• NOVELS書き下ろし小説

  • 【4】叛逆の狼煙

     背神兵は基本的に地球上の母国で生活していて、忠誠を誓う邪神に呼ばれた時だけ次元の狭間に創造された亜空間に建っている神殿へと出向く。次元の狭間――どの世界にも属していない空間に長期間連続で滞在すると、邪神の加護を受けた背神兵といえど精神に異常を来してしまうからだ。鷲丞も普段は日本の、ある大都会郊外でひっそりと暮らしていた。
     もっとも最近の鷲丞は、邪神『アッシュ』に呼ばれなくても神殿のある亜空間で過ごしていることが多い。目的は荒士をスカウトするという任務を果たす為の情報収集だ。
     作戦は既に決まっている。亜空間を利用した戦闘訓練の最中、その亜空間に横から割り込んで邪神の領域に引きずり込む。問題は、何時その訓練が行われるかという点にあった。
     アカデミーは神々の直轄領とも言える領域だ。邪神の力もアカデミー内部には及ばない。
     ただ、外部から人や物資の出入り、エネルギーの消費状況を観測することで中の様子を少しは推測できる。それも鷲丞自身がアカデミーで訓練を受けた経験があるからこそだが、邪神のテクノロジーが無ければ推測の材料になる観測自体が不可能だ。
     精神エネルギーを基盤とする神々の施設の稼働状況は、同種の文明を築いている邪神のテクノロジーを用いなければ観測できない。鷲丞は今日も邪神の観測施設を利用すべく亜空間に赴いたのだが、亜空間到着直後に神殿へと呼び出された。
    「我が神、アッシュ。古都鷲丞、お呼びに従い参上しました」
    「良く来てくれたね、鷲丞。遠慮せず、掛けてくれ」
     そう言ってアッシュが目を向けた先に、古風な椅子が忽然と出現する。物質創造、「神」の奇跡だ。鷲丞は今更驚いたりせず、言われたとおりその椅子に腰を下ろした。
    「お願いしたスカウトの件、頑張ってくれているみたいだね」
     アッシュのセリフからは純粋な慰労の念が伝わってくる。
     その所為で余計に、鷲丞の心は忸怩たる想いに満たされた。荒士のスカウト、、、、はまるで進展していない。それどころか、全く目処すら立っていなかった。鷲丞としては、むしろ責めて欲しいという心境だった。
    「申し訳、ございません」
    「いやいや、勘違いしないでくれ」
     アッシュは立ち上がり、鷲丞の肩に手を置いた。アッシュには――邪神には人間と同じ意味での肉体は無い。邪神群は神々と同じ精神生命体。生物としての活動を行う肉体は、遥かな昔に失っている。
     その身体は実体を持つ幻影だ。息もしていなければ脈も打っていない。であるにも拘わらず、肩に置かれたアッシュの手に鷲丞は自責の念を融かす温もりを感じた。
    「新島荒士のように特殊な人材のスカウトは困難な任務だ。それはあらかじめ分かっていた。一度や二度の失敗を責めるつもりは全く無い」
    「ご寛恕、恐れ入ります」
     頑なに自分を責めるのは、かえって不敬に当たる。そう考えて、鷲丞はアッシュの言葉を素直に受け取った。
    「そんなに堅苦しく構えなくても良いといつも言っているだろう?」
     苦笑交じりの声でそう言いながら、アッシュは自分の椅子に戻った。
    「さて、今日来てもらったのは別の作戦に参加して欲しいからだ。既に任務を抱えているところに申し訳ないけれど、君の戦闘力が必要でね」
    「かしこまりました。何なりとお申し付けください」
    「そう言ってくれると助かる。作戦の目的は香港・ランタオ島の祭壇オルター破壊だ」
    「魔神の祭壇オルターを? いよいよ反攻に出るのですか!?」
     魔神というのは邪神群の側から見た神々の名称。
     祭壇というのは代行官アルコーンのサテライトオフィスとも言うべき神々の施設の名称だ。オフィスといってもディバイノイドを含めて常駐の人員はいない。オラクルブレインによって遠隔操作されるプラントのような物という認識が最も近いだろう。
     祭壇オルター設置は従神戦士の候補者を見付ける為の施設だと、代行局は人類に説明している。才能ある人間を見落とさない為に、祭壇オルターを世界中に満遍なく設置していると。
     しかし本当は別の目的がある。神々の統治の、真の目的、、、、に関わる機能を祭壇オルターは果たしている。
     神々の敵対者であり同じ文明基盤を持つアッシュは、それが何なのか当然知っている。そして自らに従っている背神兵に神々が隠している真の目的、、、、を伏せておく理由は、アッシュには無かった。
     だから鷲丞は、祭壇オルターを破壊することの意味を知っている。それが神々――彼らが魔神と呼ぶ存在に真っ向から挑戦状を叩き付けるに等しい行為だということを。
    「全面的なものではないけどね。魔神の支配を打ち破るためには、遠回りに見えても彼らの拠点を一つ一つ潰していくのが確実だ」
    「反撃の狼煙というわけですね。承りました」
     鷲丞は気負いを隠せない。
     いささか前のめり過ぎる感もあったが、アッシュはそれをたしなめなかった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     神暦十七年九月十日。香港西部、ランタオ島。アッシュから指令を受けた翌日、鷲丞は早速現地を訪れた。ただし入島の時点で神鎧は身に着けていない。一般的な観光客を装っての来島。香港域内最大の島、ランタオ島は神暦以前から有名な観光地だ。
     神々は原則として人類の政治体制に介入しない。神々の支配が始まった神暦元年から、国家や自治政府の枠組みは固定されていた。香港もその例外ではなく、神暦十七年現在、法に基づく厳密な自治が維持されている。
     また神々は人類の経済活動に対しても、基本的に不干渉だ。神々の侵略を受けなかった別次元の地球と同じく、この世界の香港にも神暦五年(西暦二〇〇五年)、世界的に有名なテーマパークが開園している。
     このような場所柄、ランタオ島に日本人の観光客が訪れるのは全く不自然ではない。それが若いカップルとなれば尚更だ。邪神が偽造したパスポートを人間の目と技術で見破れるはずもなく、鷲丞は今回の作戦のパートナーと共にランタオ島へ易々と侵入を果たした。
     鷲丞のパートナーは深矢間みやま明日香あすかという、レーニアアカデミーで訓練を受けていた従神戦士の候補生だ。彼女は訓練中に行方不明ということになっている。
     従神戦士候補生がアカデミーの訓練中、行方不明になるのは残念ながら珍しいことではない。多発しているという程ではないが、毎年一定数の行方不明者が発生している。
     行方不明が発生するのは全て、亜空間を演習場とした戦闘訓練の最中だ。神鎧には次元に干渉する力がある。次元の障壁で包まれた閉鎖亜空間を作り出すだけでなく、多次元宇宙を隔てる次元の壁を越える機能も備わっている。その機能が暴走すると、装着者ごと何処かへ跳んで、、、行ってしまう。
     大抵のケースでは行き先をトレースできるのだが、例外的に跳躍先が分からないケースが発生する。そうした事故は邪神群の干渉が原因だと考えられているが、確証は得られていない。神々の僕は、いや、それどころか神々自身でさえ全能でもなければ全知でもなかった。
     そもそも神々が全能の存在であれば従神戦士は必要無い。人間に戦わせる必要は無く、自分で邪神群と戦う為の「戦士」を創造すれば済む話だ。従神戦士が神々の被造物を超える能力を発揮するからこそ、神々は人間の中から戦士を育成し徴兵する。ある意味で、かつ極めて部分的にではあるが、神鎧を装着した人間は神々の計算を――能力を超えているのだった。
     ランタオ島に潜入した鷲丞と明日香は、そうした神々の計算を逸脱する存在の最たるもの、背神兵だ。彼らが邪神から与えられた任務もまた、神々の計算を超えようとする試みに他ならない。
    「兄さん、ここで別行動にしませんか?」
     香港国際空港からバスに乗り東涌トンツォン駅で降りた直後、明日香が鷲丞に話し掛ける。「兄さん」というのは無論、本当の血縁関係ではない。アカデミーから行方不明という形で脱走した二人は、邪神の力を借りて偽りの身分で暮らしている。鷲丞は『古賀こが修人しゅうと』、明日香はその妹で『古賀愛花あいか』という偽名を使っていた。
    「しかし女性の一人歩きは危なくないか?」
     鷲丞はやや心配そうな声で消極的な反対意見を返した。
     もっとも、鷲丞も本気で危ないと考えているのではなかった。
     明日香はアカデミーでこそ第三位階「赤」までしか到達していなかったが、今では背神兵として邪神・アッシュから神鎧を与えられている。その明日香を観光客狙いの暴漢程度でどうこうできるはずはない。
     鷲丞は、女性がリスクを無視して一人で観光している姿が不自然に思われないか、と懸念したのだった。
    「大丈夫ですよ。周りを見てください」
     明日香に言われたとおり、鷲丞が辺りを見回す。東涌トンツォン駅の中は、たくさんの観光客でごった返していた。そしてその中に同伴者がいない女性を見付けるのに、鷲丞は苦労しなかった。
    「……一人旅の女性というのも、結構いるものだな」
    「ここは治安が良い観光地ですからね。そういうわけで、ご心配無用です」
    「分かった。じゃあ別々に見て回ろう」
     二人が観光客のふりをしているのは、ランタオ島に潜入する為だけの手段ではない。観光を装ってターゲットの祭壇オルターを探し回るという目的もあった。
     表向き公表されている祭壇オルターはダミーだ。神々によって隠されている本物は、邪神の力を使ってもダミーの近くにあるとしか分からなかった。それはランタオ島の祭壇オルターに限ったことではない。いや、この島の祭壇オルターはまだ、明確に分かっている方だ。間違いなく本物も島内にあると分かっているからこそ、第一の攻撃目標に選ばれたという面があった。
     二人一緒に探し回るより手分けして探した方が効率的だと考えたが故の、明日香の別行動提案だ。無用に人目を引く恐れがないと分かって、鷲丞もそれに同意したのだった。

     鷲丞と明日香が東涌トンツォン駅で別れたのが現地時間午前九時半。そして鷲丞が本物の祭壇オルターを発見したのは午後二時過ぎのことだった。
    「鷲……兄さん」
     連絡を受けて急いで合流した明日香が、駆け寄りながら思わず「鷲丞さん」と本名を呼び掛けて、「しゅう兄さん」という形に誤魔化した。鷲丞の偽名は「修人」だから「しゅう兄さん」はおかしな呼び方ではない。
    「ここだ」
     一方の鷲丞は名前を呼ばず、指示語のみで応えた。場所は天壇大仏ティンタンダイファの最寄り駅として有名な昂坪ゴンピン駅の出口。
    「もしかして、大仏の中に?」
     天壇大仏ティンタンダイファの中に祭壇オルターが隠されていたのか、という明日香の質問に、鷲丞は「いや」と首を横に振った。
    「さすがにそこまで悪辣ではなかったようだ。工作が面倒だっただけかもしれないが」
     そして皮肉げな口調でそう付け加える。
    「では何処に?」
    「ここだ」
    「えっ?」
    「分からないか?」
     首を傾げる明日香に、鷲丞は足元を指差して見せた。
     一呼吸置いて、明日香は「あっ!」という感じに口を半分開く。
     顔に浮かんだ驚きは、すぐ困惑に座を譲った。
    「どうします? こんなに人が多くては……」
    決行パーティは真夜中にしよう」
     周囲の耳を気にして鷲丞は「パーティー」という表現を使ったが、これは無用な配慮だったと言えるだろう。ウキウキとした足取りで通り過ぎる観光客は、見ず知らずの他人のことなど気にしてはいない。
    「分かりました。他の二人には私から伝えておきます」
    「頼む。ところで昼飯は?」
    「まだです」
    「俺もまだだ」
     鷲丞と明日香は目で頷き合って、飲食店が軒を連ねる昂坪市集ゴンピンビレッジへ肩を並べて向かった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     神暦十七年九月十日、現地時間午後十一時過ぎ。
     鷲丞は明日香、および合流した二人の仲間と共に昂坪ゴンピン360と名付けられたロープウェイ直下の登山道に潜んでいた。
     もうロープウェイの営業は終了している。鷲丞たちが既に一時間近く待っているのは四人とは別口の、神鎧を持たない邪神の僕による陽動の烽火だ。邪神に帰依し神々の支配に反抗する者は背神兵だけでなく、神鎧に適性を持たない一般人の中にもいた。
    「始まりました!」
     警察無線を傍受していた明日香が声を上げた。
    「こっちでも応援要請を傍受したわ」
     軍用無線を傍受していた別の仲間がそれに応じる。ちなみに鷲丞以外は、明日香だけでなく他の二人も若い女性だ。明日香に応えた方の名前は宇左美うさみ花凜かりん、もう一人は雪車待そりまち紬実つぐみ。鷲丞とこの三人の女性背神兵が、今夜の作戦の主戦力だった。
    「よし、作戦開始だ」
     年齢は鷲丞が二十一歳、明日香が十八歳、花凜と紬実はもうすぐ二十二歳。年齢で言えば花凜と紬実が年上だが、このグループのリーダーは鷲丞に任せられている。それはこの四人の中で鷲丞が唯一「黒」相当――正規の従神戦士と同等の戦闘力を持っているからだった。
     他の三人はいずれも「青」相当。正規の従神戦士「黒」を相手にするには正直なところ力不足なのだが、彼女たちに「格上の敵に遭遇するかもしれない」という不安は見られない。
    「黒」の従神戦士は主として最前線に派遣されている。地上施設の守備には、「紫」または「青」でアカデミーを卒業した代行局員が当てられる。
     荒士を拉致しようとした際に「黒」が介入してきたのは、従神戦士の運用としては明らかに異例だ。それだけ代行局が、この地球で、、、、、初めて発見された男性F型適合者である荒士のことを重要視している表れだと言える。
     祭壇オルターは重要施設とはいえ、地球上に五十基以上――正確には五十五基――設置されている。守備要員として「黒」が配属されている可能性を考える必要は無かった。
    「我に善神の祝福あれ」
     鷲丞が胸の中央を押さえて唱える。従神戦士と違い、背神兵はチョーカーのような目立つ形でコネクターを身に着けることはできない。彼らはコネクターの本体である宝珠をロケットペンダントに入れて服の下に隠し持っているのだった。
     変化は一瞬。服の下から光が放たれたのと同時に、鷲丞の身体が神鎧に包まれる。
    「我に善神の祝福あれ」
     続いて、他の三人が異口同音にキーワードを口にし、胸に手を当てた。彼女たちの身を包んだ鎧はアーマースカートが無い点を除けば標準的なF型のデザインに近い。鷲丞の神鎧のような、幻獣を模した装飾は施されていない。
     背神兵の神鎧に派手な装飾が付け加えられるのは、装着者が「黒」に相当する実力者の場合に限られる。この四人の中で該当するのは鷲丞だけだ。
    「グリュプス。ご指示を」
     明日香が鷲丞に指揮を執るよう求める。「グリュプス」というのは邪神・アッシュが鷲丞に与えたコードネーム。神鎧の装飾に合わせた名前を邪神から与えられるのも「黒」に相当する背神兵のみで、この四人の中では鷲丞だけだ。
    「予定どおりだ。クレインは俺と陽動。ラビットとスノウはその隙に祭壇オルターへ潜入し破壊する」
     しかし鷲丞は明日香を「クレイン」、花凜を「ラビット」、紬実を「スノウ」と呼んだ。
     これは身元を隠す為に仲間内で独自に決めたコードネームだった。背神兵として作戦を遂行する際、本名を使うのは論外だし、かといって偽名で呼び合えば個人情報を偽装した意味が無くなってしまう。
     姓名ではなく名前だけでも身元を特定されるリスクがある。自己防衛の観点から、仲間内だけで通用するコードネームが必要だったのだ。
    「了解」
     明日香たち三人が声を合わせて鷲丞の命令を受諾する。
    「よし、行くぞ!」
     鷲丞の号令と共に、四人の姿に変化が生じる。
     鷲丞の背中には一対の、猛禽類に似た半物質の翼。
     明日香の背中には二対四枚の、昆虫の、あるいは妖精のものを思わせる光の翅。
     花凜と紬実の背中に生じた翅も明日香のものと同じだが、その上さらに、彼女たちはサイズが変わった、、、、、、、、。本来の身長は花凜が百五十一センチ、紬実が百五十八センチ。だが今、二人の見掛け上の、、、、、身長は共に五センチにまで縮んでいた。二対の翅で宙に浮かぶ様はまさに妖精の姿だ。
     これが神鎧、Sフェーズの神髄。
     神鎧によって形成された閉鎖亜空間――個有空間は中にいる装着者に肉体的な影響を与えることなく、通常空間から見た相対的な姿をサイズまで含めて変えてしまう。
     小妖精となった花凜と紬実は地面に降りて翅が放つ光を消し夜の闇に紛れた。
     対照的に鷲丞は全身から力を迸らせ祭壇オルターを目指す。彼は敢えて高く飛ばず斜面に沿って滑るように、登山道を一気に翔け上がった。
     鷲丞の神鎧から展開されている翼が放つ光は暗い銀色。派手なキラキラしさは無いが、それでも暗闇の中で自ら光を放つ翼はやはり目立っていた。
     その姿と彼が放つエネルギーは、当然守備兵の気付くところとなる。十人以上、正確には十三人の守備兵がロープウェイの駅の手前に姿を見せた。
     全員が神鎧を纏っている。全身が金属質の装甲で覆われているが、彼らの神鎧はフルプレートアーマーと言うには近未来的、いや、特撮風味だった。ピカピカ点滅する電飾こそ付いていないが、神暦以前、西暦一九八〇年代に日本で放映されていたテレビドラマのヒーローを連想させる全身鎧だ。
     ただデザインが画一化されており、その点はヒーローっぽくない。量産型ヒーローとでも表現すれば良いのだろうか。また特撮ヒーローとは異なり、ヘルメットは両目の部分に穴が開いており目が露出している。
     斜面を翔け登り切った鷲丞が守備隊の正面に停止する。
     宙に浮かぶ鷲丞に、守備隊の半数が大型拳銃の様な武器を向ける。言うまでもなくこれも人類の工業製品ではなく神々から与えられた武器。
     六つの銃口から六発の光弾が放たれた。
     鷲丞は左腕の盾でそれを防ぐ。六発の内二発は盾でカバーされない膝から下に命中したが、ブーツと一体になった脚甲は盾と同等の強度を持っていた。
     無論それだけで守備兵の攻撃は終わらない。第一斉射の後、散発的な第二射が鷲丞に襲い掛かる。彼はそれを躱さず受け止めた。まるで「効かないぞ」と挑発するように。
     少なくとも守備の兵士はそう感じたに違いない。銃撃を続ける六人だけでなく、その背後で槍を構えて他からの奇襲を警戒していた七人の視線も、今や鷲丞に固定されていた。
     それを待っていたかのように。
     鷲丞の背後上空から光の矢が降り注いだ。
     鷲丞しか見ていなかった守備兵へ向けて。――明日香の掩護射撃だ。
     弾幕の密度では守備兵の光弾に劣る。だが光矢は光弾よりサイズに勝る分、内包しているエネルギーも多い。
     銃弾が弓矢よりも威力に勝るのは弾速が大きく上回っているからだが、光矢と光弾はどちらもエネルギーの塊。光速の約半分の速度(半光速)で飛び、戦士の手許を離れた時点で質量はゼロになる。攻撃の威力は単位時間当たりのエネルギー量で決まる。
     弾数は少なくとも一発一発のエネルギー量が大きい光矢は、命中弾については守備兵の銃撃を上回る威力を発揮した。倒れた守備兵はいない。だが大きなダメージを受けたのか鷲丞に銃撃を加えていた六人の内、二人の従神戦士が後方に下がる。他の射手も、鷲丞に対する銃撃中断に追い込まれた。
     その隙を見逃す鷲丞ではない。彼は盾を前にかざして空中を突進し、守備兵と同じ地面に足を着けた。
     迎え撃つ従神戦士。
     しかし彼らの槍よりも、鷲丞の剣の方が速かった。
     守備兵の懐に飛び込んだ鷲丞が長剣を振るう。
     斬り付けられた神鎧の胴に一文字の火花が散った。
     切断には至らない。
     鷲丞の斬撃を受けた従神戦士は一メートルほど後方に跳ね飛ばされて、仰向けに倒れた。
     斬られた神鎧の輪郭が揺らぐ。
     次の瞬間、その守備兵は姿を消した。状況をモニターしていた代行局が戦闘続行は不可能と判断して、物質転送機で回収したのだろう。
     鷲丞はそれを、のんびり眺めていたわけではない。
     最初の犠牲者が転送された時には、二人の従神戦士から槍の刺突を受けていた。
     ワンテンポずらした二連撃を、剣で打ち払い盾で弾く鷲丞。
     上空の、先程とは異なる角度から光矢が撃ち込まれる。
     今回、戦闘不能になる従神戦士はいなかった。だが明日香の掩護射撃によって鷲丞を囲んでいた敵の連係が崩れる。
     その隙を、鷲丞は見逃さなかった。
     反撃に転じた彼の長剣は二人の敵に大きなダメージを与え、その内の一人を撤退に追い込む。
     態勢を立て直す為か、上空の明日香に向かって弾幕を張っていた敵の銃口が鷲丞に向く。
     浴びせられる光弾に、鷲丞は無理をせずいったん空に逃れた。
     地上で守備兵たちが頷き合う。
     彼らが何をしようとしているのか、鷲丞は即座に理解した。
    「クレイン!」
    「分かっています!」
     そしてそれは、明日香も同様だった。
     守備兵が濃密な弾幕を張り巡らせる。
     一発一発の威力は今までより低いが、連射能力が上がっていた。散弾と思しき光弾も混じっている。
    「クレイン、俺の後ろに付け」
    「はい!」
     明日香が鷲丞の背後に移動し、鷲丞が翳す盾がぼんやりした燐光のような光を帯びた。燐光は盾の延長面に広がり、鷲丞と明日香の身体を弾幕から完全に守る。神鎧兵が使う盾にはこの様に、本体の面積より遥かに広い範囲をカバーする機能が付いている。
     それなら盾の本体はもっと小さい方が取り回しする上で便利なように思われるかもしれない。しかしこのエネルギーシールドはあくまでも一時的な拡張機能であり、常時使用できるものではなかった。
     鷲丞が空中で静止しているのは盾を機能的に拡張した代償だ。エネルギーシールドを展開している間は、盾が空間に固定されてしまうのである。
     逆に考えれば、拡張シールドを使わせることで相手の移動を封じることができる。守備兵の弾幕は、明らかにこれを狙ったものだった。
     もっとも弾幕を張っている守備兵の側も、通常とは違う武器の使い方をする為の追加コストを支払っていた。こういう密度の高い弾幕は、長時間持続できるものではない。彼らの目的はあくまでも時間稼ぎだった。
     守備側の従神戦士の現陣形は十三人中二人が撤退、七人で弾幕を張り、残る四人はその後ろに控えている。鷲丞が盾を拡張し空中に静止した直後、その四人に変化が訪れた。
     彼らのG型甲冑は近未来的と言うか特撮風味で全身がマットな銀色の装甲で覆われている。頭部も兜と言うよりヘルメットで、目だけが露出していた。しかし何時の間にか装着者の両目も色付きガラスのようなシールドに隠れている。それだけではない。その両目の部分に、闇に浮かび上がる青白い光が点った。

     その、次の瞬間。

     四人の従神戦士が一斉に、巨大化した、、、、、

     巨人化ではなく、巨大化。身長はざっと見て、十メートル超。三階建てのビルに匹敵するサイズだ。その巨体を支える為か手足が太く、全身のシルエットがごつくなっていた。ちょっと見には巨大化した人間と言うより大型ロボットのようだ。
    「Sフェーズを解放するだけでなく、ギガス形態を取るなんて」
     鷲丞の耳元で呟く明日香は身長十五センチの小妖精――フェアリー形態を取っていた。先程の花凜や紬実の三倍の大きさだが、これは彼女たちの能力差を示すものではない。その気になれば、明日香ももっと小さくなれる。この局面では、これ以上小さくなる必要が無いというだけのことだった。
    「彼らには人目を気にする必要が無いのだろう」
     明日香のセリフは独り言だ。無視しても良かったはずだが、鷲丞は律儀に応えを返した。
     神々の戦士は、たとえ正規の戦士でなくても現世界においてはエリート。鷲丞たち背神兵と違って、その身分を誇りこそすれ他人の目を避ける必要は無い。
    「しかし、この辺りにあるのは観光客向けの施設だけではありません。ここで暮らしている人たちもいます」
     明日香の言いたいことが鷲丞には良く分かった。確かに飲食店や土産物屋にはそこで働く人々の家が付属している。従業員用の集合住宅もある。一撃の威力を重視するギガス形態では、周囲の建物が巻き添えになるのは避け難い。
    「あいつらにとっては、人々の暮らしより祭壇オルターの方が大切なのだろう」
     冷静さを保ちつつ怒りを隠せない口調でそう応えて、鷲丞は盾を元の状態に戻した。
     そして、急降下して斜面に降り立つ。
     弾幕の追随が遅れる。その一瞬で十分だった。
    (Sフェーズ、解放アンロツク!)
     地に足が着いたのと同時に、鷲丞は心の中でコマンドを唱えた。
     Sフェーズこそが、神鎧の本来の姿。しかしSフェーズは精神エネルギーの消耗が激しい為、通常の作戦行動の際はこのフェーズをロックし、Nフェーズで活動する。Sフェーズは本来の姿であると同時に、いざという時の切り札だった。
     その切り札を、鷲丞も今このタイミングで切った。
     猛禽の頭部を模した彼の兜が変形する。口元まで完全に黒銀の装甲に覆われ、両眼をのぞかせていた穴もミラーシェードのようなシールドで塞がれた。そして、身体が巨人化する。
     身長およそ三メートル。守備側の従神戦士と違って、全身のシルエットは人のままだ。彼も明日香同様、これが限界というわけではない。巨大化しようと思えばこの六、七倍は可能だ。巨人化、、、を三メートルに留めたのは鷲丞が、この戦場ではこのサイズが最適だと判断しただけのことだった。
     神鎧兵の戦闘力は、身体のサイズで決まるものではない。
     確かに巨大化した方が、一撃で効力を及ぼせる範囲、、は広がる。だがその一方で、小型化した方がエネルギーを一点に集中できるという面もある。一般的な傾向で言えば、ギガス形態より小妖精フェアリー形態の方が貫通力ではむしろ勝っている。
     ただ針の穴のような一点を貫いても、全体の機能は止められないケースの方が多いのも確か。要するに、作戦によって求められる戦力の性質が違うというだけのことだ。
     そして現在の戦場にこれを当てはめたなら、十メートルクラスのサイズは必要無い。それが鷲丞の判断だった。
     巨人と化した鷲丞が、巨大化した守備兵の直中に正面から切り込む。
     敵の得物は、その体躯に相応しいサイズの大剣と大盾に変わっている。巨大化した従神戦士が、その刃渡り五メートルにも及ぶ大剣を向かってくる鷲丞へ振り下ろす。
     鷲丞はその斬撃を左腕の盾で正面から受け止めた。
     一瞬の拮抗の後、盾が剣を跳ね返す。
     体勢を崩した味方をかばうように、二人の巨大戦士が鷲丞に斬り掛かる。
     鷲丞は一刃を体捌きで躱し、もう一刃を盾で滑らせていなした。
     背後から斬り掛かる、四人目の巨大戦士。
     鷲丞は振り返り、空中を駆け上がって、、、、、、その懐に入る。
     一閃する剣。
     鷲丞の斬撃が敵の胸部で火花を散らす。これは、次元装甲の揺らぎが光となって表れているのである。
     次元装甲が維持されている限り、それによって守られている神鎧兵にはエネリアルの武器でもダメージを与えることはできない。だが次元装甲そのものの安定を揺るがすことはできる。そしてその揺らぎは、次元装甲を維持している神鎧兵の精神にダメージとなって反映される。次元装甲を展開した神鎧兵同士の戦いは、抽象的な意味ではなく文字どおりの、精神力の削り合いだ。
     次元装甲を両断する刃は必要ない。貫通する穂先も本来的には不要。その中に守られている兵士には届かなくても、次元装甲に一定量以上のダメージを与えるだけで相手を精神的に、、、、戦闘不能に追い込むことができるのだった。
     鷲丞を囲む巨大戦士の垣根の外側では、光弾と光矢が飛び交っていた。
     巨大化していないNフェーズの従神戦士は、Sフェーズを解放した明日香が相手をしていた。小妖精化した彼女が放つ矢は、誇張抜きに針のサイズだ。それは同時に、針の鋭さを備えているということでもある。
     それでいて、内包するエネルギーは等身大サイズの時と変わらない。
     その凝縮されたエネルギーが、守備兵の次元装甲に突き刺さる。
     一撃で戦闘不能に追い込むには至らない。元々明日香はアカデミー時代、第三位階「赤」までしか到達できなかった。邪神によるブーストでアカデミーを脱走した時点より力が増しているとはいえ、現在も「青」相当の実力しか無い。正規の戦士「黒」には遠く及ばない。
     だが牽制ならば可能。相手の守備兵も「黒」どころか「紫」にもなれなかった者たちだ。実力は今の明日香と同等の「青」。彼らの技量では明日香の攻撃を無視することはできないし、小妖精サイズで飛び回る彼女に光弾を命中させることもできない。銃撃戦を繰り広げながらSフェーズを解放する技術も持ち合わせていない。
     明日香は相手の技量の低さにも助けられて、鷲丞の側面援護の役目を十分に果たしていた。
     明日香が敵を分断している一方でギガス形態の守備兵を相手取っていた鷲丞が、二人の敵兵を撤退に追い込む。一対四だったとはいえ相手は「青」相当で鷲丞は「黒」相当。実力の違いを考えれば順当な結果と言える。
     もっとも、鷲丞たちの目的は守備兵を全滅させることではなかった。鷲丞と明日香の役目は守備隊の注意を引き付け守備兵を足止めすること、つまり陽動だった。
     突如爆風のような波動が押し寄せ、神鎧の次元装甲を圧迫した。物理的な波ではない。衝撃波は衝撃波でも、空気の急膨張によるものではなく、高密度の精神エネルギーが急激に拡散したことにより発生した圧力だ。鷲丞以外の神鎧兵は明日香も含めて、行動を阻害される影響を受けた。それほどの精神エネルギー衝撃波だった。
     明日香が放っていた光の矢と、守備兵が放っていた光の弾丸、その両方の弾幕が途切れる。
     明日香は墜落を避ける為か、自ら地面に降下していた。
     鷲丞と戦っていた巨大化兵士は転倒を避ける為に、両足を踏ん張って動きを止めている。
     その隙を見逃してやる義理は、鷲丞には無かった。
     敵二体に袈裟斬りと斬り上げの斬撃を続けざまに叩き込む。身長三メートルの甲冑剣士が十メートルを超える金属製の巨人に斬り付ける様は、ダビデとゴリアテの戦いも斯くやと思われる神話的な光景だった。
     身長十メートルを超える巨体の輪郭が揺らぎ、消えた。その後には等身大の、近未来的あるいは特撮的な鎧を纏った男たちが横たわっていた。
     鷲丞の斬撃だけでなく、先程の衝撃波が次元装甲に与えたダメージの影響もあったのだろう。二人の守備兵はSフェーズだけでなく次元装甲も解除されている。彼らはEフェーズのエネリアル装甲をむき出しにした状態で倒れていた。
     次元装甲が無いこの状態なら、神鎧兵の肉体を傷つける、、、、、、、ことができる。通常の武器は、エネリアルの装甲には通用しない。だが同じエネリアルの武器ならEフェーズの装甲を貫通可能だ。
     しかし鷲丞は、その二人に追い打ちを掛けなかった。転送機によって回収される従神戦士をそのまま見逃し、彼は翼を広げて飛び立った。
     鷲丞に対する攻撃は無かった。彼は空中でSフェーズを解除し、元のサイズに戻った。
     その鷲丞に、やはり等身大に戻った明日香が合流した。
    「グリュプス、先程の波動は……?」
    「ああ、間違いない。祭壇オルターを破壊した余波だろう」
     彼らがその身に受けた衝撃波は、神々の技術の基盤になっている精神エネルギー波だ。それが制御を外れてまき散らされた事実は、神々の施設が破壊されたことを示している。
     それはつまり鷲丞の仲間たち、花凜と紬実が――。
    「グリュプス、お待たせしました」
    「陽動、お疲れ様」
    「ラビット、スノウ。任務は成功したようだな」
     ――花凜と紬実が、祭壇オルター破壊の任務を成し遂げたことを意味していた。
    「ええ、確実に破壊しました」
     鷲丞の問い掛けに、花凜がしっかりと頷いた。
     神々の施設は基本的にメンテナンスフリーだが、非常用に代行局員が立ち入る為の通路が設けられている。一般人が立ち入れないよう、身長十センチ以下の人間、、しか通れない通路だ。言うまでもなくこのサイズは、Sフェーズでフェアリー化した代行局員を想定している。
     花凜と紬実はSフェーズでフェアリー化してこの祭壇オルターの非常メンテナンス通路に忍び込み、配備されていた自動迎撃兵器を撃破して中枢部を破壊したのだった。
    「良くやった。我らが神に早速ご報告しよう」
     喜色を露わにして頷き合う四人。彼らは地球を支配する神々の拠点を一つ、破壊することに成功したのだ。
     もっとも、仮にターゲットが祭壇オルターではなくオラクルブレインだったならば、花凜たちは近付くこともできなかっただろう。花凜と紬実が侵入に成功したのは、この施設が神々にとって代替が効く、重要度がそれほど高くない物だったからだ。
     それでも鷲丞たちにとっては、初めて体験する目に見える戦果。
     神々が支配するこの星で最初に上がった、叛逆の狼煙。
     一同は高揚した気分のまま、邪神アッシュの待つ「神殿」を目指して空を翔けた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     対地高度三百キロメートルまで上昇し神々の支配領域――第一次神域を越えた鷲丞、明日香、花凜、紬実は邪神アッシュが創り出した亜空間に転移テレポートした。
     この亜空間はアッシュが神殿を構える為にのみ創造したもの。神殿以外には何も無い。四人が転移テレポートした先も神殿前の広場だった。
    「これは一体……」
     そこに広がる光景を目にして、明日香は怯えを隠せぬ口調で呟いた。
     広場には大勢の負傷した使徒――邪神の神鎧兵がある者は座り込み、ある者は横たわって治療を待っていた。四肢を欠損した重傷者こそ見られないものの、深い傷、重度の火傷、骨折した手足など、全員が酷い状態だと一目で分かった。
    「酷い……。次元装甲を失った使徒に追撃を加えたんだわ」
     花凜の声は、ショックと怒りで震えていた。
     次元装甲を失っても、エネリアル装甲が神鎧兵を守る。物質化したエネルギーはどんな金属よりも頑丈だ。だが同じエネリアルで作られた武器ならば、神鎧の装甲を貫いて装着者を傷つけることができる。Eフェーズの装甲では、神々の武具が生み出す熱や衝撃を完全にシャットアウトすることはできない。
    「でも、この人たちは? 見覚えが無いんだけど」
     紬実が首を傾げる。ジアース世界の背神兵は、人数がまだは少ない。同じ神に仕える者同士なら皆友人とはいかないまでも、少なくとも顔見知りにはなっている。
     紬実の言葉に、明日香と花凜も訝しげな顔になった。
    「彼らは他の次元の使徒、、だ」
     四人の中で鷲丞一人が、その疑問に対する答えを知っていた。
    「別次元の方々なの!? 私たちと全く同じに見えるんだけど」
     花凜が驚きの声を上げる。彼女が口にしたとおり別次元の使徒――神鎧兵は、この次元の地球人と全く同じ外見を持っていた。
    「理由は分からないが、世界が違っても使徒の外見はほとんど同じだ。ただ精神波の波形が出身次元によって微妙に異なる。センサーの感度を上げれば分かるはずだ」
     鷲丞を含む四人は神鎧を纏ったままこの亜空間に来ていた。そして精神エネルギーを原動力とする神鎧のセンサーは当然、精神波の領域をカバーしている。
    「本当ですね……」
     鷲丞に言われたとおり神鎧のセンサーで負傷兵の精神波の波形を確認した明日香が、不思議そうに呟いた。
    「とても偶然とは思えません」
     明日香が漏らした感想に、
    「偶然じゃないのかも」
     紬実はそんな応えを返した。
    「収斂進化――同じ生態的地位に達した生物は、類似した形質を獲得するって言われている。神鎧に適合可能な生物は必然的に私たちや彼らのような外見を持つのかもしれない」
    「……逆に人間の形を持たないと神鎧を使えないのかも」
     紬実の推論に、花凜が逆方向からの仮説を唱える。
    「鷲丞さんはどう思います?」
     明日香は、鷲丞に意見を求めた。
    「気になるなら、神にうかがってみれば良い。俺たちが知っても良いことならば、答えてくださるだろう」
     鷲丞は明日香にそう答えた後、
    「そんなことより報告が先だ」
     三人の先に立って歩き出した。

    「四人とも、良くやってくれた」
     邪神アッシュは鷲丞たちの報告を聞くまでもなくミッションの成功を知っていた。邪神といえども、また宗教的な意味で真の神ではなくとも、「神」と呼ばれる存在の一柱。たとえ全知ではなくても、この程度は当然かもしれない。
    「これは間違いなく、君たちの世界を魔神から解放する為の第一歩だ」
    「アッシュのご助力の御蔭です」
     邪神の讃辞に、鷲丞は恭しく頭を垂れる。
    「いやいや。これは君たちの功績だ。今はまだ十分に報いてあげられないが、せめて次の作戦まで英気を養ってくれ」
     これが企業や犯罪組織なら、札束や金塊が出てくる場面だろう。だが邪神の加護、、を受けている背神兵は、物質的な欲求ならば普段から無制限で充足されている。
     神々の統治する世界で邪神が経済活動に介入できるのか、という疑問を懐く者は少なくない。しかし結論から言えば可能で、容易だ。
     当初――西暦二〇〇一年元日に宣言したとおり、神々が人間に課した義務は戦士を供出することだけであり、その報酬として与えた加護は大規模災害からの救済。その災害には干ばつ、洪水などの飢餓につながるものや戦争、内乱などの人為によるものも含まれている。
     逆に言えば戦争や大規模な内戦につながらない限り、あるいは飢餓を引き起こすような乱開発を企てない限り神々は人間社会に干渉しない。
     だから邪神の力で貨幣を偽造するのも容易だし、態々偽札を造らなくても経済システムの中で幾らでも金融資産を増殖させることができる。……金融システムに混乱をもたらすレベルになれば神々の介入を招くと思われるが、数十億円程度なら気にも留めないだろう。そもそも、そのレベルまで細かく、、、監視しているなら、地球上に背神兵の居場所は無い。
     そういう事情だから、この神殿で邪神から背神兵に報酬が渡されることはない。アッシュの言葉は「隠れ家でゆっくり休め」という、そのままの意味だった。
     普段であれば、鷲丞は言われたとおりに神殿を去る場面だ。
    「アッシュ、我が神よ。御前を退出する前に、一つだけ教えていただいても良いでしょうか」
     しかしこの時、鷲丞は邪神に質問の許可を求めた。
    「一つでも二つでも、何でも訊いてくれ」
     いつもと違う鷲丞の振る舞いに、邪神アッシュが気分を害した様子は無い。
     むしろアッシュは、面白がっているようにも見えた。――もっとも邪神に「面白がる」とか「気分を害する」というような、人間同様の感情があるのかどうかは分からない。
     一つ分かっているのは、邪神が鷲丞に質問する許可を与えたということだ。
     鷲丞は下げていた頭を上げて、臆することなくアッシュに目を向けた。
    「神殿の前で負傷した大勢の使徒を見ました」
     明日香と花凜が同時に鷲丞へ目を向ける。彼女たちは先程自分たちが懐いた疑問を鷲丞が代わりに解消しようとしてくれていると思った。
    「もしかして彼らは、今回の陽動を担ってくれたのでしょうか?」
     しかし鷲丞の質問は、彼女たちが思っていたものとは異なっていた。
    「良く分かったね、鷲丞。そのとおりだよ」
     アッシュは鷲丞の質問を肯定し、何か言いたげな彼を制してさらに言葉を続けた。
    「でもね、鷲丞。君が気に病む必要は無いんだ。彼らは魔神の支配を免れた次元の地球人。その中から魔神と戦いその支配に苦しむ異次元の人類を解放すべく志願してくれた私の協力者、君たちの同志だ」
    「別次元の、地球人……」
     そう漏らしたのは花凜。彼女は「納得!」という顔をしていた。
    「我々の同志ですか……」
     そしてこちらが鷲丞の呟きだ。
    「そうなのだ。彼らは自分たちの意志で今回の作戦に力を貸してくれた。だから鷲丞、君が心を痛める必要は無い。罪悪感はむしろ、彼らの覚悟に対する侮辱になる」
     アッシュは、まるで地球人と同じ心を持つ人間のような表情と口調で鷲丞に言い聞かせた。
    「そう……ですね」
     その説得は、十分に効果的だったようだ。鷲丞はアッシュの言葉を噛み締めながら頷いた。
    「怪我のことなら心配要らない。一切の後遺症が残らぬよう、私が責任を持って治療しよう」
     また、邪神――鷲丞たちにとっては善神――が治癒を保証したことで、罪悪感に曇っていた鷲丞の表情がようやく晴れた。
    「彼らの治療が終わったら話をしてみるかい?」
    「……是非。お願いします、アッシュ」
    「うん、良いとも。でも今日は治療があるから、日を改めてということになるけど」
    「構いません」
    「じゃあ、その日になったら呼ぶから」
    「かしこまりました、我が神よ」
     フレンドリーなアッシュに、それとは対照的な口調で鷲丞は応えた。そして彼は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
     アッシュが頷く気配がした。その直後、鷲丞は既にお馴染みとなった揺らぎを感じた。
     顔を上げた鷲丞の目の前にアッシュの姿は無かった。そこは神殿ですらなく、地上の、日本の山奥に建てられた彼が隠れ住む家の前だ。
     神鎧は何時の間にか脱がされていた。
     隣には同居している明日香の姿のみ。花凜と紬実は、彼女たちの隠れ家に転送されていた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

     鷲丞が次にアッシュから呼び出されたのは、香港・ランタオ島の祭壇オルター破壊作戦の三日後、神暦十七年九月十三日のことだった。
    「良く来てくれたね、鷲丞」
    「いえ、今回は私の方からお願いしたことですから」
     恭しく一礼する鷲丞に、アッシュは鷹揚に頷く。そして彼は、斜め後ろに目を向けた。
     ライオンを連想させる兜を被った神鎧兵が、邪神の視線に応えて鷲丞の前に立った。
    「そういうことにしておこうか。鷲丞、彼がウラス世界のキングゥ。キングゥ、彼はジアース世界の鷲丞だ」
     アッシュは鷲丞のことを「ジアース世界の」と呼び、異世界人を「ウラス世界のキングゥ」と呼んだ。そこから推察するに「ウラス」とは、異世界人にとっての地球の、向こうの世界で最もポピュラーな名称なのだろう。
    『よろしく、ジアースの鷲丞。私はウラスの使徒、ウガルラムのキングゥだ』
     鷲丞と異世界人は言語の壁を越えた意思疎通を円滑にする為、共に神鎧を纏いフェイスガードを上げて顔だけを露わにしている。神鎧に備わっている自動翻訳機能の御蔭で『ウガルラム』が彼らの世界に伝わる獅子の幻獣の名前で、それがこの男のコードネームだと分かった。
    「よろしくお願いします、ウガルラムのキングゥ。私はジアースの使徒、グリュプスの鷲丞です」
     キングゥの方でも『グリュプス』がどのような姿の幻獣か理解できたはずだった。
     鷲丞が丁寧語を使っているのは、キングゥの方が年上に見えるからだ。異世界『ウガルラム』の人間が『ジアース』の地球人と同じように年を取るとすれば三十歳前後の外見。浅黒い肌と濃いひげは、中近東の男性に似ていた。
     キングゥは鷲丞の言葉遣いに、一切違和感を覚えている様子は無い。もっともそれは、丁寧に話し掛けられるのが当然と考えているからとは限らなかった。
     自動翻訳機能は言語中枢に働きかけて聞き取った音声を自動的に母国語へ変換するもの。同じ地球の言語同士なら丁寧な言葉遣いか、ラフな喋り方かくらいは判別できる。だが異世界同士で、そのニュアンスが伝わっているかどうかは分からない。
     それを知っているから、鷲丞はキングゥがどんな態度を取っても気にならなかった。
    「二人とも訊きたいこと、話したいことが色々あるだろうからゆっくりしてくれ」
     アッシュがそう言い終えたのと同時に、椅子とテーブルが出現した。ソファセットでなかったのは、二人が神鎧を装着している点を考慮したのだろう。
    「話が終わったら、自由に退出して構わない」
     そう言ってアッシュは消えるのではなく、歩いてその部屋を出て行った。

     鷲丞とキングゥはテーブルを挟んで見詰め合った。別に色っぽい意味ではない。どちらが先に座るか順番を譲り合ったのだ。
     その間抜けなお見合い状態に、二人は同時に苦笑いを浮かべた。次元が違っていても地球人、、、同士、メンタリティには共通点があるようだ。鷲丞とキングゥは示し合わせたように、同時に腰を下ろした。
    「先日は我々の世界に置かれた魔神の施設破壊ミッションにご協力いただき、ありがとうございました」
     まず鷲丞が三日前の礼を述べる。香港・ランタオ島の祭壇オルター破壊作戦において、キングゥが所属する使徒(背神兵)の部隊がミッションを支援する陽動作戦を行ったことが分かっている。
     具体的には、次元と次元の狭間に広がる虚無の空間『次元狭界』からこの次元に向けて進攻することで、魔神(神々)の従神戦士を多数引っ張り出した。
     元々、正規の従神戦士は主として異次元や次元狭界における邪神の軍勢との戦いの最前線に派遣され、地球上の作戦に採用されることは少ない。つまり、ただでさえ地上に配備されている従神戦士はわずかだ。
     その上に、キングゥたちの陽動作戦で地球人の従神戦士が多数動員されたのだ。ランタオ島の戦闘に最後まで正規の従神戦士が姿を見せなかった背景には、こういう事情があった。それを鷲丞はアッシュから聞き出していた。
    『同じ神に仕える者同士、力を貸し合うのは当然のこと。礼には及ばない』
    「ありがたいお言葉です。心に刻んでおきます」
    『そうだな。もし別の次元で善神の使徒が助けを必要としていたなら、馳せ参じてやると良い』
    「そうします」
     鷲丞の言葉にキングゥは満足げに頷く。その直後、彼は鷲丞に同情の眼差しを向けた。
    『もっとも魔神に世界を支配された状態では、他の世界に手を差し伸べる余裕は中々持てないだろうが』
     鷲丞が奥歯を噛み締め唇を引き結ぶ。彼が一瞬見せた表情は、怒りか、口惜しさか。
     しかしその感情が外に向かって爆発することはなかった。
    「……ウガルラムのキングゥ。貴男の世界のことを聞かせてもらえませんか」
     鷲丞は感情に振り回される代わりに知識を求めた。彼が知らない、彼が魔神と呼ぶ神々に支配されていない、世界の姿を。
     鷲丞が異世界人に会うのは、キングゥとその仲間が初めてではなかった。彼はこれまでに二度、次元狭界の戦闘に参加していて、その際に異世界の使徒と共闘している。
     しかしその時はあくまでも戦闘に参加しただけだ。戦いに必要な言葉は交わしたが、じっくり話をするのは今回が初の体験だった。
    『俺のことはキングゥで良い。君のことも鷲丞で構わないか?』
    「無論です」
    『では、鷲丞。一体何について話せば良い? 地理か? 歴史か? それとも社会形態か?』
    「貴男方と神と魔神の歴史を」
    『良いとも。そうだな……』
     五秒ほど考えを纏めて、キングゥは話を再開した。
    『我々の世界、ウラスもおよそ二百年前、正確には二百二年前、魔神の侵略を受けた』
    『現在ウラスは立憲帝政を国体とする統一帝国によって統治されているが、当時、ウラスは統一戦争の真っ直中だった。現帝国の敵対勢力の中には魔神の力を借りて世界の覇権を握ろうとする国もあった』
    『だが魔神はそのような取引が通じる相手ではなかった』
    『人種、宗教、政治体制を問わず、全ての国に対して服従を要求した。帝国を含めた全ての宮殿が一夜にして落とされた』
    「そこは、この世界も同じでした。キングゥ、貴男の世界ウラスは、どうやって魔神による征服を免れたのですか?」
     そこまで無言で耳を傾けていた鷲丞が、思わず口を挿む。
    『我々は運が良かった。魔神の侵攻に先立ち、我らが神であるアッシュが帝国に降臨されていたのだ』
    「帝国は既に善神アッシュの庇護下にあったと?」
    『いや、そうではない。我らが神アッシュは市井の人々に混じって、帝国の統治がウラスの未来を担うのに相応しいかどうか観察されていたのだ』
    『魔神の尖兵が宮殿を落とした直後、アッシュはウラスをご自身の神域で保護された。そして別の次元から使徒を招いて魔神の軍勢を駆逐してくださった』
    『魔神の侵略を退けたアッシュは善神としての名乗りを上げ、ウラスは一つに纏まらなければならないと各国の統治者を諭された』
    『そのお言葉によって地上の戦争は終結し、アッシュご降臨の地である帝国が先頭に立って魔神の侵略と闘い、これを遂に退けた』
    『こうしてウラスは統一帝国の下、一つに纏まった。そしてウラス人は皇帝を先頭にアッシュの僕となり現在に至る』
     キングゥの話が終わって鷲丞が口を開くまで、短くない時間があった。
     きっと、鷲丞の心の中には羨望と嫉妬が渦巻いていたに違いない。――何故自分たちの世界はウラスと同じ歴史を歩まなかったのか、と。
    「…………貴重なお話、ありがとうございました」
     しかし彼はそれを、表に出さなかった。
    『我々は君たちに比べて恵まれている。だから同じ神に仕える者として、君たちへの助力を惜しまないつもりだ』
     異次元世界の使徒キングゥは鷲丞にもう一度協力を約束して、この面会を締め括った。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

    「鷲丞さん、お帰りなさい」
     鷲丞が隠れ家に戻ると、同居している明日香が夕食の支度をしていた。
    「ただいま。もうそんな時間か……」
     鷲丞のセリフの後半は独り言だ。その呟きと共に、彼は窓の外を見た。
     外はもう、暗くなり始めている。亜空間から直接家の中へ転移テレポートしてきたので、時間が分からなかったのだ。
    「もうすぐできますので座って待っていてください」
     振り向いていた明日香がそう言って、キッチンに顔の向きを戻す。彼女はフライパンで魚を焼いているところだった。
     鷲丞がアカデミーを脱走したのは二年前。明日香は一年半前。鷲丞は二年前からここに住んでいて、一年半前に明日香が合流した。
     この家を用意したのは邪神アッシュだが、家そのものは人間が普通に建てたもので、この時代の一般家屋だ。家事は、全自動には程遠い。炊事洗濯掃除その他は明日香と鷲丞が手分けして行っている。
     同居を始めたばかりの頃は、二人とも家事の経験はゼロに等しかった。明日香がアカデミーの寮に入る前に実家で少しだけお手伝いをしていた程度だ。
     だから最初の内はドタバタコメディのような生活だったのだが、今の明日香は料理にしても掃除にしてもすっかり手際が良くなっている。――その一方で鷲丞の家事スキルはさっぱり向上が見られない。その所為で家事の分担割合は明日香が八割から九割にまで上昇していた。
    「お待たせしました」
     言われたとおり座って待っていた鷲丞の前に、明日香の手料理が並べられる。
     半年前くらいまでは明日香に家事のほとんどを任せてしまっている状況に罪悪感を見せていた鷲丞だが、今では仕方が無いと諦めていた。
     少なくとも料理について言えば、明日香と鷲丞では余りにもクオリティが違い過ぎているからだ。明日香も今更、鷲丞の大味な料理など食べたくないに違いない。余計な前置きは口にせず、鷲丞は「いただきます」と手を合わせて白身魚のムニエルに箸を付けた。
     同じ白身魚を使うにしても鷲丞が作る、ただ油で炒めるだけの男料理では比べることすらおこがましい。この格差を前にして「自分も料理を分担する」とは、鷲丞には到底口にできない。
     それは料理だけでなく掃除も洗濯も同じだ。特に洗濯は鷲丞が明日香の下着を駄目にしたことがあり、その時に彼は虚ろな目をした彼女に戦力外通告を受けていた。結局、家事のほとんどを明日香に任せるのが鷲丞にとってだけでなく、二人にとって最善だった。
     箸を動かしながら「どうですか」「今日も美味い」という夫婦のような会話を経て、明日香が鷲丞に「異次元の使徒とどんなお話をされたんですか?」と訊ねた。
    「彼らの世界が魔神の支配を免れた経緯や、彼らの世界の政治体制を教えてもらった」
    「魔神」というのは彼ら背神兵が神々を指して呼ぶ言葉だ。邪神群の神々のことは「善神」と呼んでいる。
    「内容を教えてもらっても良いですか」
    「もちろん良いぞ。神が紹介してくださった使徒の名はウガルラムのキングゥ。『ウガルラム』は俺の『グリュプス』同様、使徒としてのコードネームだ。そして彼らは自分たちの地球をウラスと呼んでいる」
     そう前置きして、鷲丞はキングゥから聞いた話を詳細に語った。
    「ウラスも魔神の脅威に曝されていたんですね……」
    「そのようだ。きっと他にも、今まさに魔神の侵略を受けようとしている世界があるのだろうな……」
    「この地球すら解放できない今の私たちには、どうしようもありません」
     口惜しそうに呟いた鷲丞を明日香が慰める。
    「そうだな……」
     理性では鷲丞も理解しているのだろう。だが感情は納得していないのが明らかだ。それは彼の、曇ったままの表情で分かる。
    「……キングゥさんの世界は皇帝に治められているんですね」
     そんな鷲丞の心情を汲んだのか、明日香が話題を変えた。
    「民主化運動や独立運動は起こらないんでしょうか? 皇帝が神の代理人みたいな立場にあるなら、大規模な内乱なんかは起こらないでしょうけど……」
     地球は神々の支配下にある。だが神々は直接、政治に干渉しない。
     神暦十七年現在の地球にも様々な国家があり様々な政治体制がある。神々の支配を受けていない、二十世紀末に分岐したもう一つの地球との違いは紛争や内戦の有無くらいだ。民主主義国家もあれば独裁国家もある。
     神々の支配を意識しなければ、現代の日本は民主的な社会だ。そこに育った明日香は独裁国家の人々の暮らしをニュースや噂話で耳にすると、同情的な念を懐いてしまう。これは彼女がアカデミーに入学するまでの十五年間で培われた社会的な価値観だった。
    「君主制は必ずしも悪ではないぞ。法治主義と君主制は必ずしも相反するものじゃない」
     だが同じ社会的土壌に育ったはずの鷲丞は、明日香とは異なる感性を持っているようだ。
    「まず、責任の所在が明確になっているのは明らかな美点だと思う」
    「でも皇帝が間違ったことをしても、誰もそれを正せないのでは?」
     明日香が常識的な反論を行うが、鷲丞はそれに頷かなかった。
    「たとえ独裁者でも、一人で政治はできない。皇帝の間違いを正せなかったならば、それはむしろ側近の腐敗であり能力欠如だ」
    「その側近を選ぶのは皇帝でしょう? ならばやはり、皇帝自身の責任なのでは?」
    「そうとは限らない。最終決定は皇帝がするとしても、そこに至るまでに候補者はふるいに掛けられる。候補者を適切に選ぶシステムがあれば、腐敗した人材が登用されることはない」
    「選ばれた当初は有能かもしれませんが……」
    「言いたいことは分かる。皇帝の寵愛に慣れた側近は、どんなに高潔な人物でも堕落していくと俺も思う。しかしそれは、皇帝が私情で特定の家臣を贔屓するような人物であった場合の話だ」
    「贔屓をしない権力者なんているのでしょうか」
    「権力闘争の末に地位を勝ち取った独裁者は、協力者を贔屓しないわけにはいかないだろう。だが世襲君主で、最初から最高権力者となるべく教育された者ならばその限りではないと思う。政治が高度に専門化した世界の舵取りを行う者には、それに対応した高度な教育が必要だ。一人の専門家の決断が多数の素人の妥協の産物に劣るとは、俺は思わない」
     それは極論ではないか、と明日香は思った。
     だが鷲丞の次のセリフには、心の中ですら反論できなかった。
    「現在、ほとんどの地球人は魔神を支配者として認め、崇めてすらいる。俺たちはごく少数の異端者だ。だが善神に従う俺たちが、この俺が間違っているとは思わない。多数の決定が一人の決断より常に正しいわけでは、断じてない」