• NOVELS書き下ろし小説

  • 少女アサシン

    [4]誘拐

     殺し屋は日曜日だからといって、休みになるというものではない。会社形式を取っていても、それは同じだ。――そもそも全ての私企業が、一週間に一日、決まった曜日に休みを取るというわけではない。
     だから日曜日の朝、まだ眠っていた有希ゆきが呼び出しの電話に叩き起こされて出社する羽目になったのも、やむを得ないことなのだ。
    「……こんな早くから何の用だ。あたしはまだ、朝飯も食ってないんだぞ」
    「昨晩の駐車場の件じゃないですかね。どうぞ」
     今日はワゴン車ではなくコンパクトカーで迎えに来た鰐塚わにづかが、なだめる口調で答えると共に助手席の有希ゆきへビニール袋を差し出した。
     袋の中には彼女が好きなチョココロネと、ペットボトルに入った冷たいドリンク。
     有希ゆきはすぐに袋の中からチョココロネを取り出し、かぶりついた。単なるポーズで空腹を訴えたのではなかったと見える。
     あっという間に食べ終わり、ペットボトルを空にして、有希ゆきは会話を再開した。
    「昨日のアレは、あたしがドジッたわけじゃないぞ。ああいうシチュじゃ、無理せず離脱するのがセオリーだ」
     彼女は真顔でそう言った後、さり気ない――と本人は思っている――仕草で、口元に付いたチョコクリームを拭った。
    「それを社長に説明すれば良いんじゃないですかね」
     鰐塚わにづかは笑いを噛み殺した表情で、ドアの内側から小さなゴミ箱を取り外して有希ゆきに差し出す。
    「めんどくせえ……」
     有希ゆき鰐塚わにづかから目を逸らしながら、口元を拭いたティッシュと、ペットボトルと、ビニール袋を相棒が差し出しているゴミ箱に捨てた。
    「仕方ありませんよ。ホウレンソウは組織人の義務です」
    「……会社員の殺し屋とか、やっぱりお笑いだぜ」
    「今時、どんなに腕が良くたって、フリーじゃやっていけません。ご時世ですよ」
    「チッ」
     舌打ちして今度は顔ごとそっぽを向いた有希ゆきに、鰐塚わにづかはとうとう苦笑を漏らした。

     社長室から戻ってきた有希ゆきは、疲れ切った顔をしていた。
    「意外に早かったですね」
     笑いながら声を掛けた鰐塚わにづかを、有希ゆきは殺気だった目付きで睨み付ける。
    「……何が可笑しい」
    「可笑しくはありませんよ。社長だけならともかく、専務のお説教が三十分で済むなんてラッキーじゃないですか」
    「あいつは舌で人が殺せるぜ……」
     有希ゆきは、オフィスに決まった席を持たない。彼女はオープンスペースの椅子にどっかと座った。
    「全くしつこいったら……。顔は見られてないって幾ら言っても信じやしねえ」
     有希ゆきが社長室に呼ばれたのは、昨夜の駐車場の顛末に関する報告の為だった。
     報告の場が叱責の舞台に変わるのは良くあることで、それは犯罪組織であっても変わらないようだ。
    が遅れている点については何も言われなかったんですか?」
    「ありがたいことに加勢を出してくれるんだと」
     ありがたい、と言いながら、有希ゆきの口調は投げ遣りだった。
    「チームを組めというんじゃありませんよね?」
    「そんなわきゃねーだろ」
     鰐塚わにづかの問い掛けを、有希ゆきが鼻で笑って否定する。
    「そうですか……」
     少しホッとした表情を浮かべているところを見ると、鰐塚わにづかも他の殺し屋に振り回されるのは嫌だったようだ。
    「ちなみに、誰が手を貸してくれるんですか?」
    「ボビーとジャックの二人だってさ」
    「それはまた……」
     社内でも悪名が高い爆弾魔と快楽殺人鬼のコードネームを聞いて、鰐塚わにづかが顔をしかめる。
     もし一緒に仕事をする羽目になっていたら……、と考えたのか、少し顔色が悪い。
    「ジャックはともかく、ボビーに引っかき回されたくない。クロコ、あの野郎の始末、とっとと終わらせるぞ」
     有希ゆきがだらけた表情の中に鋭い眼光を垣間見せて、そう鰐塚わにづかに宣言する。
    「ええ、もちろんです」
     有希ゆきの真意を理解している鰐塚わにづかは、表情を改めて頷いた。
     有希ゆきは標的以外の人間を巻き込む爆殺という手口を嫌っている。彼女は心の底で、自分の殺人には意味があると思っている。いや、思いたがっている、と言う方が正確か。
     法で裁けない悪人を裁く。簡単に言えば、これが亜貿社あぼうしゃの掲げる理念だ。無論そんなものは建前だと鰐塚わにづかは知っているし、有希ゆき理解している。
     だが彼女の感情は、この理念を信じたがっている。九十九パーセントは虚ろな建前でも、一パーセントの真実があると、心の奥底で思っている。
     有希ゆきは十七歳になったばかりの少女なのだ。最初に人を殺したのが十二歳の時で、職業的暗殺者になって丸三年が経過しているとはいえ、夢や希望を捨て去るには、まだ若すぎる。
     若すぎて、この世には善も悪も無い、善悪は人が勝手にレッテルを貼っているだけだと理解できない。
     自分が生きる為に他人を殺しているだけだと、心の底では認められない。
     だからだけでなく、無関係な一般人まで巻き込んでしまう爆弾という道具に嫌悪感を懐く。
     だが鰐塚わにづかは、有希ゆきはそれで良いと思っている。
     殺し屋には、各々おのおので得意とするスタイルがある。爆殺は彼女に向いていない。爆弾を嫌っていれば、不向きなスタイルに色気を出すこともないだろう。
     それに、変に知恵を付けて罪悪感で切っ先を鈍らせたりするより、アウトローなを信じている方が本人にとっても幸せに違いないのだ……。

    ◇ ◇ ◇

     日曜日の午後。達也たつやを狙う殺し屋についての調査を終えた文弥ふみやは、その結果を報告すべく四葉よつば本家を訪ねた。
     電話を使わなかったのは、盗聴を恐れたのではなく報告以外に用があったからだ。
     四葉よつば家当主・四葉よつば真夜まやに、父親のみつぐを伴わず一人で面会した文弥ふみやは、殺人結社『亜貿社あぼうしゃ』についての報告を終えた後、彼の想いを訴えた。
    「要するに文弥ふみやさんは、達也たつやさんのボディガードに立候補したい、ということかしら?」
     優しい口調と、冷たい眼差し。
     文弥ふみやはまだ十三歳だが、真夜まやの本音がどちらにあるか読み違えはしない。
     それでも彼は、挫けなかった。
    「ボディガードではなく、に弓を引く犯罪組織に教訓を与えたいのです」
    「教訓を、ねえ……。何故、手っ取り早く潰してしまわないの?」
    「そ、それは、後々利用価値があるのではないかと……」
     しかし十三歳の文弥ふみやでは、やはり問答の想定が甘かったようだ。
     口ごもってしまった文弥ふみやを可笑しそうに見詰めたまま、真夜まやは斜め後ろに控えている葉山はやまの名を呼んだ。
    亜貿社あぼうしゃなる輩、忍びの集団であるようです」
     葉山はやま真夜まやに電子ペーパーの端末を渡す。そこには文弥ふみやの調査結果より詳細なデータが記されていた。
     文弥ふみやの顔に口惜しげな表情が浮かぶ。だがそこに、真夜まや葉山はやまを責める色はなかった。達也たつやを狙う組織の調査は、文弥ふみやの実力を試す為のものだ。最初にそう言われたのを、彼は忘れていない。テストであるなら、答え合わせの為に別途調べ上げるのは当然のことだった。
    「忍術使いではない、体術忍者なのね」
     忍術使いは古式魔法師の一派。体術忍者は、そういう用語があるのではなく、魔法を使えない忍者を古式魔法師・忍術使いと区別する為に作った即席の造語だ。
     魔法が科学の対象となり、世間からフィクションだと考えられていた魔法の実在が確認されたとき、忍術も単なる体術・中世的な諜報技術の体系だけでなく、奥義とされる部分は魔法の一種であることが明らかになった。
     虚構と思い込んでいた、妖しげな「術」を伝える古式魔法師、それが『忍術使い』。
     しかし、全ての「忍者」が「忍術使い」だったわけでもない。
     魔法は希少な才能だ。「忍者」の中でも「忍術使い」はやはり少数派。「妖しげな術」は、特別な血統の者以外にはほとんど継承できない特殊な技能だった。
    「あら? 魔法師ではないけど、異能者もいるのね。犯罪結社に所属しているということは、のサイキック?」
    「さようでございます」
     現在、魔法師の存在は国家により管理されている。民間の魔法師も、一部の例外を除き政府が所在を把握している。一部の例外とは人里離れた山奥・孤島に隠れ住んでいるか、罪を犯して逃亡中の場合だ。国民としての行政サービスを受けている限り、国家の目からは逃れられないのはの市民も同じだが、魔法師の場合はそれが徹底している。例えば高レベルの魔法師は、事実上出国を禁じられている。移動の自由を制限されているわけだ。魔法師の管理体制は、そんな無理、ある意味で人権侵害がまかり通る程のものだった。
     しかしその監視網も、魔法師としての適性がな者まで網羅しきれてはいない。魔法というシステムに対応できず先天的に限られた術しか使えない――特定の超常能力ならば使異能者、「超能力者」の追跡には取りこぼしが生じている。
     国家の魔法管理体制から失格の烙印すら押されることなく落ちこぼれた異能者は、自分から政府に異能を売り込むか、何の超常能力も持たないとして生きていくか、あるいは犯罪者として異能を振るうか、この三択だ。そして悲しむべきことに、三番目のケースが最も多い。
     真夜まやが問い掛け、葉山はやまが頷いたのは、亜貿社あぼうしゃの構成員にそうした異能者が加わっているという意味だった。
    達也たつや殿が関わった暗殺者も、異能者であるようです」
     達也たつやは当主・真夜まやの甥であり、葉山はやまにとっては主筋に当たる。にもかかわらず「達也たつや様」ではなく「達也たつや殿」と呼び「関わられた」ではなく「関わった」と言っているのは、この時点で達也たつや四葉よつば家内部で置かれていた微妙な立場を反映してのことだった。
    「この子ね」
     葉山はやまが言及した暗殺者についてのデータは、電子ペーパーに大きなスペースを取って記載されている。そのレポートを見つけるのに、真夜まやは苦労しなかった。
    「名前ははしばみ有希ゆき……本名かしら?」
    「そのようです。戸籍が改竄されていなければ、でございますが」
    「まあ、どちらでも良いわ。能力は身体強化……。ありふれているわね」
    「筋力、知覚速度、反応速度を同時かつ瞬時に強化する能力です。実戦では中々有益かと」
    「その程度のことはドーピングでどうにでもなるでしょう」
     はしばみ有希ゆきの異能について葉山はやまがその有用性を説いても、真夜まやはやはり興味をそそられない様子だった。
    「……でも逆に言えば、ドーピングにより強化された人間と同等の異能者が野放しになっているということね」
     しかし自分の言葉をきっかけにして、別方向に懸念を覚えたようだ。
     まともに戦えば、身体強化の異能は高レベル魔法師にとって恐れるに足りない。
     だが無警戒の状態で懐に入られれば四葉よつば家の魔法師でも危うい。
     魔法師は魔法という技能を操れるだけで、肉体的にはと変わらないのだから。
     ましてや、にとって脅威となるのは、論じるまでもない。
    「さようでございますな。それ自体は御家おいえと無関係でございますが」
    達也たつやさんの所為で一般人に被害が及ぶのは避けたいわね」
     真夜まやのセリフには語弊がある。正確には「達也たつやの所為で一般人に被害が及んだと非難されるのは避けたい」と言うべきであり、更に掘り下げれば「一般人に被害が出て達也たつやが注目されるのは避けたい」というのが四葉よつば家当主としての本音だ。
     達也たつやの存在は隠しておくというのが、この時点における四葉よつば家の総意だった。国防軍の一部には達也たつやのことを知られているが、その部隊とは秘密保持の合意ができている。これ以上四葉よつば家の外、特に魔法師社会の有力者である十師族や百家の注目を浴びるのは避けたいと、真夜まや四葉よつばの分家当主は考えていた。
    「……良いでしょう。文弥ふみやさん、介入を許可します。ただし、くれぐれも正体を覚られないように」
    「心得ております」
     手を出す許可と共に釘を刺された文弥ふみやは、心の中で歓声を上げながら表面上は神妙な表情で頷いた。
    文弥ふみやさんの中学校にはこちらで手を回しておくわ。葉山はやまさん、お願いね」
    「かしこまりました」
     文弥ふみやが通っている中学校は四葉よつば家が裏で支配している私立だ。魔法大学とその付属高校は国立校だから十師族といえど口出しはできないが、魔法教育と直接の関係が無い小規模な私立校は、四葉よつば家に限らず裏に魔法師の一族がいるというケースが意外に多い。
     魔法の正規教育が魔法大学および魔法大学付属高校に独占されている一方、魔法師の才能は小学校高学年から中学校段階で顕在化することが多い。有力な魔法師一族が私立中学経営に手を出すのは、有望な少年少女を自分たちの息が掛かった学校に入れて将来配下に引き込むという意図があってのことだった。
     またそれとは別に、「裏」の社会に関わっている一族は、子女を仕事に使う為に出欠が自由になる学校を用意する。真夜まや葉山はやまに命じたのは、後者の使い方だった。
    文弥ふみやさん、二週間で片を付けなさい。良いわね?」
    「かしこまりました。二週間で、十分です」
     文弥ふみやは、今の彼に精一杯の恭しい所作で一礼した。

    ◇ ◇ ◇

     どんなに警備システムが発達しても、空き巣犯罪は無くならない。システムを使うのは、ミスをする人間だからだ。完全な自動警備にすると鍵を開けるのに手間が掛かる。そんな理由で、ついつい在宅モードのまま出掛けてしまう人々が後を絶たない。
     有希ゆきが忍び込んでいるのは、そんな民家の二階だった。彼女が張り付いている窓からは、司波しば達也たつやの自宅の門が辛うじて見えている。
    『ナッツ、動きはありましたか?』
    「ねえよ」
     骨伝導スピーカーから聞こえてくる相棒の質問に、有希ゆきは素っ気ない答えを返した。
    「あいつ、ずっと家に閉じこもっているつもりか?」
     しかしその後にすぐ、愚痴をこぼしてしまう。彼女はもう八時間近く、こうしてじっと潜んでいた。職業柄、有希ゆきは動かず隠れているのは慣れているが、今は殺し合いの最中ではない。命懸けの緊張感が欠如している所為で、彼女は余計に疲れていた。
    『日曜日ですからね。出掛ける用事が無いんでしょう』
    「中学生だろ? 遊んだりしないのかよ?」
     高校に通わず殺人結社に所属している有希ゆきが、自分のことを棚に上げて呟く。通信回線の向こうでは、鰐塚わにづかが「貴女がそれを言いますか」というツッコミを呑み込んでいたが、有希ゆきはそれに気付かなかった。
     時刻はそろそろ九時になる。朝ではなく、夜の九時だ。こんな時間までこの家の住人が戻ってこないのは予想外にラッキーだったが、それでもいい加減に切り上げなければならないだろう。
     そもそも有希ゆきは、こんな時間まで粘るつもりではなかったのだ。事情聴取――またの名をパワハラ――自体は短時間で済んだものの、結局なんだかんだで会社を出たのが正午前。その後、朝食に続いて昼食もファーストフードで済ませ、この家に忍び込んだのが午後一時過ぎ。
     日曜日の午後だ。中学生なら当然外出すると予想して見張っていたのだが、ターゲットを堅気の少年と考えていたのがどうやら間違いだったようだ。
     そう有希ゆきは思ったのだが、
    『……中学生だからといって休みの日に外出するとは限りませんよ。家でゲームでもしているのかもしれませんし、三年生なら受験勉強だってあるだろうし』
     彼女の相棒は別の考えを持っていたようだ。
    「だったら早く、そう言えよ」
     有希ゆきに苛立ちをぶつけられた鰐塚わにづかは「張り込みを始める前に、そう言ったじゃないですか」という反論を、またしても呑み込んだ。今更言っても仕方が無いことと、大人の態度を示したのである。
    『とにかく、今日は諦めて戻ってきては如何ですか?』
    「……そうだな」
     愚痴をスルーされた有希ゆきも、それ以上八つ当たりを続けようとはしなかった。相棒の提案は、彼女にとって歓迎すべきものだった。
     しかし。
    「――ちょっと待て」
     事態は得てして、こういうタイミングで進展する。
    「出てきたぞ。ヤツだ」
     見張っていた一軒家の門から、ターゲットが姿を現した。
    『ドローンを飛ばしますか?』
     鰐塚わにづかの問い掛けは、ドローンで標的を尾行するか、という意味だ。一時期は輸送手段として広く普及したマルチローター型ドローンも、現在は市街地の飛行を禁止されている。だが規制と犯罪は常にいたちごっこの間柄だ。静粛性が極めて高いステルスドローンが開発され、主に盗撮目的で使用されている。――なお盗撮を行うのは、犯罪組織ばかりとは限らない。
    「いや、あたしがつける」
     しかし現行の技術では、音を消せても姿は消せない。見えにくくすることはできても、完全に景色と同化する技術はまだ完成していない。発見されるリスクは、ドローンより自分の方が低い。それが有希ゆきの判断だった。
    『了解です。ナッツには不要な言葉でしょうが、見つからないようお気を付けて』
    「自信が無きゃ、こんなことは言わねえよ」
     鰐塚わにづかの常識的な注意喚起に、有希ゆきは不敵に嘯いた。

     潜伏していた家を出た有希ゆきは、すぐにターゲットの背中を見つけることができた。監視の為に陣取っていた二階から怪しまれないよう玄関と門を通過するまでは、標的から目を離さざるを得ない。その間にターゲットを見失ってしまうことが最大の懸念だったので、有希ゆきは心の中で胸を撫で下ろしていた。
     そのまま一定の距離を保って、有希ゆきは標的の後をついていく。油断してはいないが、勘付かれるとも思っていなかった。
     有希ゆきが得意とする得物はナイフ。接触して刺殺するのが彼女の仕事のスタイルだ。察知されずに尾行、接近する技術は彼女にとって不可欠なものであり、三年間の暗殺者ライフで一度も気付かれなかった実績がある。有希ゆきは自分の隠形術、尾行術に自信を持っていた。
     ターゲットの少年、司波しば達也たつやは一度も振り返らずに駅の方へと歩いて行く。
    (……何でコミューターを使わないんだ?)
     有希ゆきは微かな違和感を覚えたが、尾行に集中していた彼女の意識には、ふと心に浮かんだ疑問について深く考える余裕が無かった。
     違和感の正体を突き詰められなかった理由は、それだけではない。
     大通りに出る一つ前の交差点で、事件は起こった。
     彼女の標的が、いきなり四人の成人男性に取り囲まれたのだ。
     恐喝や衝動的暴行に走るチンピラではない。離れていても、街灯の光だけで分かる実戦的な身体付き。暴力を生業とする人間の匂いが、明確に伝わってくる。
    (冗談だろ!?)
     有希ゆきは慌てて駆け出した。足音を消すことは忘れていないが、気配の隠蔽は疎かになっている。彼女はそれ程、慌てていた。
     標的を囲む男たちの向こう側には、闇に紛れる濃灰色の大型乗用車が停まっている。有希ゆきには男たちの意図がはっきり分かった。
     誘拐だ。
     あの男たちは、司波しば達也たつやを連れ去ろうとしている。
     彼らが司波しば達也たつやをただ殺そうとしているなら、有希ゆきにとっては歓迎すべきことだ。彼女は何もせずに見逃していただろう。
     だがわざわざ誘拐という手間を掛けて、命を奪うだけとは考え難い。殺すだけなら、この場で手を下せば良いのだ。
     最終的に殺すとしても、その前に訊問を企てているのだろう。
     それは、まずい。
     あの少年を通して、自分のことが知られたら。
     世の中には、自分のことを積極的にアピールして、己の商品価値を高める殺し屋もいる。
     だが、それはきっと例外だ。大多数は職業的殺人者の正体を隠して生きている。
     その方が一般市民に紛れ込みやすいという理由だけではない。自分の特徴を知られてしまうと、仕事がやりにくくなるからだ。
     暗殺者としての、有希ゆきの大きな武器は「少女であること」。ただ女であるというだけではなく、彼女は小柄で、如何にも非力そうで、暴力沙汰とは無縁に見える。
     相手を警戒させずに近づくには、打って付けの外見だ。
     有希ゆきに回ってくる仕事は、そんな彼女の容姿を活かせるタイプの案件が多い。
     ――身長百五十センチ前後の、華奢な体型の殺し屋がいる。
     そんな噂が出回るだけで、彼女の仕事は大幅に難しくなってしまうだろう。
     男たちが少年を車の中に連れ込もうとしている。
     少年は、抵抗の素振りを見せない。
    (お前っ! ちょっとは根性見せろよ!)
     抗おうとしない少年を罵倒し、有希ゆきは自分の足に「力」を込めた。
     身体強化の異能が解放される。
     彼女の小柄な身体が、爆発的に加速した。
     しかしその代償として、足音を隠し切れなくなる。四人の男が、一斉に有希ゆきへと振り向いた。
    (ええい、クソッ!)
     有希ゆきには、暴力の専門家であろう男たちと争う気は無かった。真っ先に本来のターゲット、司波しば達也たつやを仕留めてこの場を離れるつもりだった。――可能ならば。
     だが、それが虫の良い皮算用だということは、彼女にも分かっていた。
     四人の内、二人の男が有希ゆきを迎え撃つ構えを取った。残る二人が有希ゆきの標的である少年を連れて、大型乗用車に乗り込もうとする。
     そこへ、有希ゆきが襲い掛かった。
     スローイング・ダガーを投げつける。
     その思い掛けない攻撃に、男たちは意表を突かれた。
     彼らの大柄な体躯で築かれた垣根の、わずかな隙間を縫ってダガーが少年に襲い掛かる。
     しかしその小さな刃は、軽く仰け反った少年の眼前を通り過ぎて乗用車を飛び越え、民家の壁で跳ね返った。
     一人が耳慣れない言葉を叫び、二人掛かりで少年を車内に押し込む。二人が車外に残っているのは、有希ゆきをただ者ではないと見ているからか。
     その認識も、直前のスローイング・ダガーを勘案すれば的外れではない。警戒して当然だ。結果的に悪手となったのは、次の瞬間、有希ゆきが取った行動が非常識すぎただけだ。
     二人組がナイフを構えた。
     その直前で、有希ゆきは小さく跳ね、路面に勢い良く手をついた。
     側転、否、ロンダートからの後方宙返り。
     身体強化の異能がもたらす常識外のジャンプ力で、有希ゆきの身体は高く宙を舞った。
     意表を突かれて彼女を見失った二人組の頭上を軽々と跳び越え、有希ゆきは狭い道路の反対側にそびえる民家の塀に足をつく。
     そのまま再び跳躍。
     彼女は軽やかに、走り出した大型乗用車の屋根に飛び移った。
     猫のような身のこなしだが、さすがに全く音を立てないというわけにはいかない。
     車内の人間は全員、誰かが屋根に飛び降りたと気付いた。
     狭い道路といっても、二車線分の幅は確保されている。
     屋根の上の有希ゆきを振り落とすべく、乗用車が蛇行を始める。
     有希ゆきはあっさり、車から飛び降りた。
     走り去る乗用車のナンバーと特徴を、しっかり目に焼き付ける。
     そこへ、彼女に出し抜かれた二人組が駆け寄ってきた。
     銃を撃ってこないのは、所持していないからではなく住民の耳を気にしているのだろう。
     いざとなれば使うに違いない。
     有希ゆきは二人組の実力を甘く見ていなかった。
    (それでも、やらないって選択肢は無いけどな!)
     目撃者を残したくないのは有希ゆきも同じだ。彼女は二人組の前で、身体強化の異能を見せてしまっている。殺しの現場を見られたのとは別の意味で、口封じが必要だった。
     敵の一人が、ナイフを握っていない手を伸ばす。有希ゆきはそれを、ステップで躱した。
     もう一人がナイフを繰り出す。
     有希ゆきは身体を反らしたが、敵の切っ先がセーターの胸に食い込んだ。
     次の瞬間、有希ゆきの胸の膨らみが、片方、消えた。
     血は流れなかった。
     ビニールの風船が割れるような小さな音がして、有希ゆきの胸から、血しぶきの代わりにもやのようなものが広がる。
    「ウッ……!?」
     有希ゆきのセーターを切り裂いた男が呻き声を上げ、立ちくらみを起こしたように姿勢を乱した。
     有希ゆきはその隙を見逃さなかった。
     彼女のナイフが、男の首筋に刺さる。
     深く突き刺すことはしない。逆手に握ったナイフを、刺したまま手前に引く。
    「ッ……!」
     男の口からかすれて声にならない息が、首からは血が溢れ出た。
     仲間の惨状に二人組の片割れは、無意味に喚き散らすことなく有希ゆきに刃を向けた。彼らが高度な訓練を受けたプロフェッショナルだという証拠であろう。しかし、有希ゆきの方にも油断は無かった。
     大柄な男性と、小柄な少女。リーチは有希ゆきが大きく劣る。
     男が有希ゆきの間合いの外からナイフを振るう。
     それに対して有希ゆきは自分の、残ったもう片方の胸を潰した。
     言うまでもなく、本物のバストではない。空気の代わりに非致死性の神経ガスを仕込んだエアーパッドだ。女性ならではの隠し武器と言えよう。
     その効果は既に実証済み。二人目の男も仲間同様、大きく体勢を崩した。
     それでも有希ゆきのナイフをはじき返して見せたのは、一人目がやられた手口を見ていたからか。
     しかし、距離感と平衡感覚を狂わされては、男が如何に手練れであっても有希ゆきのナイフを防ぎ続けることはできない。
     男にもそれが分かったのだろう。
     彼は手を伸ばして有希ゆきを捕まえようとした。
     組み合ってしまえば、距離感のハンデは大して問題にならない。それに、男と有希ゆきではまさに大人と子供の体格差がある。有希ゆきがただの少女ではないと理解してはいるだろうが、それでも男は自分に腕力の優位があると疑わなかった。
     有希ゆきとしても、力比べはやぶさかではない。自分の背が伸びないことに不満を抱えている彼女は、異能を使って大男を力でねじ伏せるのが大好きだった。
     だが今は、状況に余裕が無い。は無かった。
     有希ゆきが男の腕をかい潜って、その懐に入る。
     彼女の足取りに、一切の乱れは無い。
     考えてみれば不思議だ。神経ガスは、彼女の胸に付けたエアーパッドから広がった。
     有希ゆきが最も濃いガスを浴びているはずだ。
     にもかかわらず、彼女には麻痺が見られない。
     これが、身体強化と並ぶ彼女の武器だった。
     有希ゆきは後天的に、毒に対するほぼ完全な耐性を獲得している。いや、後天的と言い切ってしまっては語弊があるだろう。彼女の毒耐性は、身体強化の異能が内臓機能にも拡張されたことで成り立っているのだから。
     だが元々は筋骨、知覚・運動神経にのみ作用するものだった身体強化が解毒、排出、毒素ブロックに及んでいるのは毒に慣れさせる訓練の賜物たまものだ。
     彼女が自分で毒を飲んでいたわけではない。有希ゆきの両親が、彼女の知らないところで計画的に毒物を与え続けていたのである。
     有希ゆきがそれを知ったのは、両親が死んでしまった後だ。父母が何故そんなことをしたのか、訊ねる機会は存在しなかった。両親が自分をどうしたかったのか、何にしたかったのか、それはもう、推測するしかない。
     だがその答えが何であれ、彼女が今、職業暗殺者であるという事実は変わらない。
     そして両親が与えた完全毒物耐性は、有希ゆきにとって、殺し屋として生きていく上で大いに役立っていた。
     まともに勝負すれば、身体強化があっても、有希ゆきと二人組にはそれ程の力量差は無かった。だが神経毒に蝕まれたコンディションでは、実力の半分も出せない。
     有希ゆきのナイフは、男の喉を正面から貫いた。

     ナイフを抜く瞬間に素早くサイドステップしたので、有希ゆきは男の返り血を浴びずに済んだ。
     しかし余り長く死体の側にいると血の臭いが移ってしまう。
     この二人を殺したのは予定外だ。会社に言っても、処理班は手配して貰えないだろう。死体の隠蔽は諦めて、有希ゆきはその場を離れた。
     身体強化による快足を飛ばしてジグザグに三ブロック遠ざかり、追跡者がいないのを確認して、有希ゆきはオフにしていた音声通信のスイッチを入れた。
    「クロコ、聞こえるか」
    『ナッツですか。連絡が途絶えたからどうしたのかと思いましたよ。仕留めたんですか?』
    「アクシデントだ」
    『何があったんですか!?』
     耳にはめたスピーカーから、相棒の狼狽した声が届いた。
     それを聞いて、有希ゆきの中に改めて、厄介なことになったという実感が湧いた。
    「ターゲットが拉致された」
    『何ですって!?』
    「落ち着け、クロコ。拉致した連中の車はダークグレーの大型セダン。ルノーの国内モデルだ。ナンバーは多摩3xx―せxxxx」
     有希ゆきが地域名、三桁の分類番号、一文字の平仮名、四桁の一連番号を告げる。走り去った自走車から読み取ったものだ。
    『多摩3xx―せxxxxですね』
     それを鰐塚わにづかが復唱した。
    「車の屋根に発信器を取り付けた。そっちで電波を拾えるはずだ」
    『それを先に言ってください!』
     鰐塚わにづかの声が途絶える。相棒が慌てて受信機を操作している姿が、有希ゆきの脳裏に浮かんだ。
    『……はい、捕まえました』
    「場所を教えろ」
    『いえ、迎えに行きます。その方が早い』
    「そうか。じゃあ――」
     有希ゆきが待ち合わせ場所を伝える。
     鰐塚わにづかは「了解です」の一言で通話を切った。

     迎えに行く方が早い、という言葉のとおり、有希ゆきが待ち合わせに指定した駅前に到着するのとほぼ同時に、鰐塚わにづかの運転するワゴン車が姿を見せた。
     車が停まった直後、有希ゆきが素早く助手席に潜り込む。
    「急げ」
    「分かってます」
     返事をしながら、鰐塚わにづかがドライブレバーを倒した。
     走り出したボックスワゴンの助手席で、有希ゆきはナビゲーターの地図を見詰めた。地図の右上で点滅している光点が、彼女が取り付けた発信器の現在位置だ。
     有希ゆきが光点の周辺を拡大表示する。
     光点は、動いていなかった。
    「意外に近いな」
    「小規模な独立系の化学薬品工場ですね。死体の処理には困らないでしょう」
    「余計なことをせずに、処理だけしてくれればこっちも楽なんだけどな」
    「同感です」
     鰐塚わにづか有希ゆきと言葉を交わしながら、交通管制システムの許容するギリギリの速度でワゴン車を走らせている。
     それでも、現場到着まで十分以上を要した。
    「中の様子は分かるか?」
     有希ゆきのターゲットである男子中学生を連れ去った乗用車が、工場の敷地内に駐まっている。
     それを道路の反対車線に停めたワゴン車の中から視認して、有希ゆきは運転席の相棒にそう訊ねた。超常的な特殊能力を当てにして質問しているのではない。生体信号を遠隔探知する生体レーダーの反応を訊ねているのだ。
    「駄目ですね。障碍物が多すぎます」
    「まあ、そうだろうな」
     鰐塚わにづかの答えを聞いても、有希ゆきは落胆しなかった。ボックスワゴンに搭載できる生体レーダーの感度は、たかが知れている。この距離で何枚もの壁に隔てられた屋内の様子が捉えられたら、余程運が良い。
    「……乗り込んでみるしかないか」
    「ナッツ」
     ドアの開閉レバーに手を掛けた有希ゆきの肩を、鰐塚わにづかが押さえた。
    「危ないのは分かっている」
     振り向いた有希ゆきが、自分の肩に置かれた鰐塚わにづかの手を軽く払い落とす。
    「でも、こうしていたって仕方が無いだろ」
     その程度の理屈は鰐塚わにづかにも理解できている。しかし、今から行おうとしている潜入のリスクは、いつもの仕事の比ではない。事前の調査が全くできていない敵のアジトへ、一人で踏み込もうというのだ。
     いや、そもそも敵かどうかすら定かではない。もしかしたら、とんでもない薮蛇やぶへびになるかも知れない。
     だが相棒の少女が浮かべた苦笑いに、鰐塚わにづかにはそれ以上、制止できなくなった。
     有希ゆきがターゲットを仕留めるのに、ここまで失敗を重ねているのは、鰐塚わにづかが知る限り初めてだ。と違って準備に時間を掛けられないという点は、割り引いて考える必要があるかもしれない。だが急いでいるのは、そうするだけの理由があってのことだ。
     本来ならば暗殺の現場を目撃された当日、水曜日の夜に始末していなければならないのに、今日はもう、その四日後の日曜日だ。しかも、これなら確実にターゲットの少年をれるというシチュエーションの目処が立たない。
     そうした事情に加えて、殺し屋である自分の情報が第三者に漏れるリスクが生じている状況だ。危険を承知で突っ込んでいくしかないという有希ゆきの決断は、鰐塚わにづかから見てもやむを得ないものだった。
    「……お気を付けて」
    「もちろん、気をつけるさ」
     車から出て行く有希ゆきを、鰐塚わにづかは未練がましく見送った。