• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [6]介入

    「ナッツ、本当にここで仕掛けるんですか? 九重ここのえ八雲やくもの縄張りの中ですよ?」
     停車したボックスワゴンの運転席から、鰐塚わにづか有希ゆきに問い掛ける。彼の顔には、心配そうな表情が浮かんでいた。
    「仕方無いだろ。あたしの手札じゃ、学校に侵入してるのは困難だ。確実に狙えるのは、通学路しかない」
    「しかしまだ、人通りもありますよ?」
     西の空は赤く染まっているが、外はまだ明るい。クラブ活動をやっていないターゲットの帰宅時間に合わせるとなると、日没前に仕掛けることになる。
    「クロコ、分かってるだろ?」
     有希ゆきが助手席のドアを開けた。
    「あたしには余り、猶予が無いんだ」

    ◇ ◇ ◇

     文弥ふみやの出動初日は、何事も無く達也たつやの下校時間を迎えた。
    「結局、学校内での襲撃は無かったか」
     部下からの報告を片耳にはめた通信機で聞いて、文弥ふみやは独り言のような口調でそう漏らした。車の中で気が抜けているのか、すっかりいつもの口調になっている。
    「今日のところは、ですね」
     運転席に座った黒川くろかわが、助手席の文弥ふみやに留保付きの答えを返す。
    「本気であると思っているのか?」
     文弥ふみやの問い掛けは、二人が先程話していた爆弾が使われる可能性が「ある」かどうかということだ。
    「私はあり得ると思っています。どちらにせよ、明日以降の話ですが」
     文弥ふみやが難しい顔で考え込む。正直に言えば多分彼は怒るに違いないが、その思案顔はティーンの少女が背伸びして、哲学とか政治とか文学とかについて一所懸命考え込んでいる様に似て、微笑ましく可愛らしい表情だった。
    「……達也たつや兄さんの学校に潜入する方策を考えておいてくれ」
    「了解です。今日はこれから、どうします?」
    達也たつや兄さんが降りる駅に先回りする」
    「自走車で個型電車キヤビネツトに先回りですか。中々難しいご注文ですね」
     黒川くろかわ難色を示したが、文弥ふみやは素知らぬ顔で窓の外へ目を向けた。
     黒川くろかわは小さく肩を竦めてダッシュボードからコンソールを引き出し、ナビに検索条件を打ち込んだ。

     結局、達也たつやが妹の深雪みゆきと共に個型電車キヤビネツトの駅を降りるのと、文弥ふみやを乗せた車がその駅ビルの駐車場に駐まったのは、ほとんど同時だった。
     そのことについて、文弥ふみや黒川くろかわを責めなかった。彼も無茶があるリクエストだと理解していたのだろう。それに、この駅にはあらかじめ部下を配置してあったので、文弥ふみやの到着が遅れても実質的な不都合は無かった。
     文弥ふみや達也たつやを尾行するのではなく、駅ビルの屋上に上がった。本来は部外者立ち入り禁止だが、この程度の不法侵入は黒羽くろば家の者にとって造作もない。
     とはいえ、全く労力を要しないわけでもない。彼らが手間を掛けて屋上に上ったのは、ここがこの界隈で最も高い場所だからだ。
     といっても、帰宅する達也たつやを見張る為ではない。そもそも文弥ふみやには、帰宅する達也たつやを見張るつもりはない。それは部下に任せてある。文弥ふみや自身は達也たつやの家の所在を、地図の上でしか知らない。見てしまえば、押し掛けたくなるに決まっている。その自覚があるから、近づかない。
     文弥ふみやは、達也たつやを煩わせたくないのだ。彼が直接目を向ければその瞬間、達也たつや文弥ふみやが来ていることに気付く。そうなれば芋蔓式に文弥ふみやの任務を知り、暗殺結社を自分で片付けようとするだろう。
     殺し屋が付き纏っていることなら、達也たつやはとうに知っている。彼はそれを放置しているだけだった。邪魔になれば何時いつでも――文字通りに。達也たつやにはその力がある。
     達也たつやは現在、新ソ連工作員の掃討作戦に携わっていて、昨日も工作拠点を一つ潰したばかりと聞いている。彼が自分を狙う暗殺者組織の殲滅に乗り出さないのは、別の仕事を抱えているからという理由が大きいに違いなかった。
     文弥ふみやが上京したのは、そんな達也たつやの手間を肩代わりする為だ。それなのに、彼が出しゃばったことで達也たつやが余計な仕事を挿む羽目になっては本末転倒というもの。達也たつやに会いに行きたい気持ちを文弥ふみやがぐっとこらえているのも、そんな理由からだった。
     では文弥ふみやたちは何故、「最も高い場所」を求めたのか。それは不審者を見つけ次第、撃退に向かう為だ。
    『疑似瞬間移動』という魔法がある。空気の繭に入り、慣性を中和して空中に作り出した真空チューブを高速飛行する魔法だ。固体を透過することはできないが、真空のチューブは何度でも折り曲げられるので障碍物は問題無く回避できる。慣性を中和しているので急激に方向転換してもタイムロスは無い。移動速度は術者の熟練度次第だが、最大で音速の三~四倍に達する事例がある。
     この魔法は、文弥ふみやの姉の亜夜子あやこが得意としている。亜夜子あやことコンビを組んで任務に当たる場合は彼女に疑似瞬間移動を行使してもらっているが、文弥ふみやも使えないわけではない。一般的な魔法師の水準で考えれば、かなり上手い方だと言える。
     文弥ふみやはこの疑似瞬間移動で、発見した暗殺者の所へ飛ぶつもりだった。
     直感的に理解できることだが、真空チューブを折り曲げる回数が少ない程、疑似瞬間移動の術式を行使する魔法師の負担は小さい。移動経路が直線であれば、その分スピードや周囲への影響を抑制することに力を割ける。
     スタート地点がゴール地点よりも高ければ、目的地の真上まで直線で移動し、後は真下に飛び降りれば良い。つまり最も高い場所から飛べば、無駄な力を使わずに済むのである。
     残る問題は殺し屋の炙り出しだが、これは黒川くろかわの役目だった。
     陰流の開祖、愛洲あいす移香斎いこうさいは剣に先んじる殺気の動きを心に映して敵の剣筋を読んでいたと伝えられている。敵を倒すことより敵から逃れることを重視した忍者には、この「殺気を見る」ことに特化した技術が伝えられていた。忍者の流派によって様々な呼び名がつけられているが、黒羽くろば家が受け継いだ忍術流派では、妲己の正体を暴いた太公望のしようきょうにちなんで『しよういんきょう』と呼ばれている。
     黒川くろかわはこの技のエキスパートだ。「殺気を見る」ことに掛けては黒羽くろば家で一、二を争う。
     銃の相手を前提とするならば、対面する敵の殺気を読むだけでは不十分。数百メートルから一、二キロを隔てたスナイパーの殺気を読めなければ、狙撃の餌食になってしまう。
     黒川くろかわはキロ単位の感知が可能であるばかりでなく、自分以外の者に向けられた殺気も捉えることができる。本物の殺意だけをピックアップすることも可能だ。己が心を無にして人を殺せる達人でない限り、彼の心眼からは逃れられない。
     黒川くろかわは九字を切って意識を整え、心に映る殺気に目を凝らした。

    ◇ ◇ ◇

     黒羽くろば文弥ふみやの駅ビル屋上への侵入に先だって、有希ゆきは同じビルの改札口を見下ろす喫茶店で張り込んでいた。
    『いましたよ。歩いて帰るようですね』
     窓際で改札口を見張っていた鰐塚わにづかが、別のテーブルに座っている有希ゆきに声も無く話し掛けた。
     読唇術を使ってそれを読み取った有希ゆきが小さく頷く。
     駅から司波しば達也たつやの自宅まで、徒歩二十分強。コミューターや自転車を使ってもおかしくない距離だが、彼らは歩くようだ。それがいつものことなのか今日は偶々そうなのか、行動パターンはまだ掴んでいない。とにかく、徒歩というのは有希ゆきにとって都合が良かった。
     有希ゆきが食べかけのチョコレートワッフルを口の中に押し込み、テーブルで会計を済ませて立ち上がる。
     顔を向けた彼女へ、鰐塚わにづかは『気をつけて』と唇の動きだけで伝えた。

     妹を連れたターゲットの後ろを、約五十メートルの距離を置いてついていく。今日の有希ゆきは中学校のセーラー服ではなく、二駅離れた公立普通高校の制服を着ている。これだけ離れていれば、怪しまれることはないはずだ。
     この距離でも、有希ゆき身体強化フィジカルブーストの異能をフル回転させれば二秒で接触できる。実際に仕掛ける時には二十メートル以内に接近するつもりだ。妹のペースに合わせているのか、ターゲットの歩くスピードは遅い。自然に距離を詰められる。
     有希ゆきは人目が無くなる機会を待った。
     ただ、彼女が襲撃を躊躇ためらっているのは、それだけが理由ではなかった。
     この状況で仕掛ければ、司波しば達也たつやだけでなくその妹も殺さなければならなくなる。少女を、人殺しの現場に居合わせたというだけの理由で殺す。そのことに有希ゆき躊躇ためらいを覚えていた。
     しかしそれを言い出せば、有希ゆきが殺そうとしている少年も、彼女の仕事を目撃しただけだ。有希ゆきの躊躇は矛盾しているのだが、彼女はそれに気付いていない。
     彼女が迷っている内に、司波しば達也たつやの自宅までの道程みちのりの半分を消化していた。ちょうど人通りが絶えている。有希ゆき躊躇ためらいを押し切って、仕事を終わらせるべく心を決めた。
     しかし彼女は駆け出す直前で足を止めて、十字路の角に隠れた。
     決意が鈍ったのではない。
     彼女のものではない殺意の膨張を感知したのだ。
     最初に疑ったのは、昨日司波しば達也たつやを拉致した勢力が再び手を出してきた可能性。
     だがすぐに有希ゆきは、殺気の質に覚えがあると気が付いた。
    (――ジャックの野郎か!?)
     有希ゆきと同じく亜貿社あぼうしゃに所属する殺し屋。社長が目撃者暗殺に投入すると言っていた「助っ人」の一人だ。亜貿社あぼうしゃに所属する殺し屋は三十六名。その内、有希ゆきが顔を合わせた数は十人に満たないが、コードネームと手口は全員知っている。
     ジャックの仕事振りは社員全員が知っていた。主に、悪評という形で。
     亜貿社あぼうしゃは「政治的暗殺結社」の看板を掲げている。「法で裁けぬ悪を裁く」を理念としている、ということになっているが、実際には政治家にとって都合が悪い人間の暗殺を請け負って稼いでいるだけの殺し屋集団に過ぎない。それが社員全員の認識だ。
     夢の世界の住人は、犯罪者にはなれてもプロの犯罪者にはなれない。「正義の殺人」などという幻想を信じているような者は、最初から社長の両角もろずみ来馬くるまが雇わない。「悪を裁く」というあの理念は不適格者を釣り上げる為の餌ではないか、と社内でまことしやかに囁かれているくらいだ。
     しかし、「悪人を標的にする」のは完全な嘘でもない。亜貿社あぼうしゃが依頼される標的は、政治家やその秘書がリスクを冒してでも殺したい人間だ。そして会社側でも実際に依頼を引き受けるかどうかを選別する。例えば「不正を告発しようとしたジャーナリスト」などは「殺してくれ」と依頼されても引き受けない。
     その理由は、亜貿社あぼうしゃの設立経緯にある。有希ゆきたちには知らされていない、社長と幹部しか知らないことだが、亜貿社あぼうしゃは「忍術使いではない忍者に居場所を与える」ことを目的としている。
     たとえそれが犯罪であっても、忍者が身につけた技を振るって生きられる境遇。古式魔法「忍術」を使えなくても、自分は忍者であると自分自身に宣言できる。そんな生き方を自分と同じ「忍術を使えない忍者」に与える為に、両角もろずみ来馬くるまは暗殺結社・亜貿社あぼうしゃを作った。
     だから「忍者の仕事ではない」と両角もろずみが判断した案件は、どんなに条件が良くても受け付けていない。判断基準は正義とか人道とかではなく、忍者の技を振るえるかどうかだ。
     それは、詳しい事情を知らない有希ゆきの目には、「無力な者は相手にしない」と映っている。彼女と同じ見方をしている亜貿社あぼうしゃの社員――殺し屋だけでなく、バックアップ部門を含めた社員――は多い。
     ジャックはそう考えない、社内では少数派の殺し屋の代表格だ。
     彼は仕事が早く、技術レベルも高い。難度の高い仕事も早々に終わらせるので、期限に余裕が無い案件では重宝されている。
     ただジャックが出動すると、死人が多く出る。
     巻き添えを大勢出す爆弾やガスを使うというわけではない。そういう意味では、もう一人の助っ人『ボビー』の方が、規模が大きい。ボビーが得意とする殺害手段は爆殺だから、その性質上巻き込まれて犠牲になる者が出るのは避けられないと言える。
     ジャックが使う得物は、有希ゆきと同じナイフ。巻き添えを出す可能性が低い殺害手段だ。
     それにもかかわらず、標的以外の人間が大勢死ぬ。
     ジャックは完了報告の際に、必要な犠牲だったといつも言っている。殺したのは護衛であり、見張りであり、目撃者だ、と。
     しかし今では社内に、それを額面どおりに信じる者はいない。
     目撃者だったというのは、嘘ではないのかもしれない。
     だがきっと――ジャックはわざと見られているのだ。殺す口実を作る為に。
     他の社員同様、有希ゆきもそう考えていた。
     ジャックは間違いなく、司波しば達也たつやもろとも彼の妹も殺す。それについては有希ゆきが手を下しても同じ結果になるだろう。だがジャックにやらせれば、きっとそれだけに留まらない。他にも目撃者が増え、その全員が身体を切り裂かれる。
     それを阻止する為には、有希ゆきがジャックよりも先にターゲットを仕留める必要がある。――だが現実に彼女は、出遅れてしまっている。
     ハッと息を呑み、後悔をめる。
     しかし、有希ゆきが予想した光景は、現実には訪れなかった。
     司波しば達也たつやに襲い掛かろうと横道から飛び出したジャックが、路面へ崩れ落ちたのである。
     まるで、突如足が萎えたような転び方だった。
     苦悶の声を噛み殺している表情で、ジャックは顔を上げた。
     その視線につられて、有希ゆきが視線を上げる。
     ジャックは、有希ゆきが隠れている側の、一ブロック先の塀を見上げていた。
     その上に、一人の少女が立っていた。
    (女……だよな?)
     有希ゆきが一瞬迷ったのは、その「少女」が顔の半分をゴーグルで隠していたからだ。ゴーグルはワンレンズの、髪の上からベルトで押さえるタイプ。レンズは透明のようだが、明暗の関係からか、中はうかがい見えない。
     しかし髪型はボブカット、唇にはルージュを引いているし、着ている物は裾が広がった膝上のスカートだ。スカートの下はフリルたっぷりのペティコート。厚手のタイツで脚の露出は無いとはいえ、タートルネックのセーターの胸もほのかに、だが確かに膨らんでいる。女性、それも有希ゆきと同年代の少女であることは確実だと思われた。
    (――何者だ? 一体、何時の間に?)
     とにかく今、考えるべきは、あの「少女」の性別ではない。その正体だ。
     ゴーグルの少女は数秒前まで間違いなく、いなかった。有希ゆきがターゲットに襲い掛かろうとした時点では、影も形も無かった。
     それに、ジャックは何故少女を見上げているのか。
     少女はジャックに、何をしたのか。
     分からないことが多すぎて、有希ゆきは動けなかった。

    ◇ ◇ ◇

     黒川くろかわが『ジャック』の殺気を捉えたのは、有希ゆきよりもわずかに早かった。
    「ヤミ様、あそこです」
     黒川くろかわ文弥ふみやに、コードネームで話し掛けた。『ヤミ』というのは文弥ふみやしている時の名前で、『フミヤ』の後ろ二文字を逆から読んだものだ。
     文弥ふみや黒川くろかわは、お揃いのゴーグルをつけている。HMDヘツドマウントディスプレイ型の情報端末で、黒川くろかわが目を向けている先が、文弥ふみやにも分かるようになっていた。
    「行きます!」
     文弥ふみやはゴーグルの視線誘導機能を切断すると同時に、黒川くろかわの返事を待たず、疑似瞬間移動の魔法を発動した。
     路面から十メートル前後上空に出現した文弥ふみやは、瞬時に切り替わった視界に戸惑うことなく浮遊の魔法で落下速度を緩めた。
     殺気の発信源は二つ。
     その内、既に行動を起こしている方へ文弥ふみやは意識を向けた。
     彼はセーターの上から両腕に、バングルに偽装したCADを巻いている。
     右腕のCADはブレスレット形態に多く見られる汎用型。
     左腕には、この形状には珍しい特化型。
     文弥ふみやは左腕のCADを操作し、彼固有の魔法を発動する。
     精神干渉系魔法『ダイレクト・ペイン』。精神に直接、痛みを与える魔法。肉体から送られてきた信号を精神が「痛み」として認識するのではなく、精神に与えられた痛みが肉体感覚に翻訳されることで、肉体の機能を損なう。
     文弥ふみやが標的に設定した男、『ジャック』のコードネームを持つ殺し屋の足に激痛が走った。
     骨が砕けたに、ジャックは立っている力を失う。
     文弥ふみやが塀の上に着地するのと、ジャックが路面に倒れたのは同時だった。
     文弥ふみやは横目で、もう一人の殺し屋の動向をうかがう。
     彼は心の中で「やはり」と思った。もう一人の殺し屋は彼が予想したとおり、一昨日の晩、カフェレストランの駐車場で達也たつやに襲い掛かろうとしていた少女だった。
     文弥ふみやの登場に戸惑っているのか、少女暗殺者・有希ゆきは立ち竦んでいる。
     彼は視線を正面に戻した。
     殺し屋ジャックが両手をついて身体を持ち上げている。ダイレクト・ペインを受けた足の痛みは少しも和らいでいないはずだが、歯を食いしばって痛みがない方の足で立ち上がった。
     その姿を見て、文弥ふみやは素直に感心した。黒羽くろば家の工作員でも、文弥ふみやのダイレクト・ペインを受けて立ち上がれる者は少ない。この精神力は一級品だ。
     その強さに敬意を表して、というわけではないが、文弥ふみやは塀から飛び降りた。一応スカートの前を片手で押さえていたが、そうしなくても風圧で捲れ上がることはなかったはずだ。そこはきちんと対策を打ってある。
     塀の上から追撃の魔法を放っていれば、ジャックは何もできなかっただろう。文弥ふみやがそうしなかったのは、手の内を隠す為だ。文弥ふみやには、ジャックも有希ゆきも、ここで殺すつもりは無い。生かして帰す以上、与える情報は少ない方が良い。
     ジャックが何時の間にか取り出したダガーを投げた。文弥ふみやは上体を振ってそれをかわしながら、ウエストポーチから掌サイズの拳銃――のような物――を取り出した。
     これはポケットピストルに見せかけた武装デバイス(武器を一体化したCAD)だ。装填されているのは銃弾ではなく長さ五センチ強(二インチ)の太い針。火薬や圧縮ガスは内蔵されていない。
     文弥ふみやは上半身を左に傾けた体勢で、右手に握るポケット拳銃の武装デバイスをジャックに向けた。小指と薬指でグリップを保持し、中指を引き金に掛け、人差し指を伸ばして銃身の側面に添え、親指で小さくて撃鉄を起こす。
     実はこの撃鉄がCADのスイッチになっている。短い起動式が瞬時に出力され、武装デバイスを握る文弥ふみやの右手に吸い込まれた。
     ジャックは二投目の構えに入っている。
     文弥ふみやが武装デバイスの引き金を引いた。
     この引き金は見せ掛けだ。撃鉄に偽装したスイッチを元のポジションに戻す以上の機能は無いのだが、文弥ふみやはこれを自分自身に対する魔法発動の合図として使っていた。
     移動系魔法が発動する。
     針が銃口から亜音速で発射された。
     この針の射出は高圧ガスによるものでも電磁力によるものでもなく、魔法によって移動経路が定められたもの。
     針は空気抵抗も衣服の強度も無視して、半分以上がジャックの右肩に食い込んだ。
     埋まらず残った針の先端が破裂音を発して火花を散らす。
     針が帯びていた静電気によるものではない。ここまでが武装デバイスにプログラムされていた起動式を基に文弥ふみやが構築した魔法だった。
     体内に埋まった針から直接電撃を流し込まれて、ジャックの右腕と右肩の周りは完全に麻痺した。自由に動かせなくなっただけではない。激痛がジャックの意識を圧迫する。
     それでも、ダイレクト・ペインのもたらす痛みに比べればまだ軽い。だがではあった。
     文弥ふみやがジャックの両足に針を撃ち込む。
     ジャックは再び転倒し、今度こそ立ち上がれなかった。

    ◇ ◇ ◇

     ジャックが気絶したのを見て、有希ゆきの金縛りが解けた。
     まず脳裏に浮かんだのは「逃げなければ」という思考だった。
     彼は組織でも上位の殺し屋であり、練達の忍者だった。近距離戦闘に特化しているという短所はあったが、異能を持っていないにもかかわらず、同じく近距離特化型の有希ゆきと戦闘力は互角だった。
     そのジャックが、幾ら奇襲を受けたとはいえ、ああも簡単に倒されるとは。有希ゆきは自分の目が信じられなかった。
     だが、これは事実だ。信じがたいと思いながら、有希ゆきは自分に、そう言い聞かせた。
     相手がティーンの少女であるらしいことについては、特に驚きは無い。彼女自身がそうなのだ。一々ショックを受けてはいられない。
     それより、どうやってこの場を逃れるか。
     有希ゆきは頭をフル回転させて、すぐに結論を出した。
     ――ただでは、逃げられない。
     あの「女」は、問答無用でジャックに攻撃を仕掛けた。
     背中を向けた直後に、自分も撃たれるだろう。
     百パーセントそうなると決まっているわけではないが、有希ゆきは自分でも信じていないわずかな可能性に賭けるつもりはなかった。
     有希ゆきは自分の内側に意識を向けた。
     心象世界の水底に沈む異能の扉を、力一杯引き開ける。
     鳩尾に熱が生じ、心臓を経由して全身に行き渡る。
     手の指先、足の爪先にまで、自分の異能が及ぶ。
     力が満ちる。
     自分が変わる。
     人間から、人の皮を被った怪物へ。
     有希ゆきは、地を蹴った。
     クリアに、スローになった視界の中を、彼女は駆ける。
     彼女がまだその名を知らない少女の姿をした敵、文弥ふみやへ向かって、有希ゆきは突進した。
     ゴーグルの奥で「少女」が目を見張る。有希ゆきはそれが、見えた気がした。
     ――ゴーグルで隠された「少女」の顔は、自分よりも可愛かった。
     むかっ、とした。その怒りを理不尽な八つ当たりとして抑制するのではなく、エネルギーに転用して、有希ゆきはさらに加速した。
    「少女」が有希ゆきに、銃口を向ける。
    「少女」が引き金を引くより早く、有希ゆきは横に跳んだ。
     壁に着地し、壁面を二歩走り、彼女は再び跳躍する。
    「少女」の背後をすれ違う軌道。
     跳び蹴りを見舞うのではなく「少女」の首へ、有希ゆきはナイフを振るった。
    「少女」が前に身を投げ出す。
     路上で前転。スカートの奥は、ペティコートのフリルで見えない。
    「少女」は回転しながら滑らかに身体を捻り、有希ゆきに向かって片膝立ちで構えた。
    「少女」の右手にはポケット拳銃、のような物。有希ゆきはそれを「短針銃」と思った。
     針の穴のような――正しい意味とは違うが、これもまさに「針の穴」だ――小さな銃口から、有希ゆきは身をかわした。
     今の有希ゆきは、片足でステップするだけで三メートルを跳ぶ。
    「少女」の銃口は、その動きに追随できない。
     有希ゆきは「少女」の動きを真似るように、路上で回った。
     しかし、その先が違う。
     回転を終えると同時に、有希ゆきねた。
     有希ゆきは上下逆さまの体勢で街灯に足をつき、その根元を蹴って「少女」へ襲い掛かる。
     空中で前転。身体の上下が入れ替わる。
     片足を路面へ、もう片方の足は伸ばしたまま振り下ろす。
    「少女」は有希ゆきかかとってかわした。
    (もらった!)
     この蹴りはフェイントだ。足を振り下ろす勢いを加えて、有希ゆきは逆手に握ったナイフを「少女」の胸へ振り下ろした。
    (何っ!?)
     しかしナイフの切っ先は「少女」に届かなかった。ナイフを握る有希ゆきの手首はショートブーツの靴底に止められていた。
    「少女」が足を振り上げて、有希ゆきの腕を止めたのだ。「少女」は体術もかなりのものだった。
    「少女」の身体が背中から路面に落ちる。
    (しめた!)
     有希ゆきに決定的なチャンスが巡ってきた。幾ら上手く受け身を取っても、背中が路面についた状態では、攻撃にも回避にも、すぐには移行できない。

     この好機に、

     有希ゆきは、

     全力で、跳び上がった。

     有希ゆきが選択した行動は、攻撃ではなく、逃走。彼女は「少女」に襲い掛かるのではなく、背後の塀を跳び越えて「少女」の銃口から姿を隠した。そして有希ゆきは、そのまま逆側の塀を跳び越えて一目散にその場から走り去った。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきの逃走は、文弥ふみやの意表を突いた。
     彼は素早く立ち上がり、有希ゆきが姿を消した塀を睨んだ。
     だが、CADの操作ボタンには触れなかった。
     彼は見失った相手に魔法の照準を合わせられない。その技術をまだ、会得していない。
     先程の攻防の最中も、手の内を隠す為に魔法を使わなかったのではない。目まぐるしく跳び回る有希ゆきの動きを、完全に捉え切れていなかったのだ。
     文弥ふみやは断続的に有希ゆきを見失っていた。その度に、魔法のプロセスが途切れていた。起動式を使った現代魔法は、発動座標を変数として魔法演算領域に送り込まなければならない。しかし「変数」と言いながら、それは数値の形を取るものではない。「変数」はイメージだ。それも漠然としたものではなく、自分の意識の中では他と区別される固有のビジョンでなければならない。
     いや、ビジョンという言い方も誤解を招く不十分な表現だろう。変数は、魔法師が意識の中と意識の外を一対一で対応させる一塊の情報。特定の存在、特定の事象を象徴する情報と言い換えても良い。
     とにかく、変数は魔法で干渉しようとする対象を特定する情報でなければならない。文弥ふみやにはまだ、「何処にいる(ある)のか分からないもの」を特定することができない。
     形が無いものでも、完全な暗闇の中でも、「そこにいる(ある)」と分かっていれば、彼は魔法の対象に設定できる。しかし、「そこにいる(ある)」と特定できなくなった瞬間、魔法の構築プロセスが止まり、一からやり直さなければならなくなる。
     これは現時点で文弥ふみやが抱える技術的な課題だ。例えば彼の父親のみつぐはいったん照準を合わせた敵を見失っても、魔法発動には支障が無い。
     例えば達也たつやは、そもそも敵を見失うことがない。
     文弥ふみや有希ゆきを甘く見ていたのだろう。彼女程機動力が高い人間を、文弥ふみやは相手にしたことがなかった。
     魔法で、もっと素早く動くことはできる。だがあれほど不規則で気紛れな移動は魔法力だけでなく、閃き、センスが必要だ。
     有希ゆきとの戦いは、文弥ふみやの経験不足を露わにした。
    (取り敢えず今日のところは、撃退に成功した。……ということに、しておこう)
     人目が無いのを確かめた上で、文弥ふみやは疑似瞬間移動を発動する。
     彼が去った後には、気絶した殺し屋ジャックの身体が路上に転がっていた。

    ◇ ◇ ◇

     身体強化フィジカルブーストをフルに開放して、有希ゆきは一キロ以上の距離を駆けた。
     直線にではなく、人目を避けながらだ。
     十分に離れた、と確信が持てるようになってようやく立ち止まり、有希ゆき鰐塚わにづかを迎えに呼んだ。
    「ナッツ、首尾は……。いえ、怪我はありませんか?」
     助手席に滑り込んだ有希ゆきが青い顔をしているのを見て、鰐塚わにづかは質問を、彼女を気遣うものに変えた。
    「……怪我は、無い」
     有希ゆきが電話を掛けてから鰐塚わにづかが到着するまで、五分以上が経過している。たとえ全力疾走をした後でも、いつもなら呼吸は平常に戻っている時間だ。
     有希ゆきの息が乱れているのは、緊張が続いている所為だった。彼女はゴーグルで顔を隠した「少女」――文弥ふみやとの対決に、それだけ神経をすり減らしていた。
     文弥ふみや有希ゆきに、手玉に取られたと感じていた。だが有希ゆきにしてみれば、辛うじて逃げられたというのが偽らざる実感だった。
    「……クロコ」
    「何でしょう」
     自分から話し掛けておきながら、有希ゆきは続きを躊躇した。
    「……小型の拳銃を用意してくれ。コンシールドガン……デリンジャータイプが良い」
     有希ゆきは銃器に苦手意識がある。だがあの「少女」は、そんな甘いことが言っていられる相手ではなかった。
    「――分かりました」
     有希ゆきから切羽詰まった気配を敏感に感じ取った鰐塚わにづかは、宗旨替えの理由を訊ねなかった。
    「ダブルアクションが良いですよね?」
     鰐塚わにづかの質問に、有希ゆきは考える素振りもなく頷いた。
    「トリガーは重くて構わない。至近距離で使うから威力も程々で良いぞ」
    「その代わり、音が余りしない物ですね」
    「ああ、頼む」
     有希ゆきが脱力してヘッドレストに頭を預けた。
     あのわけが分からない「短針銃」を持った「少女」を相手に、ナイフだけではどう考えても厳しい。
     司波しば達也たつやを狙う限り、あの「少女」が邪魔に入ると、有希ゆきは何の根拠も無く確信していた。