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NOVELS書き下ろし小説
- 魔法科高校の劣等生司波達也暗殺計画
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リッパーvs石化の魔女
[6]『救出』
十月二十日、土曜日の朝――と言うより昼前。
ようやく起きてきた有希を、奈穂の笑顔が迎えた。
「有希さん、昨日はお疲れ様でした。ニュースチャンネルは大騒ぎですよ」
ニコニコ、というよりニヤニヤ。奈穂にしては珍しい笑い方だ。
有希がダイニングの定位置に腰を下ろす。奈穂が彼女の前にこのところ定番となっているコンレーチェのカップを置いた。そして、リモコンを手に取ってテレビをつける。有希の家のテレビは事件ニュースのチャンネルがデフォルトだ。
画面の中ではちょうど、昨晩六本木で発生した大量殺人を取り上げていた。
「十八人とは、随分頑張りましたねぇ」
奈穂がニヤニヤ笑いながら話し掛けてきた。その口調は、労いというより冷やかしだ。
「……あたしが殺ったのはその半分だ」
まだ眠気が取れないのか、有希が面倒臭そうに言い返す。
「九人でも十分に大量殺人ですよ」
有希の正面から呆れ声の応えが返った。
「アニー、何故お前がここにいるんだ……」
有希の正面で甘くないコーヒーを飲んでいたのは、「アニー」こと姉川妙子だった。
「もちろん、仕事の相談をする為ですよ。今日お邪魔するってお伝えしたでしょう?」
有希の質問に、妙子はまるで悪びれることなく答える。
「……もっと遅い時間に来るものだと思っていたぜ」
実際、妙子の方に落ち度は無かったことが判明した。
「アニー。済まないが、話はメシを食ってからで良いか?」
「姉川さんもご一緒に如何ですか?」
横から奈穂が口を挿む。
「あら、良いの?」
こうして有希は妙子とブランチ(妙子にとってはランチ)を一緒に取ることになった。「今、テレビで言っていた『事故死者』というのがターゲットのナオミ・サミュエルですね?」
「――そうだ」
妙子の質問に、有希は口の中の物を呑み込んでから頷いた。
六本木の大量殺人事件を扱っているニュースの中で、ナオミのことは(ただし、実名は伏せられている)「地下カジノから逃走中、将棋倒しの下敷きになって首の骨を折ったと見られる」と報じられた。首の骨折が背後からの強い圧迫によるものと判定されたこと、他にも背中側に数カ所の骨折があったことが根拠とされている。
「今のところ、ナッツを容疑者として捜査する動きは無いようですが、やはり、殺しすぎたのでは?」
「目撃者の口封じは、あたしたちの稼業の基本だ」
妙子の懸念を、有希は「どこ吹く風」とばかり流した。
「でも、これだけの大量殺人です。警察もそう簡単に矛を収めないと思いますけど」
そこへエプロンを着けたままの奈穂が加わった。――念の為に付け加えておくと、奈穂も妙子も有希を責めているのではなく案じているのである。
「あたしが手を出さなくても、大量殺人事件になるのは変わらなかったぞ? 皆殺しが既定路線だったんだからな」
有希に動じた様子は無いが、多少は問題意識を懐いているのか、やや力の入った反論を返した。
「でも、ナイフを使ったのは有希さんだけで、ヤクザの皆さんの得物は銃だったんですよね?」「ナイフを使う殺し屋なんてありふれているだろ」
「まあ……そうですね」
有希の態度が投げ遣りになり始めたのを見て、妙子が論調を変えた。
「口封じは避けられないことでした。『犯人』も捕まったことですし、警察が余計な色気を出さないことを祈りましょう」
これで終わり、というニュアンスを汲み取ったのか、奈穂も、有希本人もそれ以上昨夜の事件には触れなかった。
妙子がリモコンを手に取り、テレビを消す。
そして改めて、有希と正面から視線を合わせた。
「これで残りは一人となったわけですが、今後の方針は決まっているんですか?」
「方針なんて決まってる。的を殺すだけだ。ただ、まだ段取りがついていない」
有希の回答は、「実質的に、まだ何も決まっていない」と同じ意味だった。
「どうするんですか? 期限を切られていないとはいえ、余り時間を掛けるわけにもいかないと思いますが……。それとも、敢えて時間をおいて相手が警戒を解くまで待ちますか?」
「……グズグズ引き延ばすつもりは無い」
妙子の問い掛けに、有希は渋い顔で答えた。「時間を掛けられない」というのは、有希も考えていることだった。
「だが無謀な突撃をするつもりも無い。今はクロコの調査待ちだ」
「そうですか……。何でしたら、私がマンションに出入りするタイミングを狙って狙撃しましょうか?」
妙子の提案に、有希は首を振った。――縦に、ではなく左右に。
「多中のマンションの周りに安全な狙撃ポイントは無い。リスクを取るのは、本当に手が無くなってからだ」
「分かりました……」
妙子は残念そうに引き下がった。ターゲットの自宅近辺に、狙撃に適した場所が無いのは彼女も自分で確認済みだった。
「――とにかく、まだ焦る段階じゃない。順調に的は減らしているんだ。クロコの調査が終わるまで待て」
有希の言葉に、異存の声は上がらなかった。◇ ◇ ◇
多中少佐が自宅に借りているマンションは官舎ではないが、軍機漏洩防止の観点からセキュリティに関して国防軍の審査を受けている。つまり、セキュリティは国防軍のお墨付きということだ。有希たちが襲撃を躊躇うのも故無きことではなかった。
マンションへの侵入は難しい。
だが基地への侵入はもっと難しい。
となれば狙い目は私的な外出時か、または基地とマンションの往復――通勤途中となる。
基地とマンションの往復は従卒が運転する自走車で徒歩になる時間はゼロだが、マンションの中や基地内で仕掛けるよりは、まだ可能性が高い。
とは言っても、多中少佐は通勤中も監視を受けている。有希が襲撃に踏み切らないのは多中を監視している軍人に見られたくないからだ。
しかし身許がバレてしまうリスクより、多中を暗殺できるチャンスを優先した者もいた。十月二十二日、月曜日。
三日前、ナオミ・サミュエルが殺されたことで――マスコミは事故死と報道したが、多中は他殺だと確信していた――彼の恐怖はますます高まった。
土曜日は基地から早々に帰宅し日曜日はずっとマンションにこもっていた多中だが、現段階では自分が狙われているという根拠は無い。
閑職に追いやられているとはいえ他人を納得させられる理由も無く欠勤するわけにもいかず、彼は死の影に怯えながら基地に赴き、ようやく拘束時間が終わって帰宅しているところだった。
軍内での立場が悪化している多中にとって、基地の中も安心できる場所ではなかった。自分を口封じしたがっている高級士官は少なくないと彼は知っている。
今や自宅が多中にとって唯一安全と信じられる場所だった。彼は一刻も早くマンションの自室に戻るべく、終業時間になると同時に残っている仕事を全て放り投げて帰り支度を整えた。
昔の伝手をたどって護衛兼任の従卒に引き抜いた仲間杏奈一等兵の運転する自走車で、多中は基地のゲートを出た。
基地から自宅のマンションまで、順調にいけば自走車で十分前後。交通管制が発達した現代、渋滞は滅多に発生しない。今日も十分足らずで自宅にたどり着くはずだった。
季節は秋の半ば。夜の訪れは早い。まだ午後五時を少し過ぎたところだが、辺りは既に暗くなり始めている。だが、まだ街灯の光はまばらだ。
自然の光は乏しく、人工の明かりも乏しい。
黄昏の名に相応しい、不確かな視界。
自走車に急ブレーキが掛かる。
運転手がブレーキを踏んだのではなかった。
自走車が障碍物を感知して緊急停止システムが作動したのだ。
「何があった!?」
多中が杏奈に問う。
「飛び出しです。本車の前に人が飛び出してきました」
「何処の馬鹿だ。自殺志願者か?」
杏奈の答えを聞いて、多中は忌々しげにそう吐き捨てた。
この時代、幹線道路では自走車用道路と歩行者用道路が完全に分離されている。多中が怒るのは当然だった。
「閣下、伏せてください!」
だが彼の怒りは、杏奈の叫びに吹き消された。
後方勤務が長くても、そこは現役の軍人だ。多中は杏奈の警告に即、反応した。
自走車の鼻面に立つ男の手には、サブマシンガンが握られていた。
車を止めたのは、若宮だった。
サプレッサーが取り付けられた銃口から、低速重量弾が吐き出される。
フロントガラスに細かなヒビが広がる。防弾ガラスは最初の数発を食い止めたが、この車に使われているのは戦闘車両に採用されている「装甲ガラス」ではなく伝統的な「防弾ガラス」だ。一点に集まるフルオート射撃はガラス層を砕き、プラスチック層を突き破り、防弾ガラスに穴を開けた。
車内に、銃弾の雨が飛び込む。
銃撃は頭を抱え丸くなっている多中の頭上を通り過ぎた。
銃声が止む。
「閣下、どうぞそのままで」
多中は杏奈の声と、運転席のドアが開く音を聞いた。
多中が恐る恐る顔を上げる。
道路上では、撃ち尽くしたサブマシンガンをナイフに持ち替えた若宮と、両手にナイフを構えた杏奈が対峙していた。
「お前、『石化の魔女』だな?」
若宮が杏奈に話し掛ける。どうやら彼は、仲間杏奈のことを知っているようだ。
杏奈は応えない。彼女は隙を窺うように、若宮をじっと見詰めている。
「お前も『魔兵研』の実験材料にされた口だろう? 何故その男をかばう?」
杏奈の表情が微かに動く。しかし、それだけだ。依然として、彼女は若宮に応えを返さない。
「どけ。邪魔をするなら、同じ実験体と言えど容赦はしない」
若宮が最後通告を送る。それでも、杏奈は沈黙したままだ。
若宮は焦れたように一歩、足を踏み出した。その耳に、接近するサイレンの音が届く。
「チッ!」
彼は時間を掛けすぎたことに気付いた。
若宮が足を速める。
その前に杏奈が立ち塞がった。
銀光が空気を切り裂く。
若宮がステップバックして刃を躱した。
先に斬り掛かったのは、杏奈だった。
左のナイフを躱された杏奈は更に一歩踏み込み、左手を引く反動を利用して右手で斬撃を繰り出す。
若宮は杏奈のブレードを自分のナイフで受けた。
杏奈の刃が根元から切り落とされる。
若宮の『高周波ブレード』だ。
杏奈の動きが一瞬止まる。
若宮は、その隙に乗じて杏奈を攻撃――しなかった。
彼は武器を失った杏奈の右側をダッシュですり抜けた。
そのまま、多中が潜む自走車に迫る。若宮は後部座席のドアレバーに手を掛け、凄絶な笑みを浮かべながらドアを開けた。
表情を凍り付かせた多中少佐が若宮の前に姿を見せる。
若宮は多中を引きずりださんと手を伸ばし――そこで動きを止めた。
銃声が鳴る。
多中の手に構えられた小型拳銃の銃口から硝煙が漏れ出している。
若宮は脇腹を押さえて二歩、三歩と後ろによろめきながら、手にするナイフを多中目掛けて投げつけた。
ナイフは、反射的にかざした多中の右腕に突き刺さる。
多中は悲鳴を上げて銃を落とした。
杏奈が若宮の側面から接近する。
若宮は左手で左の脇腹を押さえたまま、右手で予備のナイフを抜いて応戦の構えを取った。
そしてその瞬間、彼の身体は再び硬直する。杏奈の魔法がまたしても若宮を捕らえたのだ。
左手のナイフを右手に持ち替えて、杏奈が動きを止めた若宮に襲い掛かる。
突如、若宮の全身から想子光が迸った。
正面からまともに吹き付ける想子の爆風に、杏奈は思わず足を止める。
そこに、硬直から解放された若宮が迫る。
杏奈は反射的に右手のナイフを横に薙いだ。
鋭い金属音を発して、ナイフが弾かれる。
後ろに体勢を崩した杏奈は、苦し紛れで前蹴りを繰り出した。
彼女の左足は、若宮の左腕に阻まれる。
ブロックされた反動で杏奈は尻餅をついた。苦し紛れの攻撃は大きな隙を曝してしまう結果となったが、追撃は無かった。
体勢を崩しているのは、若宮も同じだった。彼は苦しげに脇腹を左手で押さえていた。その指の隙間から血が滴り落ちている。杏奈の蹴りをブロックした衝撃で銃創が開いたようだ。
杏奈は尻餅をついただけで、怪我はしていない。彼女は若宮に決定的なダメージを与えるべく、急いで立ち上がった。
(これまでか……)
若宮は心の中で形勢の不利を認めた。銃弾は貫通している。重要な臓器も外れており、すぐに治療しなくても命に関わるものではない。
だが、出血が多い。このままでは遠からず動けなくなるだろう。そこに至らなくても、傷口を手で圧迫し続ける為に不自然な体勢を余儀なくされている。十分な戦闘が可能な状態ではなかった。
それに、サイレンがますます近づいてきている。まもなく警察が到着するだろう。この場で多中少佐の命を奪うのは、諦めざるを得ないようだ。――若宮は撤退を決断した。
車道と歩道を遮る高い柵に向かって、若宮は走り出した。大型トラックの激突も受け止める、歩行者保護の丈夫な柵だ。人が通り抜ける隙間も無い。横断歩道という物も無く、柵が途切れているのは乗降用のスペースが設けられている場所だけだ。
だが、その頑丈な柵も若宮の『高周波ブレード』にとってはバターも同然。多中少佐の車の前に立ち塞がった際も、彼は柵を切り取って車道に侵入していた。
同じように、柵を切り落として車道から脱出しようとする若宮の背後に杏奈が迫る。彼女に若宮を殺害する意図は無いが、再度の襲撃を避ける為に無力化して捕らえようとしているのだ。
若宮がチラリと背後を振り返る。その瞳に迷いが浮かんでいた。
逃走を優先するか。それとも、いったん迎撃して背後の安全を確保するか。
その迷いは、杏奈に仕掛ける時間を与えた。
約十メートルの距離を挟んで、杏奈の視線が若宮を捕らえる。
若宮の動作が、石化したように止まった。
若宮の全身から想子光が迸る。
――『術式解体』。
若宮の肉体が自由を取り戻した。
この時既に、杏奈は五メートルの距離に迫っていた。
若宮が振り返り、迎撃を選択する。だがその決断は、遅きに失していた。彼が白兵戦の態勢を整えるより先に、杏奈が彼女の間合いに入る。そんなタイミングだった。
しかし実際には、杏奈はナイフが届く間合いまで踏み込めなかった。
彼女は逆に、大きく後方に跳躍した。跳び退ることを強いられた。
――二人の間に突っ込んで来たバイクによって。
「乗れ!」
小柄なライダーが若宮に向かって叫ぶ。
「お前は!?」
「問答は後だ! 早くしろ!」
若宮が、右手のナイフを杏奈に投げつけ彼女がそれを打ち落としている隙に、タンデムシートに跨がる。
杏奈が目を上げた時にはもう、バイクは彼女の「力」の射程外まで走り去っていた。◇ ◇ ◇
図らずも若宮を救出することになった有希は、彼を自宅ではなく亜貿社が懇意にしている病院へ連れて行った。
色々と訊きたそうにしている若宮を医者が待つ処置室へ放り込み――処置室では体格の良い看護師が手ぐすねを引いていた――、有希は待合室で鰐塚と合流した。
「ナッツ、お疲れ様です」
「ギリギリだったぜ……」
鰐塚の労いに、有希はグッタリした態度で応えた。
「確かに、ひどい出血でしたね」
鰐塚は処置室に目を向け、その後有希のライダージャケットに付着している血糊を見ながら納得感を込めて頷いた。
「死ぬような傷じゃねえよ。弾は貫通しているみたいだしな」
しかし、有希はそういう意味で「ギリギリ」と言ったのではない。
「それより、もう少しで警察と鉢合わせるところだったぞ」
彼女の声音は少し恨みがましかった。
「それは……すみません」
対する鰐塚の口調は苦笑気味だ。
「警察の動きは事前にお知らせしたとおりでしたが」
鰐塚は有希に、警察の到着直前のタイミングになると注意していた。その警告を振り切って突っ走ったのは有希だ。自分に文句を言われても……、というのが鰐塚の偽らざる気持ちだった。
「だからといって、放っとくわけにはいかんかっただろ」
「何故です?」
問い返した鰐塚は、真顔だった。
「何故って……」
「『リッパー』はチームのメンバーどころか協力者ですらありません。非敵対協定を結んだとはいえ、本来であれば我々の仕事の邪魔になる存在です。危険を冒してまで助けなければならない相手ではないと思いますが」
咎める口調で、鰐塚が有希に真意を問う。
「それは俺も訊きたいな」
割り込んできた予想外の声に、有希と鰐塚がハッとした顔で振り返る。
その視線の先には、上半身裸で腹に包帯を巻いた若宮が、壁に寄り掛かる体勢で立っていた。
「何故俺を助けた? お前たちに、俺を生かしておく理由は無いはずだ」
有希は若宮のセリフに顔を顰めた。
「話をしたいなら先に服を着ろ。レディの前だぞ」
有希の抗議に若宮は「レディとは誰だ」――などという空気を無視した発言はしなかった。
彼は無言で処置室に引き返し、入院患者用の上衣を着て戻ってきた。
「これで良いか?」
「……ああ」
むしろ有希の方が、若宮の素直な対応にやや面食らっている様子だった。
「では、理由を聞かせろ」
改めて若宮が有希に問う。
有希は辟易した口調で「真面目かよ」と呟き――彼女が感じたとおり、どうやら若宮は生真面目な質のようだ――、若宮の視線を正面から受け止めた。
「お前を助けた理由だったな。――何となくだ」
「なにっ?」
若宮が目を丸くする。鰐塚は「やれやれ……」という表情だ。
「だから、特に理由は無い。敢えて言うなら、勘だな。お前を助けておいた方が、後々有利に働く気がした。それだけだ」
「……恩に着るつもりは無いぞ」
「安心しろ。恩義や善意を押し売りするつもりはねえよ。ただお前を助けておいた方が、結果的にあたしの利益になりそうだ、と思っただけだ」
彼ら三人しかいない待合室で、鰐塚は大きなため息を漏らした。
「ナッツの直感を否定するつもりはありませんが……もう少し損得勘定に気を配って欲しいですね。将来、大きな儲けを見込めても、先にチップが尽きたら絵に描いた餅に終わるんですから」
有希はうんざりした顔で手を振った。
「分かった分かった。そんなに分が悪い賭けでもなかったんだがな……」
「そもそも賭に出るべき状況なのか、もう少し考えて欲しい、と言っているんです」
有希がボソリと零した言い訳は、鰐塚の更なるお小言を呼んだ。
「分かったよ。以後、気をつける」
白旗を揚げた有希を、鰐塚が「本当でしょうね……?」という目付きで見据える。
置いてきぼりにされた若宮は、口を挿む機会を失って唖然としていた。「手当は終わりましたか?」
三人が何となく黙り込んだところに話し掛けたのは「アニー」こと姉川妙子だった。彼女は今病院に到着したところだ。
「アニー、どうしたんだ? クロコに呼ばれたのか?」
有希のこのセリフからも、彼女の登場が予定外であることが分かる。
「いえ、社長のお供です」
「社長の?」
有希の声には、訝しさよりも驚きの成分が勝っていた。
「ええ」
妙子は有希に頷き、若宮に目を向けた。
「若宮さん。それとも『リッパー』と呼んだ方が良いですか?」
「どちらでも好きな方で呼べ」
妙子の問い掛けに、若宮は愛想の無い声で答える。
「それでは、リッパー」
若宮の突っ慳貪な態度に、妙子は眉一つ動かさなかった。
「手当が終わっているようでしたら、少々時間をいただきたいのですが」
「何の用だ」
若宮は「良い」とも「悪い」とも答えず、用件を訊ねた。
「社長が少し、話をしたいと申しております」
「話がある、ということか?」
目付きを険しくした若宮に、妙子が慌てて両手を振る。
「いえいえ。そんな喧嘩腰にならないでください。話をしたいというのは文字通りの意味です。それ以上の意図はありませんよ」
若宮は疑わしげに妙子を睨みながら、横柄に鼻を鳴らした。
「……良いだろう」
「すまんな」
その応えと同時に、柱の陰から体格の良い和服姿の男性が姿を見せる。オールバックの髪は、白髪混じりの(所謂)ロマンス・グレー。だが姿勢にも顔付きにも衰えを窺わせる所は無い。実年齢は六十二歳だが、五十代でも通用するだろう。
「社長!」
鰐塚が上げた声からも分かるように、この老人は亜貿社社長・両角来馬だった。有希も目を見張っている。彼女の顔には「まさか」と大書されていた。社長の両角が現場に出てくることは原則としてない。
亜貿社を立ち上げる前は政治家御用達の非合法工作員として名を馳せた両角の腕はまだ衰えていない。そのことを彼にスカウトされた社員は知っている。
有希のように危ういところを助けられた社員もいれば、何時の間にか隠れ家に忍び入られて生殺与奪を握られた状態で勧誘を受けた社員もいる。有希は両角の技量を亜貿社でも五指に入ると評価している。
だが亜貿社を設立してから、両角は殺しの現場のみならず、殺し屋に様々な便宜を供与する「後方」に出向いたこともほとんど無い。ここ数年で仕事に関連して、営業活動以外で彼が社長室を出たのは二年前、当時は敵対していた黒羽家に拉致された時くらいのものだ。
有希や鰐塚の驚きは、大袈裟ではなかった。妙子の「社長のお供」というフレーズを聞いても「まさか」という想いが勝っていたのだ。
「あんたが社長さんか?」
「うむ。亜貿社社長の両角だ」
若宮の問い掛けに、両角が貫禄たっぷりに頷く。
「亜貿社……そういえば、そこの女が言っていたな。自分は亜貿社から派遣されたスナイパーだと」
若宮は己の記憶を探る表情を見せた。
「両角来馬に率いられた亜貿社……。聞いた名前だ。そう……今、思い出した。政治屋を主なターゲットにする暗殺結社」
「その亜貿社で相違ない」
両角が若宮の独白に再び頷く。
若宮の顔に、軽い驚きの表情が浮かんだ。
「そんな大手の社長さんが、俺のようなしがない一匹狼に何の用だ? スカウトでもしてくれるっていうのか?」
若宮のセリフは期待から発せられたものではなかった。口調も明らかに皮肉寄りだ。
「いや。あいにくと君は、当社の社員にはなれない。条件を満たしていないからな」
だから両角に断られても、失望する筋合いではないはずだった。
「俺では力不足だと?」
若宮が不満を露わにしたのは、「条件を満たしていない」というフレーズが彼の自負に引っ掛かったからだろう。
「いや。『縄張り荒らしのリッパー』の評判は聞いている。榛君――ナッツを追い込んだことから判断しても、君の技量は一流だ。だが――」
「だが、何だ?」
「我が社の採用基準は、腕の良い殺し屋なら誰でも良いというものではない」
「ハッ! 縄張りを荒らすような殺し屋の仁義を弁えないヤツに用は無いってことか?」
若宮が馬鹿にしたような態度で吐き捨てる。
「不満かね?」
一方、両角の物腰は反抗的な学生を宥める教師のように、余裕のあるものだった。
若宮が殺気立った目付きで両角を睨む。
だがその程度では、両角の余裕は崩れない。
「……殺し屋の仁義か。以前、何処かの組織に言われたことがあるのか?」
若宮の顔に、微かな動揺が走る。
それを端で見ていた有希は「案外、分かり易いヤツだな」という感想を懐いた。
「誤解しないで欲しい。我が社のスカウト条件は、その様なくだらないものではない」
両角の語調が変わる。声の大きさは変わらないが、強さが増した。
「これは社員にも教えていないことだが、仁義などという建前を振り回す狭量な組織と同列視されるのは面白くないから特に明かそう。我が亜貿社は忍びの技を修めた者で構成されている。それが、我が社の社員になる条件だ」
有希がアニーへと振り向いたのは、「忍者」と「スナイパー」が結びつかなかったからだ。
だがそれは有希の誤解である。
例えば江戸幕府の百人組――鉄砲足軽百人で構成された部隊は伊賀組、甲賀組、根来組といった名称からも連想されるとおり忍者の部隊であったというのが今では定説になっている。 「忍びの技」は狙撃技術を含む技能体系なのである。
「……亜貿社は忍者の暗殺結社なのか?」
「魔法師ではない『忍び』の為の組織だ」
両角のセリフをほぼ正確に理解する知識を若宮は持っていた。現代において「忍者」と言えば「忍術使い」――幻術をメインとする体系の古式魔法の遣い手を意味することが多い。
しかしその一方で古式魔法師ではない、魔法以外の特殊技能を受け継いでいる「忍者」も社会の裏側に存在している。
その種の「忍者」は身につけた「忍術」を活用する機会を得られぬまま一般人として生きていくか、伝統芸能としてショー化された「忍術」を演じるショーマンとなるか、「忍術」を活かす場を求めて非合法な仕事に手を染めるか、のどれかだ。
亜貿社は「忍者」に暗殺という非合法業務で活躍の場を与える為の組織だ、と若宮は理解した。
真相はそれだけではなく、両角の「忍術使い」に対する反感も亜貿社設立の大きな動機になっていたが、ほとんど正解と言って良いだろう。
「だから、『条件を満たしていない』か」
「君は『忍者』ではなく、それ以上に魔法師だ。我が亜貿社に魔法師の為の席は無い」
両角が示した明確な「お断り」に、若宮は自嘲気味のため息を漏らした。
「良いさ。……今更、組織に属するつもりは無いんだ。あんたの会社に入れて欲しいとは思っていない」
そのセリフとは裏腹に、若宮が拗ねているように有希は感じた。彼女は若宮をその外見から三十過ぎと思っていたが、「案外、若いのかもしれんな」と思い直した。
「ふむ……組織に属するつもりは無いか。それは残念だ」
両角が漏らした「残念だ」の一言に、若宮が訝しげな目を向ける。
「我が社に君をスカウトする意思は無いが、スカウトというのはあながち、間違いではない」「……亜貿社とは別の組織が俺をスカウトしたがっているというのか?」
若宮の口調は半信半疑、と言うより「疑」が八割を占めていた。
「スカウトを検討する為、情報を集めている段階だ。私が君に会いに来たのは、その方々に確認を頼まれたからだ」
「その方々? 何者だ?」
有希は若宮と同じ疑問を懐き、「黒羽か?」という答えに自力でたどり着いていたが、それを口にするほど迂闊ではなかった。
「その方々は多中少佐の件が片付いたら、あちらの方から君に接触するだろう。今の段階で、君の質問に答えることは許されていない」
「……依頼主の命令ってわけか」
若宮も無理に答えを要求しなかった。フリーとはいえ、彼も職業暗殺者だ。依頼主の秘密を守ることの重要性は弁えている。
「俺の何を確認しろと言われたんだ?」
彼は質問の形で、話を進めるよう両角に促した。
「君の素性についてだ。リッパー、君が軍の調整体『鉄シリーズ』の生き残りというのは事実か?」
「生き残りだと!?」
この質問に、若宮は激しい動揺を見せた。
「『鉄シリーズ』は処分されたのか?」
「我々が入手した情報が正しければ、『鉄シリーズ』の生存者はいない。全員が事故死したことになっている」
食いしばった歯と歯の軋る音が若宮の口から漏れた。
「……くそっ! あいつら、地獄に落ちろ!」
呪いの言葉を吐いた後、若宮は何度か深呼吸して気持ちを落ち着けた。
「……社長さんの言うとおり、俺は『鉄シリーズ』の一人だ」
「『術式解体』を使えるそうだな? それは『鉄シリーズ』の特性か?」
「いや、違う。『鉄シリーズ』の中で『術式解体』を使えたのは俺だけだ」
「強化実験体に選ばれたのは、それが理由か?」
「…………」
この問い掛けに若宮は答えなかった。
固く唇を引き結び、目に憎悪の炎を燃え上がらせている。――それが答えだった。
「分かった。私からの質問は、これだけだ」
両角は満足げに頷いて、
「君の方から何か訊いておきたいことはないかね?」
若宮にこう訊ねた。
「……俺に興味を持っているという組織は、もし俺が国防軍に復讐したいと願ったら手を貸してくれるだろうか? いや、復讐を果たさせてくれるだけの実力を持っているのか?」
食い入るような目を向けてくる若宮に、両角は「何だ、そんなことか」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
「あの方々がその気になれば、統合幕僚長の首を取るのも容易いだろうよ。それどころか、一夜にして政府をひっくり返すことも可能だろうな」
若宮が顔色を変える。
「そんな組織がこの国に……? まさか、あんたの依頼主は『アンタッチャブル』か……?」
アンタッチャブル、と口にした時、若宮の声は少し震えていた。
「それを知りたくば、当面のターゲットを片付けることだ。そうすれば、あの方々は君に会いに来る」
両角は思わせぶりな口調で回答を保留した。だが否定しなかったことが既に、答えになっているとも解釈できるものだった。
「君が望むなら、ターゲットの暗殺を我が社の社員に手伝わせても良いが?」
この申し出に対し、若宮は明らかに迷いを見せた。
「……いや、不要だ」
だが彼は結局、首を横に振った。
「そうか。手間を取らせたな」
両角が若宮に背を向けて出口に向かう。妙子がピッタリと、その背中に続いた。音を立てて若宮が長椅子に座り込む。彼の顔には、精神的消耗の跡がプリントされている。
一方、有希と鰐塚は両角が去ったことで、いったん緊張を解いていた。
鰐塚は「フウッ……」と大きく息を吐き、
「驚きました。まさかあの一族がリッパーに目をつけていたとは。結果論ですが、見殺しにしなくて良かったです」
驚愕に感情の一部が麻痺しているのか、まるで心がこもっていない淡々とした口調で呟いた。「そうだな」
鰐塚の声は聞き取るのが難しい程小さなものだったが、有希は彼のセリフに同感を示した。 鰐塚が改めて有希に顔を向ける。
「ナッツの予感は、これだったんでしょうか」
「分からん。所詮、勘だからな」
鰐塚の問い掛けに、有希は肩を竦めた。「分からない」というのは彼女の偽らざる本音だ。
「まだ何かあると?」
「それが分かれば、あたしは占い師に転職するよ」
有希の答えに納得した鰐塚が口を閉じる。
「お前たちは……」
代わりに若宮がボソリと声を発した。
「……何者だ? 『アンタッチャブル』と、どんな関係なんだ?」
「どんな、と言われてもな……」
困惑した有希が鰐塚に視線で助けを求める。
「……飼い犬、ですかね。番犬ではなく、猟犬ですけど」
鰐塚は有希にアイコンタクトで同意を求めた。
「そうだな。愛玩犬ではない、と信じたいところだ」
有希がシニカルな笑みと共に頷く。
「一体、どういう縁でそんな関係に……」
若宮はなおも「納得できない」という顔で問いを重ねた。
だが、有希も鰐塚もその質問には答えなかった。
「そんなことよりリッパー、お前、本当に一人でやるつもりか?」
質問する側、される側が入れ替わる。
有希の問い掛けに、若宮は一言「ああ」と頷いた。
「随分苦戦していたじゃねえか。多中の護衛は手強かったんだろう?」
「次は倒す」
その口調に、有希は微妙な違和感を覚えた。
「……多中の護衛はお前の知り合いだったのか? もしかして、同じ調整体か?」
「違う」
若宮は明らかに、ぶっきらぼうなその一言で済ませるつもりだったに違いない。だが、助けられた義理に最低限の情報は提供すべきだ、と思い直したのだろう。
「……調整体ではない。強化実験体だ。直接の知り合いではないが、『石化の魔女』のことは以前ぶち殺した『魔兵研』のメンバーから聞いていた」
「石化の魔女?」
「多中の護衛についていた女のコードネームだ。視界に捉えた相手の速度を奪う魔法師ということだった。実際にヤツの魔法を喰らった感覚とも一致している」
「速度を奪う? 目で見た相手を金縛りにする魔法の遣い手なのか?」
有希が不得要領な表情で問い返す。
「縛るのではない。ヤツの魔法はおそらく『減速領域』だ」
「ディーセラレイション・ゾーン?」
「日本語では減速領域。対象領域内の物体の運動スピードを一定の比率で減速する魔法です」
首を傾げた有希に、鰐塚が横からレクチャーする。
「随分と強力な術に思えるが……お前、良く無事だったな」
スピードを重視した戦闘スタイルを得意とする有希は、近接戦闘において速度を殺されることの不利を思い知っていた。
「強化実験体にはありがちなことだが、ヤツの『減速領域』は本来の術式ではなかった。発動と照準のスピードを強化した弊害だろう。魔法の対象が領域ではなく物体になっていた気がする。射程距離も短かったように感じた」
「その辺りが攻略の鍵か……参考になったぜ」
有希が笑顔と共に感謝を示す。
「そうか」
(んっ?)
若宮の返事に、有希は違和感を覚えた。今の態度は、単に無愛想と言うより照れ隠しのように感じられた。
(やっぱりこいつ、可愛いところがあるな……)
可愛げなど欠片も無い司波達也や、可愛い外見に反して中身は苛烈な黒羽文弥といった年下の少年に脅かされている有希の目には、年上の男性が見せた可愛い側面が新鮮に映った。
「……何だ?」
見れば若宮が自分に訝しげな目を向けている。有希は慌てて顔を引き締めた。
「……何でも無い。最後にもう一つ聞かせろ。『石化の魔女』とやらの本名は分かるか?」
「ああ。確か、仲間杏奈だったと思う」
「仲間杏奈だって!?」
若宮の口から飛び出した名前に、有希は思わず声を上げてしまう。
「知っているのか?」
「いや……」
有希は取り敢えず言葉を濁したが、上手く誤魔化せている自信は無かった。
若宮の口から聞いた名前は、今年の春、前回文弥から命じられた仕事で後味の悪い殺し合いをした『山野ハナ』が、フィリピンから一緒に亡命してきたという彼女の旧友のものと一致していた。