• NOVELS書き下ろし小説

  • 邪眼の女教祖

    [8]背信

    「ただいま」
    「お帰り、姉さん。遅かったね」
     文弥ふみやが言うように、亜夜子あやこがホテルに戻ってきたのは夕方に近い時間だった。
    「お帰りなさいませ、亜夜子様」
    「あら、黒川くろかわさん。貴方もいたんですか」
    「姉さんが中々帰ってこないから、今夜の計画を練っていたんだよ。何をしていたの?」
     文弥の問い掛けに、亜夜子は「うふふ」と笑うだけで答えない。
    「……、良いけど」
     それだけで文弥には「ウインドウショッピングだな」と見当が付いたが、うるさいことを言うつもりは無かった。
     今回の仕事は文弥が四葉よつば家当主に持ち込んだものであり、当主の真夜から実行メンバーに指名された有希ゆきは文弥の配下だ。亜夜子は本来、この件には関係が無い。
     亜夜子が東京に来たのは、文弥に付き合ってのもの。多少寄り道をしたからといって、それを咎めるのは筋違いだった。
    「それで、今夜の計画って?」
     亜夜子にも悪びれた様子は無い。この質問は話を逸らす為ではなく、純粋に疑問を覚えた故のものだ。
    「今夜は教団の武器庫を襲撃することに決まっていたのではなかったかしら?」
     ホテルを出る前の話し合いでは、そういう予定になっていたはずだった。
    「そこに変更は無いよ」
    「じゃあ、時間の変更?」
    「亜夜子様」
     亜夜子と文弥の問答に、黒川が横から口を挿む。
    「何でしょう?」
    「今夜の作戦は、文弥様と我々だけで決行したく存じます」
    「あら、私は仲間外れ?」
     亜夜子の顔に怒りは無い。むしろ、面白がっているような表情だ。彼女の従姉妹いとこちがい(父の従姉いとこ従伯母じゅうはくぼ従姉妹伯母いとこおばとも)である四葉真夜に良く似た微笑みだった。
    「正直に申しまして、亜夜子様の魔法は便利すぎるのです。亜夜子様がご一緒だと、文弥様の潜入スキルが向上しません」
    「あら、これは本格的にお邪魔虫みたいね」
     亜夜子が笑みを消して目を丸くする。
    「邪魔などとは滅相もありません。ただ今夜の仕事は我々がで取り組まねばならない程のものではありません。亜夜子様の御手を煩わせるまでも無いかと」
     黒川はあくまで、大真面目に答えた。
    「ふーん……別に、良いですけど。今回のミッションは元々文弥のものですしね」
     拗ねてるとまでは行かないが、その直前程度には、亜夜子は気分を害したようだ。
    「姉さんには有希ゆき奈穂なおの様子を見に行って欲しいんだけど」
     少なくとも文弥はそう感じたようで、慌てて話題を変えた。
    「有希さんと奈穂ちゃんの?」
    「小西教団に潜入した結果も知りたいし、奈穂はこの前、初めて本番を経験したばかりだから。本当は僕が行くべきなんだろうけど、奈穂の話を聞くには同性の方が良いと思うんだ」
    「本番を経験って、文弥、その言い方……」
     亜夜子が軽蔑したように横目で睨む。
    「誤解だ! そんなつもりは無いよ!」
     文弥もすぐに意味が分かったようで、顔を赤くして叫んだ。
     途端に亜夜子が噴き出す。
     クスクスと口を押さえて笑う姉を、文弥は憮然と見詰めた。
    「……良いわ。有希さんと奈穂ちゃんの所には、私が行ってあげる」
     片手で目尻を拭う仕草をしながら――実際には、涙は滲んでいなかった――亜夜子が答える。
    「ただし、文弥」
     亜夜子の口調が急に真面目なものに変わる。
    「何?」
     文弥の表情も、それに応じたものになった。
    「決して、油断しては駄目よ。どんなに簡単に見える仕事でも、やり直しができる訓練ではないのだから」
    「――分かっている。気は抜かないよ」
     姉の心配を、文弥は照れずに受け取った。

    ◇ ◇ ◇

     昼前に有希が外出して、奈穂は手持ち無沙汰になっていた。
     有希のマンションは、そんなに広くない。ホームオートメーションを効率的に駆使するハイテク型メイドの奈穂にとって、標準的な3DKの部屋は半日もあれば掃除、洗濯、炊事、全ての家事の片が付く。
    (いっそのこと、「仕事」に行った方が良かったかな?)
     奈穂が考えている「仕事」は、言うまでもなく家事代行サービスではない。
     殺し屋の仕事だ。
    (でも、前の仕事から今日で四日目。もう少し時間を置いた方が良いかも。それに……)
     ――正直言って、まだ、人を殺すのは気持ち悪い。
     奈穂がちょうど、そんなことを考えていた時。来客を告げるチャイムが鳴った。
    「はい、どちら様……、亜夜子さま!? 少々お待ちください!」
     ドアホンで亜夜子の姿を認めた奈穂は、オートロックを解除して転がるように玄関へ向かった。

    「あの、コーヒーとお紅茶、どちらがよろしいでしょうか?」
    「ありがとう。じゃあ、ミルクティーを御願い」
    「かしこまりました!」
     奈穂は本気で緊張したまま、ダイニングからキッチンへ引っ込む。
     と言っても、狭いマンションだ。ダイニングとキッチンはカウンターと吊り戸棚で仕切られているだけ。ダイニングからもキッチンからも、お互いが見える。亜夜子の視線を感じながら、奈穂は強張った手を懸命に動かした。
     奈穂と亜夜子は、過去に直接言葉を交わしたことがない。亜夜子にとって、奈穂は初対面だ。
     だが奈穂は亜夜子の姿を、一方的に見たことがあった。
     四葉分家の一つ、黒羽家の長女。十代半ばにして一族でも有数の実力を持つ優れた魔法師。四葉本家の使用人の間では「当主様のお気に入り」と噂されていた。
     次期当主の座に最も近いのは現当主の姪である「深雪みゆきさま」。
     だけど、現在の当主に最も可愛がられているのは「亜夜子さま」。
     それが本家で働く使用人の認識だった。
     話をするどころかメイドとして給仕をしたこともない奈穂は、亜夜子の為人ひととなりを知らない。
     本家で、悪い噂は聞かなかった。だが本当のところは分からない。
     もし亜夜子相手に粗相をして、それが「御当主さま」の耳に入ったら。
     奈穂は調整体として、一度落第した身だ。現在は謂わば執行猶予中。当主の気紛れ一つで「廃棄」されるかもしれない立場だと自覚している。
     亜夜子の、ひいては「御当主さま」の機嫌を損ねる失敗は、絶対にできない。奈穂はそんな、悲壮で卑屈な緊張に囚われていた。
    「どうぞ」
     奈穂は手も声も、辛うじて震えずに亜夜子へミルクティーを出した。
     亜夜子は上品な仕草でカップを口に持って行く。
     彼女は「まあまあね」という表情でカップをテーブルに戻した。
     取り敢えず駄目出しが無かったことに、奈穂は心の中で胸を撫で下ろす。
    「奈穂ちゃん」
    「は、はい」
     しかし、親しげに「ちゃん」付けで名前を呼ばれたのは予想外の不意打ちだった。
     意識せずに、奈穂の背筋がピンと伸びる。
    「ここでのお仕事は、どう?」
     奈穂の中に、疑心暗鬼が生まれる。
     ――この質問は、自分のことを心配してくれているのだろうか?
     ――それとも、テストの一環だろうか?
    「はい、良くしてもらっています」
     ひとまず奈穂は、無難な答えを心掛けた。
    「有希さんは少しだらしないですけど、かえってメイドとしての勤労意欲を刺激されます」
     一言だけでは無愛想に思われるかもしれないので、有希を出汁に軽く笑いを取りに行く。
    「まあっ」
     亜夜子が唇を綻ばせたのを見て、「滑らなくて良かった!」と奈穂は安堵を覚えた。
     確かに冗談は一応受けた。お付き合いかもしれないが、亜夜子は笑みを見せた。
     だが、安心するのは少し早かった。
    「良かったわね。それで、もう一つの方は?」
     奈穂の顔が強張る。緊張が解け掛けていた所為で、精神の防壁が機能しなかったのだ。
    「人殺しには、耐えられそう? 暗殺者として、やっていける?」
     強がりと平気なふりが働かず、亜夜子の言葉が奈穂のむき出しの心に突き刺さる。
    「……大丈夫です」
     奈穂は伸ばした両手で、エプロンの裾の近くをギュッと握っている。彼女は自分で、それに気付いていない。
     椅子に座った亜夜子が、立ったままの奈穂を見上げている。
     亜夜子の眼差しが「本当に?」と念を押す。奈穂にはそう感じられた。
    「大丈夫です。やれます」
     奈穂は自分に言い聞かせるような口調で付け加えた。
    「奈穂ちゃん、しばらくお茶に付き合ってくれる?」
     亜夜子は目を逸らさず、ため息も吐かず、脈絡の無いセリフを口にする。
    「はっ?」
     何を求められたのか、奈穂はすぐには分からなかった。
    「……あっ、はい」
     だが数秒で「一緒にお茶を飲みましょう」というお誘いだと気付いて、
    「用意して参ります」
     再びキッチンに引っ込んだ。
     奈穂は自分の分のミルクティー以外にも、ティーポットにストレートの紅茶、ミルクと角砂糖、有希のおやつに作り置きしていたクッキーをトレーに載せてダイニングに戻る。
     トレーごとテーブルに置くと、亜夜子が早速、クッキーに手を伸ばした。
    「あら。思っていたより、甘さ控えめ」
     有希の甘党ぶりを知っているからこその感想。
    「有希さんはそのクッキーにジャムを塗ります」
    「それは……」
     奈穂の注釈に、亜夜子が呆れ顔を見せる。
     気持ちは分かる、と奈穂は思った。
     それで少し、心が楽になった。
     奈穂は自分のカップを、口元でゆっくりと傾けた。
     ミルクティーの程良い甘さが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれる。
     奈穂の変化を、亜夜子は子供をあやすような笑みで見ていた。
    「奈穂ちゃん」
    「はい」
     奈穂がカップを置いて、居住まいを正す。
     亜夜子は笑いながら、「硬くならないで」と奈穂に言った。
    「せっかくだからお茶を楽しみながらお話ししましょう?」
    「恐縮です」
     奈穂が肩に入りすぎていた力を抜く。だが、姿勢は崩さない。
     亜夜子もそれ以上、前置きに時間を費やさなかった。
    「四葉家は、戦える魔法師を求めているわ」
    「心得ております」
    「諜報員はまだまだ不足しているし、非合法な仕事をする魔法師も、もっと充実させたいと御当主様はお考えです」
    「はい」
    「でも同時に、貴重な魔法の才能を無駄にしたくはないともお考えなの」
     奈穂の頭上に、疑問符が浮かぶ。
     亜夜子は、奈穂が理解できないだろうと分かっていた。
    「向いていない仕事を押し付けて、犬死にさせたくない、という意味ですよ」
    「…………」
    「向いていないというのは、能力的にも、性格的にも、ね」
    「あたしは……」
    「もしかして、暗殺者になれなかったら始末されるとか思ってた? そんなことはないから。四葉家は、甘い一族なのよ?」
     奈穂は俯いて亜夜子から表情を隠した。両耳の横から垂れる二本のお下げが、テーブルに触れる。
    「……あたしは、お身内に入れていただけるのでしょうか?」
     奈穂の声は、少し震えていた。
    「もちろんよ」
     亜夜子の返事は、即答だった。それが本心からのものなのか、それともリップサービスだから考える時間が不要だったのか、奈穂には分からない。どちらもありそうだと、奈穂には感じられる。
     しかし、たとえ言葉だけの約束でも、奈穂にとっては本音をさらけ出す切っ掛けになった。
    「あたしは、不良品ですから」
     亜夜子は、慌てて口を挿むことはしなかった。
    「使い物にならなければ……利用価値が無ければ、処分されると思っていました」
    「何故、価値が無いなんて思うの?」
    「あたしは『桜シリーズ』なのに、魔法シールドが満足に使えないからです」
    「でも奈穂ちゃんは、立派に魔法が使えると聞いているけれど」
    「魔法は使えます、けど……」
    「奈穂ちゃん、こっちを向いて」
     俯いたままの奈穂に、亜夜子が顔を上げるように促す。
     奈穂は怖ず怖ずと、その言葉に従った。
    「奈穂ちゃんは確か、中距離の狙撃が得意なのよね?」
    「はい……。大きな物に魔法を作用させるのが苦手で……」
    「でも魔法を使えるんでしょう? だったら、価値はあるわ」
    「ですが、射程距離が百メートルしかない狙撃魔法なんて、暗殺以外に利用価値が……」
    「利用価値が無くても、価値はあります。魔法師にとっては、魔法を使えるという事実こそが大切なのよ。それに魔法は道具なんだから、使い道なんて後から幾らでも見つかるわ」
    「そう、なのですか?」
    「ええ。だから奈穂ちゃんの本心を聞かせて? 暗殺者を、続けられそう?」
     奈穂は中々、答えを出せなかった。ただ、亜夜子から目を逸らすこともしなかった。
     亜夜子は答えを急かさなかった。視線で回答を促すこともなかった。
     ティーカップを手に取り、ミルクティーを少し、口にする。
     それを三度、繰り返したところで、奈穂の声が亜夜子の耳に届いた。
    「今はまだ」
     亜夜子がティーカップをテーブルに戻し、奈穂と目を合わせる。
    「続けられます」
    「『今は』『まだ』ね」
     亜夜子の呟きに重なって、オートロックを解除するチャイムが鳴った。
    「有希さんが帰ってきたみたい。続きは、今の仕事が片付いてからにしましょう」
    「かしこまりました」
     奈穂は座ったまま、軽い一礼と共にそう答えた。

    ◇ ◇ ◇

     小西こにしの邪眼により、有希は四つの暗示を植え付けられていた。
     ――魔法師は殺さなければならない。
     ――司波達也しばたつやを殺さなければならない。
     ――明日も小西の許を訪れなければならない。
     ――小西に命じられたことを思い出してはならない。
     具体的な指令は、まだ与えられていない。小西は洗脳を確実な物にする為、時間を置いて少なくとも三回は邪眼による暗示を施す。洗脳が完了するまでは、家族や周囲の人間に怪しまれないよう、いつもどおりの生活をさせる。
     それは小西の用心深さの表れであると同時に、彼女の力の限界を示してもいた。邪眼を一度使っただけでは、完全に心を支配することができない。使えるレベルには達していなかった。彼女本人は意識しないようにしているが、それは魔法師に対するコンプレックスとなって、魔法師に対する敵意――殺意に転化していた。
     小西の邪眼は、確かにまがい物ではない。光を操る魔法で再現したものではなく、本物の、精神に干渉する異能だ。だがその威力は、暗示の完全性という点で、まがい物の魔法に劣っていた。
     一度だけでは、暗示が完全に機能しないという点で。
    「お帰りなさい」
    「ああ」
     奈穂にそう答えながら、有希は玄関に置かれた見知らぬ靴に目を留めていた。
    (誰が来ているんだ?)
     有希は職業暗殺者だ。一般人より、予定外の来客に対して警戒が強い。
     ダイニングに顔を出す。
    「お邪魔しています」
     亜夜子に、座ったまま声を掛けられる。
    (誰だ、こいつ?)
     何処かで見たような気がする。有希はそう思った。
    (――こいつは、誰だ?)
     暗殺者としてのさがが、「何処かで見たような気がする」で済ませることを許さなかった。
     有希が記憶力をフル回転させる。
     目の前の少女が誰なのか、思い出そうとする。
     思い出す。
     思い出す。
    (……思い出した。こいつは、黒羽亜夜子)
    (文弥の姉で、黒羽の魔法師)
    (こいつは、魔法師だ)
    (奈穂も、魔法師だ)
     連鎖的に、記憶が蘇る。
    (――魔法師は、消さなければならない)
     不完全に封じられた、暗示が蘇る。
    (――魔法師は、消す!)
    「奈穂ちゃん!」
     亜夜子が叫んだのと、奈穂が自ら倒れたのは、ほとんど同時だった。
     奈穂の身体があった場所を、銀光が薙ぐ。
     奈穂は間一髪で有希のナイフを躱していた。
     亜夜子がティーカップを有希に投げつける。
     有希はそれを難なく避けた。
     その隙に、亜夜子は左手首のCADに右手を伸ばした。
     有希がダイニングの椅子を蹴る。
     椅子はテーブルにぶつかり、テーブルが亜夜子の方へずれる。
     亜夜子はテーブルを避けて立ち上がった。
     CADの操作が、中断する。
     有希がテーブルを飛び越える。
     襲い掛かる有希から、亜夜子は床に身を投げ出すことで逃れた。
     一瞬とも言える滞空時間の中で、亜夜子はCADを操作する。
     倒れたままの奈穂に抱きつき、亜夜子は魔法を発動した。
     疑似瞬間移動。
     この魔法は、障碍物を突き抜けることができない。
     亜夜子は奈穂と一緒に、開け放したままだったダイニングの入り口に移動する。
     ただそれだけの、短距離移動。
     だが予備動作を伴わない一瞬の移動は、有希の不意を突く効果があった。
     亜夜子が次の魔法を発動する。
     椅子が宙を舞い、有希を直撃した。
    「奈穂ちゃん、逃げるわよ!」
    「はいっ」
     あの程度で有希を沈黙させられないのは、奈穂にも分かっていた。
     何故魔法で追撃しないのか、とは問わなかった。
     魔法は、万能ではない。至近距離では身体を動かす方が速い、ことだってある。
     それを亜夜子は言うまでもなく、奈穂も理解していた。
     亜夜子が踏みつけるようにしてローファーを履く。
     奈穂は玄関に置いてあった折り畳み傘を手に取り、ヒールの無いサンダルに足を通して亜夜子に続いた。

     廊下に出た亜夜子はエレベーターホールに向かうのではなく、非常階段に出た。
     その選択は、奈穂にも理解できる。エレベーターがすぐに来るとは限らない。
    「亜夜子さま、何故上に?」
     だが階段を下りるのではなく上っているのは、理由が分からなかった。このままでは屋上、袋小路だ。
    「屋上の方が、人目に付かないわ」
    「分かりました」
     どうやら亜夜子は単に逃げるだけではなく、一戦交えるつもりらしい。奈穂はそう解釈した。
     背後から足音が迫る。
     答える間にも、二人は階段を上るペースを落としていなかった。亜夜子も奈穂も、息を切らしてもいない。
    「もう追いついてきたわね」
     だからこれは純粋に、身体能力の差によるものだ。
     亜夜子の呟きを聞いて、奈穂は走りながら折り畳み傘のシャフトを伸ばした。
    「取りえずば 消えぬと思へ あずさ弓 引きて帰らぬ 道芝みちしばの露」
     伸ばしながら素早く、キーワードを唱える。南北朝時代の守護大名、山名氏清やまなうじきよの辞世の句。
     奈穂の記憶領域に刻まれた起動式が呼び出され、彼女の魔法演算領域に読み込まれた。
     奈穂が立ち止まり、傘は広げずに、石突きを有希に向ける。いや、石突きがあるべき場所には何も無く、シャフトの空洞が顔をのぞかせていた。
     折り畳み傘の先端から、魔法シールドにコーティングされた水滴が発射される。
     水滴の弾丸は有希の足を浅く削って、非常階段の壁に染みを作った。
    「すみません、外しました!」
     奈穂が階段上りを再開しながら亜夜子に謝る。
    「いいえ、上出来よ!」
     亜夜子が半階分上から応えを返した。有希の傷は浅いものだが、衝撃によるものか痛みによるものか、彼女は体勢を崩していた。
     亜夜子は足を緩めない。奈穂が力を振り絞ってペースを上げ、亜夜子に追いつく。
    「今のはフラッシュ・キャスト?」
    「はい」
     フラッシュ・キャスト。洗脳技術の応用で記憶領域に起動式をイメージ記憶として刻み付け、CADから起動式を読み出すのではなく記憶領域から起動式を読み出すことで、起動式の展開・読込み時間を省略する四葉の秘匿技術。
     奈穂は歴史上の武人の辞世の句をキーワードとしている所為で、時間短縮のメリットは無い。日常生活のちょっとした思考でフラッシュ・キャストが誤作動することを防ぐ、秘匿性の方を重視しているのである。
     が魔法師を見分ける最も手軽なポイントは、CADを所持しているかどうかだ。
     街路カメラのセンサーは、魔法師が無意識的に放っている、発動未満の魔法を常に検出している。
     CADを携帯せず、魔法の誤作動に対して厳重なロックが掛けられた奈穂は、「魔法師であること」を徹底的に隠す方向で育成された魔法師だった。
     奈穂が稼いだ時間の御蔭で、二人は有希よりも早く屋上にたどり着いた。
     非常階段とは反対側のフェンスまで走り、有希を待ち構える。
     有希が屋上に姿を見せた。
     足の傷から、血は滴り続けている。だが彼女の顔に、痛みを感じている表情は無い。
     その瞳に、意思の無い殺意が宿っているだけだ。
     ただ怪我の影響はあるようで、有希は一歩ずつ亜夜子と奈穂に近づいてくる。
     亜夜子は奈穂を背中にかばい、左手首のCADを操作した。
     同時に有希が、怪我をしていない方の足に体重を掛け、身体を沈み込ませる。

     亜夜子が有希に向かって右手を振る。

     有希が片足で跳躍する。

     亜夜子が着ているジャケットの右袖から、黒い布切れのようなものが飛び散る。

     いや、布切れではない。
     黒い羽根だ。
     十メートルの距離を片足で跳び越えようとしている有希を、
     目にも留まらぬ速度で舞う漆黒の羽根吹雪が、
     空中で迎撃する!
     有希の跳躍の、勢いが落ちた。
     彼女の身体は、亜夜子まであと二メートルの地点に落下する。
     黒い羽根が、舞い落ちる。それ自体は色が黒いだけで、クッションや枕に入っている普通のフェザーと変わらない物だ。
     羽根吹雪のからくりは、疑似瞬間移動。慣性を中和した羽根の群れを高速で撃ち出し、ターゲットに接触する直前、慣性中和を慣性増幅に反転させる。
     慣性が増大した羽根は、柔らかさを保ったまま重い打撃を標的に叩き付ける。敵は、多数の小さな鞭で打たれたようなダメージをこうむる。
     攻撃魔法が苦手な亜夜子が、敵の接近を阻む為の切り札としている魔法、
    フェザーFeatherラッシュLash』。
     羽根でなくても、それこそ布切れや紙片でも同じ効果がもたらされるが、亜夜子は敵に余計なことを考えさせる為のハッタリで、羽根を使うことを好んでいた。黒い羽根が自分の周りに舞い散るのを見た敵は、勝手に呪術的なものを連想をしてくれるからだ。
     現に有希は痛みに呻きながら、纏わり付く羽根に目を奪われている。
    「奈穂ちゃん、わよ」
     亜夜子はそう言いながら、奈穂の腰に手を回した。
    「えっ!?」
     戸惑う奈穂に、亜夜子は説明しなかった。その時間を惜しんで、魔法を発動する。
     疑似瞬間移動。
     一秒に満たない時間の内に、二人の身体はマンションの上空を経由して、数百メートル離れた別のマンションの屋上に移動していた。

    ◇ ◇ ◇

     亜夜子と奈穂が消えた空間を数秒間見詰めていた有希は、顔を顰めながら立ち上がった。
     亜夜子のフェザー・ラッシュによるダメージは抜けていないが、骨に異常は無い。奈穂の魔法で抉られた足も、既に血は止まっている。
     身体強化を発動中の有希の身体は、強化されたパワーに耐えられるように、皮膚と骨格の強度も増している。鉛の銃弾を撥ね返したり高層階からの落下にも耐えられるような、スーパーマンじみた頑丈さはない。だが骨折を免れたのも足に重傷を負わなかったのも、この異能の副次的な作用によるものだった。
     ただ、彼女の異能はあくまでも肉体を強化するものだ。精神の抵抗力を高める効果は無い。彼女はまだ、小西の邪眼の影響下にあった。
    (魔法師を消す)
    (魔法師を殺す)
     しかしここに、魔法師はいなくなった。
    (魔法師を殺せ)
    (司波達也を殺せ)
     有希はひとまず、自分の部屋に戻った。
     足の傷を治療して服を替える判断力を保ちながら、「これからどうするのか」「何を目的とするのか」、その意志は縛られたままだった。