想良く挨拶して、校門を通り抜ける。無線によるIDチェックも抜かりない。このIDの本来の持ち主は、本日欠席の予定だ。IDカードさえ持っていれば、人相照合はしない。それに校内では、特別な事件が起こらない限り防犯カメラのチェックやIDカードのトレースを行わないことは調べがついている。
    (ありがたいね、プライバシー保護ってやつは)
     心の中でほくそ笑みながら、有希ゆきは保健室に向かった。校医は今日、。IDカードを生徒はだ。ベッドの中で眠っているふりをしていれば、見つかることはないだろう。
     授業時間になれば、校舎内は教室以外、無人も同然となる。ターゲットへの接近も容易たやすい。今度こそ、邪魔が入る前に仕留められるだろう。――いや、仕留めなければならない。
     その為に、今は待ちの一手だ。
     有希ゆきは早速、頭近くまでブランケットを被って狸寝入りを決め込んだ。

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみや達也たつやが通う中学校を、空の上から見下ろしていた。偶々この空域を飛ぶ広告用の飛行船があったので、それを利用させてもらっているのだ。
    「残念ですが、やはり空の上からでは中の様子が分かりませんね」
     黒服の一人が話し掛けてきた言葉を、文弥ふみやは憮然とした表情で聞いていた。
    「……黒川くろかわ、お前はどうだ」
    「本物の殺意を隠しているものが二人。その内の一人は昨日と同じ少女です」
    「彼女か……名前は、はしばみ有希ゆきだったな?」
    「組織内では『ナッツ』のコードネームで呼ばれることが多いようです。ただ何百人もの生徒が発している気配が邪魔をして、校舎の何処にいるのかまでは……」
     そこでいったん言葉を切って、黒川くろかわ文弥ふみやに申し訳なさそうな目を向けた。
    「やはり、が校内に潜入する必要がありそうです。――
    「クッ……」
     文弥ふみや達也たつやが通う中学校の制服を着ていた。女子用のセーラー服だ。
    「潜入するのに、何故女子生徒の格好を……!」
    「昨日の殺し屋に遭遇する可能性がありますから……。お嬢様が実は男で、女装趣味があると誤解されたくはないでしょう?」
    「僕は男だ! そこは誤解じゃない!」
    「ええ、分かっていますとも」
     黒川くろかわに、文弥ふみやは唇を噛んだ。
     往生際悪く文句を言ってみても、これが必要なことだと文弥ふみやにも本当は分かっている。そうでなければ、セーラー服に着替えてはいない。
    「……行ってくる」
    「お気を付けて」
     文弥ふみやは観念して、ゴンドラのドアに向かった。

     文弥ふみやが降りたのは、校舎の屋上だ。無論、パラシュート降下などという目立つ真似はしていない。言うまでもないことかもしれないが、疑似瞬間移動の魔法を使ったのである。
     疑似瞬間移動は、水平方向も垂直方向も無差別だ。水平に一キロ飛ぶのも垂直に千メートル降下するのも難度は同じ。魔法による降下中も重力は働いているが、術式の性質上ほぼ静止状態で着地することになる。
     文弥ふみやは屋上から校舎内へ侵入する前に、『しょう陰鏡いんきょう』を使ってみた。黒川くろかわ程上手くはないが、文弥ふみやの技術も実用レベルには達している。
     近づけば詳細な情報が得られるかと考えて試してみたのだが、やはり生徒が発する気配が強すぎて大まかな位置しか分からなかった。ティーンエイジャーはエネルギーに溢れている。彼らが無意識に発散する精気は、気配を読む技に対してジャミング波に等しい。
    (二人とも一階……昨日の少女は校舎の真ん中近く、もう一人は端の方か)
     文弥ふみやはまず有希ゆきではない方をターゲットにして、移動を開始した。

     この中学校の校舎は四階建て。文弥ふみやは目立たぬよう早すぎもせず、遅すぎもしない足取りで階段を下りていく。
     彼が三階に達したタイミングで、生徒たちがぞろぞろと教室に入り始めた。始業時間が近いということだろう。
     本来、潜入を得意としているのは双子の姉の亜夜子あやこの方で、文弥ふみやの魔法は戦闘向きだ。亜夜子あやこなら何食わぬ顔で教室に入って、教師にも生徒にも気づかれることなく部屋の隅に立っているという芸当も可能だろう。彼女の魔法は、透明化に近いことができる。
     文弥ふみやには、教室内に紛れ込むという選択肢は無い。無人となった廊下を歩き回る以外に無い。
     とはいえ彼も、四葉よつば家の諜報部門、黒羽くろば家の長男。また、精神干渉系魔法に高い適性を持つ魔法師だ。自分の存在を誤魔化す手段の、一つや二つは持っている。
     文弥ふみやはセーラー服の袖に隠したCADを、服の上から操作した。こういう小技は、諜報活動の為、魔法教育とは別に仕込まれている。
     セーラー服の下で起動式が読み込まれ、文弥ふみやの魔法が発動する。
     外から見た変化は無い。だが文弥ふみやは満足げに頷いて、踊り場から二階へ続く階段へ向かった。
     そこで早速、教師と出会う。
     中学校でも端末学習が普及しているが、科目ごとの教師が必ず教室にいて生徒の監視と質問に対する回答、遅れている生徒の指導などを行う、というのが中学校の一般的な授業風景だ。中学校では定期的にディベートを行うことになっているので、その企画と実施も教師の仕事となっている。
     だから生徒が教室に収まった後に、こうして教師とのは想定の範囲内だった。
     すれ違っただけ。一瞬目が合っただけで、教師は文弥ふみやを注意しようとせず、それどころか「関わりたくない」とばかりに顔を背けて立ち去った。
     精神干渉系魔法『凶眼』。視線を通して相手に忌避感を懐かせる魔法。
     最大出力で放てば相手にパニックを起こさせ、恐慌状態の中で自殺に追い込むこともできる魔法だが、今は「関わり合うと厄介な生徒」と思わせる程度で十分だ。
     威力を下げる代わりに持続時間を長く設定した『凶眼』の光を目に宿して、文弥ふみやは彼が探知した殺気の許へ足を進めた。

    ◇ ◇ ◇

     始業のチャイムが鳴った。
     そこから五分待って、有希ゆきは保健室のベッドから抜け出し、行動を開始した。
     IDカードはベッドの中に置いておく。ここから先は、自分の現在位置を警備システムに報せるこのカードが、むしろ邪魔になる。
    (あの男のクラスは……)
     相棒から仕入れた情報を記憶の中から引っ張り出して、有希ゆきは中央階段へ向かった。
     この学校では、三年生の教室は四階だ。移動距離が長くなる分、発見されるリスクも高まる。それをスピードで相殺すべく、有希ゆきは最上階まで階段を一気に駆け上がった。
     足音は立てなかったが、スカートが少々はしたないことになるのは避けられなかった。まあ、どうせ見ている者はいない。……十七歳でありながら、中学生の制服を着ている状態でスカートの中を見られたら、有希ゆきでなくても少しは死にたくなるかもしれない。
     取り敢えず、誰かに目撃された気配は無かった。事前の情報で、まだ事件が起こっていない状況では、防犯カメラは無視できると分かっている。
    (つまり、一発勝負ってわけだ)
     録画データはどうしようもない。だがリアルタイムで監視されていなければ、
     司波しば達也たつやの教室に煙幕を兼ねたガス弾を放り込み、混乱に乗じて最初の一撃でけりを付ける。それが有希ゆきのプランだった。
     使用するガスの効果は酩酊めいてい。即効で意識を奪う程、強力なものではない。無関係の中学生を後遺症で苦しめるのは、たとえ偽善と誹られようとも彼女の望むところではなかった。
     幸い、四階の廊下に人影は無い。邪魔者の気配も感じられない。
     とはいうものの、昨日の「少女」は何の気配も無く突然現れた。今、彼女の感覚に何も引っ掛からないからといって、あの「少女」が近くにいないという保証は無い。色々な意味で、のんびりしてはいられない。
     有希ゆきは体勢を低くして、目的の教室の、扉の前へ移動した。
     中は静まりかえっている。
     いや、それどころか人の気配が感じられない。
    (……?)
     不審を覚えた有希ゆきは、ドアをそっと、少しだけ開けて、その隙間から教室の中をのぞき込んだ。
    (……はぁっ?)
     教室には、誰もいなかった。この時点で有希ゆきはようやく、気配が無かった理由に気づいた。
    (移動教室? それとも体育か……?)
     ちょうど、クラスの教室で授業が行われない時間割だったのである。
     肩透かしにあった所為せいで、気が抜けてしまったのは否めない。
     彼女自身がここまで来るのに使った階段を上がってくる人の気配に気づいた時には、廊下の
    端まで逃げおおせる可能性が五分五分のタイミングになっていた。
     迷ったのは、一瞬だった。
     有希ゆきは教室の中に逃げ込み、音を立てない範囲で可能な限り素早く扉を閉め、さらに、教卓の下へ隠れた。

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみやがたどり着いたのは、清掃業者の準備室だった。用務員室や宿直室とは少し違う。この中学校は掃除の時間というものが無い。生徒の稚拙な掃除が不衛生を招かないようにという理由で、専門の清掃業者を入れている。備品の交換や簡単な修理も清掃業者が一緒に請け負っていた。
     今や私立校では、こういう形の業務委託はそれほど珍しくない。
     この部屋は、出入り業者の更衣室兼作業用具の一時保管倉庫だ。購買部と並んで、部外者が入り込みやすい場所だと言える。
    (その分、身元チェックはしっかり行うはずだが……。いや)
     文弥ふみやは先入観に基づく疑問を頭の中から追い出した。この辺りに殺気を秘めた人間の存在を感じて、その先に部外者が侵入するのに都合の良い部屋があった。無関係だと考える方が、間違っている。
     部屋の中は無人だ。あの殺気の源が暗殺者なら、そいつはもう動き出している――。
    (――っ! 僕は何をのんびり構えているんだ!)
     文弥ふみやは大急ぎで階段に戻った。
     達也たつやのクラスは体育の授業中で、教室は無人。何かを――例えば爆弾を仕掛けるには、絶好の機会だ。
    (まだ授業は始まったばかりだ)
     既に仕掛けが終わっていたとしても、取り除くには十分な時間がある。文弥ふみやは逸る気持ちを抑えて、急ぎ足で階段を上った。

    ◇ ◇ ◇

    (――入ってきやがった)
     教卓の下に潜り込んだ有希ゆきは、ドアを開ける音と近づいてくる足音に、息を潜めて心の中で悪態をついた。
     足音は一人分。ある程度大きな物を抱えているような歩き方だ。
     歩調からして、警戒している様子は無い。あるいは、警戒している素振りを見せないようにしているのか。
     有希ゆきは教卓の横からそっと顔をのぞかせた。
     足音を視線で追い掛けて、すぐに顔を引っ込める。
    (あいつは――!)
     後ろ姿しか見えなかったが、間違いない。教室に侵入した男は彼女の同僚の爆弾魔、『ボビー』だった。
     ボビーはツナギの作業服を着ていた。腰には大きめのウエストバッグを、背中に回して巻いている。清掃業者のロゴらしきものも、一瞬だが確認できた。
    (ちっ……。あたしもあっちの方が良かったぜ)
     掃除人として校内に入り込むというのは、盲点だった。
    (クロコめ、何でボビーと同じ手を……いや、そうか)
     相棒に八つ当たりし掛けて、有希ゆきはそれが筋違いだと気付いた。
     ボビーが得意とする手口は爆殺。
     爆殺を実行する為には、爆弾を仕掛けなければならない。
     その前提条件として、ターゲットの生活圏に侵入することが必須となる。
     殺し屋の仕事を果たす為に、ボビーは日頃から多種多様な潜入手段を開拓し、確保しているに違いなかった。
    (だからといって、尊敬する気にはなれねえがな)
     そのプロ意識は大したものだと有希ゆきも思う。だが結局は、自分は安全な場所にいながら、不必要に大勢の人間を巻き込まなければターゲットを殺せない爆弾魔だ。少なくとも街中で仕事をしていい殺し屋ではない。
    (……お前は軍事施設とかテロリストのアジトとかを狙っていろよ)
     有希ゆきはどうしても、そう思ってしまう。
     心の中で好き放題こき下ろしていても、有希ゆきは気配を漏らさない。父母が授けた忍者修行は不完全なままで終わったが、隠形の技術は一級品のレベルで彼女の身体に叩き込まれている。
     作業服の爆弾魔・ボビーは有希ゆきの視線に気付かず、窓際の席に移動した。
     彼が両手に何かを抱えているのはさっきから見えていたが、それが何か有希ゆきはようやく確認できた。
     ボビーが持っているのは、生徒が使っている物と同じ型式の椅子だ。座面は樹脂製で背もたれは固定されているが、四本の脚に高さ調節機能が内蔵されていて同調して昇降する。中学校で使う物にしては、安くない。公立では予算が出ないに違いない代物だ。私立校ならではの備品と言える。
    (椅子の交換……? そういうことか)
     有希ゆきはボビーのたくらみを見抜いた、と思った。彼女の推理では、ターゲットが座る椅子を爆弾入りの物に交換しようとしている。感圧スイッチか、時限スイッチで爆殺しようという計画だ。
    (椅子に座った相手を吹っ飛ばせば良いんだから、部屋全部をぶっ壊す威力は必要無い……。巻き添えになるのは五、六人といったところか)
     ボビーが何十人も巻き込む仕掛けをたくらんでいたなら、彼女は妨害するつもりでいた。自分の不始末の後片付けだからこそ、主義に反する殺しを見過ごす気は無かった。
    (五、六人程度なら……)
     だがその程度の犠牲者であれば邪魔をするのは止めよう。有希ゆきはそう思った。本当は五、六人どころか二、三人でも、いや、一人でも無関係の子供を――中学生は彼女より紛れもなく「子供」だ――死なせたくはない。しかしボビーは会社に言われて、有希ゆきの仕事を手伝いに来ているのだ。
     あの男子中学生の暗殺は、本当ならば有希ゆきが一人でけりをつけなければならない後始末。彼女がボビーの仕事を邪魔するのは筋違いも良いところだ。
     それに無関係と言うなら、司波しば達也たつや自体が殺しの現場を見ただけの人間。
     相手が素人でないのは確かで、単なる中学生を犠牲にするより罪悪感は薄いが、自分の勝手な都合で命を奪おうとしていることに変わりはない。そもそも殺し屋が罪悪感など持ってはならないのであって、彼女の「主義」は偽善でしかないと有希ゆき自身が理解していた。
     理解してはいたが。
     本心から納得できているかどうかとは、また話が別だった。
     有希ゆきの心の中で、舌打ちが漏れる。
    (……とろとろすんな。さっさと終わらせろよ)
     教卓の下で、彼女は声にならない八つ当たりを同僚に浴びせた。
     有希ゆきは一刻も早くこの場を立ち去りたかった。爆弾が仕掛けられているのを、何時いつまでも傍観し続ける自信が無かった。
     別に、有希ゆきが同僚の爆弾魔に姿を見せても、不都合はなかった。お互い連携することなく別々に動いてるが、同じ組織のメンバーで目的も同じなのだ。
     仕事のスタイルが違うから、手伝いを強要されることもない。
     狭い教卓の下から出て、軽く挨拶をするだけで有希ゆきはこの教室から立ち去れる。
     それなのに彼女は、窮屈な思いを我慢してまで、隠れたままだった。
     爆殺という手口に賛同したと思われるのが嫌だったのか。
     単に、タイミングを逃しただけなのか。
     その理由だけでなく、この時に姿を見せなかったことが正解だったのか不正解だったのかも、後の彼女には分からなかった。
     爆弾のセッティングが終わったのだろう。ボビーが元々置いてあった椅子を両手で抱えて振り返る。
     教室の後ろのドアが開いたのは、その時だった。
     ボビーから、動揺の気配が漏れる。
     それを迂闊うかつだと非難することは、有希ゆきにはできなかった。気配を外に漏らしてこそいなかったが、不意を突かれたのは彼女も同じだったからだ。
    (気配を捉えられなかっただと!?)
     教卓の陰からうかがい見るその先に現れたのは、この学校の制服を着た女子生徒だった。
    (サボり? 忘れ物? いや、そんなもんじゃない!)
     ただの中学生が、ああも完璧に気配を消せるはずはなかった。
    「……どうしました? 忘れ物でも?」
     ボビーが女子生徒に声を掛ける。彼もその少女をただ者ではないと感じて、探りを入れたのだろう。
    (バカ野郎っ!)
     だがそれは、ただ者ではあり得ない少女をいたずらに刺激する行為だった。
    「少女」の中で戦意が動いた。殺気と言う程強くないが、それに近い、攻撃の気配。
    (昨日の女か!)
     その意志の波動で、有希ゆきは女子生徒が昨日ジャックを倒した「少女」だと気付いた。
     その時には、彼女の身体は考えるより速く動いていた。
     少女がスカートのポケットから、見覚えのある「短針銃」を取り出す。
     しかしそれより一瞬早く、有希ゆきがゴルフボールサイズのガス手榴弾を投げていた。
     手榴弾が破裂する。
     酩酊めいてい効果こうかを持つ灰色の煙が急速に広がった。
    「少女」が口を押さえて蹲る。
     効いているのではない。ガス攻撃に対する防御姿勢を取っただけだと、有希ゆきは直感でさとった。 ボビーが椅子を床に落とし、耳障みみざわりな騒音が灰色の煙と共に室内を満たす。
     有希ゆきはボビーの側に駆け寄り、何も言わず、乱暴に袖を掴んだ。
     無言のまま、有無を言わせぬ勢いで引っ張る。
     酩酊めいていガスの影響で足元が覚束無おぼつかない仲間の殺し屋を、有希ゆきは引きずるようにして教室から連れ出した。

    ◇ ◇ ◇

     灰色のガスで視界が効かなくなった教室の前側のドアから二人の男女が去ったのを、文弥ふみやは音と気配で察知した。
     ひとりでに窓が開き、ガスが吸い出されるように外へ流れる。手の内を読まれる心配をしなくても良くなった文弥ふみやが、魔法を使ってガスを排出したのである。
    「……こっちが先か」
     文弥ふみやが追ってきた殺気の元は、今の二人だろう。多分あれが、達也たつやを狙っている暗殺者に違いない。
     だが今は、あの作業服の男が何をしようとしていたのかが気になる。
    (触らない方が良いだろうな)
     あの男が落とした椅子。こちらが本来の、達也たつやが座っていた椅子だろう。達也たつやの机の前に置かれているのは、あの殺し屋がすり替えていった物だ。素直に考えれば、この椅子には何かが仕掛けられている。座ると飛び出す毒針とか、体重を掛けると作動する爆弾とか。
     文弥ふみやは左手でウィッグの髪をかき上げて、左耳につけていた通信機のスイッチを入れた。
    黒川くろかわです。何かありましたか?』
     応答はすぐにあった。小型の通信機だが、感度は良好だ。
    「今から暗殺者が残していった椅子を送ります」
     教室は無人だが、文弥ふみやは外見に違和感が無い口調で喋った。余程気を抜いていない限り、彼のは完璧に近い。
    達也たつや様の席に爆弾でも仕掛けられていましたか』
    「その可能性がありますから」
     だから、放置できないということ。そこまで詳しく言わなくても、黒川くろかわ文弥ふみやの意図を理解した。
    『了解しました。……どうぞ』
     会話に空白が生じたのは、ゴンドラのドアを開けさせたタイムラグだろう。
    「行きます」
     文弥ふみやはそう解釈して立て続けに三つの魔法を行使した。
     椅子を浮かせて窓の外に動かす。
     椅子の周りに対物シールドを張る。途中で爆発しても、破片が飛び散らないようにする為だ。 そして、疑似瞬間移動で飛行船目掛けて打ち上げた。
    『届きました』
     返事が届いたのは、その直後のことだった。魔法の性質を考えれば当然だが、ほとんど時間が掛かっていない。
    「シールドを忘れないように」
    『心得ております』
    「私は追跡を再開します」
    『処理班を送りましょうか?』
     彼が言う「処理班」は爆弾処理班ではなく、無力化した敵を運び出すチームのことだ。「死体処理」になることが多いから処理班と呼ばれている。
     黒川くろかわの提案を、文弥ふみやは半秒程心の中で検討した。
    「学校の外に待機させておいてください。中に入っても大丈夫なようなら合図します」
    『了解しました』
     文弥ふみやは歩きながら通信機をオフにした。廊下に出て耳を澄ませ、目を凝らす。彼には世界に刻まれた事象の記録を、目の前に広げられた本に目を通すがごとく自在に読み取る程の能力は無い。だが人間が移動した痕跡を追い掛ける程度なら難しくなかった。
     彼に固有の魔法は、人の精神に直接痛みを与えるもの。痛みを覚える精神の存在を認識できなければ成り立たない魔法だ。精神から漏れ出る波動の感知は、彼の得意分野だった。
     文弥ふみやは走るのと遜色が無い速度で、音も無く歩き始めた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは二階から一階に降りる階段に差し掛かったところで、追跡者に気付いた。
     足音はしない。だが筋力と共に五感も強化している有希ゆきの耳には、各教室からわずかに漏れ出る雑音が連続的に遮られているのを捉えていた。
     小柄な人間が近づいてきている。経験から、有希ゆきにはそれが分かった。
    「……追ってきているのか?」
     まだ歩みがしっかりしないボビーが、ようやく舌が回るようになった口調で有希ゆきに訊ねる。彼は有希ゆきの挙動から、追跡者に気付いたようだ。
     ボビーはガスの影響が抜けきっていない。その所為せいで逃走スピードが上がらないのだが、ガスを使ったのは有希ゆき自身だ。あの状況では必要だったとはいえ、見捨てるのは気が引けた。だから今も、こうして肩を貸しているのだった。
    「ああ」
    「近いのか?」
    「……ああ」
     しかし、このままでは逃げ切れない。ボビーの質問に答えることで、有希ゆきはそれをはっきり意識した。
    「ナッツ、俺を置いていけ」
     打開策は、思い掛けず、ボビーから提示された。彼は足を止めて、杖代わりに寄りかかっていた有希ゆきの肩から手を離した。
     有希ゆきは足を止めて、ボビーへ面倒くさそうな顔を向けた。
    「馬鹿じゃねえのか」
    「何だと!」
    「あっ、違った。馬鹿なこと言ってんじゃねえよ」
    「……それは本当に言い間違えたのか?」
    「さっきの女は、接近戦が苦手なお前じゃ手に負えん」
     有希ゆきはボビーのツッコミを無視した。今は漫才をやっている状況ではない。
    「だったら尚更だ。あれがそんなに手強い相手だというなら、このままでは共倒れになってしまう。俺にだって、時間稼ぎくらいはできる」
    「自分でも信じてないことを言うな。それに、共倒れなんかになりゃしねえよ。いざとなれば、あたしはお前を見捨てるからな」
     そう答えるなり、有希ゆきは身を沈めてボビーをかつげた。背負ったのではない。足を前に、頭を後ろにして、セメント袋のように肩に乗せたのだ。
    「おいっ!?」
    「こっちの方が速い」
     彼女が言うように、今までよりも速いペースで有希ゆきは階段を降り始めた。
    「ナッツ、お前なんでここまでして」
    「うるさい黙れ。舌を噛むぞ」
     ボビーが言うように、有希ゆきがここまでして彼を助けなければならない理由は無い。
     実を言えば、有希ゆき自身が「あたしは何をしているんだ」と自問していた。残念ながら「自問自答」ではない。答えが出ないからだ。
     有希ゆきは元々、ボビーを嫌っていた。今も現在進行形で嫌ってる。容姿とか性格とかがどうこうではなく、爆殺というスタイルが気にくわないからだ。「お前を見捨てる」という憎まれ口の方が彼女の心情を忠実に表しているはずで、担いでまで連れて行くのは自分で自分に説明がつかなかった。
     その迷いが足取りに影響した可能性は、おそらくゼロではなかった。しかしそれ以上に、言い争いをした際のタイムラグが決定的だった。
    「グギャッ!」
     突如ボビーが悲鳴を上げて、有希ゆきの肩の上で激しく身体を震わせた。身体強化フィジカルブースト中の筋力に体重は大して負担ではないが、自分より二回り以上大きな体格で暴れられては有希ゆきも支えきれず、ボビーの身体を取り落とした。
     階段を転がり落ちていくその腰から、鈍色の針が顔をのぞかせている。
     その針に見覚えがある有希ゆきは、ボビーの身体を捕まえるのも忘れて、慌てて振り返った。
     彼女は驚愕きょうがくに目を見開いた。
     追ってきていることは分かっていた。
     だがまだ、一階分の距離があったはずだ。
     飛び降りたような
     しかし、どれだけ心の中で否定しても、彼女の目は無慈悲な現実を伝えてくる。

     そこにはセーラー服と黒いタイツに身を包んだボブカットの美しい少女が、

     右手に持つポケットサイズの短針銃の銃口を向けて、

     冷たい目で、有希ゆきを見下ろしていた。