• NOVELS書き下ろし小説

  • リッパーvs石化の魔女

    [6]『救出』

     

     十月二十日、土曜日の朝――と言うより昼前。
     ようやく起きてきた有希ゆきを、奈穂なおの笑顔が迎えた。
    有希ゆきさん、昨日はお疲れ様でした。ニュースチャンネルは大騒ぎですよ」
     ニコニコ、というよりニヤニヤ。奈穂なおにしては珍しい笑い方だ。
     有希ゆきがダイニングの定位置に腰を下ろす。奈穂なおが彼女の前にこのところ定番となっているコンレーチェのカップを置いた。そして、リモコンを手に取ってテレビをつける。有希ゆきの家のテレビは事件ニュースのチャンネルがデフォルトだ。
     画面の中ではちょうど、昨晩六本木で発生した大量殺人を取り上げていた。
    「十八人とは、随分頑張りましたねぇ」
     奈穂なおがニヤニヤ笑いながら話し掛けてきた。その口調は、労いというより冷やかしだ。
    「……あたしがったのはその半分だ」
     まだ眠気が取れないのか、有希ゆきが面倒臭そうに言い返す。
    「九人でも十分に大量殺人ですよ」
     有希ゆきの正面から呆れ声の応えが返った。
    「アニー、何故お前がここにいるんだ……」
     有希ゆきの正面で甘くないコーヒーを飲んでいたのは、「アニー」こと姉川あねがわ妙子たえこだった。
    「もちろん、仕事の相談をする為ですよ。今日お邪魔するってお伝えしたでしょう?」
     有希ゆきの質問に、妙子たえこはまるで悪びれることなく答える。
    「……もっと遅い時間に来るものだと思っていたぜ」
     実際、妙子たえこの方に落ち度は無かったことが判明した。
    「アニー。済まないが、話はメシを食ってからで良いか?」
    姉川あねがわさんもご一緒に如何ですか?」
     横から奈穂なおが口を挿む。
    「あら、良いの?」
     こうして有希ゆき妙子たえことブランチ(妙子たえこにとってはランチ)を一緒に取ることになった。

    「今、テレビで言っていた『事故死者』というのがターゲットのナオミ・サミュエルですね?」
    「――そうだ」
     妙子たえこの質問に、有希ゆきは口の中の物を呑み込んでから頷いた。
     六本木の大量殺人事件を扱っているニュースの中で、ナオミのことは(ただし、実名は伏せられている)「地下カジノから逃走中、将棋倒しの下敷きになって首の骨を折ったと見られる」と報じられた。首の骨折が背後からの強い圧迫によるものと判定されたこと、他にも背中側に数カ所の骨折があったことが根拠とされている。
    「今のところ、ナッツを容疑者として捜査する動きは無いようですが、やはり、殺しすぎたのでは?」
    「目撃者の口封じは、あたしたちの稼業の基本だ」
     妙子たえこの懸念を、有希ゆきは「どこ吹く風」とばかり流した。
    「でも、これだけの大量殺人です。警察もそう簡単に矛を収めないと思いますけど」
     そこへエプロンを着けたままの奈穂なおが加わった。――念の為に付け加えておくと、奈穂なお妙子たえこ有希ゆきを責めているのではなく案じているのである。
    「あたしが手を出さなくても、大量殺人事件になるのは変わらなかったぞ? 皆殺しが既定路線だったんだからな」
     有希ゆきに動じた様子は無いが、多少は問題意識を懐いているのか、やや力の入った反論を返した。
    「でも、ナイフを使ったのは有希ゆきさんだけで、ヤクザの皆さんの得物は銃だったんですよね?」「ナイフを使う殺し屋なんてありふれているだろ」
    「まあ……そうですね」
     有希ゆきの態度が投げ遣りになり始めたのを見て、妙子たえこが論調を変えた。
    「口封じは避けられないことでした。『犯人』も捕まったことですし、警察が余計な色気を出さないことを祈りましょう」
     これで終わり、というニュアンスを汲み取ったのか、奈穂なおも、有希ゆき本人もそれ以上昨夜の事件には触れなかった。
     妙子たえこがリモコンを手に取り、テレビを消す。
     そして改めて、有希ゆきと正面から視線を合わせた。
    「これで残りは一人となったわけですが、今後の方針は決まっているんですか?」
    「方針なんて決まってる。まとを殺すだけだ。ただ、まだ段取りがついていない」
     有希ゆきの回答は、「実質的に、まだ何も決まっていない」と同じ意味だった。
    「どうするんですか? 期限を切られていないとはいえ、余り時間を掛けるわけにもいかないと思いますが……。それとも、敢えて時間をおいて相手が警戒を解くまで待ちますか?」
    「……グズグズ引き延ばすつもりは無い」
     妙子たえこの問い掛けに、有希ゆきは渋い顔で答えた。「時間を掛けられない」というのは、有希ゆきも考えていることだった。
    「だが無謀な突撃をするつもりも無い。今はクロコの調査待ちだ」
    「そうですか……。何でしたら、私がマンションに出入りするタイミングを狙って狙撃しましょうか?」
     妙子たえこの提案に、有希ゆきは首を振った。――縦に、ではなく左右に。
    多中たなかのマンションの周りに安全な狙撃ポイントは無い。リスクを取るのは、本当に手が無くなってからだ」
    「分かりました……」
     妙子たえこは残念そうに引き下がった。ターゲットの自宅近辺に、狙撃に適した場所が無いのは彼女も自分で確認済みだった。
    「――とにかく、まだ焦る段階じゃない。順調に的は減らしているんだ。クロコの調査が終わるまで待て」
     有希ゆきの言葉に、異存の声は上がらなかった。

    ◇ ◇ ◇

     多中たなか少佐が自宅に借りているマンションは官舎ではないが、軍機漏洩防止の観点からセキュリティに関して国防軍の審査を受けている。つまり、セキュリティは国防軍のお墨付きということだ。有希ゆきたちが襲撃を躊躇うのも故無きことではなかった。
     マンションへの侵入は難しい。
     だが基地への侵入はもっと難しい。
     となれば狙い目は私的な外出時か、または基地とマンションの往復――通勤途中となる。
     基地とマンションの往復は従卒が運転する自走車で徒歩になる時間はゼロだが、マンションの中や基地内で仕掛けるよりは、まだ可能性が高い。
     とは言っても、多中たなか少佐は通勤中も監視を受けている。有希ゆきが襲撃に踏み切らないのは多中たなかを監視している軍人に見られたくないからだ。
     しかし身許がバレてしまうリスクより、多中たなかを暗殺できるチャンスを優先した者もいた。

     十月二十二日、月曜日。
     三日前、ナオミ・サミュエルが殺されたことで――マスコミは事故死と報道したが、多中たなかは他殺だと確信していた――彼の恐怖はますます高まった。
     土曜日は基地から早々に帰宅し日曜日はずっとマンションにこもっていた多中たなかだが、現段階では自分が狙われているという根拠は無い。
     閑職に追いやられているとはいえ他人を納得させられる理由も無く欠勤するわけにもいかず、彼は死の影に怯えながら基地に赴き、ようやく拘束時間が終わって帰宅しているところだった。
     軍内での立場が悪化している多中たなかにとって、基地の中も安心できる場所ではなかった。自分を口封じしたがっている高級士官は少なくないと彼は知っている。
     今や自宅が多中たなかにとって唯一安全と信じられる場所だった。彼は一刻も早くマンションの自室に戻るべく、終業時間になると同時に残っている仕事を全て放り投げて帰り支度を整えた。
     昔の伝手をたどって護衛兼任の従卒に引き抜いた仲間なかま杏奈あんな一等兵の運転する自走車で、多中たなかは基地のゲートを出た。
     基地から自宅のマンションまで、順調にいけば自走車で十分前後。交通管制が発達した現代、渋滞は滅多に発生しない。今日も十分足らずで自宅にたどり着くはずだった。
     季節は秋の半ば。夜の訪れは早い。まだ午後五時を少し過ぎたところだが、辺りは既に暗くなり始めている。だが、まだ街灯の光はまばらだ。
     自然の光は乏しく、人工の明かりも乏しい。
     黄昏の名に相応しい、不確かな視界。
     自走車に急ブレーキが掛かる。
     運転手がブレーキを踏んだのではなかった。
     自走車が障碍物を感知して緊急停止システムが作動したのだ。
    「何があった!?」
     多中たなか杏奈あんなに問う。
    「飛び出しです。本車の前に人が飛び出してきました」
    「何処の馬鹿だ。自殺志願者か?」
     杏奈あんなの答えを聞いて、多中たなかは忌々しげにそう吐き捨てた。
     この時代、幹線道路では自走車用道路と歩行者用道路が完全に分離されている。多中たなかが怒るのは当然だった。
    「閣下、伏せてください!」
     だが彼の怒りは、杏奈あんなの叫びに吹き消された。
     後方勤務が長くても、そこは現役の軍人だ。多中たなか杏奈あんなの警告に即、反応した。
     自走車の鼻面に立つ男の手には、サブマシンガンが握られていた。
     車を止めたのは、若宮わかみやだった。
     サプレッサーが取り付けられた銃口から、低速重量弾が吐き出される。
     フロントガラスに細かなヒビが広がる。防弾ガラスは最初の数発を食い止めたが、この車に使われているのは戦闘車両に採用されている「装甲ガラス」ではなく伝統的な「防弾ガラス」だ。一点に集まるフルオート射撃はガラス層を砕き、プラスチック層を突き破り、防弾ガラスに穴を開けた。
     車内に、銃弾の雨が飛び込む。
     銃撃は頭を抱え丸くなっている多中たなかの頭上を通り過ぎた。
     銃声が止む。
    「閣下、どうぞそのままで」
     多中たなか杏奈あんなの声と、運転席のドアが開く音を聞いた。
     多中たなかが恐る恐る顔を上げる。
     道路上では、撃ち尽くしたサブマシンガンをナイフに持ち替えた若宮わかみやと、両手にナイフを構えた杏奈あんなが対峙していた。
    「お前、『石化の魔女』だな?」
     若宮わかみや杏奈あんなに話し掛ける。どうやら彼は、仲間なかま杏奈あんなのことを知っているようだ。
     杏奈あんなは応えない。彼女は隙を窺うように、若宮わかみやをじっと見詰めている。
    「お前も『魔兵研まへいけん』の実験材料にされた口だろう? 何故その男をかばう?」
     杏奈あんなの表情が微かに動く。しかし、それだけだ。依然として、彼女は若宮わかみやに応えを返さない。
    「どけ。邪魔をするなら、同じ実験体と言えど容赦はしない」
     若宮わかみやが最後通告を送る。それでも、杏奈あんなは沈黙したままだ。
     若宮わかみやは焦れたように一歩、足を踏み出した。その耳に、接近するサイレンの音が届く。
    「チッ!」
     彼は時間を掛けすぎたことに気付いた。
     若宮わかみやが足を速める。
     その前に杏奈あんなが立ち塞がった。
     銀光が空気を切り裂く。
     若宮わかみやがステップバックして刃を躱した。
     先に斬り掛かったのは、杏奈あんなだった。
     左のナイフを躱された杏奈あんなは更に一歩踏み込み、左手を引く反動を利用して右手で斬撃を繰り出す。
     若宮わかみや杏奈あんなのブレードを自分のナイフで受けた。
     杏奈あんなの刃が根元から切り落とされる・・・・・・・
     若宮わかみやの『高周波ブレード』だ。
     杏奈あんなの動きが一瞬止まる。
     若宮わかみやは、その隙に乗じて杏奈あんなを攻撃――しなかった。
     彼は武器を失った杏奈あんなの右側をダッシュですり抜けた。
     そのまま、多中たなかが潜む自走車に迫る。若宮わかみやは後部座席のドアレバーに手を掛け、凄絶な笑みを浮かべながらドアを開けた。
     表情を凍り付かせた多中たなか少佐が若宮わかみやの前に姿を見せる。
     若宮わかみや多中たなかを引きずりださんと手を伸ばし――そこで動きを止めた。
     銃声が鳴る。
     多中たなかの手に構えられた小型拳銃の銃口から硝煙が漏れ出している。
     若宮わかみやは脇腹を押さえて二歩、三歩と後ろによろめきながら、手にするナイフを多中たなか目掛けて投げつけた。
     ナイフは、反射的にかざした多中たなかの右腕に突き刺さる。
     多中たなかは悲鳴を上げて銃を落とした。
     杏奈あんな若宮わかみやの側面から接近する。
     若宮わかみやは左手で左の脇腹を押さえたまま、右手で予備のナイフを抜いて応戦の構えを取った。
     そしてその瞬間、彼の身体は再び硬直する。杏奈あんなの魔法がまたしても若宮わかみやを捕らえたのだ。
     左手のナイフを右手に持ち替えて、杏奈あんなが動きを止めた若宮わかみやに襲い掛かる。
     突如、若宮わかみやの全身から想子光が迸った。
     正面からまともに吹き付ける想子の爆風に、杏奈あんなは思わず足を止める。
     そこに、硬直から解放された若宮わかみやが迫る。
     杏奈あんなは反射的に右手のナイフを横に薙いだ。
     鋭い金属音を発して、ナイフが弾かれる。
     後ろに体勢を崩した杏奈あんなは、苦し紛れで前蹴りを繰り出した。
     彼女の左足は、若宮わかみやの左腕に阻まれる。
     ブロックされた反動で杏奈あんなは尻餅をついた。苦し紛れの攻撃は大きな隙を曝してしまう結果となったが、追撃は無かった。
     体勢を崩しているのは、若宮わかみやも同じだった。彼は苦しげに脇腹を左手で押さえていた。その指の隙間から血が滴り落ちている。杏奈あんなの蹴りをブロックした衝撃で銃創が開いたようだ。
     杏奈あんなは尻餅をついただけで、怪我はしていない。彼女は若宮わかみやに決定的なダメージを与えるべく、急いで立ち上がった。
    (これまでか……)
     若宮わかみやは心の中で形勢の不利を認めた。銃弾は貫通している。重要な臓器も外れており、すぐに治療しなくても命に関わるものではない。
     だが、出血が多い。このままでは遠からず動けなくなるだろう。そこに至らなくても、傷口を手で圧迫し続ける為に不自然な体勢を余儀なくされている。十分な戦闘が可能な状態ではなかった。
     それに、サイレンがますます近づいてきている。まもなく警察が到着するだろう。この場で多中たなか少佐の命を奪うのは、諦めざるを得ないようだ。――若宮わかみやは撤退を決断した。
     車道と歩道を遮る高い柵に向かって、若宮わかみやは走り出した。大型トラックの激突も受け止める、歩行者保護の丈夫な柵だ。人が通り抜ける隙間も無い。横断歩道という物も無く、柵が途切れているのは乗降用のスペースが設けられている場所だけだ。
     だが、その頑丈な柵も若宮わかみやの『高周波ブレード』にとってはバターも同然。多中たなか少佐の車の前に立ち塞がった際も、彼は柵を切り取って車道に侵入していた。
     同じように、柵を切り落として車道から脱出しようとする若宮わかみやの背後に杏奈あんなが迫る。彼女に若宮わかみやを殺害する意図は無いが、再度の襲撃を避ける為に無力化して捕らえようとしているのだ。
     若宮わかみやがチラリと背後を振り返る。その瞳に迷いが浮かんでいた。
     逃走を優先するか。それとも、いったん迎撃して背後の安全を確保するか。
     その迷いは、杏奈あんなに仕掛ける時間を与えた。
     約十メートルの距離を挟んで、杏奈あんなの視線が若宮わかみやを捕らえる。
     若宮わかみやの動作が、石化したように止まった。
     若宮わかみやの全身から想子光が迸る。
     ――『術式解体グラム・デモリツシヨン』。
     若宮わかみやの肉体が自由を取り戻した。
     この時既に、杏奈あんなは五メートルの距離に迫っていた。
     若宮わかみやが振り返り、迎撃を選択する。だがその決断は、遅きに失していた。彼が白兵戦の態勢を整えるより先に、杏奈あんなが彼女の間合いに入る。そんなタイミングだった。
     しかし実際には、杏奈あんなはナイフが届く間合いまで踏み込めなかった。
     彼女は逆に、大きく後方に跳躍した。跳び退ることを強いられた。
     ――二人の間に突っ込んで来たバイクによって。
    「乗れ!」
     小柄なライダーが若宮わかみやに向かって叫ぶ。
    「お前は!?」
    「問答は後だ! 早くしろ!」
     若宮わかみやが、右手のナイフを杏奈あんなに投げつけ彼女がそれを打ち落としている隙に、タンデムシートに跨がる。
     杏奈あんなが目を上げた時にはもう、バイクは彼女の「力」の射程外まで走り去っていた。

    ◇ ◇ ◇

     図らずも若宮わかみやを救出することになった有希ゆきは、彼を自宅ではなく亜貿社あぼうしゃが懇意にしている病院へ連れて行った。
     色々と訊きたそうにしている若宮わかみやを医者が待つ処置室へ放り込み――処置室では体格の良い看護師が手ぐすねを引いていた――、有希ゆきは待合室で鰐塚わにづかと合流した。
    「ナッツ、お疲れ様です」
    「ギリギリだったぜ……」
     鰐塚わにづかの労いに、有希ゆきはグッタリした態度で応えた。
    「確かに、ひどい出血でしたね」
     鰐塚わにづかは処置室に目を向け、その後有希ゆきのライダージャケットに付着している血糊を見ながら納得感を込めて頷いた。
    「死ぬような傷じゃねえよ。弾は貫通しているみたいだしな」
     しかし、有希ゆきはそういう意味で「ギリギリ」と言ったのではない。
    「それより、もう少しで警察と鉢合わせるところだったぞ」
     彼女の声音は少し恨みがましかった。
    「それは……すみません」
     対する鰐塚わにづかの口調は苦笑気味だ。
    「警察の動きは事前にお知らせしたとおりでしたが」
     鰐塚わにづか有希ゆきに、警察の到着直前のタイミングになると注意していた。その警告を振り切って突っ走ったのは有希ゆきだ。自分に文句を言われても……、というのが鰐塚わにづかの偽らざる気持ちだった。
    「だからといって、放っとくわけにはいかんかっただろ」
    「何故です?」
     問い返した鰐塚わにづかは、真顔だった。
    「何故って……」
    「『リッパー』はチームのメンバーどころか協力者ですらありません。非敵対協定を結んだとはいえ、本来であれば我々の仕事の邪魔になる存在です。危険を冒してまで助けなければならない相手ではないと思いますが」
     咎める口調で、鰐塚わにづか有希ゆきに真意を問う。
    「それは俺も訊きたいな」
     割り込んできた予想外の声に、有希ゆき鰐塚わにづかがハッとした顔で振り返る。
     その視線の先には、上半身裸で腹に包帯を巻いた若宮わかみやが、壁に寄り掛かる体勢で立っていた。
    「何故俺を助けた? お前たちに、俺を生かしておく理由は無いはずだ」
     有希ゆき若宮わかみやのセリフに顔を顰めた。
    「話をしたいなら先に服を着ろ。レディの前だぞ」
     有希ゆきの抗議に若宮わかみやは「レディとは誰だ」――などという空気を無視した発言はしなかった。
     彼は無言で処置室に引き返し、入院患者用の上衣を着て戻ってきた。
    「これで良いか?」
    「……ああ」
     むしろ有希ゆきの方が、若宮わかみやの素直な対応にやや面食らっている様子だった。
    「では、理由を聞かせろ」
     改めて若宮わかみや有希ゆきに問う。
     有希ゆきは辟易した口調で「真面目かよ」と呟き――彼女が感じたとおり、どうやら若宮わかみやは生真面目な質のようだ――、若宮わかみやの視線を正面から受け止めた。
    「お前を助けた理由だったな。――何となく・・・・だ」
    「なにっ?」
     若宮わかみやが目を丸くする。鰐塚わにづかは「やれやれ……」という表情だ。
    「だから、特に理由は無い。敢えて言うなら、勘だな。お前を助けておいた方が、後々有利に働く気がした。それだけだ」
    「……恩に着るつもりは無いぞ」
    「安心しろ。恩義や善意を押し売りするつもりはねえよ。ただお前を助けておいた方が、結果的にあたしの利益になりそうだ、と思っただけだ」
     彼ら三人しかいない待合室で、鰐塚わにづかは大きなため息を漏らした。
    「ナッツの直感を否定するつもりはありませんが……もう少し損得勘定に気を配って欲しいですね。将来、大きな儲けを見込めても、先にチップが尽きたら絵に描いた餅に終わるんですから」
     有希ゆきはうんざりした顔で手を振った。
    「分かった分かった。そんなに分が悪い賭けでもなかったんだがな……」
    「そもそも賭に出るべき状況なのか、もう少し考えて欲しい、と言っているんです」
     有希ゆきがボソリと零した言い訳は、鰐塚わにづかの更なるお小言を呼んだ。
    「分かったよ。以後、気をつける」
     白旗を揚げた有希ゆきを、鰐塚わにづかが「本当でしょうね……?」という目付きで見据える。
     置いてきぼりにされた若宮わかみやは、口を挿む機会を失って唖然としていた。

    「手当は終わりましたか?」
     三人が何となく黙り込んだところに話し掛けたのは「アニー」こと姉川あねがわ妙子たえこだった。彼女は今病院に到着したところだ。
    「アニー、どうしたんだ? クロコに呼ばれたのか?」
     有希ゆきのこのセリフからも、彼女の登場が予定外であることが分かる。
    「いえ、社長のお供です」
    「社長の?」
     有希ゆきの声には、訝しさよりも驚きの成分が勝っていた。
    「ええ」
     妙子たえこ有希ゆきに頷き、若宮わかみやに目を向けた。
    若宮わかみやさん。それとも『リッパー』と呼んだ方が良いですか?」
    「どちらでも好きな方で呼べ」
     妙子たえこの問い掛けに、若宮わかみやは愛想の無い声で答える。
    「それでは、リッパー」
     若宮わかみやの突っ慳貪な態度に、妙子たえこは眉一つ動かさなかった。
    「手当が終わっているようでしたら、少々時間をいただきたいのですが」
    「何の用だ」
     若宮わかみやは「良い」とも「悪い」とも答えず、用件を訊ねた。
    「社長が少し、話をしたいと申しております」
    「話がある、ということか?」
     目付きを険しくした若宮わかみやに、妙子たえこが慌てて両手を振る。
    「いえいえ。そんな喧嘩腰にならないでください。話をしたいというのは文字通りの意味です。それ以上の意図はありませんよ」
     若宮わかみやは疑わしげに妙子たえこを睨みながら、横柄に鼻を鳴らした。
    「……良いだろう」
    「すまんな」
     その応えと同時に、柱の陰から体格の良い和服姿の男性が姿を見せる。オールバックの髪は、白髪混じりの(所謂)ロマンス・グレー。だが姿勢にも顔付きにも衰えを窺わせる所は無い。実年齢は六十二歳だが、五十代でも通用するだろう。
    「社長!」
     鰐塚わにづかが上げた声からも分かるように、この老人は亜貿社あぼうしゃ社長・両角もろずみ来馬くるまだった。有希ゆきも目を見張っている。彼女の顔には「まさか」と大書されていた。社長の両角もろずみが現場に出てくることは原則としてない。
     亜貿社あぼうしゃを立ち上げる前は政治家御用達の非合法工作員として名を馳せた両角もろずみの腕はまだ衰えていない。そのことを彼にスカウトされた社員は知っている。
     有希ゆきのように危ういところを助けられた社員もいれば、何時の間にか隠れ家に忍び入られて生殺与奪を握られた状態で勧誘を受けた社員もいる。有希ゆき両角もろずみの技量を亜貿社あぼうしゃでも五指に入ると評価している。
     だが亜貿社あぼうしゃを設立してから、両角もろずみは殺しの現場のみならず、殺し屋に様々な便宜を供与する「後方」に出向いたこともほとんど無い。ここ数年で仕事に関連して、営業活動以外で彼が社長室を出たのは二年前、当時は敵対していた黒羽くろば家に拉致された時くらいのものだ。
     有希ゆき鰐塚わにづかの驚きは、大袈裟ではなかった。妙子たえこの「社長のお供」というフレーズを聞いても「まさか」という想いが勝っていたのだ。
    「あんたが社長さんか?」
    「うむ。亜貿社あぼうしゃ社長の両角もろずみだ」
     若宮わかみやの問い掛けに、両角もろずみが貫禄たっぷりに頷く。
    亜貿社あぼうしゃ……そういえば、そこの女が言っていたな。自分は亜貿社あぼうしゃから派遣されたスナイパーだと」
     若宮わかみやは己の記憶を探る表情を見せた。
    両角もろずみ来馬くるまに率いられた亜貿社あぼうしゃ……。聞いた名前だ。そう……今、思い出した。政治屋を主なターゲットにする暗殺結社」
    「その亜貿社あぼうしゃで相違ない」
     両角もろずみ若宮わかみやの独白に再び頷く。
     若宮わかみやの顔に、軽い驚きの表情が浮かんだ。
    「そんな大手・・の社長さんが、俺のようなしがない一匹狼に何の用だ? スカウトでもしてくれるっていうのか?」
     若宮わかみやのセリフは期待から発せられたものではなかった。口調も明らかに皮肉寄りだ。
    「いや。あいにくと君は、当社の社員にはなれない。条件を満たしていないからな」
     だから両角もろずみに断られても、失望する筋合いではないはずだった。
    「俺では力不足だと?」
     若宮わかみやが不満を露わにしたのは、「条件を満たしていない」というフレーズが彼の自負に引っ掛かったからだろう。
    「いや。『縄張り荒らしのリッパー』の評判は聞いている。はしばみ君――ナッツを追い込んだことから判断しても、君の技量は一流だ。だが――」
    「だが、何だ?」
    「我が社の採用基準は、腕の良い殺し屋なら誰でも良いというものではない」
    「ハッ! 縄張りを荒らすような殺し屋の仁義を弁えないヤツに用は無いってことか?」
     若宮わかみやが馬鹿にしたような態度で吐き捨てる。
    「不満かね?」
     一方、両角もろずみの物腰は反抗的な学生を宥める教師のように、余裕のあるものだった。
     若宮わかみやが殺気立った目付きで両角もろずみを睨む。
     だがその程度では、両角もろずみの余裕は崩れない。
    「……殺し屋の仁義か。以前、何処かの組織に言われたことがあるのか?」
     若宮わかみやの顔に、微かな動揺が走る。
     それを端で見ていた有希ゆきは「案外、分かり易いヤツだな」という感想を懐いた。
    「誤解しないで欲しい。我が社のスカウト条件は、その様なくだらないものではない」
     両角もろずみの語調が変わる。声の大きさは変わらないが、強さが増した。
    「これは社員にも教えていないことだが、仁義などという建前を振り回す狭量な組織と同列視されるのは面白くないから特に明かそう。我が亜貿社あぼうしゃは忍びの技を修めた者で構成されている。それが、我が社の社員になる条件だ」
     有希ゆきがアニーへと振り向いたのは、「忍者」と「スナイパー」が結びつかなかったからだ。
     だがそれは有希ゆきの誤解である。
     例えば江戸幕府の百人組――鉄砲足軽百人で構成された部隊は伊賀組、甲賀組、根来組といった名称からも連想されるとおり忍者の部隊であったというのが今では定説になっている。 「忍びの技」は狙撃技術を含む技能体系なのである。
    「……亜貿社あぼうしゃは忍者の暗殺結社なのか?」
    「魔法師ではない『忍び』の為の組織だ」
     両角もろずみのセリフをほぼ正確に理解する知識を若宮わかみやは持っていた。現代において「忍者」と言えば「忍術使い」――幻術をメインとする体系の古式魔法の遣い手を意味することが多い。
     しかしその一方で古式魔法師ではない、魔法以外の特殊技能を受け継いでいる「忍者」も社会の裏側に存在している。
     その種の「忍者」は身につけた「忍術」を活用する機会を得られぬまま一般人として生きていくか、伝統芸能としてショー化された「忍術」を演じるショーマンとなるか、「忍術」を活かす場を求めて非合法な仕事に手を染めるか、のどれかだ。
     亜貿社あぼうしゃは「忍者」に暗殺という非合法業務で活躍の場を与える為の組織だ、と若宮わかみやは理解した。
     真相はそれだけではなく、両角もろずみの「忍術使い」に対する反感も亜貿社あぼうしゃ設立の大きな動機になっていたが、ほとんど正解と言って良いだろう。
    「だから、『条件を満たしていない』か」
    「君は『忍者』ではなく、それ以上に魔法師だ。我が亜貿社あぼうしゃに魔法師の為の席は無い」
     両角もろずみが示した明確な「お断り」に、若宮わかみやは自嘲気味のため息を漏らした。
    「良いさ。……今更、組織に属するつもりは無いんだ。あんたの会社に入れて欲しいとは思っていない」
     そのセリフとは裏腹に、若宮わかみやが拗ねているように有希ゆきは感じた。彼女は若宮わかみやをその外見から三十過ぎと思っていたが、「案外、若いのかもしれんな」と思い直した。
    「ふむ……組織に属するつもりは無いか。それは残念だ」
     両角もろずみが漏らした「残念だ」の一言に、若宮わかみやが訝しげな目を向ける。
    「我が社に君をスカウトする意思は無いが、スカウトというのはあながち、間違いではない」「……亜貿社あぼうしゃとは別の組織が俺をスカウトしたがっているというのか?」
     若宮わかみやの口調は半信半疑、と言うより「疑」が八割を占めていた。
    「スカウトを検討する為、情報を集めている段階だ。私が君に会いに来たのは、その方々に確認を頼まれたからだ」
    「その方々? 何者だ?」
     有希ゆき若宮わかみやと同じ疑問を懐き、「黒羽くろばか?」という答えに自力でたどり着いていたが、それを口にするほど迂闊ではなかった。
    「その方々は多中たなか少佐の件が片付いたら、あちらの方から君に接触するだろう。今の段階で、君の質問に答えることは許されていない」
    「……依頼主の命令ってわけか」
     若宮わかみやも無理に答えを要求しなかった。フリーとはいえ、彼も職業暗殺者だ。依頼主の秘密を守ることの重要性は弁えている。
    「俺の何を確認しろと言われたんだ?」
     彼は質問の形で、話を進めるよう両角もろずみに促した。
    「君の素性についてだ。リッパー、君が軍の調整体『くろがねシリーズ』の生き残りというのは事実か?」
    生き残り・・・・だと!?」
     この質問に、若宮わかみやは激しい動揺を見せた。
    「『くろがねシリーズ』は処分されたのか?」
    「我々が入手した情報が正しければ、『くろがねシリーズ』の生存者はいない。全員が事故死したことになっている」
     食いしばった歯と歯の軋る音が若宮わかみやの口から漏れた。
    「……くそっ! あいつら、地獄に落ちろ!」
     呪いの言葉を吐いた後、若宮わかみやは何度か深呼吸して気持ちを落ち着けた。
    「……社長さんの言うとおり、俺は『くろがねシリーズ』の一人だ」
    「『術式解体グラム・デモリツシヨン』を使えるそうだな? それは『くろがねシリーズ』の特性か?」
    「いや、違う。『くろがねシリーズ』の中で『術式解体グラム・デモリツシヨン』を使えたのは俺だけだ」
    「強化実験体に選ばれたのは、それが理由か?」
    「…………」
     この問い掛けに若宮わかみやは答えなかった。
     固く唇を引き結び、目に憎悪の炎を燃え上がらせている。――それが答えだった。
    「分かった。私からの質問は、これだけだ」
     両角もろずみは満足げに頷いて、
    「君の方から何か訊いておきたいことはないかね?」
     若宮わかみやにこう訊ねた。
    「……俺に興味を持っているという組織は、もし俺が国防軍に復讐したいと願ったら手を貸してくれるだろうか? いや、復讐を果たさせてくれるだけの実力を持っているのか?」
     食い入るような目を向けてくる若宮わかみやに、両角もろずみは「何だ、そんなことか」と言わんばかりの笑みを浮かべた。
    「あの方々がその気になれば、統合幕僚長の首を取るのも容易いだろうよ。それどころか、一夜にして政府をひっくり返すことも可能だろうな」
     若宮わかみやが顔色を変える。
    「そんな組織がこの国に……? まさか、あんたの依頼主は『アンタッチャブル』か……?」
     アンタッチャブル、と口にした時、若宮わかみやの声は少し震えていた。
    「それを知りたくば、当面のターゲットを片付けることだ。そうすれば、あの方々は君に会いに来る」
     両角もろずみは思わせぶりな口調で回答を保留した。だが否定しなかったことが既に、答えになっているとも解釈できるものだった。
    「君が望むなら、ターゲットの暗殺を我が社の社員に手伝わせても良いが?」
     この申し出に対し、若宮わかみやは明らかに迷いを見せた。
    「……いや、不要だ」
     だが彼は結局、首を横に振った。
    「そうか。手間を取らせたな」
     両角もろずみ若宮わかみやに背を向けて出口に向かう。妙子たえこがピッタリと、その背中に続いた。

     音を立てて若宮わかみやが長椅子に座り込む。彼の顔には、精神的消耗の跡がプリントされている。
     一方、有希ゆき鰐塚わにづか両角もろずみが去ったことで、いったん緊張を解いていた。
     鰐塚わにづかは「フウッ……」と大きく息を吐き、
    「驚きました。まさかあの一族がリッパーに目をつけていたとは。結果論ですが、見殺しにしなくて良かったです」
     驚愕に感情の一部が麻痺しているのか、まるで心がこもっていない淡々とした口調で呟いた。「そうだな」
     鰐塚わにづかの声は聞き取るのが難しい程小さなものだったが、有希ゆきは彼のセリフに同感を示した。 鰐塚わにづかが改めて有希ゆきに顔を向ける。
    「ナッツの予感は、これだったんでしょうか」
    「分からん。所詮、勘だからな」
     鰐塚わにづかの問い掛けに、有希ゆきは肩を竦めた。「分からない」というのは彼女の偽らざる本音だ。
    「まだ何かあると?」
    「それが分かれば、あたしは占い師に転職するよ」
     有希ゆきの答えに納得した鰐塚わにづかが口を閉じる。
    「お前たちは……」
     代わりに若宮わかみやがボソリと声を発した。
    「……何者だ? 『アンタッチャブル』と、どんな関係なんだ?」
    「どんな、と言われてもな……」
     困惑した有希ゆき鰐塚わにづかに視線で助けを求める。
    「……飼い犬、ですかね。番犬ではなく、猟犬ですけど」
     鰐塚わにづか有希ゆきにアイコンタクトで同意を求めた。
    「そうだな。愛玩犬ではない、と信じたいところだ」
     有希ゆきがシニカルな笑みと共に頷く。
    「一体、どういう縁でそんな関係に……」
     若宮わかみやはなおも「納得できない」という顔で問いを重ねた。
     だが、有希ゆき鰐塚わにづかもその質問には答えなかった。
    「そんなことよりリッパー、お前、本当に一人でやるつもりか?」
     質問する側、される側が入れ替わる。
     有希ゆきの問い掛けに、若宮わかみやは一言「ああ」と頷いた。
    「随分苦戦していたじゃねえか。多中たなかの護衛は手強かったんだろう?」
    「次は倒す」
     その口調に、有希ゆきは微妙な違和感を覚えた。
    「……多中たなかの護衛はお前の知り合いだったのか? もしかして、同じ調整体か?」
    「違う」
     若宮わかみやは明らかに、ぶっきらぼうなその一言で済ませるつもりだったに違いない。だが、助けられた義理に最低限の情報は提供すべきだ、と思い直したのだろう。
    「……調整体ではない。強化実験体だ。直接の知り合いではないが、『石化の魔女』のことは以前ぶち殺した『魔兵研まへいけん』のメンバーから聞いていた」
    「石化の魔女?」
    多中たなかの護衛についていた女のコードネームだ。視界に捉えた相手の速度を奪う魔法師ということだった。実際にヤツの魔法を喰らった感覚とも一致している」
    「速度を奪う? 目で見た相手を金縛りにする魔法の遣い手なのか?」
     有希ゆきが不得要領な表情で問い返す。
    「縛るのではない。ヤツの魔法はおそらく『減速領域ディーセラレイシヨン・ゾーン』だ」
    「ディーセラレイション・ゾーン?」
    「日本語では減速領域。対象領域内の物体の運動スピードを一定の比率で減速する魔法です」
     首を傾げた有希ゆきに、鰐塚わにづかが横からレクチャーする。
    「随分と強力な術に思えるが……お前、良く無事だったな」
     スピードを重視した戦闘スタイルを得意とする有希ゆきは、近接戦闘において速度を殺されることの不利を思い知っていた。
    「強化実験体にはありがちなことだが、ヤツの『減速領域』は本来の術式ではなかった。発動と照準のスピードを強化した弊害だろう。魔法の対象が領域ではなく物体になっていた気がする。射程距離も短かったように感じた」
    「その辺りが攻略の鍵か……参考になったぜ」
     有希ゆきが笑顔と共に感謝を示す。
    「そうか」
    (んっ?)
     若宮わかみやの返事に、有希ゆきは違和感を覚えた。今の態度は、単に無愛想と言うより照れ隠しのように感じられた。
    (やっぱりこいつ、可愛いところがあるな……)
     可愛げなど欠片も無い司波しば達也たつやや、可愛い外見に反して中身は苛烈な黒羽くろば文弥ふみやといった年下の少年に脅かされている有希ゆきの目には、年上の男性が見せた可愛い側面が新鮮に映った。
    「……何だ?」
     見れば若宮わかみやが自分に訝しげな目を向けている。有希ゆきは慌てて顔を引き締めた。
    「……何でも無い。最後にもう一つ聞かせろ。『石化の魔女』とやらの本名は分かるか?」
    「ああ。確か、仲間なかま杏奈あんなだったと思う」
    仲間なかま杏奈あんなだって!?」
     若宮わかみやの口から飛び出した名前に、有希ゆきは思わず声を上げてしまう。
    「知っているのか?」
    「いや……」
     有希ゆきは取り敢えず言葉を濁したが、上手く誤魔化せている自信は無かった。
     若宮わかみやの口から聞いた名前は、今年の春、前回文弥ふみやから命じられた仕事で後味の悪い殺し合いをした『山野やまのハナ』が、フィリピンから一緒に亡命してきたという彼女の旧友のものと一致していた。