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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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少女アサシン
[2]偵察
伝説でも御伽噺でもなく、確実に実在するものとして魔法が最初に確認されたのは西暦一九九九年のことだった。
その年、人類滅亡の預言――と勝手に解釈した古書の記述――を現実のものにしようとした狂信者集団による核兵器テロを特殊な能力を持った警察官が阻止した。この事件が、近代以降で最初に魔法が確認された事例とされている。
しかしそれは、最初から「魔法」と呼ばれていたわけではない。当初、その特殊能力は「超能力」と呼ばれていた。狂信者のテロを阻止した警官は杖も護符も魔導書も持っていなかったし、呪文も魔法陣も知らなかった。彼はただ強く念じるだけで、臨界に達した核分裂反応を止めた。
核兵器を無力化する異能=超能力。核の抑止力に頼っていた大国は最初、その能力を恐れた。しかしすぐに、利用することを考えた。その能力を独占できれば、敵国からの報復を恐れずに核兵器を使用できる。「持っているだけで使えない兵器」が「実際に使用できる兵器」に変わる。
アメリカ、当時のUSA政府は世界中に捜索のエージェントを派遣した。核を無効化する超能力者を集め、また、敵の手に渡さぬ為に。
残念ながら、警官と同じ超能力の持ち主は見つからなかった。だが捜索の過程で予想した以上に多数の超能力者が発見された。その多くは微弱な能力しか持っていなかったが、精神の力で物理現象に干渉する力は突然変異ではなく人間が持つ才能だと判明した。
ほとんどの人間はそれが顕在化するレベルに到達していないだけ。調査を担当した当時の研究機関は、そう結論付けた。
力が弱ければ、強化すれば良い。潜在しているなら、無理矢理にでも引き出せば良い。人類の潜在能力開発の名の下に、多くの人体実験が行われた。物理的、化学的刺激を用いる実験と並行して、オカルト的な手段も動員された。
その過程で、魔法は歴史の表舞台に登場した。
フィクションの産物と信じられていた魔法が、軍事技術開発に取り込まれることでリアルな技術となった。
伝説の闇 から抜け出し日の光の下 に姿を見せた「魔法使い」の技術を科学的に分析した結果、超能力と魔法は本質的に同じ力であることが判明した。歴史の陰に隠されてきたノウハウを分析し、改良し、活用することで、超能力はより汎用的な技術に発展を遂げた。
超能力者は、ごく限られた物理現象に干渉することができるだけだ。
だが新たに開発された技術は、一定水準以上の才能を必要とはするものの、一人で多種多様な事象改変を可能とする。核兵器を無効化する異能すらも、一つの技術として確立された。
この汎用化された、精神的能力により物理現象に干渉する技術を今では、作り話と信じられていた古い技術と合わせて魔法と総称する。
魔法の研究はその初期段階から、アメリカだけでなく世界中で行われた。世界中にエージェントを派遣したことが、情報の拡散を招いたのだ。
各国の政府は魔法という名の技術を使いこなせる人材、『魔法技能師』、略して『魔法師』の育成に力を注いだ。『超能力者』の多くは、『魔法』を身につけ『魔法師』になった。
二十一世紀末現在、魔法師は国家にとって重要な戦力であり――貴重な兵器となった。しかし、全ての異能者が国家によって管理されているわけではない。
全ての超能力者が、魔法師に成れたわけではなかった。
◇ ◇ ◇
朝の住宅地を制服姿の少年少女が同じ方向に歩いていく。昔から変わらない通学風景だ。通勤は在宅勤務やサテライト・オフィス、フレックスタイムが普及した御蔭で「通勤ラッシュ」が過去のものとなっていたが、登校時間は今でも朝の八時前後に集中している。
もっとも半世紀前とは電車の形態が変わってしまっているので、「ギュウギュウ詰めの満員電車」は姿を消している。それに、この点は昔から変わっていないのだが、一般的な公立小中学校で電車・バス通学が必要になることはない。
東京郊外に位置するこの中学校は私立校だが、最寄り駅から少し離れている為、朝の登校風景は公立中学校と余り変わらない。
同じ制服で同じ年頃。
しかし容貌や体格は、一人一人違う。
目立つ生徒と目立たない生徒がいるのも、表面的には他校と同じだろう。
ただこの学校には他の追随を許さぬ「頂点」が存在する。その点が少し特殊かもしれない。
美しい女子生徒が、その容姿に相応しい淑やかな足取りで通学路を進む。
同じ道を歩む生徒たちは、少年も少女も一瞬立ち止まり、すぐに、つかず離れずの距離で彼女に付き従う。
毎朝のことであっても、それは変わらない。
――美人は三日で飽きるなんて、絶対に嘘だ。
この中学校の生徒は皆、そう思っているに違いない。実際、多くの生徒が一度は似たようなことを口にする。
彼らはまだ未成熟な心に、一つの真理を刻み込んでいる。
世の中には、決して慣れることのない美が存在する。
本物の美は、憧れや情欲よりも先に、衝撃をもたらす。
司波深雪 という名の美少女を目にした時、それを覚 らずにいられる者は希だ。
(何だよ、あれ……)
周りの少女たちと同じセーラー服で変装した偽中学生の少女も、例外ではなかった。
決して目立ってはならない身でありながら、彼女は思わず立ち竦んだ。少女にとって幸運だったのは、それが決して珍しい姿ではなかったことだ。
彼女は慌てて、止まっていた足を動かした。目立たないように目を左右に動かし、注目を浴びていないと確認して安堵の息を吐く。
(……あれって、あたしと同じ人間か? あんな生き物がこの世に実在したのか?)
歩みを再開しても、衝撃からはまだ抜け出せていない。
彼女は美しすぎる少女をチラリと盗み見て、思わず頭 を振ってしまう。
どう見ても、この世の生き物ではない。天女とか女神とか美の化生 とか、そういう空想上の存在ではないかという疑いが拭えない。自分の目が、自分の頭がおかしくなったのではないかという疑念に囚われそうになる。
(……って、そうじゃないだろ!)
彼女は心の中で自分を叱りつけて、視線を無理矢理、美少女の隣に向けた。
美しすぎる少女の隣には、一人の男子生徒が影のように付き従っていた。
大人びた容貌と、まだまだ未成熟ながら良く鍛えられた身体。
だが、不思議と目立たない。不自然なまでに気配が薄い。
隠れているわけでもないのに、殺し屋を生業にしている少女でさえも、気を抜くと見失ってしまいそうだ。
(隠形、か……?)
気配を隠す技は、少女にも覚えがある。三年前までは自分の知らないうちに叩き込まれ、三年前からは意識して鍛えてきた技術だ。
(……参ったな。あたしより上っぽいぞ)
覚えがあるから余計にはっきりと、少年の技量が理解できた。
(腕っ節が強いだけじゃないのか……)
徒手格闘だけなら、玄 人 よりも強い素 人 は珍しくない。素人は目の前の相手に勝つことだけを考えて鍛錬すれば良いが、玄人にとっては状況を作り上げ、そこから無事逃げおお果せる技術の方がむしろ重要だ。
しかしあの少年は、単に腕っ節が強いだけではないらしい。
少女の中で、警戒感の水位が上がる。
(名前は確か、司波達也 )
少女は記憶の中から少年に関する情報を引っ張り出した。
彼女のサポート要員は決して無能ではない。それなのに、少年に関して判明した事柄は余りにも少なかった。
氏名。自宅の住所。通っている中学校。
それだけだ。
調査の時間が足りなかったという事情は、間違いなくあった。
彼女の相棒が調査を始めたのは昨日の朝。そして昨晩、氏名、住所、学校までは判明した。
これが普 通 の 仕事なら、行動を起こす前にターゲットの情報をもっと念入りに集める。だが今回の標的は殺人事件の目撃者で、犯人は自分だ。
本来ならば、その場で始末しなければならない相手。時間を掛ければ掛ける程、少女自身ばかりか組織までが危うくなっていく。相手のウィークポイントや行動パターンをじっくり調べるという贅沢は許されない。
少女は相棒のクロコに引き続き調査するよう指図して、自分はターゲットを直接品定めに来たのである。
少女の年齢は十代後半。外見よりも少 し 年上だが、まだティーンと呼ばれる年頃に過ぎない。
殺し屋の経験も、ようやく丸三年が経過したところだ。
それでも相手の強さがどの程度のものか、自分の目で見れば推し量れると自負していた。
自分より強い相手とは、ま と も に 戦わない。それは殺し屋の鉄則だ。
いったん仕事を受けてしまえば、自分より強そうだからといって対決を避けることはできない。フリーランスならば違約金で解決できるケースもあるかもしれないが、組織に属していればそれも不可能だ。
故に相手の力量を見極める眼力は、殺し屋にとって必須の能力。この力が無い殺し屋は、どれ程腕っ節が強かろうと、銃やナイフの技術がどれだけ優れていようと、すぐに退場を余儀なくされることになる。三年間、この業界で生き延びてこられたのは、サポートが優秀だったという要素もあるだろうが、少女自身に相手の強さを見て取るセンスがあったからという面が間違いなくあった。
しかし少女は今、困惑していた。
司波達也 という名の、自分より二歳年下の少年がどの程度の力を秘めているのか、見当が付かないのだ。
強いということだけは分かる。そんなことはあの夜に判明済みだ。
素手では勝てない。それは分かっている。
――では、ナイフを使えば勝てるのか。
――それとも、銃を用意しなければならないのか。
――正面から殺れるのか。
――不意を突かなければ仕留められないのか。
経験上、十秒も観察していれば分かるはずのことが、まるで見極められない。
その所為で少年の背中をずっと見詰めている自分に、少女は気付いていなかった。
少年の隣を歩いている美少女を見詰めている生徒は少なくないから、目立ってはいない。しかし彼女の不自然な視線に気付いている者が皆無ではなかった。
少年が肩越しに振り返った。
(気付かれた?)
少女の背筋に悪寒が走る。
咄嗟に下を向いたが、一瞬、目が合ってしまったのを少女も認識していた。
少年はすぐ、視線を正面に戻した。今この場で仕掛けてくるつもりはないようだ。
そんなことを考えた自分を、少女は滑稽に感じた。
当たり前ではないか。相手の少年、司波達也 は中学生で、現在登校の真っ最中だ。しかも隣には連れの女子中学生。同じ学年の妹がいると相棒が言っていたが、あの美少女がそうだろう。
この状況で、殺し屋と命の遣り取りを始めるはずはない。自分の影に怯える幼児 のようだと、少女は我が身を恥じた。
しかし、変装している自分の存在を気取られたのは事実。少女は今日このまま達也 が通う中学校に潜入するつもりだったのだが、予定を変更して引き上げることにした。
潜入する計画だったと言っても、いきなり校内で暗殺に着手する予定は無かった。今日はあくまで下調べ。たとえ中学校の校舎内で仕掛けると決めても、日を改めるつもりだった。
一応武器は持ってきているが、金属探知機に引っ掛からないオールセラミックのナイフだけだ。これであの少年の相手をするのは、正直心許ないと少女は考えている。自分にとっては不案内な学校の敷地内、人気の無い場所を選んで逆襲されたら無事に帰れるかどうか分からない。
少女は達也 を、はな端から普通の中学生とは見ていない。自分と同じ闇の世界の住人だと考えている。校内で人を殺しても、死体を処理する手段くらい持っているはずだと決め付けていた。 中学校への潜入に、そんなリスクを冒す価値は認められない。校内でターゲットの弱みを探すプランは中止だ。相手の技量が、一目では確認できない程に高いと分かっただけでもよしとしなければならない。
計画中止を決意した少女は、一瞬も躊躇わず踵 を返して走り出した。
彼女を訝しげに見送る生徒の視線、もうすぐ予鈴だと呼び止める教師の声を両方無視して、少女は駅まで足を止めなかった。◇ ◇ ◇
ターゲットの中学校に潜入する計画が失敗に終わり、殺し屋の少女はいったん自宅に戻った。組織から斡旋された狭い一人住まい用の、防音だけはしっかりしている安アパートで、彼女は腹ごしらえをしながらこれからの手順を考えていた。
――自動調理器から取り出したホットケーキに蜂蜜入りバターをたっぷり塗る。
目撃者を放っておくことはできない。司波達也 という名の中学生を始末するのは大前提だ。それも、できる限り早急に。
――蜂蜜入りバターを塗ったホットケーキの上にもう一枚ホットケーキを重ねる。
しかし、具体的に何時 、何処 で仕掛ければ良いのか。
――重ねたホットケーキに蜂蜜を塗り、その上にメープルシロップを重ねがけする。
目撃者を消す現場を別の人間に目撃されては本末転倒。
――甘みの塊のようなホットケーキを切り分けて口に運び、有希 は幸せを噛み締めるような笑みを浮かべた。
あの中学生が習慣として訪れる人目に付かない場所があれば、そこで狙う。ターゲットの生活習慣にそういう場所、そういう時間がなければ、色仕掛けなり弱みを握るなりして誘い出す必要がある。
――彼女は自分が無邪気な、子供のような笑顔になっているとは気付かず、二口、三口と過剰に甘いホットケーキをぱくついた。そのまま、表情に似合わぬ殺伐とした思考に意識を委ねる。
本来そうした情報を得る為の調査は、サポート要員の仕事だ。少女も最初は、相棒に任せた。しかし、いつもは一日もあれば仕事に必要な情報を持ってくる相棒が、今回は「時間が掛かる」と事実上、白旗を揚げた。
普通のターゲットを仕留める場合なら時間を掛けられる。だが、目撃者の口封じにそんな贅沢は許されない。
だから中学生の格好までして接近を試みた。だが、あっさり気付かれてしまった。
わざわざ、中学生の制服を仕立てるなんて手間を掛けたのに、だ。
あの中学校の女子制服はオーソドックスな型のセーラー服だったので――セーラー服が中学生の制服としてオーソドックスなのではなく、セーラー服の形がオーソドックスという意味だ
――作らせるのは簡単だった。自動仕立て機を使って、一時間で完成した。
ただ実際に裁断・縫製する前にサイズを測らなければならないわけで……。出来上がった後も、試着して直しが必要無いかどうか確認しなければならない。
変装用の衣服を用意する係の女性従業員たちが自分に向けていた生温 かい笑みを思い出すと、壁を殴って穴を空けたくなってしまう。「ついでにどうです?」と言ってフリルで縁取られたリボンとかデフォルメされた猫が付いたヘアピンとかを出してきた従業員のことは、余程絞め殺してやろうかと思った。
二年前までは実際に中学生だったんだから、と笑いながらぬ か し や が っ た 男性従業員は、実際に殴って黙らせた。その男にそ れ 程 悪気が無かったのは有希 にも分かっている。一般論で言えば、然程間違ってもいないだろうと彼女も思う。
だが有希 は、幼く見られるのが嫌いなのだ。ただでさえ発 育 が 悪 い のを気にしているのに、自分から進んで子供っぽく見られる格好をしたいものか! というのが彼女の本音だった。仕事の為に変装が必要なケースもあると分かってはいるが、理解と納得は別物だ。
それでも何とか感情の抵抗をねじ伏せて変装し、潜入を試みたというのに、今回は入り口以前でつまずいてしまった。
――フォークを操る手は何時の間にか止まり、甘すぎるホットケーキに緩んでいた表情は今、渋く歪んでいた。
『ナッツ、社長がお呼びです』
そんな彼女の許に、相棒のクロコから呼び出しの電話が掛かってきた。有希 が所属する組織は『亜貿社 』という名称で、株式会社形態を取っている。無論、非公開会社だ。表向きの仕事は貿易業。そう言えば、相手は勝手に「亜細亜貿易」の略で『亜貿社 』なのだな、と勘違いする。実際には全く関係の無いネーミングなのだが、捻りすぎている所為で組織の人間もその由来をほとんど理解していない。
有希 も「あぼうしゃ」が何のことか、まるで気にしていなかった。彼女は別に、社名で所属する組織を決めたのではない。有希 が亜貿社 の一員になっているのは、全くの成り行きだった。これも、珍しいことではない。殺し屋が組織に所属する経緯の中で一番多いのは「成り行き」だ。
亜貿社 は小さな物だが、自社ビルを所有している。変装用の制服から勤労少女っぽいパンツルックに着替えた有希 は、電車を使ってそのビルに出社した。
二〇九〇年代現在、高校に進学せず働いている少女は、珍しくはあっても奇異の目を向けられる程ではない。
二〇七〇年代以降、国公立学校は大学まで授業料が免除になった。直接の学費だけでなく、生活費の支援も手厚くされている。今や学校を選ばなければ、高校進学に経済的な負担は無いに等しいが、高校と高等専門学校を合わせた進学率は九〇パーセント強と第三次世界大戦前をむしろ下回っていた。
経済的な理由ではなく、進学意欲が低下したことによるものだ。向学心が廃れたのではなく、学歴信仰が薄れたのである。
近年、国家が実施する学力試験の証明書が高校、大学の卒業証書と併用する形で企業に採用されるようになった。また学習の手段が多様化したことで、高校に進学しなくても、後から幾らでも取り返しがつく時代が到来していた。
そのような事情で、平日の昼間、十代の少女が私服で街を歩いていても不審がられることはなくなったのである。
ビルの中は堅気の仕事をしている体裁が整えられていて、事務室にはデスクに向かって仕事をしている男女の事務員がいる。もっとも、やっている「仕事」は殺しに必要な情報の整理や道具の調達だ。彼らは実働部隊である殺し屋のサポート要員たちで、有希 の相棒もその内の一人だった。
「社長は?」
「社長室でお待ちです」
事務室で端末に向かっていた相棒に「あっ、そ」と頷いて、有希 は階段に向かった。社長室は二階上。だがエレベーターは使わない。健康の為ではなく、逃げ場がない密室をなるべく避けようとする無意識の選択だ。まだ十代後半でしかないのに、殺し屋意識がすっかり根付いているらしい。
「榛 です。お呼びに従い、参上しました」
ここだけ木製の扉の前に立って、有希 はノックの後にそう告げた。
榛 というのは有希 の苗字だ。
フルネームは榛有希 。
社内では既に「榛 ? 誰だ、それは?」というレベルでコードネームが浸透しているが、社長に対する時だけは本名を使う。これは有希 に限ったことではなく、この組織の構成員に共通して言えることだった。
「入りなさい」
その声に従って、有希 が扉を開ける。社長室は意外にこぢんまりとしていた。
入ってすぐ見えるデスクの奥に、羽織袴姿の老人が座っている。恰幅の良いこの男性が有希 たち殺し屋を束ねる亜貿社 の社長、両角来馬 だ。
有希 は丁寧に扉を閉めて、デスクの前に立った。がさつな振る舞いを社長が好まないからだ。
彼女は、怖い物知らずではない。腕に自信はあっても、自分が最強だなどとは夢にも思っていない。社長の機嫌を損ねて社 員 を集団で差し向けられたら、自分に明日は無いと有希 は理解していた。
「さて……。榛 君。何故私に呼ばれたのか、理解しているね?」
「……はい」
しらばくれることはできなかった。こうして呼び出された時点で、この前の仕 事 の不始末を知られているのは明白だ。
「一昨日はご苦労だった。いつもながら見事な手際だ、と言いたいところだが、珍しくドジを踏んだな」
「申し訳ありません」
有希 はただでさえ小柄な身体を小さくして答えた。社長は別に凄んで見せたりしているわけではなかったが、彼女自身に、致命傷につながりかねない失態を演じているという自覚があった。
そう、「演じた」ではなく「演じている」。仕事を目撃されただけでなく、まだ目撃者の口封じができていない。時間が経てば経つ程、自分が殺し屋だということがばれてしまうリスクが高まる。彼女一人の問題ではなく、組織の正体までが暴露される恐れも生じてくる。
「裏通りとはいえ都会の真ん中だ。見られてしまったのは仕方がない。だが後始末ができていないのはどういうわけだ」
「……申し訳、ありません」
「榛 君。私は謝罪を求めているのではない。何故後始末が終わっていないのか、言い訳でも良いから説明したまえ」
「……はい」
有希 にとっては屈辱でしかなかったが、この場面で黙秘は許されない。彼女は現在判明している相手の素性、見られたその場で片付けようとして手も足も出なかったこと、偵察に行ってあっさり見つかってしまったことを正直に話した。
社長の反応は、嘲笑でも面罵でもなかった。
彼は腕組みをして考え込んだ。
「……君の腕は理解している。その中学生、確かにただ者ではない」
社長は有希 だけでなく他の社員からも恐れられているが、暴君ではない。配下の殺し屋一人一人の能力と性格を正しく把握し、信賞必罰、適材適所を誤らない。金払いも良い。恐怖の対象であるのと同時に、信頼も寄せられていた。
「調査部門に探らせてみよう。だが、その結果を待つ必要は無いぞ。榛 君は独自にチャンスを窺え。必要な機材は準備させる」
「――ありがとうございます」
組織としても対応するが、処 理 はあくまでも有希 自身の手で行わなければならないという意味だ。免責ではなく、執行猶予といったところだろう。
それでも、当面は命拾いしたことに有希 は感謝した。同時に、自分を粛清一歩手前に追い込んでいる少年――司波達也 に対して敵意を募らせた。◇ ◇ ◇
殺し屋少女の仕事現場を目撃してしまい、そのターゲットになってしまった少年、
司波達也 には三つの顔がある。
一つ目は、都内の私立中学に通う中学三年生。
二つ目は、国防陸軍の特務士官。この場合の「特務士官」は士官に準じる待遇の下士官ではなく、民間人でありながら士官の待遇を与えられている軍の協力者のことだ。そのような地位が正式な制度として存在するのではない。達也 の力を軍に組み込むに当たり、彼に交戦者資格を与える為の特例措置。ある種の超法規的地位だ。
三つ目が、四葉 家の魔法師。日本の魔法師社会を代表する名家の一つにして、世界的に恐れられている魔法師集団、四葉 家。その中で『ガーディアン』と呼ばれる役目を背負わされた戦闘員である。
殺し屋の少女が中学校の制服で変装して朝の通学路に現れた件を、達也 はその日の夜、四葉 本家に報告していた。
『そのお嬢さんは、新ソ連のエージェントとは無関係なのね?』
「裏を取ったわけではありませんので推測でしかありませんが、おそらく無関係です」
その夜はどういう気紛れか、真夜 が直々にヴィジホンの画面に登場した。二〇九四年四月当時、いつもであれば達也 の相手は執事である葉山 や花菱だった。今日は偶々、真夜 が暇を持て余していたのだろう。
『その子の目的は何だと思いますか?』
真夜 が、明らかに試そうとする口調でヴィジホンの中から問い掛けてきた。
「自分の口封じでしょう」
達也 は迷った素振りも見せず答えた。
『まあ、そうでしょうね。殺し屋にとって、殺人現場を目撃されるのは一大事でしょうから』
真夜 が達也 へ、カメラ越しに意味ありげな視線を向ける。
『それで……達也 さん、援軍は必要かしら?』
「不要です」
達也 の返事は、今度も即答だった。
『そう……。自分で対処するのね』
「はい」
『分かりました。貴方の意思を尊重しましょう。後のことは葉山 さんの指示に従ってちょうだい』
最初から助けを出すつもりもないのに、真夜 はそんなもっともらしいセリフを残してカメラの前から消えた。
真夜 の代わりに、彼女の腹心である葉山 が画面に登場する。
『達也 殿。分かっているとは思うが、貴殿の本分は深雪 様をお守りすることです。貴殿の不注意で深雪 様の御身に危険を招くなど、あってはならない』
達也 は夜遊びで夜の渋谷をうろついていたのではない。新ソ連のエージェントを始末したのは、本家の指令によるものだ。達也 が殺し屋に狙われることになったのは四葉 本家が本 来 の 仕 事 以 外 で達也 を使った所為だとも言える。
「重々承知しております」
しかし達也 は、それを理由に不平を唱えなかった。妹の深雪 を守るのは彼にとって常に最優先事項で、念を押されるまでもないことだったからだ。
『理解しているのであれば結構。それで、具体的にはどのように決着を付けるつもりですか?』
「必要になれば消します」
『今はまだ、必要無いと?』
葉山 が訝しげに眉を顰 めて問いを重ねる。
「消 す のは何時 でもできますし、自分の場合は面倒な後始末も不要ですから」
達也 の「消す」は「殺す」の隠語ではない。その意味も含まれてはいるが、文字通り死体も残さず消滅させるという意味だ。
『……そうですね。その判断は、貴殿に任せましょう』
死体の処理を手配しなくても良いのは、葉山 にとっても余計なコストが掛からず好都合だ。彼は自分の裁量で、達也 に人体を消し去る魔法の使用許可を出した。
『他に何か、報告事項はありますか?』
「ありません」
『そうですか。では、これにて』
葉山 が軽く一礼したのを最後に映して、ヴィジホンの画面は暗くなった。◇ ◇ ◇
「ごめんなさいね、お待たせしてしまって」
葉山 が達也 との電話を終えたのを見届けて、真夜 がデスクの前を離れ応接セットに移動する。彼女が腰を下ろしたソファの向かい側には、二人の男性が座っていた。
一人は四十歳程の成人男性。もう一人は中学生くらいの小柄な少年。大人の方は黒羽貢 、少年の名は黒羽文弥 という。名前から予想されるように、二人は親子だ。
だが外見の印象は随分違う。父親の方は、整っていることは整っているのだが、もう一歩のところでダンディーになりきれていない、人によっては愛嬌を感じるであろう二枚目半の容貌。それに対して小柄な息子は、可憐な少女のようにも見える美少年である。
「いえ、お気になさらず」
父親の貢 が芝居がかった仕草で首と手を振った。それを隣で見ていた文弥 は少し恥ずかしそうに身動ぎしたが、真夜 の笑顔は小揺るぎもしなかった。
「今の電話は達也 くんですか?」
そう訊ねた貢 の顔を、真夜 が無言で見返す。
「あっ、いえ、聞き耳を立てていたわけではないんですが」
真夜 から盗み聞きを非難する視線を向けられて、貢 が慌てて言い訳をする。
「聞こえてしまったものは仕方がありませんね……」
真夜 はため息交じりに免罪を言い渡し、
「ええ、達也 さんからの報告です。東京をうろついていた新ソ連のエージェントを処分させました」
「それで無関係な殺し屋とのトラブルを抱え込むとは、達也 くんにも困ったものです。最初から私に命じていただければ余計な厄介事は抱えずに済みましたよ? 彼を使うのは止めた方が良いのでは?」
貢 のセリフからは、自分の息子と同じ年頃の少年に過ぎない達也 に対する悪意が隠し切れず漏れ出ていた。
「貢 さんの手を煩わせる程の仕事ではありませんでしたので」
それを真夜 は素っ気なくいなす。
「その殺し屋とやらを放っておいて良いんですか?」
真夜 に達也 を咎め立てするつもりがないのは明らかだったが、貢 は彼女の意思に反してしつこく食い下がった。
「達也 さんは自分で始末すると言っているのだから、任せておけば良いでしょう」
「そうですか。ならば私も、彼のお手並みを拝見することにします」
しかし真夜 の声音に微かな険が混じるに至り、貢 は大人しく引き下がった。
「……いえ、そうですね……」
だが、ここに来て真夜 の方が前言を翻す。
「文弥 さんの教 材 にはちょうど良いでしょう」
そう呟いて、真夜 が文弥 へ目を向ける。
「文弥 さん」
「はい」
文弥 は背筋を硬くして真夜 の視線を受け止めた。
対照的に、真夜 はリラックスした笑顔を文弥 に向けている。
「達也 さんを狙う殺し屋について調べなさい。調べるだけで、手出しは無用です」
「はいっ」
文弥 が気合いの入った返事を返す。
「文弥 さんの練習にならないから、貢 さんはなるべく手助けしないように」
「……分かりました」
対照的に、大人たち二人には真剣味が欠如していた。
真夜 は達也 を狙う殺し屋の正体などに、興味は無い。民 間 の殺し屋程度では達也 の相手にならないと真夜 は知 っ て い る 。
彼女が口にした「教材」という言葉は、文字通りの意味しか持っていなかった。