• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [5]決意

     小柄な身体を更に低くして、有希ゆきが工場の門を駆け抜ける。
     壁は超えられない高さではなかったが、どんな防犯設備が設置されているか分からない。着地したところで電撃でも喰らおうものなら、そこで詰みだ。それより、たとえ監視されていても人が出入りすることを前提としている門の方が安全だった。
     いつもは侵入前にセキュリティ機器の配置を調べ上げるから、そのような懸念は必要無い。だが今夜は、そんな当たり前の贅沢すら言っていられない状況だ。
     下調べはできておらず、商売道具も常に持ち歩いている分だけだ。麻痺ガス入りのエアーパッドは補充用のガスボンベを用意していなかったので、ここに来る途中の車内で外した。
     事前準備も得物もバックアップも、何もかも不十分。
     こんな悪条件は亜貿社あぼうしゃに入ってから、初めてかも知れない。
     有希ゆきは組織に加わる前の、自分自身の為の殺し合いを思い出していた。
     自分の命を守る為の戦い。かつ、両親のかたきを取る為の闘争。
     初めての、人殺し。

     有希ゆきの両親は、二人とも忍者だった。
    「忍術使い」ではない、魔法師ではない方の忍者だ。
     ただ、超常の力を全く有していないわけでもなかった。父親の方は全く術を使えなかったが、母親は一つだけ、異能を使えた。
     有希ゆきと同じ、身体強化フィジカルブーストだ。
     両親の正体を有希ゆきが知ったのは、二人が他界した後のことだった。
     有希ゆきも第三次世界大戦後の世代として、小学生の段階で魔法が実在するという知識は持っていた。摩訶不思議な力を使う「忍術使い」が中世から現代を通じて活躍していたということも、社会科の授業で簡単にではあるが教わっていた。
     しかし幼い頃の有希ゆきにとって、忍者はテレビの中の芸能人と大差がない存在だった。
     どこかに実在はする。けれども自分とは無縁の存在。
     自分が忍者として訓練されていることを、有希ゆきは知らなかった。
     身体を慣らす為の毒物の摂取は、日常の食生活の中で計画的に行われた。
     忍者の技は、有希ゆきが眠っている内に授けられた。意識のみを眠らせ、身体に技術をすり込む。
     古式魔法「忍術」は使えなくても、数百年にわたり継承されてきたノウハウがそれを可能にした。
     格闘術、刀剣術、手裏剣術、隠形術、軽身術。
     毒の使い方、罠の仕掛け方。
     年齢的な問題で修得が不可能だった閨房術を除く忍びの技が、本人も気付かぬ内に、十二歳の少女の身体に宿っていた。
     そして、「あの日」がやって来た。
     土曜日の午後、小学校から帰宅した有希ゆきを待っていたのは、両親の死体。
     その時、彼女は悲鳴を上げたらしいが、自分では覚えていない。
     気絶して、目が覚めた時には自宅ではなく、ホテルの一室にいた。
     同じ部屋には、自分を保護したという、両親と同じ年代の女性。
     その女性は自分のことを、両親の仕事仲間だと言った。
     有希ゆきはその後ちょうど二週間、その女性と一緒にいた。
     両親の正体を聞いたのも、その女性からだ。普通なら信じられないような話だが、彼女の言葉が真実である証拠があった。
     有希ゆき自身の力だ。
     両親の死が、戒めを解く鍵の一つとして設定されていたのだろう。
     彼女は忍者の技術を、いきなり使えるようになっていた。
     自身の異能、身体強化フィジカルブーストの存在も、その使い方も、何年も前から知っていたように思い出せた。
     その女性から教わったのは、力と技の使い方ではない。彼女は有希ゆきに、両親の正体と、仕事と、二人が殺された事情を教えた。
     有希ゆきの父母は、一種の傭兵だった。
     依頼人は犯罪組織、所謂ヤクザ。
     東京近辺を侵略しようとする外国のマフィアを撃退する荒事の請負人。それが両親の所属していた組織の仕事だった。
     撃退と言っても、人殺しはやっていなかったそうだ。抗争が激化して共倒れになるのは避けたい、というのが雇い主の意向だったらしい。
     両親とその仕事仲間がやっていたのは、商品のルート遮断と警察への密告。外国マフィアの便宜を図る政治家への脅迫。そして、見せしめとしての、死なない程度の暴行。
     しかしその配慮は、結局のところ無駄だった。
     父母の陣営と外国マフィアの間で血みどろの抗争が幕を開け、その開戦を告げる合図として両親の命が用いられた。
     どうやら元依頼主の一人が裏切ったらしい。
     有希ゆきを助けた女性は、その名も教えてくれた。
     母親の友人だったというその女性は、有希ゆきを逃がそうとしてくれた。
     だがその女性までもが犠牲になって――有希ゆきは戦うことを決意した。
     現在も彼女の相棒を務める鰐塚わにづかと知り合ったのは、その頃のことだ。鰐塚わにづかと組んだのは今のに入る前で、一緒に入社してコンビを維持している間柄だった。
     有希ゆき鰐塚わにづかの手を借りて、復讐を開始した。
     実力だけでなく、運にも恵まれた。
     マフィアの幹部と腕利きの殺し屋を十人以上仕留めて、両親を裏切ったヤクザの許にたどり着いた。
     最後の復讐の舞台は、裏切ったヤクザの麻薬工場。
     そこで父母と恩人のかたきは討てたが、有希ゆき自身も重傷を負った。
     即死の傷ではなかったが、死につながるという意味では致命傷だった。
     薄れゆく意識の中で有希ゆきが懐いたのは「やり遂げた」という満足感と、「幸運のツケが回ってきたか」という諦念だった……。

    (……やべえな。走馬灯ってやつか?)
     意識が警告を発する。
     ただでさえ状況が読めないのだ。雑念に気を取られて集中力を低下させるのは、命取りになりかねない。
     つまらないことを思い出したのは、侵入中のこの場所と、あの時の麻薬工場がどことなく似ている所為に違いない。有希ゆきはそう思った。彼女は過去を脳裏から消し去るべく、辺りの観察に意識を集中した。
     同業者の中には、機械の視線が分かると自慢する者もいる。だが有希ゆきはあいにく、そのような離れ業は会得していない。人の気配や視線なら大抵分かるが、機械越しの監視は「何となく見られている気がする」と感じるだけだ。何処から見られているのか判別できないのだから、そんなあやふやな感覚に意味は無い。
     しかし見られているかいないかだけなら、取り敢えず分かる。見られているという情報は無意味でも、見られていないと分かることには意義がある。
     工場の門をくぐった時から、有希ゆきは一度も視線を感じていなかった。
     先程のんびりと旧懐に浸っていたのは、敵のプレッシャーが全く存在しなかったからという面がある。
     今はそれが、かえって不気味だった。堅気の――か、どうかは不明だが――未成年を拉致しておいて、見張りを一人も立てていないというのは、有希ゆきの常識からすればあり得ない。彼女が存在を察知できない凄腕が待ち構えていると考える方が、余程納得できた。
    (……どうする)
     工場の建物内部に踏み込んだ有希ゆきに、迷いが生じる。
     このまま奥へと進むか。
     それともここで引き返すか。
     彼女の第六感は「進むな!」という警告を
     それが余計に不安をかき立てる。自分の直感が信じられなくなっていく。
    (――いや、前進だ)
     しかし有希ゆきは、先に進むことを選んだ。自分の感覚を信じられないというのは危険な兆候だ。自己不信は迷いにつながる。迷いは、隙を呼ぶ。
     今いだいている恐れは、何の根拠も無いただの憶測だ。
     憶測と直感ならば、大抵は直感の方が正しい。命が懸かっている場合は尚更だ。
     彼女は自分に、己の感覚を信じろと言い聞かせた。
     無論、直感任せで確認を怠ることはしない。
     目で、耳で、鼻で、皮膚で、敵の所在を、罠の所在を探る。
     敵の不在を確かめる。
     有希ゆきは遂に、工場の一番奥に到達した。
    (どういうことだ……?)
     当惑が、彼女の心を包む。
     有希ゆきの目の前には裏口の扉がある。敷地内の建物は平屋建ての一棟。地下室や隠し部屋の有無を含めて、全ての部屋を見て回った。
     その結果、誰にも遭遇しなかった。
     この工場は無人だった。
    「訳が分からん……」
     思わず、彼女の口から独り言が漏れる。
     あの男子中学生、司波しば達也たつやは逃げたのだろう。それを有希ゆきは確信している。あの時は武器を持っていなかったとはいえ、彼女を軽くあしらった実力者だ。隙を見て逃げ出す程度は、できても何の不思議も無い。むしろあっさり連れ去られたことの方が意外だったくらいだ。
     だが司波しば達也たつやを拉致した男たちは、一体何処に消えたのか。
    「クロコ」
    『ナッツ……! 無事でしたか。良かった』
    「ああ。そんなことより、工場から出て行く車は無かったか?」
    『いえ、ナッツが侵入した後、出入りする物は一切ありませんでした』
    「そうか」
     その一言で、有希ゆきは相棒との通話を切った。
     彼女は単独で侵入している。中にいた拉致犯とどこかですれ違って、彼らは別の部屋に隠れているという可能性も――。
    (いや、無いな)
     有希ゆきは一人、向こうは少なくとも二人以上。この工場には拉致の実行犯とは別に、彼らの仲間が待っていた可能性の方が高い。
     相手が有希ゆきから隠れる必要は無いのだ。彼女の目を逃れることができたのなら、背後から奇襲を掛ける方が自然な流れだ。
    司波しば達也たつやが、逆に全員を始末した?)
     可能性としては、ある。先日やり合った感触からすれば、それだけの腕を隠していたとしても、おかしいとは思われない。
    「いや……。やっぱり、おかしい」
     有希ゆきは自分の思考を、独り言で否定した。
     もしあの中学生が、拉致犯を全員始末したと仮定する。
     そうすると、この工場には、あるべき物が無い。
     拉致グループ一味の、死体が無い。
     司波しば達也たつや一人なら有希ゆきが工場内を調べている間に、塀を乗り越えるなりして逃げ出せるかも知れない。
     だが、少なくとも二人分の死体を抱えて姿を消すのは無理だ。
     だからといって、死体を処理する時間は無かった。確かにこの工場には、人間の身体を跡形も無く溶かしてしまう薬品が蓄えられていた。死体処理に転用できる設備もあった。だが、人体の溶解はそれなりに時間が掛かるものだ。
     有希ゆきは殺し屋の研修で、組織の死体処理施設を見学したことがある。
     余り気色の良いものではなかったが、その経験で分かる。
     この工場の設備で、この短時間で、死体を消してしまうのは無理だ。
     背筋に急な寒気が走り、有希ゆきは身体を震わせた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは自分の部屋には戻らず、鰐塚わにづかのアパートに立ち寄った。彼女のリクエストによるものだ。
     住まいの有希ゆきとは違い、鰐塚わにづかは自分のマンションを持っている。彼は会社からを認められている。有希ゆきのパートナー以外にも情報屋としての稼ぎがあって、このマンションはその収入で購入したものだ。
     グレードは、はっきり言って低い。一人暮らしで家族を増やす予定も無い鰐塚わにづかは、自分の住まいに広さや交通の便は求めていなかった。彼は物件そのものに贅沢しない代わりに、内装に金を掛けた。
     鰐塚わにづかの部屋は、ちょっとした情報機器の城だった。今世紀十年代であれば「オタクの城」と呼ばれていたかも知れない。架空キャラクターの肖像画や塑像は置かれていないのだが。
    「相変わらずごちゃっとした部屋だな」
     部屋に通されるなり、有希ゆきが遠慮の無い感想を口にする。
    「失敬な。ナッツの部屋より片付いているつもりですよ」
    「あたしの部屋はもっとすっきりしている。大体あたしの部屋なんか見たことないだろ」
    「見なくても想像できますよ。ナッツの部屋は、物が少ないだけでしょう? めったに片付けもしないんじゃないですか? 私は毎日掃除してます」
    「ホームオートメを入れる広さが無いだけじゃんか」
     笑顔で憎まれ口を返しながら、ナッツはベッドに腰を下ろした。
     そこに遠慮や躊躇いは無い。この部屋に椅子は一つだけで、そこには既に鰐塚わにづかが座っていたからだ。
    「それで、何があったんです?」
     いきなり鰐塚わにづかが訊ねる。
     巫山戯ふざけ半分はんぶんの空気が、その一言で一掃された。
    「工場はもぬけの殻だった。死体どころか、血痕も残っていなかった」
     引き締まった、と言うより暗い表情で有希ゆきが答える。
     彼女は裏口からいったん外へ出た後、もう一度工場の中に戻って争った跡が無いかどうか調べ直した。その結果が、痕跡皆無という事実だった。
    「ですが発信器の信号で見る限り、工場までノンストップでしたよ?」
    「途中で降りた形跡無し、か。となると……」
    「ナッツ? 何か思い当たることでも?」
     有希ゆきは一呼吸分、躊躇した。
    「……もしかしてあいつってやっぱり、魔法師じゃないか?」
    「あいつ、というのは、司波しば達也たつやという少年のことですか?」
     鰐塚わにづかが確認の意味で問いを返し、有希ゆきが「ああ」と頷いた。
    「その可能性を含めて、調査を続行中です」
    「そうか」
    「しかし、ナッツ」
    「どうした?」
     今度は鰐塚わにづかが口ごもる。
    「何だ? 言えよ」
    「……魔法を使っても、死体を完全に跡形なく消してしまうのは、決して容易ではありません。そんなことができるのは、魔法師の中でも特にレベルが高い連中だけのはずです」
    「そうなのか?」
     魔法に詳しく触れた経験の無い者にありがちな勘違いだが、魔法師の能力には限界がある。魔法師個人のレベルでできることとできないことがあるし、魔法それ自体の限界もある。
    司波しば達也たつやが魔法師で、その男たちを魔法で消し去ったのだとすれば……。司波しば達也たつやは、我々の手に負える相手ではないかも知れません」
    「……だからといって、できませんなんて言えないだろ」
     有希ゆきがそう応じたのは、鰐塚わにづかの言葉を信用しなかったからではない。
     司波しば達也たつやは、自分の手には負えない相手かもしれないと、有希ゆき自身が薄々感じ始めていた。
     鰐塚わにづかの推測は、彼女に言い訳を与えてくれるものだ。相手が高レベルの魔法師で、普通の人間では手に負えないと、自分が臆病風に吹かれたのではないと正当化できる。
     有希ゆきのセリフは、自分の立場を自分に言い聞かせる為のものだった。
    「あいつの始末には『爆弾魔』や『切り裂き魔』まで駆り出されているんだ。ここで降りたら、あたしはもう殺し屋としてやっていけねえよ」
     司波しば達也たつやの暗殺は、既に目撃者の始末という段階を越えている。
     あの少年は組織全体の標的になり、あの少年の始末は有希ゆきが組織の暗殺者として相応しい腕を持っているかどうかという試験、いや、「試練」になってしまっている。
    るしかない」
     そう呟いた有希ゆきの顔は強張り、目は据わっていた。

    ◇ ◇ ◇

    九重ここのえ八雲やくもの庇護を受けている少年か……」
     殺人結社・亜貿社あぼうしゃの社長室で羽織袴姿の老人が呟く。意外にこぢんまりした室内には今、彼以外の人影は無い。
     この老人の名は両角もろずみ来馬くるま亜貿社あぼうしゃの社長、つまり殺し屋たちの元締めだ。
    「忌々しい忍術使いめ。何処までも我々を虚仮こけにする」
     亜貿社あぼうしゃは腕の立つ殺し屋を手当たり次第に集めた組織ではない。結社に所属する暗殺者は全員、両角もろずみが見つけてきた者たちだ。
     彼らの共通点は、忍者であり、忍術使いでないこと。
     両角もろずみが作った亜貿社あぼうしゃは殺人請負会社であると同時に、「魔法師になれなかった忍者の受け皿」という側面も持っていた。
     忍者が皆、職にあぶれているわけではない。幼少期から開始される身体能力向上プログラムは、今の時代でも十分通用する。国防軍に入隊した者や警官になった者、国家の、あるいは私企業の諜報員としてその能力を活かしている者もいる。
     ただ忍者の訓練は、現代の価値観から見れば非人道的だ。十分な成果を得る為には、物心つく前から訓練を開始しなければならない。それは、現代のに照らせば児童虐待に他ならない。
     もしこれがメジャースポーツの早期エリート教育であれば、人権侵害などとは呼ばれない。本人が十分な判断能力を備えていない点においても、身体に後遺症を残す可能性においても、大した違いは無いにもかかわらず。
     その「少しの違い」が問題なのだ、という理屈の是非は横に置いておこう。
     忍者の育成には大きなリスクが伴い、違法な薬物が用いられる。その為「忍者を雇った」と大っぴらに発表してしまうと、「社会正義に反する」という理由で社会からバッシングを受ける。勢い、役所も私企業も忍者の採用は、秘密裏のものとならざるを得なかった。
     募集が行われないから、採用されるのは特殊な人脈を持つ者だけになる。元々忍者の業界は私的な縁でが決まるのが普通だった。しかし他流派同士の交流が無い為、いったん「縁」が切れてしまうと新たな雇い主を見つけるのは難しい。それが現状だ。
     幸い今は、それなりに好景気だ。忍者の仕事でなくても職は見つかる。だが、自分の技に対する拘りを捨てきれず、非合法の仕事に堕ちていく忍者は多い。いや、非合法といえば企業の産業スパイもそういう側面が多々あるのだが、仕事にあぶれた忍者は空き巣や睡眠強盗といった犯罪に手を染めるようになる。
     その点「忍術使い」、古式魔法師は仕事に困ることがない。今や魔法は、希少な――貴重な技術として社会に受け容れられている。魔法師を忌み嫌う者は一定数存在するが、魔法に対する需要は常に供給を上回っている。他分野の高度人材と違い、外国人を受け容れて活用するのも難しい。魔法師の流出を、ほとんどの国が事実上禁止しているからだ。
     確かに「忍術使い」は「忍術という名の魔法を使えない忍者」よりも、できることが多い。忍者の世界でも、昔から忍術使いはそうでない忍者より格が上だ。
     しかし、上下関係はあっても同じ忍者なのだ。忍術使いは、昔も数が少なかった。魔法を使えない忍者が手足となって働かなければ、「忍び」の仕事は成り立たなかった。それなのに今や、「忍術使い」は魔法師としてもてはやされ、は良くて裏仕事、運が無ければこそ泥に転落だ。
     両角もろずみ来馬くるまも「魔法師ではない忍者」の一人。忍術として体系化された魔法は使えないが、その身に先天的な異能を宿す忍者である。彼の異能は、千里眼。遠くから、あるいは壁越しに文書を読み取るような力は無い。彼の千里眼は、知りたいことの手掛かりが何処にあるのかぼんやりと見える、というものだ。
     彼はこの力で、政治家の私設秘書として暗躍していた。その異能でライバル政治家の汚職の証拠を探り当て、時に忍者の技で自ら証拠物件を奪い取り、時に警察、マスコミにその情報を流すというやり方で雇い主の懐刀に登り詰めた。
     雇い主の政界引退を機会に、政治的な殺人を請け負う亜貿社あぼうしゃを立ち上げた。そして、技に相応しい仕事を得られず燻っていた忍者、運悪く社会的に転落してしまった忍者を千里眼で探し出し、社員として雇い入れた。その裏には、魔法が使えないというだけで冷遇されている仲間たちの境遇に対する憤りが、確かにあった。
     両角もろずみには、忍術使いに対する恨みは無い。少なくとも自分ではそのつもりだ。また亜貿社あぼうしゃが犯罪組織だという事実を、忘れたことも無い。
     それでも、惨めなこそ泥の境遇よりも。同じく隠れて生きねばならない犯罪者であっても、権力の一翼を担う政治的暗殺者の方が、きっと充実している。
     政治的暗殺のニーズを知っている両角もろずみは、それに応えることにより権力の闇により深く食い込もうと考えた。亜貿社あぼうしゃ設立の目的は第一にこれだったが、「魔法を使えない忍者に生きることの充実感を与える」という目的も間違いなく存在した。
     忍術使いに切り捨てられた忍者の、活躍の場。それが亜貿社あぼうしゃの、忍者結社としての一面。
     その亜貿社あぼうしゃの仕事を、高名な忍術使いが妨害する。
     客観的に見れば、裏切りでも何でもない。しかしそので、苛立ちが消えてくれるはずもなかった。
    「お前が庇護する少年を、我が配下の手で仕留めてみせるぞ」
     そうすれば、溜飲も下がるに違いない。そう考えた両角もろずみ司波しば達也たつや暗殺に、有希ゆき、『ボビー』、『ジャック』だけでなく、手が空いた者を総動員しようと決意した。

    ◇ ◇ ◇

     昨晩の内に東京へ移動した文弥ふみやは、月曜日の早朝、早速活動を開始した。
     手早く装備を調え、達也たつやの登校に間に合うようすぐに車を出せと黒羽くろば家の部下に命じる。
    「若、お待ちください」
     ところが、何時の間にか黒服を着込んでいた部下が、文弥ふみやに待ったを掛けた。
    「まだお支度が済んでおりません」
    「何を言って……?」
     文弥ふみやは反論し掛けて、自分の装備を見直した。部下といっても経験は向こうが上だ。自分の方に何か見落としがあるのではと、思い直したのである。
    「……何も問題無いぞ」
     しかし、少なくとも自分で点検した限りでは、忘れている物はない。
    「いえ、をお忘れです」
    じよっ、へ、は必要無いだろ!」
     部下が遠慮無く口にしたその言葉に、文弥ふみやは顔を赤くして怒鳴り返した。
     だがあいにくと、彼にはまだ、部下を恐れ入らせる貫禄が無い。
    「ボスから、若の身元漏洩防止には万全を期すようにと、指示を受けております」
    「ぐっ……」
     今度は「必要無い」と返せなかった。達也たつやに手を出す暗殺者の撃退という仕事の性質上、顔を見られるリスクは一定量存在する。対策を講じなければならないのは、文弥ふみやにも理解できる。
     彼は根が真面目な少年だ。合理的な必要性を示されると、拒否できなくなってしまう。自分の好き嫌いよりも務めを優先してしまうのだ。
    「……今回は襲撃者を撃退するだけだ。基本的にずっと車の中で待機しているんだから、顔を隠すだけで十分じゃないか?」
     それでも一縷の望みを託して、文弥ふみやは代替案を示した。
    「念には念を入れませんと」
     部下の回答は、非情なものだった。

     マスカラを塗り、チークを入れ、ルージュを引く。下準備にも細かい工程にも、無論手を抜いていない。爪にネイルシールを貼り、ボブカットのカツラを付けて完成だ。
    「若、上達されましたね」
     黒服の称賛を受けて、文弥ふみやは情けなくなった。何が哀しくて、中学二年生男子が化粧の技術で太鼓判を押されなければならないのか。
    「……若は止めろ」
    「あっ、そうでしたね。失礼しました。では、参りましょう」
     文弥ふみやはスカートの裾を翻して、無言で玄関へ向かった。彼は、八つ当たりで怒鳴り散らしたい衝動を、必死に抑え込んでいた。

     文弥ふみやは「ずっと車の中」と言ったが、実際には後部座席に閉じこもっているわけではない。定期的に手足を伸ばさないと、いざという時に動けない。また車が一台だけでは、すぐに怪しまれてしまう。
     文弥ふみやが指揮する黒羽くろば家は五台のローテーションで、達也たつやの周囲を監視する体制を取っていた。無論文弥ふみやのアイデアではなく、彼に付けられた補佐役のプランだ。
    「……それでも達也たつや兄さんなら、見張られていることに気付くだろうけど」
     文弥ふみやが独り言のように呟く。その声は少し低めで少し硬質だが、女性のものにしか聞こえない。彼にとっては不本意だろうが、声変わりした少年のものではなかった。
     現在の時刻は午後一時過ぎ。文弥ふみやは今、達也たつやが通う中学校近くの喫茶店で喉を潤しているところだ。
     帽子を被りヴェールを下ろして口元だけを見せ、ストローでアイスティーを飲んでいる文弥ふみやは女子大学生か、働く必要の無いお嬢様(別名家事手伝い)に見える。それも結構な美女だ。彼の性別を見破る慧眼の主は、この大都会にも中々いないに違いない。
     二人がけのテーブルを一人で使っていた文弥ふみやの向かい側に、大学生風の青年が座った。シャツのボタンを二つ外し黒ジャケットをラフに着崩した軽い感じの男だ。
    「異常無しです。相手も学校の中までは手を出さないんじゃないですかね」
     彼は手に持った紙のコーヒーカップをテーブルに置くなり、文弥ふみやに顔を寄せて小声で伝えた。このセリフで分かるとおり、青年は文弥ふみやに付けられた黒羽くろば家の工作員だ。
     名は黒川くろかわ白羽しらは。黒いのか白いのかはっきりしろと言いたくなるような名前である。初めて単独で任務に当たる文弥ふみやに付けられたサポート役として、黒羽くろば家配下の魔法師の中から若くて腕が立つという条件で選ばれていた。
    「そう。ご苦労様」
     顔を離した黒川くろかわに、取り澄ました口調で文弥ふみやが答える。はたから見ると、ナンパ男をあしらうモテ女の構図だ。堂に入った演技と言えよう。
    「中学校に人を送り込むのは、人材の面からも難しいのでしょう」
     女の子が女性語を使わなくても奇妙に思われない時代だが、乱暴な言葉遣いはやはり違和感を持たれる可能性が高い。文弥ふみやが丁寧語を使っているのは、女性語を口にしたくない妥協の産物だった。
    「まあ、あのがそんな子役を抱えているとも思えませんし」
     黒川くろかわがざっくばらんな口調で相槌を打った。彼の方も、外見に相応しい口調だ。
    「学校で仕掛けるとしたら、ですかね」
     文弥ふみやがヴェールの下から、黒川くろかわに鋭い視線を向ける。
     黒川くろかわが言う「花火」とは、盗み聞きされても良いようにぼかしているが、爆弾のことだ。
    「可能性があると思いますか?」
    「可能性ならあると思いますよ。あの人がただ者じゃないってことは、向こうにも分かってきたでしょうからね」
     四葉よつば家の中で達也たつやを軽視するのは、彼が戦う姿を見たことが無い者だけだ。黒羽くろば家の工作員は、ボスのみつぐ達也たつやのことを嫌っているにもかかわらず、達也たつやを高く評価している者が多い。
     黒川くろかわ文弥ふみやのサポート役に選ばれたのは今回が初めてだが、黒羽くろば家の魔法師の中では若年層に属することもあって昔から一緒に行動する機会が多かった。だから、達也たつやの実力は何度も目にしている。実は今回の任務についても、「あの人に護衛とか必要なのか?」というのが黒川くろかわの本心だった。
     再び黒川くろかわ文弥ふみやに顔を寄せる。今度は腰を浮かせ、耳元にささやくような体勢を取った。
    なら、肉体的には通常の人間と同じです。魔法について良く知っている程、油断しているところを爆弾で吹き飛ばせば魔法の技量に関係無く殺せる、と考えるんじゃないでしょうか」
    「忍者なら、『忍術使い』でなくても魔法に関する知識はあるはずだと?」
     顔を寄せられた状態で、文弥ふみやささやき声で問い返した。
    「ええ、そう思います」
     黒川くろかわが元の姿勢に戻って頷く。
    「……そろそろ出ましょうか」
     他の客がヒソヒソ話をしながら文弥ふみやたちを盗み見ている。それに気付いた文弥ふみやは、顔をしかめて立ち上がった。