• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [9]恐怖

     今の季節、日は長い。午後七時前になってようやく暗くなった空を見上げながら、桜井水波さくらいみなみ司波しば家のカーテンとシャッターを閉めて回った。
     第一高校の一年生にして住み込みのメイドでもある水波は、機械よりも自分の手を使いたいタイプである。窓のカーテンもシャッターもリビングのスイッチ一つで開け閉めできるのだが、水波はわざわざ窓の前まで行って、手動スイッチでシャッターを下ろしカーテンを閉めていた。
     彼女が不穏な気配に気付いたのは、二階廊下の窓のシャッターを下ろそうとして、窓際まで近づいた時だった。
     水波はシャッターの閉鎖スイッチを押した後、達也たつやの部屋の扉をノックした。
     すぐに達也が出てくる。達也だけでなく、隣の部屋から深雪みゆきも顔を見せた。
     攻撃的な気配を放つ不審者が近づいているという水波の訴えに、達也は一言「分かっている」と答えた。

    ◇ ◇ ◇

     有希ゆきは二年前、司波達也しばたつやの暗殺を試みたことがある。その時に調べた彼の自宅の場所を、有希は覚えていた。
     いつもは鰐塚わにづかが運転する自走車で移動する有希だが、今回は最寄り駅まで個型電車キャビネットで行って、駅からは徒歩を選択した。
     立ち止まり、携帯端末の地図で現在位置を確認する。場所は記憶していたが、自分の足で家の前まで行くのはこれが初めてだ。
     司波家の家屋に近づくにつれて足が重くなるのを、有希は訝しく感じていた。奈穂なおの魔法にやられた足の傷は、歩行を妨げる重さではなかった。駅からここまで、早足でまだ二十分掛かっていない。疲れるような距離でもない。
     心を暗示で縛られた有希は、自分が本能的な恐怖に囚われていると気付けなかった。
     有希は司波家まで後三ブロックとなる交差点を渡ったところで、いったん足を止めた。身体の変調が無視できなくなっていたのだ。
     足が思うように動かないだけではない。動悸が速くなり、掌に冷たい汗が滲んでいる。
     有希の精神状態がまともならば、自分が恐怖を感じていると理解できただろう。
     だが今の彼女は、それを自覚できない。
     止まることはできても、引き返すことはできない。
    (魔法師を殺せ)
    (司波達也を殺せ)
     不完全な形で顕在化した小西こにしの暗示が、強迫観念となって有希を縛っていた。
     植え付けられた意志が、有希の身体に前進を命じる。
     止めていた歩みを再開した直後、ターゲットの自宅の玄関扉が開いた。
     中から出てくる、長身の人影。
     有希の身体が、ビクッと震える。
     殺すべきターゲットを目にして、有希の足は再び止まった。
     彼女の身体は、与えられた偽りの意志に従わなくなった。
     司波達也が簡易な門から外に出る。
     その背後に、小柄な人影が二つ続いた。一人は達也の妹だ。
    「小柄な」と言っても、有希より上背がある。もう少し近づかなければ分からないが、妹の方は有希よりも十センチは高いだろう。
     達也を先頭にして、三人が有希に近づいてくる。
     有希の身体は自覚できない恐怖で、前に進めない。
     有希の身体は植え付けられた暗示で、後ろに下がれない。
    (動け。動け! 動けっ!)
     有希は自分の手足に、全力で命じた。
     達也が有希の前で足を止める。
     一歩踏み込み、手を伸ばせば届く距離だ。
     有希の足は動かない。
     だが彼女の手は、金縛りから脱した。
     有希の右手がジャケットの下、腰の後ろに隠した鞘からファイティングナイフを抜く。
     それに伴って、固まっていた足が自然に位置を変え、戦う為のスタンスを取った。身体に染み込んだ戦闘技術は、精神による命令が届かなくなった肉体を自動的に動かした。
     構えを取った有希を前にして、達也の顔には何の表情も浮かんでいない。
     恐れも、緊張も、油断すらも無い。
    「以前に言ったはずだ」
     その声は鋼のように、強く、冷たく、鋭かった。
    「次に姿を見せれば消す、と」
     死を予感した肉体が、それを避ける為の行動を起こそうとする。
     自分を殺そうとする者の命を、逆に奪おうと試みる。
     だが、ナイフを突き出そうとした有希の右手は、
     達也の一瞥を浴びて、途中で止まった。
     有希の無意識は、それこそが死に直結する行為だと覚っていた。
    「お兄様、お待ちください」
     達也の背後に控えていた彼の妹、司波深雪が制止の声を上げながら兄の隣に並ぶ。
    「彼女は文弥ふみや君の部下です。消してしまうのは、よろしくないかと」
     深雪は横から抱きつくような体勢で達也を見上げて意見を述べ、顔の向きをほとんど変えずに瞳を有希へと向けた。
     有希の背筋に、震えが走る。
     この世のものとも思われぬ、寒気がする程の美貌が、寒気を伴う戦慄と恐怖を有希にもたらした。
     体温が失われていくのを、有希は実感した。
     司波達也が、自分を見詰める。その眼差しの奥にあるのは、絶対的な死。
     司波深雪が、自分を見詰める。その眼差しの奥にあるのは、永遠の氷獄。
     逃れる術は無い。
    (……いや、ある)
    (逃れる術はある)
    (ここから、逃げ出せば良い)
    (この二人の前から、逃げ出せば良い)
    (逃げろ)
    (逃げろ!)
    (逃げろっ!)
     生存本能の声に突き動かされて、有希は達也と深雪に背中を向けた。
     そのまま全力で走り去る。
     背後から、有希の命を奪う魔法は飛んでこなかった。
     有希を縛っていた小西の暗示は、跡形も無く砕け散っていた。

    ◇ ◇ ◇

     司波家から最寄り駅へ、道程の半分に差し掛かった所で有希は足を止めた。
     何かが彼女の記憶を刺激したのだ。
     その正体はすぐに分かった。
     ここは二年前、有希が「ヤミ」と戦った場所だ。
     それは、予感だったのだろうか。
     彼女の直感が、危機を告げる。
     有希は反射的に身を躱そうとした。しかし、どちらに躱せば良いのか分からず立ち竦む。
     しかし、それで事態が悪化したということはない。
     回避は最初から無駄だった。
     不意に有希は、腹を殴られた、ような気がした。
     目の前には誰もいない。視覚だけでなく、聴覚にも、触覚にも、嗅覚にも味覚にも、知覚できるものは何も無かった。
     ただ痛みだけが発生した。
     悶絶する程の痛みだ。
     たまらず有希が、腹を押さえて膝を突く。
     顔を上げたのは、自己防衛本能が働いたからだった。
     何時の間にか目の前に、ナックルダスターを右手にはめたボブカットの少女が立っていた。
    「ヤミ」だ。
    「彼女」は冷たい、敵に向ける目で有希を見ていた。
    「待った!」
     有希は痛みに耐えて、開いた両手を頭より上に挙げ声を絞り出した。
    「あたしは正気に戻った! あたしを粛清したい気持ちは分かるが、まずは話を聞いてくれ!」
     女装した文弥の視線が、少し和らいだ。と言っても、千本生えていた棘が百本に減った程度だが。
    「良いでしょう。話してみなさい。私が納得できる話を」
     文弥の背後に、二人の黒服が現れる。闇の中から滲み出たような出現だった。
     黒服が有希の腕を左右から抱えて、彼女の身体を引きずり上げた。

     訊問はすぐ側に停めてあったドライバンの中で行われた。荷台の中は向かい合わせの長椅子になっていて、有希の左右に黒服が、正面に「ヤミ」が座っている。走行中は窓の完全非透過を交通法規で禁じられているが、そもそも窓が無いドライバンは中をのぞかれる懸念が無い。
     都市高速に乗ったドライバンは、環状線をぐるぐる回っている。その中で、女装したままの文弥は有希の話を聞き終えた。
    「小西蘭は、邪眼の持ち主だったんですか」
    「邪眼? 見るだけで相手を不幸にするって、あれか?」
     有希の言葉には「やはりそうなのか」というニュアンスが含まれていた。だが文弥はそういう伝統的な意味で『邪眼』という単語を使ったのではなかった。
    「現代の魔法の世界では、視線で相手の意志に干渉する異能を『邪眼』と呼んでいます」
     すぐに有希は「心当たりがある」という表情を浮かべた。
    「もっとも、本当に見るだけで相手を操ることはできないようですね。貴女の話に出てきた隠し部屋のあれこれは、催眠術の為の舞台装置に思われます」
    「あたしは催眠術に掛けられていたのか?」
     有希の瞳に、怒気が閃く。しかしそれは、小西に対するものばかりではない。
     罠にはまった、情けない自分自身に対する怒りもあった。
    「催眠術と邪眼の併用。それが小西教団の、洗脳の秘密でしょう。邪眼の力は不完全なものですが、暗示はかなり強力なようです」
     文弥が有希の隣に座っている黒川に目を向ける。
     黒川は無言で頷いた。
    「敵の手の内が分かったのはお手柄でした。本来は決して許されるべきことではありませんが、相手の術中に落ちていた所為でもありますし、今夜の狼藉は不問に付しましょう」
    「……済まない。感謝する」
     如何なる理由があろうと裏切りは許されない。それは有希のにも合致する。文弥の裁定は破格の温情であり、有希も頭を下げるのに躊躇いを覚えなかった。
    「小西の邪眼が不完全なものと分かれば、彼女を警戒する必要は然程さほど無いと思います。黒川はどう考えますか?」
    「私も同意見です。念の為に通信機能付きの耳栓と、強い光の刺激を緩和するサングラスを着用すれば、催眠術対策も十分ではないでしょうか」
    「耳栓とサングラスはすぐに用意できますか?」
    「三十分以内に調達できます」
    「良いでしょう。一旦ホテルに戻って準備が調い次第、出撃します」
     黒川に命令を告げた文弥は、有希に視線を戻した。
    「有希、貴女はこのまま、一緒に来てください」
    「分かった。汚名は雪いでみせる」
     有希は「ヤミ」に向かって、神妙に頷いた。

    ◇ ◇ ◇

     文弥は有希を連れて宿泊中のスイートルームに戻った。
     同行した護衛はいない。黒川は、教団襲撃の準備に走り回っている。
     それは「既に有希は自分にとって脅威にならない」という文弥の自信を示していた。
     有希は最初から文弥にそむくつもりが無かったので、護衛がいないことに疑問を覚えなかった。
     スイートルームには亜夜子あやこと奈穂がいた。
     有希の姿を見て奈穂が身構える。
     だが文弥が隣にいるのを見て、肩の力を抜いた。
    「お帰りなさい、ヤミちゃん。有希さんとは話が付いたみたいね」
    「ヤミちゃん」と呼ばれた瞬間、文弥は顔を顰めた。だがその直後、諦めの表情を浮かべる。そして真面目な顔と真面目な声で「説明するよ」と応えた。
     このスイートルームにはリビング仕様のソファセットとダイニング仕様のハイテーブルセットの両方が置かれている。文弥たちはハイテーブルの前に腰を下ろした。
     有希の隣に文弥、正面に亜夜子。四人分の紅茶を用意した奈穂が、文弥の前、亜夜子の隣に座る。文弥が口火を切り、有希がそれを引き継ぐ形で小西の邪眼に関する説明が終わった。
    「有希さん、だらしがないです」
    「ウグッ……」
     終了直後、奈穂が容赦のない感想を漏らし、有希がうめき声を上げる。
    「でも、操られていたのなら仕方が無いですね。亜夜子さま、如何でしょう?」
    「そうね。結局、痛い思いをしたのは有希さんだけで、私たちには特に怪我も無かったから、ヤミちゃんの言う通り不問で良いと思うわ」
    「グググッ……」
     有希がゴーヤ入り青汁とセンブリ茶を同時に飲み干したような表情で顔を顰めている。まあ、今回の経験は彼女にとって「口に苦い良薬」となったことだろう。
    「それで今夜、準備が完了次第、小西を仕留めに行こうと思う」
     文弥はまだヤミののままだが、自宅同然のホテルの部屋で気が抜けているのか口調は彼本来のものに戻っている。……それでも「凜々しい少年口調の美少女」にしか見えないのだから、彼がから解放される日はまだまだ遠そうだ。
    「仕留めるって、殺すということ?」
     亜夜子が、お茶菓子の採点でもするような口調で文弥に訊ねる。
    「生かしておく理由は無いだろう?」
     文弥は、増えすぎた鹿を間引くような言い方だ。
    「『毒蜂』の練習台になってもらうよ。時間に余裕があるようだったら訊問してみるけど、有意義な情報は期待できないんじゃないかな」
    「暗殺前提なら、私の出番は無さそうね」
     文弥からも亜夜子からも、人を殺すことに対する禁忌の念はまるで窺われない。
     有希にとっては日常的な光景だったが、奈穂はショックに言葉を失っていた。
    「そうだね。有希は連れて行くけど奈穂はここに置いていくつもりだから、一緒に待っていてもらえるかな。一応、今日中に帰れる時間に戻ってくるつもり」
     文弥が「帰る」と言っているのは浜松のマンションだ。明日は月曜日。文弥は遅刻せず朝から登校するつもりだった。
    「了解。ヤミちゃんの分も、帰り支度を済ませておくわね」
    「……着替えは残しておいてよ」
     文弥は「この格好のまま、浜松に帰らせるつもりじゃないだろうな……?」という疑念に駆られたのだ。
     ちょうどその時、黒川が文弥を呼びに来た。
     文弥は有希を連れて、スイートルームを出て行く。
     亜夜子は文弥の御願いに「フフフッ」と笑うだけで、彼を安心させてはくれなかった。