• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [5]心傷

     午後三時半。玄関の扉が解錠される音を、有希ゆきはダイニングで聞いた。
    「あっ、ただいまです。有希さん、お戻りだったんですか」
    「まあな」
     嘘である。有希は今日、マンションの部屋から一歩も外に出ていない。
    「あーっ! またそんな物を食べて! 有希さん、太りますよ」
    「お生憎様だな。あたしは太らない体質なんだよ」
     そう言いながら、有希は買い置きのドーナッツにかぶり付いた。――なお体質とは無関係に、現代では薬で比較的簡単に治療できる生活習慣病として肥満症は知られている。だからこの遣り取りは嫌味未満の挨拶みたいなものだ。
    「はいはい。お茶を淹れますね」
     その証拠に、というわけでもないが、奈穂なおはそれ以上の文句を付けなかった。
    「コーヒーにしてくれ」
    「ミルクたっぷりですね」
    「蜂蜜もな」
     奈穂はギョッとして、キッチンに向かう途中で足を止め振り返った。
     コーヒーに蜂蜜!? と驚いたのだが、すぐに、それ程おかしなことではないと気付く。「コンレーチェ」(ハニーカフェ・コンレーチェ)というコーヒーに蜂蜜とミルクを入れた飲み物があることは、メイドの知識として教わっていた。ただ四葉家には使用人を含めてコーヒーに蜂蜜を入れる者がいなかったので、一瞬、異様に感じたのだ。
    「かしこまりましたです」
     奈穂は驚愕の表情を笑顔に変えて、振り向いた姿勢のまま有希に頷いた。

     しかしどうやら、納得するのは早すぎたようだ。
     試しに自分の分もコンレーチェを作ってテーブルに置いた奈穂は、今度こそ目を見開くことになった。
     カップに口を付けた有希は、すぐにソーサーへ戻した。そして何と! コンレーチェに角砂糖を加え始めたではないか。
     奈穂は驚愕を顔に貼り付けたまま、自分の分を一口飲んだ。
     ――甘い。
     ――十分に、甘い。
     ――なのに、砂糖を加える?
     有希を甘く見すぎていたと、奈穂は駄洒落ではなく、考えた。
     ショックで固まってしまった奈穂に、有希が怪訝な目を向ける。
    「どうしたんだ?」
    「いえ……何でもありません」
     まさか「貴女の味覚に衝撃を受けたんです」とは言えない。奈穂としては、笑って誤魔化すしかない心境だったのだが――、
    「――そういや、帰ってきた時から顔色が悪かったな。何かあったのか?」
     有希の指摘を受けて、奈穂の心臓がドクンと跳ねた。さっきとは別の意味で顔が強張る。
    「……やだなぁ。何でもありませんよ」
     奈穂はすぐに愛想笑いを浮かべて誤魔化そうとした。
    「そう言えば、仕事に行くって言ってたな。その髪型も仕事用か?」
     だが、最初から追及を止めるつもりがなかった今の有希には通用しなかった。左右対称に耳の上の高さで纏め、そのまま編まずに垂らした「ツインテール」の髪型と、実年齢より敢えて幼く見せるメイクをつらつらと眺めながら有希が訊ねる。
     奈穂にも、有耶無耶うやむやにはできないと分かったのだろう。彼女は小さくため息を吐いた。
    「……子供っぽい格好をすると、男の人は油断してくれるんですよ」
    「なるほどな」
     それは有希も使う手なので、良く理解できた。
    「あたしはこういう外見ですので……。色気より可愛げです」
     奈穂が演技ではない、自嘲気味な笑みをこぼす。
    「でっ? 誰をヤッたんだ?」
    「えっ……?」
     だがその笑みは、再び固まった。
    ってきたんだろう? 殺しは初めてか?」
     奈穂が有希の顔をまじまじと見詰める。彼女の顔には「何故分かった?」と書かれていた。
     その視線の問い掛けに、有希は答えない。奈穂が言葉で質問しても、有希は答えなかっただろう。
    「……いえ、二人目です。訓練で一人。それで慣れたつもりだったんですけど」
     結局、根負けしたのは奈穂の方だった。
    「一人目の時は吐いたんじゃないか?」
    「……良く分かりますね」
     それを聞いて、有希が薄らと笑う。
     嘲笑ではない。何処か、安堵したような笑みだった。
    「ありふれた話だからな」
     そう言った後、有希は口の中で「魔法師も同じとは思わなかったが」と付け加えた。
     その呟きは、奈穂の耳には届かなかった。
    「有希さんも?」
     奈穂の問い掛けは、「有希も吐いたのか」という意味だ。
    「あたしは吐かなかったよ。吐きそうになったけど。その代わり、その日は明け方まで眠れなかった」
    「そうなんですか……」
    「まっ、こういうのは個人差があるからな。奈穂も回数をこなしていけば慣れるだろうよ」
     ――それが良いことかどうかは分からないが。
     今度の呟きは、声に出さず心の中だけに留められた。
    「それで、誰をってきたんだ?」
     有希は自分が余計なことを言わないように、続けて問い掛けた。
    「赤石ジュール。依頼人側の、窓口になっていた男です」
     有希に慰められて少し立ち直った奈穂が、事務的な口調で、仕事をしている顔で答える。
    「本当は下見のつもりだったんですが、犯されそうになりまして」
     有希の顔に困惑がよぎる。だが声を上げたり顔色を変えたりといった反応は無かった。
    「人目もありませんでしたので、思い切って決行しました」
    「それは……仕方がない」
     有希は奈穂に、殺し方まで指図する立場ではない。彼女の判断にケチは付けられないし、仮に指導する権利と義務があったとしても、有希の性格上「我慢してレイプされろ」とは言えなかった。
    「目撃者はいなかったってことだが、カメラは? 言うまでもないことだが、証拠は残してないだろうな」
    「ホテルの中にはカメラもマイクもありませんでしたよ。街路カメラにはしているところを撮られたかもしれませんが」
    「それはどうしようもない」
     街路カメラは全ての通行人の映像を記録している。ただそのデータ量は膨大で、犯罪行為や異常な行動を取っていない個人の情報を引き出すには、それなりに大きなコストが掛かる。
     その為、全ての犯罪に街路カメラのデータが使用されるわけではない。たとえそれが殺人事件であっても、データ検索が許可されるかどうかは担当する刑事とその上司の政治力次第というところがある。街路カメラの記録映像から容疑者として特定されるかどうかは、運不運の側面があった。
    「物的な証拠は残していないと思います。凶器も使いませんでしたし」
    「……魔法か?」
    「はい」
    「だけど奈穂は、あのシー何とかっていう機械を身に着けていないじゃないか。隠しポケットにでもしまってあるのか?」
    「CADのことですね?」
     有希の「シー何とか」というセリフに、奈穂は素で苦笑いを漏らした。基本的に魔法師しか使わない道具なので、名称を正確に覚えていないのは仕方がないことかもしれない。
    「CADを使わなくていいマル秘技術があるんですよ」
    「呪文でも唱えるのか?」
    「似たようにものですけど……秘密です。マル秘ですから」
     有希はそれ以上、質問を続けなかった。殺し屋でも忍者でも、奥の手を隠し持っているものだ。奈穂が「マル秘」と言うからには、幾ら訊ねても無駄だと分かっていた。
    「あっ、コーヒーを淹れ直してきます」
     有希のカップが空になっているのに気付いて、奈穂が立ち上がる。
    「蜂蜜をたっぷりで」
    「はい。蜂蜜をたっぷり、ですね」
     有希のリクエストに、奈穂が笑いながら頷く。
     奈穂の初仕事の話は、ここで一旦、お開きになった。

    ◇ ◇ ◇

     赤石の死体が発見されたのは、チェックアウトの時間になったことを報せようとした内線電話が何度掛けても通じなかったことが切っ掛けだった。
     不審に思った客室係が部屋に踏み込んだのが五月十七日午前十一時半。すぐに警察と救急車が呼ばれたが、大騒ぎにはならなかった。一応は高級と呼ばれるホテルで、従業員は無闇に騒ぎ立てなかった。それに一見、傷は無く、血もシャワーで流れていて――正確には奈穂が洗い流していて――最初は脳梗塞か心臓麻痺と考えられていたからでもあった。
    「誰がシャワーを止めたんだ?」
     駆けつけた刑事が懐いた疑問も、
    「シャワーに止め忘れ防止の機能がありまして、何もしなければ三十分で自動的に止まります」
     従業員の説明で、疑惑にはつながらなかった。

    ◇ ◇ ◇

     十七日正午過ぎ、鰐塚わにづかが有希のマンションを訪れた。彼は有希に頼まれた情報を届けに来たのだが、腰を落ち着けるなり全く別のことを訊ねられた。
    「赤石をったんですか?」
    「ああ。昨日、奈穂が仕留めた。クロコが知らなかったってことは……」
    「ええ。まだニュースにはなっていませんね。警視庁に出入りしている記者連中も、その情報はまだキャッチしていないはずです」
    「意外だな……」
    「状況を聞かせてもらえませんか」
     鰐塚に訊かれて、奈穂は素直に説明し始めた。実は有希も、これを聞くのは初めてだ。
    「……多分赤石はそのホテルの常連だったんでしょうね。客室係は余分にチップをもらう代わりに、赤石のレイプを見逃していたんでしょう」
     奈穂の話を聞き終えて、鰐塚は納得顔で、こうコメントした。
    「そのくらいあたしにも想像がつくけど、それがどうした」
    のところを邪魔しないよう、徹底されていたんじゃないでしょうか」
    「それで発見が遅れた、と?」
    「多分。それと……」
     言い淀む鰐塚だが、
    「何だ?」
     有希に促されてすぐに推理を再開した。
    「シェルの手口も、警察の出足が鈍い原因だと思います」
    『シェル』とは有希と相談して決めた奈穂のコードネーム。鰐塚は亜貿社の流儀に従い、奈穂のことも普段からコードネームで呼ぶことに決めたようだ。
    「魔法を使ったからか?」
    「大雑把に言えば、そうですね」
    「大雑把って……そこは『簡単に言えば』だろ」
     有希としては拘りたいところだったのもしれない。
    「昔は呪殺が殺人として立件できなかったように、魔法による暗殺は事件として成り立ちにくい面があります」
     だが鰐塚にはまるで相手にされなかった。
    「先程聞いたシェルの魔法は、心臓を直接止めるとか脳の血管を破裂させるとかに比べれば分かり易くはありますが、凶器が少量の水で傷が耳の中に隠れていますから――」
    「解剖してみるまで、殺しだと分からないってことか」
     自分の抗議を無視された腹いせでもあるまいが、有希が鰐塚のセリフを途中から横取りする。
    「そうです」
     もっとも鰐塚は、ただ頷いただけだった。

     赤石の死が殺人事件として報じられた時点で、警察の捜査が何処まで進んでいるか調べてみるということで、そちらに関する当面の対応は決まった。鰐塚としては、ようやく本題に入れるという気分だ。
    「ナッツ、小西教団の活動予定を調べてきました」
    「早速見せてくれ」
    「早いな」とか「さすがだな」とか、そういう定型的な褒め言葉を有希は口にしない。二人の間に、そんな称賛は必要なかった。
    「結構活発に活動してますよ」
     鰐塚が電子ペーパーのタブレットを有希に渡す。
     有希は電源が入っていた電子ペーパーを一定のペースでめくっていく。
    「……狙いはデモかな。ビラ配りは、潜り込むのが難しそうだ」
    「だったらこれなんて如何です?」
     鰐塚が何時の間にか手に持っていた携帯情報端末を操作する。
     電子ペーパーのリモコンアプリが入っていたのだろう。鰐塚の指の動きに合わせて、有希が手にしているタブレットの画面が変わった。
    「国会議事堂の前を通るルートですからね。警察との衝突が予想されます」
    「……公務執行妨害で捕まれって言うのか?」
    「いえいえ。軽く血を流して見せれば、すぐに仲間だと認めてもらえるのではないでしょうか」
     有希は嫌そうに顔を顰めたが、確かにわざと軽傷を負う方が警察に捕まるよりも面倒が無い。
    「簡単に言ってくれるな……」
     有希はため息を吐きながら横目で鰐塚を睨んだ。ただ彼女の心の中では、既に鰐塚のプランを採用していた。
    「あたしはどうしましょう?」
     話が纏まったとみたのか、それまで黙って背景に徹していた奈穂が久々に口を開いた。
    「すぐ、次に掛かった方が良いでしょうか?」
     次のターゲットを殺しに行くべきか、と二人に尋ねる。
     昨日、奈穂の青ざめた顔を見ている有希は、そのセリフと躊躇いの無い表情に驚いた。しかし鰐塚は、奈穂を「四葉よつばの魔法師」と認識しているからか、特に違和感を覚えなかった。相手が「十五歳の女の子」という事実よりも「魔法師は人殺しくらいでくよくよ悩まない」という世間のイメージで奈穂の態度を判断していた。
    「少し時間を空けた方が良いでしょう。少なくとも、警察の動きを確認してからの方が良い」
     赤石の死を殺人事件として捜査するのかどうか。
     捜査するとして、奈穂に容疑者として目を付けるかどうか。
     それを確認すべきだというのか、鰐塚の意見だった。
    「分かりました。様子を見ることにします」
     奈穂も昨日は元々、下見のつもりだったのだ。それに急がなくても、「達也たつやさま」の暗殺が成功するはずはない。奈穂は達也のことを伝聞でしか知らないが、本家の使用人の中で彼のことをかろんじている者ですら、その戦闘力は「悪魔のような」という言い方で認めていた。
     時間を置くことに、全く異存は無かった。

    ◇ ◇ ◇

     一方で、小西蘭こにしらんは「余り時間は掛けられない」という焦りを覚え始めていた。
     彼女は昨晩、赤石あかいしジュールと二人きりで会う予定にしていた。と言っても色っぽい話ではない。請け負った暗殺の状況説明と、ターゲットが予想外に手強かったことを理由に仕事料の引き上げを交渉する為だ。
     だが密会場所で二時間待っても、赤石は来なかった。また、教えられた秘密番号に何度掛けても応答は無かった。
     単なる仕事の約束なら、何か急用が入ったとも考えられる。しかし、赤石と小西の間に取り交わされた契約は殺人の請負だ。何の連絡も無しに予定をキャンセルするとは考えにくい。
     赤石の身に何かあったのだ。
     もしかしたら、殺されたのかもしれない。司波達也しばたつやを密かに護衛している魔法師がいるのかもしれないと、先日推理したばかりだ。その勢力が逆襲に出ているとも考えられる。
     ここで手を引けると考える程、小西は無法の世界を甘く見ていない。もし本当に司波達也の護衛勢力の反撃で赤石が殺されたのであれば、早急に暗殺依頼を完遂するのが最も確実な活路だろう。あの少年が死んでしまえば、小西を片付ける理由も無くなるはずだ。
     小西は外部の殺し屋を雇うことを、真剣に考え始めた。

    ◇ ◇ ◇

     赤石ジュール殺害事件は五月十八日になって、新聞の片隅で――新聞ではない――小さく報じられた。内容は赤石の氏名と、彼が中堅電力会社の社員であること。ホテルのある町名と死亡推定日時。それだけだ。死体発見の状況どころか、ホテルの名称も報道されなかった。
     鰐塚は早速、警察内部の情報収集に動いた。警視庁の庁舎やコンピュータに侵入できなくても、探りを入れる手段はある。そこに出入りする人間から聞き出せば良いのだ。
     警察と番記者の、癒着とも取れる付き合いは前世紀から変わらない。警察は記者を通じて情報をコントロールし、あるいは警察も掴んでいないネタを入手する。その代わり番記者は警察から、事件に関するホットなニュースをいち早くゲットする。
     情報管理、情報公開の観点から言えば、好ましい慣習ではない。だがこの協力関係が犯罪捜査に一定の貢献をしているのも事実である。警察官の中にもマスコミとの付き合いを苦々しく感じている者は少なくなかったが、必要悪として呑み込んでいた。
     利用できる情報ソースはマスコミだけではない。食品や雑貨の納品業者も噂話を拾ってくるし、警察署内に入り込むのではなく警察から押し掛けられる暴力団の構成員や酒場の店員も貴重な情報源だ。
     その全てを網羅することは、鰐塚一人には不可能だ。だが東京都心部だけに限ってみても、彼のような情報屋は大勢いる。相手の欲しがる情報を提供すれば、こちらも必要とする情報を手に入れることができる。
     十九日の朝には、鰐塚は警察の捜査状況をほぼ把握し終えていた。

     五月十九日、土曜日の午後。調査結果を纏め終えた鰐塚は、その説明の為に自宅で待機している有希の許を訪れた。
     有希に、と言うより奈穂に「動いても大丈夫」と伝えるのが彼の目的だった。だがマンションに赴いた鰐塚が説明しなければならない相手は、有希と奈穂だけではなかった。
    『……じゃあ、警察は赤石が女連れだったというところまでしか掴んでいないんだね?』
     動画電話ヴィジホン越しに文弥ふみやが訊ねる。
    「結論を言えば、そうです」
     鰐塚がダイニングテーブルの前に腰を落ち着け、説明を始めようとしたちょうどその時、文弥から電話が掛かってきたのだった。
    「魔法師の犯行ではないかと疑っているようではあります。ただ想子センサーに反応が記録されていなかった所為で、断定できずにいる模様です」
     有希は鰐塚と文弥の会話を、黙って横で見ていた。何と言っても文弥は雇い主だ。質問は彼に優先権があるし、有希が訊きたいことは全て文弥が訊ねてくれているので、彼女としては手間が省けているという面もあった。
     画面の中の文弥は制服のままだ。高校から帰ってきたばかりらしい。
     有希はもう十九歳で、高校に通う年齢ではない。だが高校生になれなかった我が身を省みて、微かな嫉妬を覚えていた。そして、そんな自分に有希は、酷く驚いていた。
     去年まで――普通の高校生と同じ年の頃までは、学校に通いたいなどと思ったことは一度もなかった。高校生の気楽な立場が羨ましいと感じることはあっても、彼らの境遇に嫉妬したことは無い。
     細かく縛られた時間。
     養ってもらわなければならない生活。
     好き勝手に振る舞えるようでいて、目に見えない鉄格子に囲まれた、狭い檻の中の自由。
     街中をぞろぞろと固まって歩く女子高校生を見掛けるたび、ある種の優越感と共に「あたしには無理だ」と有希は考えていた。
     だがそれは強がりだったのだろうか。
     自分はイソップ童話に出てくる「酸っぱい葡萄ぶどうの狐」だったのだろうか。
     そんな雑念に気を取られていた所為で、有希は鰐塚と文弥の会話を途中、聞き損なった。
    『分かった。こちらで調べた結果とも一致している。ご苦労様』
     彼女の意識が追いついたのは、文弥がこのセリフを口にしている最中だ。
     分かってるなら説明させるな、とは、有希は思わなかった。
     それは多分、鰐塚も同じ。
     異なるルートで調べた結果が一致すれば、それは情報が正しいことを示している。調査結果の裏付けが得られるのは、鰐塚にとっても有希にとっても好ましいことだった。
     文弥もそれで満足したのか、彼はそこで鰐塚との会話を終えた。
    『さて、奈穂』
    「はい、文弥さま」
     文弥に呼ばれて、奈穂がカメラの正面に立った。代わりに鰐塚が椅子に座る。
    『これで君はコンバットcombatブルーブンproven……暗殺者として戦力になると証明された』
    「――ありがとうございます」
    『君をそっちにったのは、まさにこの実戦能力をテストする為だった。見事合格を勝ち取った君をそこに留めておく理由は無い。奈穂、君が望むなら、本家への帰任を御当主様に御願いしてみるけど?』
     奈穂は、すぐに返事ができなかった。チラリと横目で有希の表情をうかがって、次の瞬間、目を逸らす。画面の中の文弥と目を合わせることもできず、俯いてしまう。
    『君が赤石という男と歩いているところは、何人もの人間に見られている。万が一、街路カメラのデータ検索が許可されれば、君がそのマンションの住人であることは簡単に分かってしまうだろう』
     奈穂がハッと顔を上げて、有希へと振り向いた。今度は顔を背けず、有希をじっと見詰める。
    「あたしは構わないぜ。やばそうになったら、また引っ越すだけだ」
     有希は奈穂にではなく、回線の向こうの文弥にそう答えた。
    「街路カメラを怖がっていたら、都会の殺し屋は務まらねえよ」
     今や日本全国、街路カメラが設置されていない都市は無い。都市部だけでなく小さな町や村でも、主要な道路には街路カメラが置かれている。
    一九八四いちきゅうはちよん法が睨みを利かせているんだ。街路カメラで身元がばれるのは、天災と同じで運が無かったと諦めるしかないだろ」
     反一九八四法、あるいは「反」を省略して一九八四法。正式名称は『公共の機器による情報収集にかかわるプライバシー侵害の防止等に関する法律』。略称の「一九八四」は言うまでもなく、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に由来する。街路カメラの設置に際して『1984年』で描かれたような超監視社会の到来を招かぬよう、過度のプライバシー侵害を予防する目的で制定された。
     警察の街路カメラ利用を妨害しているのが、何を隠そうこの法律である。反一九八四法の廃止は今や警察関係者の悲願ともなっているのだが、修正を口にしただけで市民団体とマスコミから激しいバッシングを受ける為、手を付けられずにいるのだった。
     ――もっとも、国防軍の情報部や内閣府情報管理局は、反一九八四法の規制に拘わらず街路カメラデータをこっそり、頻繁に利用しているのだが。
     文弥は反一九八四法が厳格に守られていないことを知っていたが、有希のセリフに反論はしなかった。一民間人の殺人事件程度のレベルならば、反一九八四法が防波堤になるのも間違いではないからだ。
    『奈穂。有希はああ言っているが、どうする?』
     文弥は気さくな笑顔で、奈穂に決断を迫った。
    「文弥さま……。できれば、最後までやらせてください」
    『最後まで、というのは、依頼者と依頼を受けた教団の幹部を全員殺してしまうまで、ということかな?』
    「教団の方は有希さんが引き受けてくださるそうです」
    『では、依頼者の方を?』
    「はい」
    『報告によると、まだ五人も残っているみたいだけど?』
    「続けさせてください」
     具体的な人数を聞かせられても、奈穂の答えに迷いは無かった。彼女は断固とした表情を壁面ディスプレイに向けた。
    「だって、あたしが本家に戻ったら有希さんはまた一人暮らしになります。せっかくこの一週間で、朝と言える時間内に起きて、甘い物ばかりじゃない食事を三食きちんと取って、間食を控えて、洗濯物をため込まずに出して、毎日自分の部屋に掃除機を掛けて、お風呂にはちゃんと、五分以上入るようになって。少しずつまともな暮らしになってきたのに! ここであたしがいなくなったら、また元の自堕落な生活に逆戻りです!」
     必死の面持ちで、奈穂が文弥に訴える。
    『そ、そう?』
     画面の中で、文弥は肩を震わせていた。
    「……随分ご挨拶だな」
     一方、有希は仏頂面で奈穂を睨んでいる。ただし、正面からではなく横目で。絞り出したセリフも、奈穂の発言を否定するものではなかった。
    「だから、お願いします!」
     奈穂は有希に、目もくれなかった。ただ画面の中の文弥を、懇願の眼差しで見詰めている。
    「せめてこの生活が定着するまでは! そうじゃないと、あたしはメイドとしての誇りを持てなくなります!」
    『分かった。許可するよ』
    「ありがとうございます!」
     こうして奈穂は、有希の部屋で任務を続行することになった。